また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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※これはディレクターズカットIFです。
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。


ディレクターズカットIF:春麗は、刻まれた敗北をリュウに見られてしまう

 記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。

 

『本記録は、ディレクターズカットIFです』

 

『本編確定ログではありません』

『本ログは、第1話敗北ルート後続検証です』

 

『以下、検証ログを開始します』

 


 

 リュウが春麗のもとを訪れたのは、前回の試合から十日が経ってからだった。

 

 その日、春麗は道場で型を行っていた。

 

 身体そのものは、もう動く。

 

 歩ける。

 蹴れる。

 構えられる。

 日常生活に支障はない。

 リュウ以外の格闘家とも、何度か手合わせをしている。

 

 だが、動けることと、戻っていることは違う。

 

 春麗は、それを知っていた。

 

 知りたくなかった。

 知らないふりをしたかった。

 ただ、少し調子が悪いだけだと思いたかった。

 

 けれど、自分の身体は正直だった。

 

 踏み込む直前、止まる。

 跳び込む直前、重くなる。

 相手が少し身体を沈めただけで、胸の奥が固くなる。

 

 リュウはいない。

 目の前に波動拳もない。

 昇龍拳も来ない。

 

 それでも、身体のどこかにリュウの拳が残っている。

 

 春麗は型を止め、帯の結び目を直した。

 

 その指先に、無意識に力が入る。

 

 その時、道場の入口に人影が立った。

 

「春麗」

 

 声を聞いた瞬間、指が止まった。

 

 リュウだった。

 

 春麗は、顔を上げるまでにわずかに遅れた。

 その遅れが、自分で腹立たしかった。

 

「……何の用?」

 

 声は、思ったより冷たく出た。

 

 リュウは入口で立ち止まったまま、静かに答えた。

 

「様子を見に来た」

 

「様子?」

 

「ああ」

 

「試合の後に、怪我は問題ないことを確認したでしょう?」

 

「ああ」

 

「倒れた私を支えた。呼吸も戻った。意識も戻った。歩けることも確認した」

 

「ああ」

 

「なら、十分じゃない」

 

 リュウはすぐには答えなかった。

 

 春麗は、その沈黙が嫌だった。

 

 見られている。

 また見られている。

 

 倒れた自分。

 撃ち落とされた自分。

 動けなかった自分。

 支えられた自分。

 

 思い出したくない。

 けれど、忘れるつもりもない。

 

 その矛盾が、胸の奥で痛む。

 

「あの試合から十日だ」

 

 リュウは言った。

 

「気になった」

 

 春麗は、軽く笑った。

 笑ったつもりだった。

 けれど、喉の奥に引っかかるような音になった。

 

「律儀ね」

 

「ああ」

 

「あなたに負けた相手の、その後まで確認するの?」

 

「相手が春麗だからだ」

 

 春麗の指が止まった。

 

 そういう言い方をする。

 

 何も飾らない。

 余計な意味を足さない。

 だから余計に逃げ場がなくなる。

 

「……どうして気になったの?」

 

 春麗は、視線を逸らしたまま言った。

 

 リュウは少しだけ目を伏せる。

 

「春麗が、あの試合の後に別の格闘家と戦った映像を見た」

 

 春麗の胸が、かすかに固まった。

 

「映像?」

 

「ああ」

 

「誰がそんなものを」

 

「大会関係者が記録していたものだ」

 

「余計なことを」

 

 春麗は低く呟いた。

 

 リュウは続けた。

 

「踏み込みが遅れていた」

 

 春麗は黙る。

 

「跳び込みも浅かった」

 

「それで?」

 

「相手の身体が沈んだ時、春麗が止まった」

 

 春麗は、何も言えなかった。

 

 言えば、認めることになる。

 黙れば、もっと認めているように見える。

 

 どちらも嫌だった。

 

 リュウは春麗の足を見た。

 次に、手を見た。

 そして、自分の拳を少しだけ下げた。

 

 その瞬間、春麗の視線が動いた。

 

 ほんの一瞬。

 リュウの拳へ。

 

 リュウは、それを見逃さなかった。

 春麗も、自分が見てしまったことに気づいた。

 

 気づいた瞬間、顔が熱くなる。

 

 最悪だった。

 

