また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
本編で積み重ねられた黒ドレス戦、青い武道服戦、相打ちの朝とは別に、もし春麗が青い武道服ではリュウに敗れ続け、黒ドレスを勝者としてのよりどころにしていたにもかかわらず、その黒ドレスでも連敗してしまったら、という仮定の断章です。
春麗は、鏡の前に立っていた。
黒いドレスの裾には、まだ土がついている。
肩には、リュウの拳が入った痛みが残っている。
手首には、捕まえられた感触が残っていた。
夜明け前の修行場から戻ってきて、どれだけ時間が経ったのか、よくわからない。
ただ、身体はまだ覚えている。
最後の瞬間を。
勝ったと思った。
今度も、黒い自分なら最後に上回れると思った。
青い武道服では負け続けている。
リュウに最後の一瞬を取られている。
真正面から届いているのに、勝者として立てない。
でも黒いドレスは違った。
この姿なら、勝てた。
リュウの視線を受け止められる。
リュウが女としての自分を見ることも読める。
それでも拳を鈍らせまいとする呼吸の硬さもわかる。
捕まえに来る手も読める。
逃げる先も選べる。
九度、そうして勝ってきた。
だから十戦目も、勝つはずだった。
あの夜明け前、春麗は黒いドレスでリュウの前に立った。
リュウは、やはり見た。
逃げずに見た。
黒いドレスの揺れを。
春麗の目を。
足の運びを。
呼吸を。
女としての春麗を。
格闘家としての春麗を。
春麗はそれを見て、内心で満たされていた。
見ている。
まだ、ちゃんと効いている。
それでもリュウは来た。
春麗は誘った。
一歩近く立った。
静止を入れた。
声を落とした。
リュウの拳がほんの少し遅れる瞬間を見た。
そして、最後に勝ち筋を見た。
リュウの手が伸びる。
捕まえに来る。
春麗はその手を支点にする。
身体を回し、軸をずらし、リュウの踏み込みを外す。
勝った。
そう思った。
その瞬間だった。
リュウは、捕まえた手に力を込めなかった。
掴みに来たのではない。
春麗が逃げる先へ、すでに身体を置いていた。
春麗の回転が、途中で止まる。
逃げるはずだった場所に、リュウがいる。
春麗は初めて、本当に息を呑んだ。
次の蹴りを出そうとした。
肩を抜こうとした。
体勢を切り返そうとした。
だが、半歩だけ遅かった。
リュウの拳が、勝負を止める位置に届いた。
打ち抜かれてはいない。
けれど、春麗にはわかった。
もう動けない。
逃げられない。
負けた。
黒いドレスのまま、春麗は片膝をついた。
リュウも限界だった。
息は乱れ、拳は震えていた。
勝者の余裕などなかった。
でも、立っていた。
春麗ではなく、リュウが。
春麗は悔しさを押し込め、無理に笑った。
「……十回目で、やっと黒い私に届いたのね」
声は、思ったよりも苦かった。
「でも、勘違いしないで。今のは、私が勝ったと思うのが少し早かっただけよ」
負け惜しみだ。
自分でもわかっていた。
それでも言わずにはいられなかった。
リュウは何も誇らなかった。
勝ち誇ることも、春麗を見下ろすこともしなかった。
ただ、静かに言った。
「また戦ってくれ」
その言葉が、春麗には刺さった。
また。
また戦ってくれ。
それは優しい言葉のようで、春麗にとっては残酷だった。
次も来い、と言われている。
今度はお前が挑んでこい、と言われている。
黒いドレスで九度勝ってきた自分が。
青い武道服では負け続けても、黒なら勝てると思っていた自分が。
挑む側に置かれている。
春麗は鏡の中の自分を見つめた。
黒い自分。
九回、リュウに勝ってきた自分。
青い武道服で負け続けても、まだ勝者でいられると思わせてくれた自分。
でも、十戦目で負けた。
黒い私でも、負けた。
春麗はゆっくり息を吐く。
でも、まだ終わりじゃない。
これは取り返せる敗北よ。
そう思った。
そう思わなければ、立っていられなかった。
青い武道服では負けている。
青い自分は、リュウに最後の一瞬を取られている。
でも黒ドレスは違った。
黒い自分は、リュウの視線を支配できた。
リュウを揺らせた。
捕まえに来る手を読めた。
最後の一瞬で上回れた。
十戦目だけ。
たまたまよ。
あの日のリュウが、ほんの少し深かっただけ。
春麗は鏡の前で、黒いドレスの土を指で払った。
「次は、黒い私で取り返せる」
その声は強かった。
けれど、その強さは少し硬かった。
翌朝ではなかった。
しかし、春麗は長く待てなかった。
黒いドレスで負けた。
なら、黒いドレスで取り返さなければならない。
青い武道服ではない。
青い自分の敗北を取り戻すより先に、黒い自分の敗北を取り返さなければならなかった。
無人の修行場。
また夜明け前。
春麗は黒いドレスで現れた。
リュウはすでにいた。
春麗を見る。
その目は、前よりも静かだった。
「また、その姿で来たのか」
春麗は笑った。
少しだけ強く。
「当たり前でしょう。黒い私で負けたなら、黒い私で取り返すわ」
リュウは構えた。
「なら、俺ももう一度届かせる」
その言葉に、春麗の胸がかすかにざわついた。
もう一度。
リュウは、もう黒ドレスに挑む側ではない。
黒ドレスにも届いた側だ。
その事実が、春麗を苛立たせた。
