また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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※これはディレクターズカットIFです。
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。


ディレクターズカットIF:覚えていた拳を、春麗は眠れない夜に抱える

 記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。

 

『本記録は、ディレクターズカットIFです』

 

『本ログは、第1話敗北ルート後続検証です』

 

『以下、検証ログを開始します』

 


 

 夜になっても、春麗の身体はまだ重かった。

 試合場の床の冷たさ。

 空中で撃ち落とされた瞬間の衝撃。

 昇龍拳が、身体の中心を貫くように突き上げてきた感覚。

 竜巻旋風脚で視界が回り、自分の身体が自分のものではなくなったような感覚。

 

 全部、まだ残っていた。

 春麗は、自室の椅子に腰を下ろしたまま、しばらく動けなかった。

 

 服は着替えた。

 手当てもした。

 痛みも、時間が経てば引く種類のものだと分かっている。

 だが、身体の奥に残ったものは、痛みだけではなかった。

 

 負けた。

 完敗した。

 リュウに。

 二週間待って、ようやく現れたリュウに。

 

 春麗は、ゆっくり息を吐いた。

 

「……強くなっていた」

 

 小さく呟く。

 

 認めたくなかった。

 でも、認めないわけにはいかなかった。

 リュウは、前回とは違っていた。

 ただ速くなったわけではない。

 ただ力が増したわけでもない。

 

 春麗の勝ち筋を覚えていた。

 春麗がどこで踏み込むか。

 どの距離なら掌底が届くか。

 どう崩せば自分の重心を落とせるか。

 春麗が、前回どうやって勝ったのか。

 

 リュウは、それを覚えていた。

 覚えていたから、変えてきた。

 

 春麗は、膝の上で拳を握った。

 嬉しい。

 そう思ってしまった自分が、まず腹立たしかった。

 

 リュウは覚えていた。

 

 前回、春麗に負けたことを。

 額につけた印を。

 忘れないで、と言った春麗を。

 忘れない、と答えた自分の言葉を。

 

 覚えていた。

 だから、修行してきた。

 だから、二週間来なかった。

 だから、今日のリュウは強かった。

 だから、春麗は負けた。

 

「……何よ、それ」

 

 春麗は、目を伏せた。

 

 嬉しい。

 悔しい。

 

 同じ場所から出てくる。

 

 リュウが覚えていなかったら、怒れた。

 忘れていたなら、許せなかった。

 印のことを曖昧にされたら、切り捨てられたかもしれない。

 あれは自分だけが覚えていたのだと。

 リュウには残っていなかったのだと。

 そう思えば、怒りだけで済んだ。

 

 だが、違った。

 

 リュウは覚えていた。

 しかも、ただ覚えていただけではない。

 覚えているから、修行してきた。

 それは、春麗の勝利を本物として扱ったということだった。

 あの一勝が、リュウの中で軽くなかったということだった。

 春麗の印が、リュウの中に残ったということだった。

 

 春麗は胸を押さえた。

 

 そこが痛い。

 試合で受けた打撃とは違う痛みだった。

 

「……そこまで覚えていたなら」

 

 声が震える。

 

「どうして、こんなに倒すのよ」

 

 理不尽な言葉だった。

 

 分かっている。

 リュウは勝つために来た。

 春麗に負けたから、次は勝つために修行した。

 それは格闘家として当然だ。

 春麗だって、何度もそうしてきた。

 負けたから挑んだ。

 届かなかったから考えた。

 次こそ勝つために、リュウの拳を何度も思い返した。

 だから、リュウが同じことをしただけだ。

 ただし、リュウはそれを本当にやった。

 本当に春麗へ勝つために戻ってきた。

 そして、勝った。

 完璧に。

 

 春麗は、椅子の背にもたれた。

 瞼を閉じる。

 すると、すぐに思い出してしまう。

 