 見破られた。

 よりによって、リュウに。

 

「春麗」

 

「何」

 

「俺の拳が気になるのか」

 

「……気にならないわ」

 

「今、俺の拳を見た」

 

「見ていない」

 

「見ていた」

 

「見ていないと言っているでしょう!」

 

 声が跳ねた。

 

 道場に響いた。

 春麗自身が、その声に驚いた。

 

 リュウは動かなかった。

 ただ、春麗を見ていた。

 

 その沈黙が、さらに春麗を追い詰める。

 

 見ないで。

 そんなふうに見ないで。

 

 でも、見ないままでいられるのも嫌だった。

 

 春麗は拳を握った。

 

「帰って」

 

「春麗」

 

「帰って!」

 

「止まっているなら、俺が修行に付き合う」

 

 春麗の胸の奥で、何かが鳴った。

 

「付き合う?」

 

 声が低くなる。

 

「あなたが、私の修行に?」

 

 リュウは何も言わない。

 

 春麗は、ゆっくり立ち上がった。

 

 座ったままリュウを見るのが嫌だった。

 見下ろされるのが嫌だった。

 止まっている自分を、そのまま見られるのが嫌だった。

 

「あなたは、私を昇龍拳で撃ち落とした」

 

 一拍。

 

「波動拳で誘って」

 

 一拍。

 

「私が跳び込むのを読んで」

 

 一拍。

 

「昇龍拳で撃ち落として」

 

 一拍。

 

「動けなくなった私に、竜巻旋風脚を入れて」

 

 一拍。

 

「完全に倒した」

 

 リュウは、黙って聞いていた。

 

 春麗も分かっている。

 

 それは試合だった。

 

 両者が納得して立った試合。

 春麗も本気だった。

 リュウも本気だった。

 勝ったのはリュウ。

 負けたのは春麗。

 

 そこに、責める筋などない。

 

 分かっている。

 分かっているのに、言葉は止まらなかった。

 

「あなたは、私に負けたことを覚えて修行してきた」

 

 一拍。

 

「そう言ったわよね」

 

「ああ」

 

「覚えているから、強くなって戻ってきた」

 

「ああ」

 

「私は?」

 

 声が震えた。

 

 春麗は、それが悔しかった。

 

「私は、あなたに負けたことを覚えている」

 

 一拍。

 

「あなたの昇龍拳を覚えている」

 

 一拍。

 

「空中で間合いを見誤ったと分かった瞬間も」

 

 一拍。

 

「竜巻旋風脚で身体が持っていかれた感覚も」

 

 一拍。

 

「倒れた後、あなたに支えられたことも」

 

 一拍。

 

「全部、覚えている」

 

 一拍。

 

「でも、私は強くなって戻れていない」

 

 喉が痛い。

 

「覚えているから、止まっているのよ」

 

 リュウの表情は大きく変わらなかった。

 

 だが、目だけが少し痛そうだった。

 

 春麗はそれを見て、余計に苦しくなる。

 

 そんな顔をさせたいわけではない。

 責めたいわけではない。

 謝らせたいわけでもない。

 

 それなのに、自分の言葉がリュウに向かっている。

 

 そのことが、また嫌だった。

 

「そんな私を、あなたに見られたくなかった!」

 

 一拍。

 

「でも、あなたが知らないままでいるのも嫌だった……」

 

 一拍。

 

「分かる?」

 

 春麗は笑った。

 泣きそうな笑いだった。

 

「分からないでしょうね」

 

「俺は、分かりたいと思っている」

 

 リュウは静かに言った。

 

 春麗は息を止めた。

 

 また、それだ。

 

 分からないと言えばいい。

 試合だったと言えばいい。

 春麗が弱かったと言えばいい。

 自分で乗り越えろと言えばいい。

 

 そう言われれば、怒れる。

 怒って、跳ね返せる。

 

 なのに、リュウはそう言わない。

 

 分かりたい。

 

 ただ、それだけを言う。

 

「……そういうところよ」

 

 春麗は顔を背けた。

 

 言ってから、少しだけ唇を噛む。

 

「試合だもの。あなたが悪いわけじゃない」

 

「ああ」

 

「私も本気で、あなたも本気だった。そして負けたのは私」

 

「ああ」

 