戦いは始まった。
春麗は勝ちに行った。
視線。
近い距離。
静止。
声。
黒いドレスの揺れ。
リュウが女としての自分を見ることまで、すべて利用する。
いつも通り。
そのはずだった。
しかし、身体の奥で何かが硬い。
取り返さなければならない。
その意識が、わずかに呼吸を早める。
リュウを揺らそうとしている。
だが、自分が敗北の記憶に縛られている。
以前の黒ドレス春麗には、リュウの視線を楽しむ余裕があった。
見られていることを戦場に変えるしなやかさがあった。
今は違う。
リュウの視線を受けるたびに、春麗は先に答えを急いでしまう。
ここで揺れるはず。
ここで遅れるはず。
ここで捕まえに来るはず。
その「はず」が、硬い。
リュウは、そこを見ていた。
春麗の呼吸が、いつもより少し早い。
誘いの静止が、いつもよりわずかに硬い。
視線を受け止める時、春麗の中で勝ちを急ぐ気配がある。
リュウはそこに踏み込んだ。
春麗は一度、リュウの拳を外した。
次も外した。
肩を崩し、あと一撃まで行った。
けれど最後の一瞬。
リュウは春麗が勝ちを取り返そうと踏み込む、その先にいた。
春麗の足が止まる。
拳が届く。
今度も、ギリギリだった。
だが、立っていたのはリュウだった。
十一戦目の敗北。
春麗は片膝をついた。
息が乱れている。
黒いドレスの裾が、また土を拾う。
春麗は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「……今のは、私が急いだだけよ」
声が震えていないことだけは、救いだった。
「黒い私が負けたんじゃない。私が勝ちを急いだだけ」
半分は本当だった。
半分は逃げだった。
リュウは何も煽らなかった。
ただ静かに言う。
「また戦ってくれ」
また。
その言葉が、春麗をまた挑む側へ置いた。
春麗は歯を食いしばる。
まだ一敗。
いや、十戦目から数えれば二敗。
でも、今のは違う。
自分が急いだだけ。
黒い私が負けたわけじゃない。
そう言い聞かせた。
次は冷静にやればいい。
次は、いつものように。
春麗は十二戦目に向かった。
黒いドレスを着る。
呼吸を整える。
鏡の前で自分を見る。
黒い自分。
勝てるはずの自分。
いや。
勝てるはず、と思っている自分。
春麗はその言葉を頭から追い払った。
前回は勝ち急いだ。
だから今回は、普段通りに。
リュウの視線を受け止める。
誘う。
崩す。
最後に勝つ。
それだけ。
修行場に立つと、リュウはまた春麗を見た。
黒いドレス。
目。
足。
呼吸。
春麗はその視線を受け止める。
今度は急がない。
焦らない。
冷静に。
そう思った。
しかし、リュウはもうそこまで見ていた。
春麗が取り返そうとしている呼吸だけではない。
取り返そうとしていないように振る舞う呼吸まで、見ていた。
春麗は冷静なつもりだった。
だが、その冷静さは作ったものだった。
作った冷静さは、自然な余裕とは違う。
リュウは、そこに入ってきた。
春麗が静止する。
リュウは遅れない。
春麗が目を合わせる。
リュウは逸らさない。
春麗が黒いドレスの揺れを蹴りの軌道に重ねる。
リュウは揺れる。
だが、崩れない。
春麗が一瞬、勝ち筋を見る。
今なら入れる。
今なら崩せる。
その瞬間、リュウはすでに半歩先にいた。
春麗の逃げる先ではない。
春麗が「勝てる」と思った場所に、リュウがいた。
拳が止まる。
足が止まる。
春麗は切り返そうとした。
だが遅い。
最後の一瞬で、またリュウが上回った。
十二戦目。
黒ドレスで、三連敗。
春麗は片膝をついた。
今度は、すぐに言葉が出なかった。
十戦目の敗北は、事故にできた。
十一戦目の敗北は、勝ち急いだだけにできた。
でも十二戦目は違う。
冷静に戻したつもりで負けた。
普段通りにやったつもりで負けた。
つまり、リュウはもう本当に黒ドレスの春麗に届いている。
春麗は、自分の呼吸が乱れているのを聞いた。
黒い私で取り返せなかった。
それも、一度じゃない。
二度も。
その認識は、深く沈んだ。
リュウは立っている。
いつものように、勝ち誇らない。
それがまた悔しい。
春麗はようやく顔を上げた。
「……何も言わないのね」
リュウは静かに答える。
「まだ終わっていない」
その言葉に、春麗は胸を刺されたような気がした。
終わっていない。
そうだ。
終わっていない。
けれど、黒い自分は取り返せていない。
春麗は自室に戻った。
黒いドレスを脱ぐ。
椅子にかける。
土汚れが残っている。
裾も、胸元も、手首のあたりも、戦いの跡を抱えていた。
春麗はその黒いドレスを見つめた。
これまで黒ドレスは、青い武道服で負け続ける春麗にとって、勝てる自分だった。
青い自分が最後を取られても、黒い自分なら勝てる。
そう思えた。
だが今は違う。
黒ドレスを見るたびに、敗北の感触が戻る。
リュウに見られた感覚。
揺らしたはずなのに踏み込まれた感覚。
逃げる先を塞がれた感覚。
冷静を装った自分ごと読まれた感覚。
最後に立てなかった感覚。
黒ドレスは、勝てる衣装ではなくなり始めていた。
負けた自分を突きつける衣装になっていた。
春麗は椅子の背にかけた黒いドレスへ、手を伸ばしかける。
途中で止めた。
黒い私まで、リュウに奪われるの?
