また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。
『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本ログは、第1話敗北ルート後続検証です』
『以下、検証ログを開始します』
リュウに勝った。
初めて。
ようやく。
何度も膝をつき、何度もあと一歩で届かず、何度も「強かった」と言われて持ち帰った敗北の先で、春麗は初めてリュウを倒した。
勝利は本物だった。
リュウは手を抜いていない。
拳は正直だった。
踏み込みに迷いはなかった。
目も、最後まで折れていなかった。
そのリュウが、片膝をついた。
春麗は立っていた。
その事実だけで、胸の奥が熱くなった。
そして春麗は、リュウの前に膝を折り、同じ目線になって、額に指を置いた。
敗者の印。
今日、私はあなたに勝った。
忘れないで。
リュウは言った。
忘れない、と。
その言葉を持ち帰った夜、春麗は振り返ってみて精神的にに大ダメージを受けた。
大胆すぎた。
重すぎた。
あんなことをする必要があったのか。
そう思った。
けれど、後悔はしなかった。
必要だった。
あれは必要だった。
リュウに刻まれた春麗が、ようやくリュウへ刻み返したのだから。
そして、翌朝。
春麗は、鏡の前に立って思った。
次は、リュウが来る。
今までは、春麗が挑む側だった。
初戦で負けたのは春麗だ。
最初に刻まれたのは春麗だ。
だから、春麗からリュウへ向かった。
次こそ勝つ。
次こそ届く。
次こそ膝をつかせる。
そう思って、何度も自分から挑んだ。
でも、昨日は違う。
勝ったのは春麗だった。
膝をついたのはリュウだった。
敗者の印をつけたのも春麗だった。
忘れないでと言ったのも春麗で、忘れないと答えたのはリュウだった。
なら、次は。
次は、リュウが来る番ではないのか。
春麗は鏡の中の自分を見た。
まだ武道服には着替えていない。
朝の自分。
試合場の勝者ではない。
それでも、昨日リュウに勝った春麗だった。
「……来るわよね」
小さく呟いた。
当然だと思った。
リュウなら来る。
悔しそうだった。
でも折れていなかった。
次を見る目だった。
春麗が何度も膝をついて、それでもリュウへ挑みに行ったように。
今度は、リュウが来る。
春麗に負けたことを持って。
額に残された敗者の印を持って。
忘れないと言った言葉を持って。
春麗の前へ、もう一度。
そう思っていた。
一日目。
春麗は、いつもの場所へ行った。
いつもより少し早く。
理由はない。
ただ、身体を動かしたかっただけ。
そういうことにしておく。
青い武道服に袖を通した時、少しだけ指が止まった。
昨日、この武道服で勝った。
何度も負けた姿。
ようやく勝った姿。
リュウの額に敗者の印をつけた姿。
春麗は帯を結び、呼吸を整えた。
道場の空気は静かだった。
春麗は一人で型を始めた。
蹴り。
踏み込み。
重心移動。
掌底。
昨日、リュウへ届いた最後の一撃を、何度も確認する。
まぐれではない。
偶然ではない。
身体に刻んだ勝利だ。
そう確かめる。
けれど、耳はどこかで足音を探していた。
リュウの足音。
道場に近づく気配。
あの静かな歩き方。
だが、来ない。
昼になっても。
夕方になっても。
リュウは来なかった。
春麗は、少しだけ肩を回した。
「……昨日の今日だもの」
当然だ。
昨日は互いに限界だった。
春麗も無傷ではない。
リュウも相当効いていたはずだ。
今日すぐ来る方がおかしい。
そう思う。
そう思うことにした。
二日目。
春麗はまた、いつもの場所へ行った。
今度は早くはない。
いつも通り。
そう自分に言い聞かせた。
だが、道場に入る前に、少しだけ周囲を見た。
リュウはいない。
春麗は何も見なかったふりをして、扉を開けた。
練習を始める。
昨日より身体は軽い。
肩の痛みも少し引いた。
だが、心が落ち着かない。
リュウは、来るなら今日かもしれない。
一日置いた。
傷も少し戻る。
負けを持ち帰り、考え、修正して、来る。
リュウならそうする。
春麗は、自分で考えて、少しだけ胸が熱くなった。
負けたリュウが来る。
春麗を倒しに。
敗者の印を返しに。
それなら、自分は受ける。
もう挑む側だけではない。
今日だけは、リュウの挑戦を受ける側だ。
その考えに、春麗は少しだけ背筋を伸ばした。
だが、リュウは来なかった。
三日目。
春麗は少し苛立った。
来ない。
リュウが来ない。
たった三日。
そう言い聞かせる。
たった三日で何を焦っているのか。
だが、焦っている。
自覚してしまう。
何度も負けていた頃、自分はすぐにリュウへ向かった。
悔しかったから。
負けたままではいられなかったから。
次こそ勝つと思ったから。
では、リュウは?