「だから、これは八つ当たりよ」

 

 春麗は拳を握りしめた。

 

「分かっているのに、止まらないの」

 

 リュウは黙っていた。

 

「あなたに腹が立つんじゃない」

 

 一拍。

 

「……少しは、立つけれど」

 

 すぐに春麗は目を伏せた。

 

「でも、本当は違う」

 

 一拍。

 

「一番嫌なのは、私よ」

 

 一拍。

 

「覚えているのに進めない私」

 

 一拍。

 

「あなたの拳を見ただけで止まる私」

 

 一拍。

 

「来てほしかったくせに、来られたら帰れと言う私」

 

 一拍。

 

「見てほしかったくせに、見破られたら怒る私」

 

 言ってしまった。

 

 春麗は、自分の言葉に傷ついた。

 

 リュウは何も言わない。

 その沈黙が、今度は少しだけありがたかった。

 

 否定されても困る。

 慰められても困る。

 正解を言われても、きっと困る。

 

 春麗は目を閉じた。

 

「今日は帰って」

 

 今度の声は、少し弱かった。

 

「今の私では、あなたとまともに話せない」

 

 リュウはすぐには動かなかった。

 だが、春麗がもう一度顔を背けると、静かに頷いた。

 

「分かった」

 

 一拍。

 

 春麗は顔を上げなかった。

 

「だが、春麗が望むなら、修行に付き合う」

 

「……今は望まないわ」

 

 リュウは、短く頷いた。

 

「……分かった」

 

 リュウは踵を返した。

 

 入口へ向かう。

 

 春麗は、その背中を見ないようにした。

 見たら、呼び止めてしまいそうだった。

 呼び止めたら、また何かをぶつけてしまいそうだった。

 

 リュウは立ち止まり、最後に言った。

 

「身体は、無理をするな」

 

「……余計なお世話よ」

 

 言ってから、春麗は目を伏せる。

 

「でも」

 

 一拍。

 

「覚えておくわ」

 

 リュウは少しだけ振り返った。

 

「ああ」

 

 リュウは出ていった。

 

 春麗は、しばらく動けなかった。

 

 入口から彼の気配が消える。

 道場が静かになる。

 

 その静けさの中で、春麗はようやく息を吐いた。

 

 そして、ゆっくり膝をついた。

 

「……最悪」

 

 自分が最悪だった。

 

 来てほしかったくせに。

 見てほしかったくせに。

 見破られたら拒絶した。

 

 リュウは悪くない。

 本気で戦っただけだ。

 春麗も本気だった。

 

 負けた。

 撃ち落とされた。

 倒された。

 支えられた。

 

 それだけ。

 それだけのはずなのに。

 

 春麗は両手で顔を覆った。

 

「何をしているのよ、私は」

 

 一拍。

 

「リュウに八つ当たりして」

 

 でも、止められなかった。

 

 たまっていたものが、全部リュウに向かった。

 

 撃ち落とされた空も。

 動かない足も。

 支えられた恥ずかしさも。

 覚えているのに進めない惨めさも。

 

 全部。

 

 春麗は、額を床に近づけるように俯いた。

 

「明日は」

 

 一拍。

 

「一人でやる」

 

 リュウには頼らない。

 

 少なくとも、今は。

 

 自分で戻す。

 自分の足で。

 自分の空を。

 


 

 翌日。

 

 春麗は、朝から修行場に立っていた。

 

 誰もいない。

 

 風が通る。

 空は高い。

 見上げるだけで、胸が少し締まる。

 

 春麗は、深く息を吸った。

 

「大丈夫」

 

 声に出す。

 

「リュウはいない」

 

 一拍。

 

「波動拳もない」

 

 一拍。

 

「昇龍拳も来ない」

 

 一拍。

 

「だから、跳べる」

 

 言葉は、少しも信用できなかった。

 それでも、言わないよりはましだった。

 

 春麗は構えた。

 

 まずは踏み込み。

 一歩。

 止まらない。

 

 もう一歩。

 少し鈍い。

 でも、前には出た。

 

 次に跳躍。

 

 高く跳ばなくていい。

 ただ、床から足を離すだけでいい。

 

 春麗は膝を沈めた。

 

 瞬間、記憶が蘇る。

 

