また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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※これはディレクターズカットIFです。
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。


ディレクターズカットIF:春麗は、撃ち落とされた空を忘れられない

 記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。

 

『本記録は、ディレクターズカットIFです』

 

『本ログは、第1話敗北ルート後続検証です』

『以下、検証ログを開始します』

 


 

 リュウに負けた翌日、春麗は道場に立った。

 身体はまだ痛む。

 肩も、脇腹も、背中も、打ちつけられた箇所が熱を持っている。

 それでも、立った。

 立たなければならないと思った。

 

 負けたのだ。

 完敗したのだ。

 なら、次のために動く。

 今までなら、そうしていた。

 負けた翌日には、リュウの拳を思い返し、踏み込みを修正し、間合いを測り、次にどう勝つかを考えた。

 悔しさは燃料だった。

 屈辱は足を前に出すための熱だった。

 だから今回も、同じようにすればいい。

 

 春麗は構えた。

 息を吸う。

 吐く。

 床を蹴る。

 前へ。

 行くはずだった。

 身体が止まった。

 

「……」

 

 春麗は、自分の足元を見た。

 踏み込めていない。

 床を蹴る直前、足が止まっていた。

 

 もう一度。

 

 構える。

 呼吸を整える。

 前へ。

 今度は動いた。

 だが、半歩。

 本来なら一気に間合いを詰めるはずの動きが、途中で切れた。

 春麗は眉を寄せる。

 

「何をしているのよ」

 

 自分に言う。

 誰もいない道場に、声だけが落ちる。

 

 もう一度。

 

 今度は跳び込み。

 リュウの波動拳を越えるように。

 あの時のように。

 春麗は床を蹴ろうとした。

 

 瞬間。

 

 視界の奥に、リュウの足が動いた。

 波動拳の後。

 硬直しているはずのリュウ。

 だが、違った。

 あの時、リュウはもう準備していた。

 春麗が跳び込むより先に、リュウの身体は沈んでいた。

 昇龍拳が来る。

 下から。

 避けられない角度で。

 自分の空中蹴りより先に。

 

 胸の奥が締まった。

 

 春麗の足が床から離れなかった。

 道場は静かだった。

 波動拳など飛んでいない。

 リュウもいない。

 昇龍拳も来ない。

 なのに、身体は跳ばなかった。

 

 春麗は、拳を握った。

 

「……違う」

 

 これは恐怖ではない。

 そう言い聞かせる。

 

 恐れているわけではない。

 ただ、身体がまだ痛むだけ。

 昨日のダメージが残っているだけ。

 だから踏み込めない。

 だから跳べない。

 

 それだけ。

 それだけのはずだった。

 

 春麗は、もう一度構えた。

 

 低く沈む。

 足に力を入れる。

 跳ぶ。

 跳べ。

 跳びなさい。

 自分に命じる。

 だが、身体は命令を聞かなかった。

 

 膝がわずかに震えた。

 春麗は、歯を食いしばった。

 悔しさで視界がにじむ。

 負けたから悔しいのではない。

 負けた後に、今まで通り動けないことが悔しい。

 リュウに倒されたことが、まだ身体の中にいる。

 

 昇龍拳で撃ち落とされた瞬間が、まだ空中に残っている。

 竜巻旋風脚で持っていかれた感覚が、まだ骨に残っている。

 リュウに支えられた手の重さが、まだ肩に残っている。

 

「……最悪」

 

 春麗は、低く呟いた。

 

 最悪だった。

 

 リュウに負けた。

 それだけならいい。

 

 よくはない。

 よくはないが、まだいい。

 負けたなら次に勝てばいい。

 今までそうしてきた。

 

 だが、今回は違う。

 勝ちに行く身体が止まっている。

 リュウへ届くための足が、リュウを思い出した瞬間に止まっている。

 

 春麗は、道場の床を見つめた。

 昨日、自分が倒れた床とは違う。

 それなのに、同じ冷たさがある気がした。

 


 

 三日後。

 

 春麗は、別の格闘家と手合わせをした。

 リュウではない。

 当然、波動拳も使わない。

 昇龍拳も使わない。

 竜巻旋風脚も使わない。

 だから大丈夫。

 リュウ相手に動けないなら、まずは別の相手で調子を戻せばいい。

 

 そう考えた。

 

 相手は、堅実な拳法家だった。

 間合いを取る。

 突きを置く。

 前に出る春麗を、横へ流して崩そうとする。

 