 波動拳。

 床を蹴った感覚。

 飛び込んだ瞬間、リュウの足がもう動いていたこと。

 間に合う、と悟った一瞬。

 リュウの拳が下から突き上げてくる。

 避けられない。

 受けられない。

 空中で、自分の判断が間違っていたと知る。

 

 衝撃。

 白くなる視界。

 床。

 動かない身体。

 

 竜巻旋風脚。

 

 完全に持っていかれる感覚。

 立てない。

 立とうとすることすらできない。

 リュウの足音。

 近づいてくる気配。

 そして。

 

 春麗は目を開けた。

 

「……介抱まで、されて」

 

 声が小さく落ちる。

 あれが一番、後から効いてきた。

 

 負けたことは悔しい。

 完敗したことは屈辱だ。

 だが、完全に動けなくなった自分を、リュウが支えた。

 背を支えられた。

 身体を起こされた。

 無理に動くな、と言われた。

 その手は、乱暴ではなかった。

 勝ち誇ってもいなかった。

 ただ、春麗の身体を気遣っていた。

 

 それが余計に苦しい。

 もし乱暴なら怒れた。

 もし勝ち誇っていたなら、憎めた。

 だが、リュウはそうではなかった。

 自分を完全に倒した手で。

 自分を支えた。

 

 春麗は、自分の肩に触れた。

 そこに、リュウの手の感覚が残っているような気がした。

 

 熱。

 力。

 安定。

 悔しい。

 その手を振り払えなかったことが。

 自分で立てなかったことが。

 リュウに支えられるしかなかったことが。

 悔しい。

 でも。

 

 あの時、支えられて少しだけ安心したことも、否定できなかった。

 

「……最低」

 

 誰に言ったのか分からない。

 

 リュウにか。

 自分にか。

 それとも、この状況そのものにか。

 

 春麗は机に額を伏せた。

 

 勝った後、春麗はリュウに近づいた。

 同じ目線になるために膝を折った。

 リュウの額に指を置いた。

 印をつけた。

 忘れないで、と言った。

 あの時は、春麗が触れる側だった。

 春麗が刻む側だった。

 リュウは片膝をつき、春麗を見上げていた。

 

 でも今日は違った。

 

 春麗が倒れた。

 リュウが近づいた。

 リュウが支えた。

 春麗は立てなかった。

 前回、自分から触れた相手に。

 今回は、倒された後で触れられた。

 触れられた、という言い方が浮かんだ瞬間、春麗は顔を上げた。

 

「違う」

 

 すぐ否定する。

 

「介抱よ」

 

 言い直す。

 

「ただの介抱」

 

 それは事実だ。

 リュウは余計なことをしていない。

 春麗が動けなかったから支えた。

 

 それだけ。

 それだけなのに、なぜこんなに意識しているのか。

 

 春麗は歯を食いしばった。

 

 負けたからだ。

 完敗したからだ。

 前回は勝者だった自分が、今回は完全に倒されたからだ。

 

 それだけ。

 

 そう言い聞かせる。

 だが、胸の奥は納得しなかった。

 

 それだけではない。

 

 リュウが覚えていたからだ。

 

 印を。

 前回の負けを。

 春麗の言葉を。

 そして、その記憶を持って戻ってきて、春麗を倒したからだ。

 あの手は、忘れていなかった手だ。

 あの拳は、覚えていた拳だ。

 あの介抱は、春麗の勝利を覚えたまま春麗に勝ったリュウのものだった。

 だから、重い。

 春麗は、胸元を掴んだ。

 

「……嬉しいなんて」

 

 言葉が出る。

 出してはいけない気がした。

 でも、止まらなかった。

 

「思いたくない」

 

 嬉しかった。

 

 リュウが覚えていたことが。

 前回の勝利をちゃんと持っていたことが。

 春麗が額に付けた敗者の印を忘れていなかったことが。

 覚えているから修行してきたと言ったことが。

 

 嬉しかった。

 でも、それは春麗が完敗した理由でもある。

 嬉しいことが、悔しいことの原因になっている。

 こんなに面倒な感情があるのか。

 