 リュウの身体が沈む。

 拳が下から来る。

 空中で、間違えたと分かる。

 逃げられない。

 撃ち落とされる。

 

 春麗は歯を食いしばった。

 

「跳びなさい」

 

 床を蹴る。

 

 足が離れる。

 

 低い。

 短い。

 跳び込みとは呼べない。

 

 それでも、足は床から離れた。

 

 着地。

 

 息が乱れる。

 

 春麗は胸を押さえた。

 

「……できた」

 

 小さな声だった。

 

 その時、木々の向こうに気配があった。

 

 春麗は振り返った。

 

 少し離れた場所に、リュウがいた。

 

 春麗の血が、頭に上った。

 

「リュウ!」

 

 リュウは隠れなかった。

 ただ、こちらへ歩いてくる。

 

「見ていたの?」

 

「ああ」

 

「昨日、帰ってと言ったわよね」

 

「言われた」

 

「なら、なぜいるの」

 

「春麗の様子が気になった」

 

「またそれ?」

 

「ああ」

 

「放っておきなさいよ!」

 

 春麗は構えた。

 

 リュウが足を止める。

 

「春麗」

 

「構えなさい」

 

「まだ」

 

「構えなさい!」

 

 声は怒りで震えていた。

 だが、その奥には恐怖もあった。

 

 見られた。

 

 一人で戻そうとしているところを。

 低く跳べただけで息を乱しているところを。

 また見られた。

 

 だから、怒るしかなかった。

 怒りにすれば、踏み込める。

 怒りにすれば、少しは前へ出られる。

 

 春麗は踏み込んだ。

 

 上段蹴。

 

 リュウは腕で受ける。

 

 重い音。

 

 春麗は続ける。

 

 追突拳。

 

 リュウは半歩下がる。

 春麗の足が動く。

 

 怒りの分だけ、動く。

 

 だが、雑だった。

 

 呼吸が浅い。

 視野が狭い。

 踏み込みが前に寄りすぎている。

 

 リュウは防御に徹していた。

 

 春麗は、それにも反応しそうになった。

 

 手を抜かないで、と言いかける。

 

 けれど、飲み込んだ。

 

 違う。

 

 今のリュウは、手を抜いているのではない。

 自分を見ている。

 今の春麗がどこで止まるのかを、確かめている。

 

 それが分かることも、悔しかった。

 春麗はさらに踏み込む。

 

 リュウは距離を取った。

 両手を構える。

 

 春麗の身体が、先に反応した。

 

 波動拳。

 

 来る。

 

 分かった。

 

 分かった瞬間、春麗は跳ぶべきだった。

 

 波動拳を越える。

 空中から飛び込んで蹴る。

 あるいは横へ抜ける。

 

 できる。

 今まで、何度もやってきた。

 

 リュウの掌に気が集まる。

 

「波動拳!」

 

 青い気が走る。

 

 春麗は膝を沈めた。

 

 跳べ。

 

 跳びなさい。

 

 昨日、床から足は離れた。

 今もできる。

 

 できるはず。

 

 だが、足は離れなかった。

 

 波動拳が迫る。

 春麗は跳べず、横へ逃げた。

 

 遅い。

 

 気弾が肩を掠める。

 

「っ!」

 

 痛みは浅い。

 

 だが、春麗の顔が歪んだ。

 

 痛みではない。

 跳べなかったことへの反応だった。

 

 リュウは追撃しない。

 

 春麗は、その場で息を整えた。

 

 なぜ来ないの。

 そう言いかけて、また飲み込む。

 

 今の春麗に追撃すれば、ただ崩れるだけだ。

 リュウはそれを見た。

 見たから、来なかった。

 

 甘さではない。

 手加減でもない。

 

 今の自分を正確に見た結果だった。

 

 それが、悔しい。

 

「見えた?」

 

 春麗は言った。

 

「ああ」

 

「でしょうね」

 

 声が少し震えた。

 

「私は、今、跳べなかった」

 

「ああ」

 

「言われなくても分かっているわ」

 

「ああ」

 

「でも、あなたの口から聞くのは嫌なの」

 

「……なら、言わない」

 

 春麗は奥歯を噛んだ。

 

「……違うわね」

 

 一拍。

 

「言って」

 