悔しくないのか。
春麗に負けたことが。
額に敗者の印をつけられたことが。
忘れないでと言われたことが。
忘れないと答えたことが。
それらを持って、すぐに来るのではないのか。
「……別に、すぐ来なさいと言ったわけではないけれど」
春麗は独り言を言った。
誰も聞いていない。
それなのに、言い訳のような声になった。
別に、待っているわけではない。
ただ、来ると思っていただけ。
挑戦者だった自分が、初めて勝った。
なら、次はリュウが挑戦者になる。
その流れを確認したいだけ。
それだけ。
それだけのはず。
春麗は掌底を打ち込んだ。
音が道場に響く。
だが、その音の後にも、リュウの足音はなかった。
四日目。
春麗は、いつもの場所へ行かなかった。
意地だった。
別に毎日待っているわけではない。
リュウが来るかもしれないと思って、毎日同じ場所に行くなど、あまりにも分かりやすい。
だから、行かなかった。
別の場所で訓練した。
人通りの少ない公園の端。
風のある場所。
足場は道場より少し悪い。
そこで春麗は型を繰り返した。
身体は動く。
調子も悪くない。
だが、気持ちが散る。
もし今日、リュウがいつもの場所に来ていたらどうするのか。
春麗を探していたら。
昨日まで春麗がいた場所に来て、今日だけいなかったら。
それは。
それは、すれ違いではないのか。
春麗は蹴りを止めた。
「……なぜ私が悪いみたいになるのよ」
来ないリュウが悪い。
いや、悪いわけではない。
修行者なのだから、どこかで鍛えていてもおかしくない。
負けたからこそ、自分を見直しているのかもしれない。
前回の敗北を持って、さらに深く潜っているのかもしれない。
それはリュウらしい。
むしろ、かなりリュウらしい。
だから、春麗は文句を言えない。
言えないことが、さらに苛立たしかった。
「……来なさいよ」
小さく言った。
風に消える程度の声。
誰にも届かない声。
春麗はすぐに口を閉じた。
今のは違う。
今のは、挑戦状ではない。
ただの独り言。
そう分類する。
だが、胸の奥は納得してくれなかった。
五日目。
春麗はまた、いつもの場所へ行った。
行かない方が気になる。
それなら行った方がましだった。
道場は静かだった。
誰もいない。
春麗は扉の前で、少しだけ立ち止まる。
この静けさに、もう少し慣れなければならない。
勝ったからといって、世界が変わるわけではない。
リュウがすぐに来るわけでもない。
勝利は、春麗の中では大きな出来事だった。
だが、外の世界は普通に進んでいる。
それが少しだけ寂しかった。
春麗は中へ入る。
青い袖を払う。
型を始める。
昨日より鋭く。
悔しさを身体に通すように。
蹴りを出す。
掌底を打つ。
リュウの拳を想定する。
あの踏み込み。
あの間合い。
あの重さ。
だが、相手がいない。
どれだけ正確に思い出しても、目の前にはいない。
リュウは、来ない。
春麗は動きを止めた。
息が荒い。
ただの訓練の息ではない。
胸の奥がざわついている。
「忘れていないわよね」
言ってから、春麗は固まった。
何を。
試合を。
負けたことを。
敗者の印を。
忘れないと言ったことを。
春麗は額に指を置いた。
自分の額。
リュウへ触れた場所と同じあたり。
思い出してしまった。
リュウの額に触れた指先。
汗。
熱。
試合後の呼吸。
リュウの目。
そして、忘れないという声。
春麗は指を離した。
「……覚えていたら、来なさいよ」
すぐに顔が熱くなる。
何を言っているのか。
覚えていたら来なさい。
忘れていたら許せない。
でも、覚えていると言われたら困る。
すでに夜に自分で結論を出したはずなのに、何も改善していない。