 強い。

 だが、リュウほどではない。

 いつもの春麗なら、問題なく勝てる相手だった。

 

 序盤、春麗は優位だった。

 足は動いている。

 蹴りも出る。

 相手の突きを読んで、横へ抜けることもできる。

 

 いける。

 大丈夫。

 そう思った。

 

 相手が距離を取った。

 春麗の視界に、空いた間合いが見えた。

 

 ここで踏み込む。

 一気に入れば、掌底が届く。

 春麗は前へ出ようとした。

 その瞬間。

 

 相手の構えが、ほんの少し沈んだ。

 リュウではない。

 波動拳もない。

 昇龍拳もない。

 なのに、春麗の身体は反応した。

 

 跳び込めば撃ち落とされる。

 そんなはずはない。

 相手はリュウじゃない。

 技も違う。

 それでも、一瞬だけ身体が固まった。

 

 その一瞬で、相手の突きが入った。

 肩。

 続けて脇腹。

 春麗は後退する。

 

 相手の目が変わった。

 いま、春麗が止まったことに気づいた。

 

 春麗は、奥歯を噛む。

 

 まずい。

 相手はリュウではない。

 なのに、自分は止まった。

 そして、その止まりを見られた。

 相手は、そこを突いてくる。

 

 次の間合い。

 また、相手が一歩引く。

 春麗が追うべき距離。

 追えば取れる。

 だが、追うためには飛び込まなければならない。

 春麗の足が、わずかに鈍った。

 相手の突きが来る。

 

 受ける。

 流す。

 反撃する。

 

 遅い。

 いつもの春麗より半拍遅い。

 

 相手の拳が、腕を叩く。

 さらに下段。

 春麗は崩れかけた。

 

 危ない。

 危ないというより、腹立たしい。

 

 自分が、こんな相手に。

 いや。

 相手を見下すな。

 

 強い相手だ。

 だが、それでも、今の苦戦は相手の強さだけではない。

 

 春麗の中に、完敗したリュウがいる。

 それが邪魔をしている。

 春麗は、無理に前へ出た。

 強引だった。

 本来なら、もっと柔らかく入れる。

 相手の意識を誘い、足をずらし、腰を入れて崩せる。

 だが、今の春麗は焦っていた。

 

 止まるのが怖い。

 だから、止まる前に出る。

 その動きは読まれた。

 相手の肘が、春麗の肩へ入る。

 

「っ!」

 

 痛み。

 

 春麗は一歩下がる。

 相手はさらに踏み込む。

 

 春麗は蹴りで止めた。

 浅い。

 距離が合わない。

 いつもなら合う距離が、合わない。

 リュウに完敗したのが、春麗の距離感を狂わせている。

 

 近づきすぎれば昇龍拳を思い出す。

 離れすぎれば波動拳を思い出す。

 飛べば撃ち落とされる。

 止まれば追撃される。

 春麗は、相手の拳を受けながら、自分の中のその感覚に気づいた。

 

 逃げ場がない。

 

 リュウはここにいないのに。

 リュウとの試合が、ここにもある。

 

 春麗は息を荒げた。

 相手が踏み込む。

 春麗は、反射で身体を沈めた。

 

 今度はうまくいった。

 

 相手の拳の下へ入る。

 掌底。

 深く入った。

 相手の呼吸が止まる。

 

 追撃。

 蹴り。

 今度は当たる。

 相手が崩れた。

 勝てる。

 ここで詰める。

 

 春麗は跳ぼうとした。

 だが、止まった。

 

 一瞬。

 ほんの一瞬。

 

 相手はその隙に下がった。

 勝ち切れなかった。

 

 試合は長引いた。

 最後は春麗が勝った。

 

 勝った。

 だが、内容はひどかった。

 いつもの春麗なら、もっと早く終わっていた。

 もっと綺麗に崩せていた。

 もっと迷わず踏み込めていた。

 

 試合後、身体は重かった。

 ただ、その重さは筋肉の疲労のせいではなかった。

 それは、リュウの拳の重さだった。

 


 

 夜。

 

 春麗は、自室で膝を抱えていた。

 今日の試合には勝った。

 リュウではない相手に勝った。

 負けてはいない。

 だから、調子は戻っている。

 

 そう言い聞かせることもできた。

 けれど、春麗はできなかった。

 