 リュウは春麗を見る。

 

「本当に聞きたいのか」

 

「聞きたいわけじゃない」

 

 一拍。

 

「必要なのよ」

 

 リュウは頷いた。

 

「今の春麗は、波動拳の前で跳べなかった」

 

 春麗の胸が痛んだ。

 

 だが、逃げなかった。

 

「続けて」

 

「横には動いた」

 

 一拍。

 

「遅かったが、止まりきってはいない」

 

 春麗は息を吐いた。

 

 止まりきってはいない。

 

 その言葉だけで、少しだけ床の感触が戻る。

 

「……そう」

 

「ああ」

 

「それなら、次はもう少し早く動くわ」

 

「ああ」

 

 春麗は、無理に前へ出た。

 

 今度は近距離。

 

 近ければ波動拳はない。

 跳ばなくていい。

 脚も使える。

 手も届く。

 

 春麗は連続で追突拳を放つ。

 リュウは受ける。

 春麗は横へ回り、上段蹴へつなげた。

 

 リュウが身体を沈める。

 

 ほんの少し。

 

 ただ、下から拳を打ち上げるための気配。

 

 昇龍拳。

 

 実際には、まだ出ていない。

 リュウは構えただけだ。

 

 それなのに、春麗の身体は止まった。

 

 完全に。

 

 呼吸が止まる。

 脚が止まる。

 拳が止まる。

 

 目だけが、リュウの拳を見る。

 

 来る。

 下から来る。

 撃ち落とされる。

 

 空にいなくても、同じだった。

 

 あの拳が、身体の芯に残っている。

 

 リュウは拳を出さなかった。

 

 構えを解いた。

 

 春麗は、その場に立ったまま、震えていた。

 

 ほんのわずか。

 でも、確かに震えていた。

 

「……今の」

 

 春麗の声は、かすれていた。

 

「今の、何?」

 

 リュウは答えない。

 

 春麗は、自分で答えを知っていた。

 知っていて、認めたくなかった。

 

 でも、もう逃げられない。

 

 波動拳の前で跳べなかった。

 近距離で、昇龍拳の気配だけで止まった。

 

 リュウに。

 

 また、見られた。

 

 春麗は拳を握った。

 

 握っても、止まった身体は戻らない。

 

「……怖いのね」

 

 その言葉は、春麗自身から出た。

 

 リュウが、わずかに目を動かす。

 

 春麗は、リュウを見た。

 

「私は」

 

 一拍。

 

「あなたの昇龍拳が怖い」

 

 言った。

 言ってしまった。

 胸の奥が、崩れるように痛む。

 

「波動拳の後、跳べない」

 

 一拍。

 

「あなたが身体を沈めるだけで、私の身体が止まる」

 

 一拍。

 

「昇龍拳が来ると思うと、空から撃ち落とされた記憶がよみがえる」

 

 一拍。

 

「……あなたに、トラウマを刻まれてしまった」

 

 一拍。

 

「あなたと違って、私は止まってしまっている」

 

 最後の言葉は小さかった。

 

 だが、リュウには聞こえた。

 

 春麗は唇を噛む。

 

「……最悪よ」

 

 一拍。

 

「よりによって、あなたに見られた」

 

「……ああ」

 

 リュウは否定しない。

 

 慰めもしない。

 大丈夫だとも言わない。

 怖がるなとも言わない。

 

 ただ、見たことを認める。

 

 春麗は、その正しさが悔しかった。

 

「春麗」

 

「何」

 

「トラウマを克服するための修行に付き合う」

 

 春麗は、一度目を閉じた。

 

 拒絶したい。

 

 格好悪い。

 惨めだ。

 よりによって、トラウマを刻んだ本人に手伝ってもらうなんて。

 

 まだ、そんなふうに頼れるほど長い付き合いではない。

 

 何度も戦って負けた。

 初めて勝って、また負けた。

 それも、トラウマを刻まれるほどの完敗だった。

 

 その全部が春麗の中に残っている。

 

 だが、時間で言えば短い。

 関係で言えば、まだ浅い。

 それなのに、こんなところを見られている。

 

 それが恥ずかしい。

 悔しい。

 嫌になる。

 

 でも。

 