むしろ悪化している。
春麗は自分に呆れた。
「面倒くさいわね……」
自分で言って、否定できなかった。
六日目。
春麗は、リュウが来ない理由を考え始めた。
考えたくなかった。
だが、考えてしまう。
怪我が深かったのか。
それなら仕方ない。
しかし、リュウの身体なら数日で動ける程度のはずだ。
別の相手と戦っているのか。
その可能性に、春麗は少しだけ眉をひそめた。
別に構わない。
リュウは春麗だけと戦うわけではない。
修行者なのだから、どこへ行ってもおかしくない。
誰と戦ってもおかしくない。
頭では分かっている。
だが、胸の奥が納得しない。
春麗に負けた直後なのだから。
春麗に敗者の印をつけられた直後なのだから。
まず自分の元へ来るのではないのか。
そう思ってしまう。
傲慢だ。
自分で分かる。
ついこの間まで、挑む側だったくせに。
負け越しているくせに。
たった一度勝っただけで、挑戦を受ける側になったつもりなのか。
そう自分を責める。
だが、勝ったのだ。
確かに勝った。
たった一度でも、本物の勝利だった。
リュウが本気で来て、それでも春麗が勝った。
だからこそ、待ってしまう。
リュウが、リベンジに来るのを。
春麗は帯を締め直した。
きつく。
「……来ないなら、来ないでいいわ」
嘘だった。
自分でも分かる嘘だった。
来ないなら、来ないでいい。
だが、来ない理由は知りたい。
覚えているのか。
忘れているのか。
悔しがっているのか。
修行しているのか。
自分を後回しにしているのか。
知りたい。
知りたくない。
春麗はまた動き出した。
強く。
いつもより強く。
まるで、そこにいないリュウへ向かって打ち込むように。
七日目。
一週間。
リュウは現れなかった。
春麗は、朝から落ち着かなかった。
一週間という区切りが、勝手に重くなる。
今日来るかもしれない。
今日来なければ、しばらく来ないかもしれない。
そんな根拠のない考えが、何度も浮かぶ。
春麗はいつもの場所へ行った。
道場は静かだった。
扉を開ける。
誰もいない。
分かっていた。
それでも、胸が少し沈んだ。
春麗は中へ入る。
青い武道服の裾が揺れる。
中央に立つ。
向かい側を見る。
そこにリュウはいない。
なのに、春麗の中にはリュウがいる。
最初に春麗を見誤ったリュウ。
試合中に格闘家として見直したリュウ。
何度も春麗を倒したリュウ。
強かったと言ったリュウ。
そして、春麗に負けたリュウ。
額に敗者の印を受けたリュウ。
忘れないと言ったリュウ。
現れないリュウ。
春麗は、拳を握った。
「……何をしているのよ」
声が道場に落ちる。
答えはない。
リュウはここにいない。
修行しているのかもしれない。
自分を見直しているのかもしれない。
春麗への敗北を、軽く扱わずに、深く持っているのかもしれない。
そう考えれば、リュウらしい。
むしろ、来ないことすら誠実なのかもしれない。
負けた翌日に勢いだけで来るのではなく。
春麗に勝つために、自分を鍛え直している。
そうなら。
そうなら、怒れない。
怒れない。
だから困る。
「……でも」
春麗は向かい側の空席を見た。
「一言くらい、何かあってもいいでしょう」
言った瞬間、自分で顔が熱くなった。
一言。
何を求めているのか。
再戦の申し込みか。
修行しているという報告か。
敗者の印は覚えているという確認か。
それとも。
また行く、という約束か。
春麗は唇を噛んだ。
自分から行けばいい。
そう思う。
今までそうしてきた。
負けた時は、自分から挑みに行った。
次こそ勝つために。
なら、今回も自分から行けばいい。
リュウを探して、もう一度戦えばいい。
だが、足が動かない。
違う。
今は違う。