 あれは勝ちではある。

 でも、戻ってはいない。

 春麗の動きは、戻っていない。

 飛び込めなかった。

 詰め切れなかった。

 リュウの昇龍拳がない相手にまで、身体が止まった。

 

 春麗は、自分の手を見た。

 

 震えてはいない。

 拳も握れる。

 技も出せる。

 それなのに、肝心な場所で止まる。

 

 リュウの波動拳。

 リュウの沈む足。

 昇龍拳。

 空中で撃ち落とされる感覚。

 身体が動かないまま竜巻旋風脚を受ける感覚。

 完全に倒れて、リュウに支えられた感覚。

 それらが、踏み込む直前に出てくる。

 

「……情けない」

 

 呟く。

 だが、その言葉だけでは足りなかった。

 

 情けない。

 悔しい。

 腹立たしい。

 怖い。

 

 怖い、という言葉が出かけて、春麗は口を閉じた。

 

 認めたくなかった。

 リュウが怖いのか。

 違う。

 リュウそのものが怖いわけではない。

 リュウと戦いたくないわけでもない。

 むしろ、戦いたい。

 もう一度向かい合いたい。

 敗北を返したい。

 覚えていたから修行してきたと言ったリュウに、今度はこちらが修行して戻りたい。

 

 それなのに、身体が止まる。

 

 怖いのは、リュウではない。

 もう一度、何もできずに撃ち落とされること。

 もう一度、完全に動けなくなること。

 もう一度、リュウに支えられること。

 そして。

 その全部を、また嬉しいと思ってしまう自分かもしれなかった。

 

 春麗は、胸を押さえた。

 

 そこが一番厄介だった。

 完敗は悔しい。

 介抱されたことは恥ずかしい。

 でも、リュウが覚えていたことは嬉しかった。

 覚えているから修行してきたと言われたことは、胸に残っている。

 リュウに支えられた時、安心してしまった自分もいる。

 それを思い出すたびに、身体は強張る。

 悔しさだけなら、前へ行ける。

 屈辱だけなら、蹴りに変えられる。

 だが、そこに嬉しさが混ざっている。

 安心が混ざっている。

 だから、足が迷う。

 何を返しに行けばいいのか分からなくなる。

 

 敗北か。

 勝利か。

 あの日、自分がリュウの額につけた敗者の印か。

 介抱か。

 覚えていたという言葉か。

 

 全部だ。

 全部、返したい。

 全部、取り返したい。

 全部、もう一度リュウに向けたい。

 だからこそ、動けない。

 

 重すぎる。

 リュウ一人に向かうはずの一歩に、全部が乗ってしまっている。

 春麗は、深く息を吐いた。

 

「……次に会ったら」

 

 声に出す。

 

 次にリュウに会ったら。

 再戦を申し込めるのか。

 

 いつもなら言える。

 また戦いましょう。

 次は私が勝つわ。

 

 そう言える。

 

 でも今は、その言葉が喉で止まる。

 リュウがこちらを見たら。

 あの静かな目で。

 前回の敗北を覚えている目で。

 春麗が跳び込めなくなっていることまで見抜かれたら。

 その時、自分は耐えられるのか。

 

 春麗は、唇を噛んだ。

 

 嫌だ。

 見抜かれたくない。

 でも、見てほしい。

 

 矛盾している。

 

 リュウに、今の自分を見られたくない。

 完敗で動けなくなった自分を知られたくない。

 でも、リュウに見られないまま戻るのも嫌だ。

 自分がどれだけ悔しがっているか。

 どれだけ足掻いているか。

 どれだけあの敗北を消せずにいるか。

 リュウに知られたくない。

 でも、知らないままでいられるのも許せない。

 

「……本当に」

 

 春麗は、両手で顔を覆った。

 

「面倒くさい」

 

 その言葉は、まだ自覚というより、悲鳴に近かった。

 


 

 一週間が過ぎた。

 

 春麗はリュウに会いに行かなかった。

 行けなかった。

 訓練は続けている。

 他の格闘家とも手合わせをした。

 勝つ試合もある。

 負けそうになる試合もある。

 だが、どれも本調子ではなかった。

 

 踏み込みが一瞬遅れる。

 跳び込みが浅くなる。

 相手の対空姿勢に過剰反応する。

 遠距離で構えられると、波動拳の幻がよぎる。

 連続攻撃で決め切る場面で、竜巻旋風脚の残像が身体を固める。

 

 春麗は、試合のたびにそれを修正しようとした。

 