 春麗は、深く息を吸った。

 

 リュウは、忘れていなかった。

 だから修行した。

 だから勝った。

 春麗は、負けた。

 

 なら、自分はどうするのか。

 

 忘れるのか。

 忘れられるはずがない。

 今日の敗北を。

 空中で撃ち落とされた瞬間を。

 身体が動かなくなったことを。

 リュウに支えられたことを。

 覚えているから修行してきた、と言われたことを。

 全部、忘れられるはずがない。

 

 春麗は立ち上がろうとして、痛みに顔をしかめた。

 まだ身体が言うことをきかない。

 

 悔しい。

 

 それでも、机に手をつき、ゆっくり立った。

 鏡の前へ向かう。

 そこには、試合後の疲れを隠しきれない自分が映っていた。

 

 青い武道服ではない。

 試合場の春麗ではない。

 勝者でもない。

 ただ、リュウに完敗した後の春麗。

 リュウに介抱された春麗。

 リュウが前回の印を覚えていたと知ってしまった春麗。

 その自分が、鏡の中にいた。

 

「……ひどい顔」

 

 呟く。

 

 負けた顔だ。

 悔しそうな顔だ。

 でも、それだけではない。

 

 春麗は、自分の顔を見つめた。

 

 少しだけ熱がある。

 目が、落ち着いていない。

 怒っている。

 悔しがっている。

 そして、何かを待っている。

 

 次。

 次のことを、もう考えている顔だった。

 

 春麗は、自分に呆れた。

 今日、完全に負けたばかりだ。

 

 身体もまだ痛い。

 介抱された記憶を思い出すだけで精神が削られる。

 それなのに、もう次を考えている。

 

 次にどう勝つか。

 どうやってあの波動拳を越えるか。

 どうやって昇龍拳を誘わせずに入るか。

 どうやって竜巻旋風脚を受けずに間合いを潰すか。

 どうやって、今日のリュウを倒すか。

 

 春麗は鏡に向かって、小さく笑った。

 悔しいほど、自然だった。

 リュウがそうしたのだ。

 前回、春麗に負けたリュウは、修行して戻ってきた。

 なら、今度は春麗の番だ。

 今日、リュウに完敗した春麗が、次に勝つために修行する番だ。

 そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。

 

 これは怒りだ。

 悔しさだ。

 屈辱だ。

 でも、それだけではない。

 リュウが覚えていたことへの、どうしようもない喜びも混じっている。

 混じってしまっている。

 

「……面倒くさい」

 

 春麗は、自分で言った。

 

 否定できなかった。

 完敗したのに。

 介抱されたのに。

 それでも、リュウが覚えていたことが嬉しい。

 嬉しいから、悔しい。

 悔しいから、忘れられない。

 忘れられないから、次に勝ちたい。

 次に勝ったら、また覚えてほしい。

 そして、覚えていたリュウがまた来る。

 そのリュウに、今度こそ勝ちたい。

 循環している。

 危険なほど綺麗に。

 

 春麗は、鏡の前で拳を握った。

 

「リュウ」

 

 小さく名前を呼ぶ。

 部屋には誰もいない。

 返事はない。

 それでも、呼ばずにはいられなかった。

 

「あなた、覚えていたのね」

 

 言葉にすると、また胸が痛んだ。

 

「私が勝ったことも」

 

「印も」

 

「忘れないって言ったことも」

 

「全部、覚えていたのね」

 

 春麗は目を伏せる。

 

「だから、私を倒したのね」

 

 悔しい。

 ひどい。

 嬉しい。

 苦しい。

 

 全部、同時だった。

 春麗は、鏡の中の自分を見た。

 

「私も覚えるわ」

 

 声は小さかった。

 だが、はっきりしていた。

 

「今日、あなたに撃ち落とされたこと」

 

「立てなかったこと」

 

「竜巻旋風脚で完全に持っていかれたこと」

 

「あなたに支えられたこと」

 

「覚えているから修行してきたって言われたこと」

 