今回だけは、春麗は待っていたい。
リュウが来るのを。
自分に負けたリュウが、春麗の前へ来るのを。
春麗に敗者の印を返しに来るのを。
春麗を倒しに来るのを。
その姿を見たい。
だから、自分から行くと、何かが違ってしまう。
また挑む側に戻ってしまう。
もちろん、春麗はまだ負け越している。
たった一度勝っただけだ。
立場が完全に逆転したわけではない。
それは分かっている。
それでも。
たった一度の勝利でも。
リュウにとって、春麗に負けたという事実は本物であるはずだ。
なら、次はリュウから来てほしい。
その気持ちを、春麗は捨てられなかった。
春麗は静かに型を始めた。
今日は、いつもよりゆっくり。
一つ一つの動作を確かめるように。
リュウが来ない一週間の間に、自分も止まっていたわけではない。
待っていただけではない。
身体は動かしていた。
勝利の一撃も確認した。
次にリュウが来た時のために、修正もしていた。
ただ、心だけが少し置き去りになっていた。
来ると思っていた。
来てほしかった。
それを認めるまでに、一週間かかった。
春麗は蹴りを止め、息を吐いた。
「……来なさいよ」
今度は、はっきり言った。
誰もいない道場に。
まだ現れないリュウに。
自分の中に残っているリュウに。
「あなた、私に負けたのよ」
声が少し震える。
「私が、あなたに勝ったのよ」
胸の奥が熱くなる。
「印もつけた」
精神が削れる。
それでも、言う。
「忘れないって言ったでしょう」
道場は静かだった。
返事はない。
春麗は、しばらくその静けさを聞いていた。
そして、小さく笑った。
「……本当に、面倒くさい」
リュウが来れば困る。
来たらきっと、普通にできない。
印を覚えていると言われたら落ちる。
忘れていたら怒る。
来ないと、こんなにやきもきする。
結局、どうなっても春麗は落ち着かない。
春麗は青い袖を見た。
この武道服で、初めてリュウに勝った。
この姿で、リュウに印をつけた。
この姿で、今、リュウを待っている。
勝った春麗。
でも、待たされている春麗。
挑む側だった春麗が、初めて挑まれることを期待してしまった春麗。
春麗は、もう一度向かい側を見る。
そこには誰もいない。
しかし、春麗はその空白に向かって言った。
「いいわ」
静かな声だった。
「待ってあげる」
少しだけ勝者の顔を作る。
誰も見ていないのに。
「あなたが、ちゃんと私に勝つために修行しているのなら」
一拍。
「待ってあげる」
その言葉で、自分を納得させる。
リュウは逃げていない。
きっと。
忘れていない。
きっと。
春麗を軽く扱っているわけではない。
たぶん。
春麗は唇を結んだ。
「ただし」
声に少しだけ熱が戻る。
「次に来た時、簡単に勝てると思わないことね」
誰もいない道場に向かって、春麗は言う。
「一週間待たせた分、私も強くなっているわ」
少しだけ、気が晴れた。
完全ではない。
リュウが来ない事実は変わらない。
それでも、春麗はようやく息を吐けた。
待つ側になった。
そう思っていた。
けれど、待つだけではいられない。
リュウが修行しているなら、自分もする。
リュウが春麗に勝つために来るなら、春麗はそれを迎え撃つ。
リュウが来ないなら。
来るまで、この身体と技を磨く。
春麗は構えた。
向かい側には、まだ誰もいない。
それでも、そこにリュウが立つ日を思い描く。
今度は、リュウから来る。
春麗に負けたリュウが。
春麗に敗者の印刻まれたリュウが。
忘れないと言ったリュウが。
自分を鍛え直して、春麗の前に立つ。
その時、春麗は笑うのだろう。
遅かったわね、と。
待たせたわね、と。
それとも、普通の顔を作って、ただ構えるのだろうか。