 トラウマを刻んだ相手だからこそ、必要なのだ。

 リュウの波動拳の前で跳べないなら、リュウの波動拳の前で動くしかない。

 リュウの昇龍拳の気配で止まるなら、リュウの昇龍拳の気配の前で、もう一度動くしかない。

 

 春麗は、目を開いた。

 そして、リュウを睨んだ。

 

「……修行に付き合って」

 

 言葉が、思ったより小さく出た。

 

 春麗はすぐに顔をしかめる。

 

「今のは違うわ」

 

「違うのか」

 

「お願いみたいに聞こえたでしょう」

 

「ああ」

 

「違う」

 

 違わない。

 

 違わないから、嫌だった。

 

 春麗は、言葉を選び直す。

 

「今回は、恩を借りさせてもらうわ」

 

 リュウは春麗を見る。

 

「分かった」

 

 春麗は、拳を握り直した。

 

「あなたの拳で止まったの」

 

 一拍。

 

「あなたの波動拳の前で、跳べなくなった」

 

 一拍。

 

「あなたの昇龍拳の気配で、身体が止まった」

 

 一拍。

 

「なら、あなたの拳の前で動けるようになるまで、修行に付き合ってもらうしかない」

 

 春麗は、リュウをまっすぐ見た。

 

「だから、あなたの恩に甘えさせて」

 

 一拍。

 

「いつか、この恩は絶対に返すわ」

 

 リュウは黙って春麗を見ていた。

 

「……別に、恩を売っているつもりはない」

 

 一拍。

 

「だが、それで春麗の気が済むなら、それでいい」

 

 一拍。

 

「いつか返してくれ」

 

「……そう」

 

 春麗は、息を吐いた。

 

 少しだけ、力が抜ける。

 

「ただし」

 

 春麗は言った。

 

「修行に同情はいらないわ」

 

「ああ」

 

「慰めも手加減もいらない」

 

「…春麗の身体は昇龍拳の気配で止まる」

 

「……ええ」

 

「心の問題もあると思う。すぐに克服するのは難しいだろう」

 

 春麗は奥歯を噛んだ。

 

 言い返したかった。

 でも、言い返せなかった。

 

 事実だったからだ。

 

「昇龍拳は?」

 

「まずは気配だけから始める」

 

 春麗の身体が、わずかに固まった。

 

 リュウはすぐに気づいた。

 だが、何も言わない。

 

 春麗は、自分で息を吸った。

 

「……分かったわ」

 

 一拍。

 

「まずは、気配だけ」

 

「ああ」

 

「でも、いつかは撃ちなさい」

 

 リュウは春麗を見る。

 

 春麗は、まだ少し震えている手を握り込んだ。

 

「あなたの昇龍拳を、見て、動けるようにならないと意味がないわ」

 

「そうだな」

 

「いつかは、撃ちなさい」

 

「分かった」

 

「その時、手を抜いたら許さないから」

 

「ああ」

 

 リュウとの付き合いは、まだ短い。

 

 だから、一つひとつ言葉にしなければならなかった。

 

 強がりながら。

 傷つきながら。

 恩を借りると認めながら。

 

 リュウは、その全部を聞いている。

 そして、逃げない。

 

 春麗は、それが少しだけありがたかった。

 

 ありがたいと思ってしまうことが、また悔しかった。

 

「リュウ」

 

「ああ」

 

「修行が終わって、もう一度戦えるようになったら、私と勝負して」

 

「ああ」

 

「言っておくけど」

 

 一拍。

 

「その時は、私が勝たせてもらうから」

 

「分かった」

 

 一拍。

 

「だが、まずは動けるようになるために修行だな」

 

「……そうね」

 

 春麗は少しだけ息を吐いた。

 

「修行は明日から。ここに九時集合でいい?」

 

「ああ」

 

「遅れたら許さないわよ」

 

「分かった」

 

 リュウは短く頷いた。

 

 そして、背を向ける。

 

 春麗は、その背中を見送った。

 

 歩幅はいつも通りだった。

 急いでいるわけでもない。

 名残惜しそうにするわけでもない。

 ただ、明日また来ることを当然のように残して、リュウは修行場を後にしていく。

 

 その背中が見えなくなるまで、春麗は動かなかった。

 

 風が通る。

 