「全部」

 

 春麗は、ゆっくり息を吐いた。

 

「全部、覚えておく」

 

 それは、宣言だった。

 リュウに向けたものでもあり、自分に向けたものでもあった。

 

 この敗北は、消さない。

 消してやらない。

 前回の勝利も消さない。

 今日の完敗も消さない。

 リュウが覚えていたことも。

 リュウに介抱されたことも。

 全部、持つ。

 持ったまま、次へ行く。

 

 春麗は、身体の痛みに耐えながら、ゆっくり構えた。

 鏡の中の自分と向かい合う。

 まだ脚は重い。

 腕も痛い。

 完全な型にはならない。

 それでも、春麗は小さく踏み込んだ。

 

 一歩。

 今日、飛び込んで撃ち落とされた一歩。

 

 もう一度。

 今度は、リュウの拳を思い出しながら。

 

 昇龍拳の軌道。

 波動拳の後の間。

 リュウが沈む瞬間。

 自分が飛んだ瞬間の判断。

 失敗。

 敗北。

 全部、身体に戻す。

 

 春麗は、痛みに顔をしかめた。

 

 だが、やめなかった。

 やめられなかった。

 今日の敗北が、もう次の動きになり始めている。

 リュウがそうしたように。

 自分も、そうする。

 

 春麗は、もう一度踏み込む。

 鏡の中の自分が揺れた。

 そこに、リュウはいない。

 でも、春麗の中にはいる。

 

 前回負けたことを覚えていたリュウ。

 印を覚えていたリュウ。

 修行してきたリュウ。

 春麗を撃ち落としたリュウ。

 春麗を支えたリュウ。

 次も来ると言ったリュウ。

 そして、春麗が次に倒すリュウ。

 

 春麗は、唇を噛んだ。

 

「次は」

 

 声が震える。

 悔しさと熱で。

 

「私が、あなたに勝つ」

 

 そして、少しだけ間を置いた。

 言わないつもりだった。

 でも、言葉は勝手に出てきた。

 

「……だから」

 

 春麗は、鏡の中の自分を睨む。

 

「覚えていなさい」

 

 言った瞬間、春麗は自分で精神を削られた。

 

 まただ。

 また、覚えていなさいと言っている。

 負けても。

 勝っても。

 完敗しても。

 介抱されても。

 結局、春麗はリュウに覚えていてほしい。

 

 自分が勝ったことも。

 負けたことも。

 次に勝とうとしていることも。

 全部。

 

 春麗は、額に手を当てた。

 

 自分の額。

 リュウへ印をつけた場所と同じ位置。

 今日は、そこに何もない。

 だが、指先が覚えている。

 リュウの額に触れた感触。

 そして今日、リュウの手に支えられた感触。

 刻んだ記憶と、刻まれた記憶。

 

 どちらもある。

 どちらも消えない。

 

 春麗は、目を閉じた。

 

「……あなたのせいよ」

 

 小さく呟く。

 だが、本当は分かっている。

 リュウだけのせいではない。

 忘れないでと言ったのは春麗だ。

 覚えていてほしいと願ったのも春麗だ。

 リュウがそれを覚えて戻ってきた時、嬉しいと思ってしまったのも春麗だ。

 そして、そのリュウに負けて、また次を求めているのも春麗だ。

 

 だから、これはもう春麗自身の問題でもある。

 

「……本当に面倒くさい女」

 

 自分で言って、少しだけ笑った。

 

 弱く。

 苦く。

 でも、否定はしなかった。

 

 今日の敗北は重い。

 前回の勝利も重い。

 リュウが覚えていたことも重い。

 介抱されたことも重い。

 全部重い。

 でも、全部持っていく。

 持っていかなければ、次にリュウへ届けない。

 

 春麗は、もう一度だけ構えた。

 今度は、鏡の中の自分ではなく、そこにリュウがいるつもりで。

 

「次は、待たせないで」

 