 理屈では分かっている。

 相手はリュウではない。

 昇龍拳は来ない。

 波動拳も来ない。

 竜巻旋風脚も来ない。

 

 分かっている。

 それでも、身体は覚えている。

 

 リュウの拳を。

 リュウの足を。

 リュウの竜巻旋風脚の回転を。

 リュウの手を。

 倒した後、春麗を支えた手を。

 

 春麗は、夜の道場で一人、何度も踏み込みを繰り返した。

 

 一歩。

 止まる。

 

 一歩。

 止まる。

 

 一歩。

 今度は少し進む。

 しかし、跳び込みに移れない。

 

 春麗は息を荒げながら、床に手をついた。

 

 悔しい。

 悔しい。

 悔しい。

 

 リュウに負けたことよりも。

 リュウに負けた自分が、リュウのいない場所でも止まっていることが悔しい。

 

「……あなた、どこまで残るのよ」

 

 言った瞬間、春麗は顔を歪めた。

 リュウに言っている。

 いない相手に。

 道場にいないリュウに。

 それでも、言ってしまう。

 

 リュウは残っている。

 

 試合場にも。

 身体にも。

 踏み込みにも。

 跳び込みにも。

 痛みにも。

 介抱された肩にも。

 

 春麗は、床に座り込んだ。

 

 負けたら、勝てばいい。

 今までそうしてきた。

 だが、勝つためには、もう一度あの空を越えなければならない。

 

 昇龍拳で撃ち落とされた空。

 あの高さ。

 あの角度。

 あの瞬間。

 空中で、自分の判断が間違っていたと知った瞬間。

 あそこを越えなければ、リュウには勝てない。

 それどころか、リュウの前に立つことすらできない。

 

 春麗は、目を閉じた。

 暗闇の中で、リュウの声が蘇る。

 

 覚えているから、修行してきた。

 

 その言葉は、まだ春麗の中にある。

 

 嬉しかった。

 悔しかった。

 

 今も、どちらもある。

 

「……私も」

 

 春麗は、床に手をついたまま呟いた。

 

「覚えているから、動けなくなっているのね」

 

 認めた瞬間、胸が痛んだ。

 

 覚えているから、修行できる。

 リュウはそうだった。

 春麗に負けたことを覚えていたから、修行して戻ってきた。

 

 では、春麗は。

 リュウに完敗したことを覚えている。

 だから修行するはずだった。

 なのに、覚えているから動けない。

 同じ「覚えている」なのに、リュウは前へ進み、春麗は止まっている。

 それが悔しかった。

 

「……ずるいわ」

 

 春麗は、低く言った。

 

「あなたは、覚えて強くなったのに」

 

 一拍。

 

「私は、覚えて止まっている」

 

 言葉にすると、涙が出そうになった。

 

 出さない。

 泣かない。

 これは泣く場面ではない。

 そう思って、さらに苦しくなる。

 

 春麗は立ち上がろうとした。

 足が震える。

 でも、立った。

 

 構える。

 

 今度は跳び込みではない。

 まず、一歩。

 ただの一歩。

 リュウへ向かうためではなく、自分の中に残った昇龍拳へ向かう一歩。

 

 春麗は踏み込んだ。

 

 止まった。

 

 歯を食いしばる。

 

 もう一度。

 

 踏み込む。

 

 止まる。

 

 もう一度。

 

 今度は、半歩だけ前へ出た。

 

 それだけで息が乱れた。

 

 春麗は、唇を噛む。

 

 情けない。

 

 でも、半歩出た。

 それを、なかったことにはしない。

 春麗は、もう一度構えた。

 


 

 夜。

 

 春麗は、鏡の前に立った。

 いつもの武道服。

 見慣れた姿。

 けれど、映っている自分は前とは違う。

 リュウに完敗した春麗。

 飛び込みを止められた春麗。

 他の相手にも苦戦するようになった春麗。

 リュウに挑みたいのに、挑めない春麗。

 その自分が、鏡の中にいた。

 

 春麗は、鏡の中の自分に言った。

 

「今すぐは、無理ね」

 

 認めた。

 

 リュウには、今すぐ挑めない。

 挑みに行っても、たぶん足が止まる。

 リュウの目を見た瞬間、あの昇龍拳が蘇る。

 あの飛び込み蹴りを撃ち落とされた記憶が蘇る。

 リュウに介抱された記憶が蘇る。

 それでは勝てない。

 挑めばいいわけではない。

 負けを返すには、返せる状態で行かなければならない。

 