 ようやくリュウの気配が消えてから、春麗は小さく息を吐いた。

 

「……何なのよ、本当に」

 

 言葉は呆れたように出た。

 

 だが、胸の奥は少し違っていた。

 

 リュウが来た。

 

 春麗の試合映像を見て、踏み込みの遅れに気づいて、気になったと言って来た。

 

 帰ってと言ったのに、翌日も見に来た。

 

 一人で跳ぼうとしているところを見られた。

 

 腹が立った。

 恥ずかしかった。

 だから怒って、攻撃して、波動拳の前で跳べないところも、昇龍拳の気配だけで止まるところも、結局全部見られた。

 

 最悪だった。

 

 よりによって、リュウに見られた。

 

 けれど。

 

 リュウは逃げなかった。

 

 責めなかった。

 笑わなかった。

 大丈夫だとも言わなかった。

 

 ただ、春麗が止まっていることを見て、そのうえで修行に付き合うと言った。

 

 トラウマを刻んだ本人に、そのトラウマを克服する修行へ付き合ってもらう。

 

 冷静に考えると、かなりひどい状況だった。

 

 春麗は額に手を当てる。

 

「……本当に、ひどい話ね」

 

 だが、ひどいと思うのと同じくらい、胸の奥が軽くなっている。

 

 一人で戻すつもりだった。

 

 リュウには頼らない。

 見られたくない。

 止まっている自分を知られたくない。

 

 そう思っていた。

 

 でも、本当は。

 

 来てほしかった。

 

 見てほしかった。

 

 自分がどこで止まっているのか。

 何に怯えているのか。

 どれだけ悔しがっているのか。

 

 知られたくないのに、知らないままでいられるのも嫌だった。

 

 その一番面倒な場所に、リュウは踏み込んできた。

 

 そして、逃げなかった。

 

 春麗は、リュウが去った方を見つめる。

 

「……嬉しいわけじゃないわ」

 

 言ってから、すぐに自分で嘘だと思った。

 

 嬉しくないわけがない。

 

 怖い。

 恥ずかしい。

 悔しい。

 惨めだ。

 

 でも、嬉しい。

 

 リュウが気づいてくれたこと。

 見に来てくれたこと。

 帰れと言っても、逃げなかったこと。

 明日も来ると決めてくれたこと。

 

 それが、どうしようもなく嬉しい。

 

 春麗は唇を噛む。

 

 認めたくない。

 

 でも、認めなければ始まらない。

 

 今回は、恩を借りる。

 

 リュウに修行へ付き合ってもらう。

 その恩は、いつか必ず返す。

 

 ただし、リュウに負けた勝負の借りは別だ。

 

 それは、いつか勝って返す。

 

 春麗は、ゆっくり拳を握った。

 

「……明日、九時」

 

 声に出す。

 

 リュウは来る。

 

 たぶん、時間通りに来る。

 いつもの顔で。

 いつもの調子で。

 何も特別なことではないように。

 

 春麗はその顔を想像して、少しだけ眉を寄せた。

 

「本当に、腹立たしいくらい律儀ね」

 

 けれど、口元はほんの少しだけ緩んでいた。

 

 春麗はそれに気づき、すぐに表情を引き締める。

 

「修行よ」

 

 一拍。

 

「これは修行」

 

 もう一拍。

 

「私が、もう一度リュウに勝つための修行」

 

 そう言い聞かせる。

 

 それで十分だった。

 

 嬉しさは、今はまだ名前をつけなくていい。

 

 ただ、明日リュウが来る。

 リュウの波動拳の前で、もう一度動く。

 リュウの昇龍拳の気配の前に、もう一度立つ。

 

 その予定ができた。

 

 春麗は、修行場に残る風の中で、深く息を吐いた。

 

 止まった足は、まだ完全には戻っていない。

 

 けれど、明日からは一人ではない。

 

 それを認めるのは、悔しい。

 

 でも、今の春麗には必要だった。

 


 

 記録板AIは、そこで検証ログを停止した。

 

『検証ログ終了』

 

『保存名』

『春麗は、刻まれた敗北をリュウに見られてしまう』

 

『保存先』

『ディレクターズカットIF外部検証領域』

 

『保存完了』

 

『以上』

 




Q:今回のディレクターズカットについて解説して?