 小さく言う。

 意識が落ちる直前に言った言葉。

 届いたかどうか分からない言葉。

 でも、言った。

 

 次は待たせないで。

 それは、再戦の要求だった。

 同時に、もっと勝手な願いでもあった。

 私の前に来なさい。

 私に勝ったことを覚えて来なさい。

 私に介抱されたことを思い出させに来なさい。

 そして、私に倒されなさい。

 

 春麗は、その最後の言葉までは口に出さなかった。

 出したら、今夜はもう眠れなくなる気がした。

 

 いや。

 もう、眠れそうになかった。

 

 春麗は構えを解き、窓の外を見た。

 夜は静かだった。

 リュウも、どこかで今日の試合を思い返しているのだろうか。

 

 春麗を撃ち落としたことを。

 竜巻旋風脚で倒したことを。

 動けなくなった春麗を支えたことを。

 春麗が、印のことを聞いたことを。

 覚えているから修行してきたと答えたことを。

 覚えているのだろうか。

 覚えていてほしい。

 

 そう思った瞬間、春麗は目を閉じた。

 

 まただ。

 また、そう思っている。

 

 もう、否定できなかった。

 

「……覚えていなさい」

 

 夜の窓辺で、春麗はもう一度呟いた。

 リュウに向けて。

 自分に向けて。

 今日の敗北に向けて。

 前回の勝利に向けて。

 そして、まだ来ていない次の試合に向けて。

 

 春麗は、深く息を吐いた。

 リュウに刻まれた。

 

 また。

 

 今度は、深く。

 

 でも、これで終わりではない。

 

 春麗は、拳を握る。

 刻まれたなら、刻み返す。

 覚えられたなら、もっと覚えさせる。

 倒されたなら、次は倒す。

 介抱されたなら。

 春麗は、そこで言葉を止めた。

 

 何を返すつもりなのか。

 自分でも分からなかった。

 

 ただ、ひとつだけ分かっていた。

 リュウを忘れることは、もうできない。

 

 そして。

 リュウにも、忘れさせるつもりはない。

 


 

 記録板AIは、そこでログを停止した。

 

『検証ログ終了』

 

『保存名』

『覚えていた拳を、春麗は眠れない夜に抱える』

 

『副題』

『嬉しいから悔しくて、悔しいから忘れられない』

 

『保存先』

 

『ディレクターズカットIF外部検証領域』

 

『保存完了』

 

『以上』

 




Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?

A:

今回は、第1話敗北ルートの春麗が、リュウに完敗した後の夜を描く内省回でした。
前回、春麗は二週間待たされた末に戻ってきたリュウと再戦しました。
リュウは、春麗に負けたことを忘れていたわけではありません。
逃げていたわけでもありません。
春麗に負けたから、修行していた。
そう答えました。
この答え自体は、春麗にとって本来なら嬉しいものです。

自分の勝利がリュウの中に残っていた。
額につけた敗者の印も覚えていた。
忘れないでと言ったことも、リュウは本当に忘れていなかった。
だからこそ、リュウは修行して戻ってきた。
しかし、その結果として春麗は完敗します。

波動拳で距離を作られ、飛び込みを昇龍拳で撃ち落とされ、スタンしたところに竜巻旋風脚を受けて完全ノックアウト。
しかもその後、リュウに介抱される。
今回の春麗は、その全部を夜になって一人で受け止め直しています。
この回で書きたかったのは、単純な「負けて悔しい」ではありません。

もちろん悔しい。
完敗です。
それまでのギリギリ負けとは違い、今回はリュウに対策され、崩され、完全に倒されています。
でも、それだけではありません。

リュウが覚えていたことは嬉しい。
春麗が額につけた敗者の印を覚えていたことも嬉しい。
前回の勝利を本物として扱ってくれたことも嬉しい。
そのうえで、その覚えていたリュウに完敗した。
だから、嬉しさと悔しさが同じ場所から出てきています。