「でも」

 

 春麗は拳を握る。

 

「逃げないわ」

 

 リュウの前にすぐ行けない。

 それは逃げかもしれない。

 でも、ここで終わることは本当の逃げだ。

 リュウのいない場所で、リュウの残したものに負け続けること。

 それは、嫌だ。

 

 春麗は、ゆっくり踏み込んだ。

 

 一歩。

 

 止まる。

 

 呼吸を整える。

 

 もう一歩。

 

 今度は止まらない。

 

 浅い。

 遅い。

 でも、前に出た。

 

 次。

 

 今度は、少しだけ跳ぶ。

 床から足が離れる。

 低い跳躍。

 すぐに着地。

 

 昇龍拳の残像が来る。

 

 春麗は顔を歪める。

 

 もう一度。

 

 跳ぶ。

 着地。

 呼吸。

 

 もう一度。

 

 跳ぶ。

 着地。

 

 少しずつ。

 ほんの少しずつ。

 撃ち落とされた空を、自分のものに戻す。

 

 春麗は、汗を流しながら繰り返した。

 何度も。

 何度も。

 まだリュウには届かない。

 でも、今日は床から足を離せた。

 

 それだけ。

 それだけが、今夜の勝利だった。

 

 春麗は、肩で息をしながら鏡を見る。

 

 苦しい。

 情けない。

 それでも、少しだけ目に力が戻っている。

 

「リュウ」

 

 小さく名前を呼ぶ。

 

「まだ、行けないわ」

 

 一拍。

 

「でも、いつかこの敗北を勝負で返しに行くわ」

 

 さらに一拍。

 

「あなたに負けたことを、持ったまま」

 

 春麗は目を伏せる。

 

「あなたに覚えられたことも」

 

 一拍。

 

「あなたに介抱されたことも」

 

 一拍。

 

「全部、持ったまま」

 

 拳を握る。

 

「次は、あなたに勝つ」

 

 それは、まだ宣言というには弱かった。

 

 願いに近い。

 祈りに近い。

 

 だが、春麗はそれを口にした。

 春麗は、鏡の前で深く息を吐いた。

 

「覚えているから、動けない」

 

 一拍。

 

「なら、まずは覚えているまま動けるようになる」

 

 それが、今の答えだった。

 

 もう一度、跳ぶ。

 もう一度、踏み込む。

 もう一度、倒れても立つ。

 

 完全ではない。

 格好よくもない。

 すぐにリュウへ挑める強さでもない。

 でも、半歩だった。

 止まっていた足が、半歩だけ前に出た。

 春麗は、それを捨てなかった。

 


 

 記録板AIは、そこでログを停止した。

 

『検証ログ終了』

 

『保存名』

『春麗は、撃ち落とされた空を忘れられない』

 

『保存先』

『ディレクターズカットIF外部検証領域』

 

『以上、保存完了』

 




Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?

A:

今回は、第1話敗北ルートの春麗が、リュウに完敗した後、すぐに再戦へ向かえなくなるエピソードでした。

これまでの第1話敗北ルート春麗は、負けても比較的早く次へ向かっていました。
初戦でリュウに敗北し、その後も何度もギリギリで負ける。
それでも、春麗は次へ行く。

悔しい。
腹立たしい。
届かなかった。
でも、次は勝つ。

そうやって敗北を燃料にしてきた春麗です。
しかし今回は、少し性質が違います。
今回の敗北は、ギリギリ敗北ではありません。

二週間待たされた末に戻ってきたリュウ。
しかも、春麗に負けたことを覚えていたから修行してきたリュウ。
そのリュウに、春麗は完全に崩されます。

波動拳で距離を作られ、跳び込みを誘われる。
春麗は空中蹴りで入ろうとする。
しかし、その距離ではリュウの昇龍拳が間に合う。
空中で撃ち落とされ、大ダメージを受け、スタンしたところに竜巻旋風脚を食らって完全ノックアウトされる。
さらに、その後リュウに介抱される。

これは、春麗にとってかなり重い負けです。
単に負けたのではなく、自分の勝ち筋を読まれて、得意な前進を止められて、空中で撃ち落とされて、動けなくなった。
そして、倒した相手に支えられた。
この負け方は、身体に残ります。