分からない。
分からないが、今はそれでいい。
リュウは、まだ来ない。
この一週間、リュウは現れなかった。
だから春麗は、今日も一人で拳と足を振るう。
苛立ちも。
不安も。
寂しさも。
勝者として待ちたい意地も。
全部、青い袖の中に押し込めて。
春麗は、誰もいない道場で踏み込んだ。
次にリュウが来た時。
自分がどんな顔をするのか、まだ分からないまま。
それでも、ひとつだけ決めている。
リュウが本当に来たら。
最初に言う言葉は、もう決まっている。
遅かったじゃない。
私に負けたくせに。
春麗は、そう言う自分を想像して。
また少しだけ顔を熱くしながら、誰もいない相手へ掌底を打ち込んだ。
記録板AIは、そこでログを停止した。
『検証ログ終了』
『保存名』
『来ないリュウと、待つ側になった春麗』
『副題』
『初勝利後、春麗はリュウが来ない一週間にやきもきする』
『保存先』
『ディレクターズカットIF外部検証領域』
『以上』
Q:今回のディレクターズカットについて解説して?
A:
これは「リュウに初勝利した春麗の勝利後エピソード」ではありますが、実質的には 春麗が初めて“待つ側”になってしまう回 です。
これまでの初戦敗北ルートの春麗は、ずっと挑戦者でした。
最初に負けた。
何度も負けた。
だから、自分からリュウに挑みに行く。
次こそ勝つ。
次こそ届く。
次こそ膝をつかせる。
この構造では、春麗の行動原理は分かりやすいです。
負けたから挑む。
屈辱を返すために向かう。
自分の黒星を返すためにリュウの前へ行く。
でも、今回やっと勝ったことで、その構造が一度反転します。
春麗はまだ負け越しています。
客観的には、たった一勝しただけです。
にもかかわらず、春麗の中では「今度はリュウが来る番でしょう」という感覚が生まれる。
ここが非常に春麗らしいです。
理屈では分かっているんです。
たった一度勝っただけで、完全に立場が逆転したわけではない。
まだ自分の方が多く負けている。
リュウがすぐ来る義務などない。
でも感情としては違う。
自分は今まで負けるたびにリュウへ挑みに行った。
なら、リュウも自分に負けたのだから来るはず。
しかも自分はリュウに印までつけた。
「忘れない」と言わせた。
なら、リュウはそれを持って来るはず。
この「来るはず」が、今回の春麗を苦しめています。
そして、リュウが来ない理由がまた厄介です。
リュウが逃げたわけではない。
春麗を軽く扱っているわけでもない。
忘れているとも限らない。
むしろ、リュウらしく考えれば、負けたからこそ修行をやり直している。
春麗に勝つために、自分を鍛え直している。
敗北を軽く扱っていないからこそ、すぐに来ない。
この可能性に春麗も気づいています。
だから怒り切れない。
リュウが不誠実なら怒れる。
忘れているなら怒れる。
逃げているなら軽蔑できる。
でも、リュウが真面目に春麗への敗北を持ち帰り、修行しているのだとしたら、春麗は怒れない。
むしろ、それはかなりリュウらしい。
そして、かなり誠実です。
だから春麗は、苛立つのに責められない。
待たされているのに文句を言い切れない。
来てほしいのに、自分から行くと何か違う。
この状態が、非常にめんどくさい。
今回の春麗は、「来ないならこっちから行けばいい」と簡単には動けません。
これまでなら自分から行けました。
負けた側だから。
挑戦者だから。
自分の黒星を返したいから。
でも今は違う。
初めてリュウに勝った。
初めてリュウに印をつけた。
初めて「忘れない」と言わせた。
だから、今回だけはリュウから来てほしい。
これはわがままです。
でも、ものすごく自然なわがままです。