ここが今回の一番大事なところです。

春麗は、リュウに忘れてほしくなかった。
自分に負けたことを覚えていてほしかった。
自分がつけた印を覚えていてほしかった。
そして、リュウは本当に覚えていました。
でも、覚えていたから修行してきた。
覚えていたから強くなって戻ってきた。
覚えていたから春麗を倒した。
つまり、春麗が望んだことが叶った結果、春麗はさらに深く負けています。

これはかなり複雑です。

嬉しい。
でも悔しい。
悔しい。
でも嬉しい。

この二つを切り離せない。
だから春麗は苦しんでいます。

また、今回は介抱されたことも大きな要素です。
前回、春麗は勝者としてリュウに近づきました。
片膝をついたリュウと同じ目線になり、額に指を置き、敗者の印をつけました。
あの時は、春麗が触れる側でした。
春麗が刻む側でした。
しかし今回は逆です。

春麗は完全に倒され、動けなくなり、リュウに支えられる側になります。
これは単なる敗北以上に大きいです。
前回、春麗がリュウに敗者の印をつけた。
今回は、リュウが春麗を倒し、介抱した。
印と介抱が、きれいに反転しています。

春麗にとっては非常に屈辱的です。
でも、リュウの手は乱暴ではない。
勝ち誇ってもいない。
ただ春麗を気遣って支えている。
だから怒りきれない。
ここでもまた、悔しさだけでは処理できない感情になります。
もうかなり深いところまでリュウに囚われています。

リュウが覚えていたかどうかを気にする。
リュウに覚えていてほしいと思う。
負けても、その敗北を消そうとしない。
むしろ全部覚えて、次に勝つために持っていこうとする。
そして、リュウにも忘れさせるつもりがない。

この時点で、春麗の中にはかなり強い執着が発生しています。
ただし、春麗本人はまだそれを完全には認めていません。

自分では、悔しさだと思っている。
格闘家としての再戦欲求だと思っている。
負けたから勝ちたいだけだと思っている。
でも、内省していくうちに、それだけではないことが見えてくる。

リュウが覚えていたことが嬉しい。
リュウに介抱されたことを意識してしまう。
今日の敗北も、前回の勝利も、どちらも消したくない。
そして、次に勝ったらまた覚えてほしいと思ってしまう。
このあたりが、かなり春麗らしい面倒くささだと思います。

今回のタイトルにした「覚えていた拳」というのは、リュウの拳がただの攻撃ではないからです。
あの拳は、春麗の勝利を覚えていた拳です。

前回の敗北をリュウが持ち帰り、修行し、変えてきた結果の拳です。
だから春麗は、その拳に倒された時、自分の勝利がリュウの中に残っていたことも同時に理解してしまう。

負けた。
でも、覚えていた。
覚えていたから、負けた。

この構造が、春麗をさらに逃げられなくしています。
今回のエピソードは、戦闘後の静かな内省ですが、実質的にはかなり大きな転換点です。
春麗は再び大きな敗北を刻まれました。
しかもその敗北は、前回の勝利がリュウに残っていたからこそ発生した敗北です。
だから、前回の勝利も消えない。
今回の敗北も消えない。
リュウが覚えていたことも消えない。
リュウに介抱されたことも消えない。
全部が春麗の中に残ってしまう。
そして、その全部が次の再戦欲求になっていく。

第1話敗北ルートの春麗は、勝てば楽になるわけではありません。
負ければ諦めるわけでもありません。
勝利も敗北も、どちらもリュウを通して重くなり、次の戦いへ持ち越されていきます。

今回は、その重さを春麗自身が夜の部屋で受け止める回でした。
結論としては、春麗はまたリュウに刻まれました。
でも、それで終わりではありません。
刻まれたなら、刻み返す。
覚えられたなら、もっと覚えさせる。
倒されたなら、次は倒す。
そして、リュウにも忘れさせない。

第1話敗北ルートの春麗は、ここでさらに深くリュウに執着していきます。
今回は、その執着が静かに、しかし確実に強くなったエピソードでした。
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