今回書きたかったのは、その「身体に残る敗北」です。

春麗は頭では分かっています。
負けたなら修行すればいい。
次に勝つために動けばいい。
リュウがそうしたように、自分も負けを持って強くなればいい。
でも、身体が止まる。
踏み込もうとすると、波動拳後のリュウの構えを思い出す。
跳ぼうとすると、昇龍拳で撃ち落とされた空を思い出す。
連続攻撃を詰めようとすると、竜巻旋風脚で完全に持っていかれた感覚が戻る。

これは、春麗にとって非常に屈辱的です。

今まで、悔しさは前へ進むための力でした。
しかし今回は、その悔しさが重すぎて、足を止めてしまう。
同じ「覚えている」でも、リュウは春麗に負けたことを覚えて修行し、強くなって戻ってきました。
一方、春麗はリュウに完敗したことを覚えているから、動けなくなっている。

ここが今回の一番残酷なところです。

リュウは覚えて強くなった。
春麗は覚えて止まってしまった。
春麗としては、これが悔しくないわけがありません。
リュウと同じように、自分も敗北を力に変えたい。
でも、今はまだ変えられない。
変えようとすると、身体が先に止まる。

その葛藤が今回の中心です。

また、今回はリュウ以外の格闘家との試合でも影響が出るようにしました。
これは重要でした。
リュウ相手だけなら、「リュウが特別だから」で済ませられます。
でも、他の相手との試合でも踏み込みが鈍る。
相手がリュウではないのに、距離を取られると波動拳を思い出す。
対空姿勢を見ただけで昇龍拳の残響が出る。
勝てる相手にも大苦戦する。
そうなると、これは単なる対リュウ感情ではなく、戦闘そのものに傷が入っていることになります。

春麗の強みは、前に出ることです。

見られても、届かれても、負けても、次へ行くことです。
その春麗の前進そのものが止まる。
だから、この回はかなり重いです。
ただし、この話は春麗が折れる話ではありません。
春麗はすぐにリュウへ行けなくなります。
再戦欲求が消えたわけではありません。
むしろ、消えていないから苦しい。

リュウに勝ちたい。
あの完敗を返したい。
覚えているから修行してきたと言ったリュウに、今度はこちらが覚えたまま戻りたい。
でも、まだ行けない。

この「行きたいのに行けない」が、今回の春麗です。

これまでの春麗なら、すぐにリュウへ向かっていたかもしれません。
けれど、今回はその一歩が重すぎる。
リュウの前へ立つ前に、まず自分の中に残った敗北と向き合わなければならない。
だから、今回の終盤では「リュウへ挑む」のではなく、「撃ち落とされた空へもう一度跳ぶ」ことを小さな勝利にしています。

完敗を忘れるのではない。
昇龍拳を忘れるのでもない。
介抱されたことをなかったことにするのでもない。
全部覚えたまま、もう一度動けるようになる。
春麗は、ようやくそこに辿り着きます。

「覚えているから、動けない」
ならば、
「覚えているまま動けるようになる」

この切り替えが、今回の到達点です。

まだ完全復活ではありません。
リュウにすぐ再戦を申し込める状態でもありません。
他の格闘家相手にもまだ本調子ではない。
でも、半歩だけ前に出た。
低くても、もう一度跳べた。
それだけが今回の勝利です。

この第1話敗北ルート春麗は、初勝利によって楽になったわけではありません。

リュウが覚えていてくれたことで救われた部分もあります。
でも、その覚えていたリュウに完敗したことで、さらに深く傷を負っています。

勝利も消えない。
敗北も消えない。
リュウに額に付けた敗者の印も消えない。
介抱された記憶も消えない。
全部が残る。
そして、その全部が重くなりすぎて、春麗の足を止める。

今回は、その重さを描く回でした。
ただし、止まったまま終わらせるつもりはありません。
春麗は、止まった自分を認めます。
すぐにリュウへ行けない自分を認めます。
完敗が残っていることを認めます。
そのうえで、忘れないまま動く道を選び始めます。

これは、春麗にとってかなり重要な段階です。
負けを消すのではなく、持ったまま進む。
勝利だけでなく、完敗も自分の一部にする。
リュウに刻まれた記憶を、次の一歩に変える。
今回の結論は、そこです。

春麗は、撃ち落とされた空を忘れられない。
でも、忘れられないなら、その空へもう一度跳ぶしかない。
リュウにすぐ挑めなくなった春麗が、まずは自分の中に残ったリュウの敗北した記憶へ挑む。

今回は、そんなエピソードでした。
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