春麗は、リュウが自分の敗北をどう扱うのかを見たい。
自分に負けたことを、リュウがどれだけ重く持っているのかを知りたい。
印を受けたリュウが、どんな顔で自分の前に来るのかを見たい。
つまり今回、春麗が待っているのはリュウ本人であると同時に、自分の勝利に対するリュウの答え です。
春麗はただ再戦したいだけではない。
リュウがどう来るのかを待っている。
怒って来るのか。
静かに来るのか。
何も言わずに構えるのか。
印を覚えていると言うのか。
「次は俺が勝つ」と言うのか。
その答えが欲しい。
でもリュウは来ない。
だから春麗は、一週間ずっと答えを保留されている状態になります。
この「保留」が精神を削っています。
最初は「来るわよね」。
次に「今日かもしれない」。
それから「なぜ来ないの」。
さらに「忘れていないわよね」。
最後には「来なさいよ」と誰もいない道場に言ってしまう。
この変化は、春麗の内面が少しずつ剥がれていく流れです。
最初は勝者として待っているつもりだった。
でも実際には、リュウが来ないことで不安になっている。
勝った側なのに、相手の反応を待って揺れている。
勝ったことで強くなったはずなのに、待つ側になったことで弱くなる。
挑んでいた時より、待っている時の方が精神的には不安定になる。
この春麗にとって、挑むことはまだ簡単なんです。
自分から行けばいい。
拳を出せばいい。
負けた悔しさをぶつければいい。
でも、待つことは難しい。
相手が来るかどうかは、自分では決められない。
相手が自分の勝利をどう扱うかも、自分では決められない。
相手が印を覚えているかどうかも、自分では確認できない。
春麗はそこで初めて、リュウの側に自分の記憶を預けてしまったことに気づきます。
敗者の印をつけた。
忘れないでと言った。
リュウは忘れないと言った。
でも、その後リュウが来ない。
すると春麗は、リュウの中に自分の印が本当に残っているのか、確認できない。
これが不安の正体です。
一週間来ない。
やきもきする。
苛立つ。
不安になる。
でも最後には、
「待ってあげる」
「ただし、私も強くなっているわ」
という方向に持っていく。
これは春麗らしい立て直しです。
完全に弱くなるのではなく、勝者としての意地を取り戻す。
リュウが修行しているなら、自分も青を磨く。
リュウが来るまで、自分も止まらない。
ここでようやく、待つ側の春麗が成立します。
ただ待つだけではない。
来ないリュウに振り回されながらも、来た時に迎え撃つために鍛える。
このあたりは格闘家としての春麗が残っていて、とても良いです。
今回のエピソードの位置づけを整理すると、こうです。
初戦敗北後の春麗は、ずっと挑む側だった。
初勝利によって、初めてリュウを待つ側になった。
しかしリュウは現れない。
春麗は、自分の勝利と敗者の印がリュウにどう届いているのか確認できず、やきもきする。
それでも最終的には、「リュウが来るまで技を磨く」と決める。
現れないリュウ。
でも、春麗の中にはずっといるリュウ。
この不在のリュウが、今回の相手役です。
春麗は誰もいない道場でリュウに向かって話している。
誰もいない相手へ掌底を打っている。
それは寂しさでもあり、苛立ちでもあり、再戦準備でもあります。
結論として、今回のディレクターズカットIFは、初勝利した春麗が“挑む側”から“待つ側”へ一瞬だけ立場を変え、その難しさに精神を削られる回 です。
勝ったのに落ち着かない。
勝ったからこそ、リュウの反応が欲しい。
来たら困る。
来ないともっと困る。
自分から行くと負けた時の自分に戻ってしまう気がする。
でも待っているだけでは耐えられない。