その問いが、胸の奥で響いた。
春麗はすぐに首を振る。
違う。
奪われたままになどしない。
黒ドレスを捨てるつもりはなかった。
脱ぎ捨てて終わりにするものではない。
この姿は、リュウにだけ向ける特別な自分だ。
負けたから捨てるのではない。
負けたからこそ、取り返さなければならない。
けれど、すぐにまた着ればいいわけでもない。
今のまま着ても、またリュウに読まれる。
春麗は、それを認めざるを得なかった。
黒い私で勝ち直したい。
でも、今のまま着ても、またリュウに読まれる。
黒ドレスが弱くなったわけではない。
黒ドレスに頼ろうとした春麗を、リュウが見抜いたのだ。
その事実が苦かった。
春麗は、椅子の前で立ち尽くした。
最初、黒ドレスで黒ドレスの敗北を取り返そうとした。
でも、取り返そうとした試合で二連敗した。
そこでようやく気づく。
黒ドレスの問題ではない。
青い自分も、黒い自分も、どちらもリュウに揺さぶられている。
衣装を変えれば戻るものではない。
黒いドレスを着れば勝てるわけではない。
青い武道服に戻れば整理できるわけでもない。
まず春麗自身が、リュウに奪われた勝者としての呼吸を取り戻さなければならない。
春麗は、椅子にかけた黒いドレスを見つめながら思う。
黒い私を取り戻す前に、私自身を取り戻さなきゃ。
それは、悔しい認め方だった。
黒いドレスに勝たせてもらうつもりだった。
黒い自分なら取り返せると思っていた。
でも、それでは駄目だった。
春麗が勝たなければならない。
黒いドレスが勝つのではない。
春麗が、黒いドレスを着て勝つのだ。
春麗は、もう一度だけ黒いドレスへ手を伸ばした。
今度は触れる。
布の感触が指先に返る。
土汚れがまだ少し残っている。
捨てない。
封印もしない。
けれど、すぐには着ない。
次に着る時は、ただ勝ちを取り返すためではない。
黒い自分をもう一度、自分のものとして着るためだ。
春麗は静かに言った。
「黒い私で負けた」
誰もいない部屋に、声が落ちる。
「黒い私で取り返そうとして、また負けた」
悔しい。
苦しい。
でも、終わっていない。
春麗は黒いドレスから手を離した。
「なら次は、黒いドレスに勝たせてもらうんじゃない」
春麗の目が、鏡の中の自分を捉える。
黒いドレスを着ていない自分。
青い武道服でもない自分。
ただの春麗。
「私が、黒いドレスをもう一度勝たせる」
その言葉で、ようやく少し呼吸が戻った。
負けた黒ドレスを取り返すのではない。
負けた春麗を取り返す。
そしてもう一度、自分のものとして黒を着る。
春麗は椅子にかけた黒いドレスを見つめた。
今はまだ着ない。
でも、必ず着る。
その時は、逃げ場としてではない。
よりどころとしてでもない。
リュウに奪われた自分ごと取り返すために着る。
春麗は、鏡の中の自分に向かって小さく笑った。
まだ勝者の顔ではない。
けれど、敗者の顔でもなかった。
「待っていなさい、リュウ」
声は静かだった。
「今度この黒を着る時は、あなたに奪われた私ごと取り返す」
黒いドレスは、椅子にかかったまま動かない。
けれど春麗には、それがもうただの敗北の跡には見えなかった。
取り返すべき自分が、そこにある。
春麗は部屋の灯りを落とした。
夜明け前の薄い光が、黒いドレスの輪郭を浮かび上がらせている。
春麗はその黒を見つめながら、もう一度だけ心の中で呟いた。
次に着る時は、私が勝たせる。
そして今度こそ、最後に立つのは私。