A:

今回のエピソードは、修行編の実質的な入口になる話です。

前回までで、春麗はリュウに敗北した後、踏み込みや跳び込みが止まるようになっていました。

身体は動く。
怪我も大きくは残っていない。
他の格闘家とも手合わせはできる。

でも、戻ってはいない。

この「動けること」と「戻っていること」は違う、というのが今回の前提です。

春麗は最初、自分の不調を認めたくありません。
少し調子が悪いだけ。
昨日の疲れが残っているだけ。
リュウ相手でなければ問題ない。

そう思いたかった。

けれど、実際にはリュウ以外の相手にも影響が出ている。
相手が少し身体を沈めただけで止まる。
跳び込む直前に重くなる。
波動拳も昇龍拳もない場面で、リュウの拳が身体の中に残っている。

そこをリュウに見られる、というのが今回の一番きついところです。

しかも、リュウは春麗の試合映像を見て気づいています。

踏み込みが遅れている。
跳び込みが浅い。
相手が身体を沈めた時、春麗が止まった。

リュウはそこを見逃しません。

春麗にとっては、これが最悪です。

知られたくない。
見られたくない。
でも、知らないままでいられるのも嫌。

この矛盾が春麗の面倒くささです。

今回、春麗はかなり強くリュウに八つ当たりしています。

あなたが私を昇龍拳で撃ち落とした。
波動拳で誘った。
跳び込みを読んだ。
空から叩き落とした。
竜巻旋風脚で完全に倒した。

もちろん、春麗自身も分かっています。

これは試合だった。
リュウが悪いわけではない。
自分も本気だった。
リュウも本気だった。
負けたのは自分。

だから責める筋ではない。

それでも言葉が止まらない。

ここは、春麗がリュウを本当に責めたいのではなく、自分の中で処理しきれていないものが全部リュウに向かってしまっている場面です。

一番嫌なのは、リュウではなく自分。

覚えているのに進めない自分。
リュウの拳を見ただけで止まる自分。
来てほしかったくせに、来られたら帰れと言う自分。
見てほしかったくせに、見破られたら怒る自分。

ここを本人に言わせたかった回でもあります。
リュウは、今回も逃げません。

分からないとは言わない。
自分で乗り越えろとも言わない。
春麗が弱かったとも言わない。

ただ、「分かりたい」と言う。

このリュウの真っ直ぐさが、春麗にはかなり刺さります。

怒る相手がいなくなるからです。
リュウが正面から来るほど、春麗は自分の面倒くささを自分で見るしかなくなる。

そこが今回の会話の軸でした。

後半では、春麗が一人で跳ぼうとします。

リュウはいない。
波動拳もない。
昇龍拳も来ない。
だから跳べる。

そう言い聞かせても、身体は簡単には戻りません。

それでも、低く短く、床から足を離すことはできた。

ここは非常に小さな進歩です。

ただし、その瞬間をリュウに見られます。

春麗としては最悪です。
一人で戻そうとしているところを見られた。
低く跳べただけで息を乱しているところを見られた。
だから怒るしかない。

でも、その怒りでリュウに向かった結果、波動拳の前で跳べないことも、昇龍拳の気配だけで止まることも、結局リュウに見られてしまう。

逃げようとしても、隠そうとしても、全部見られる。

そして、そこで春麗はようやく認めます。

私は、あなたの昇龍拳が怖い。

この台詞が今回の中心です。

春麗はリュウそのものが怖いわけではありません。
リュウと戦いたくないわけでもない。
むしろ、もう一度戦いたい。
勝ちたい。

でも、リュウの昇龍拳が怖い。
波動拳の後に跳べない。
身体が沈むだけで止まる。
撃ち落とされた記憶がよみがえる。

そこを自分の口で言えたことが、今回の大きな前進です。

そして、ここから修行の形が決まります。

トラウマを刻んだ相手だからこそ、その相手の拳の前で動けるようにならなければならない。

リュウの波動拳の前で跳べないなら、リュウの波動拳の前で動くしかない。
リュウの昇龍拳の気配で止まるなら、リュウの昇龍拳の気配の前で、もう一度立つしかない。

かなり酷な話です。

でも、このルートの春麗にはそれが必要でした。

終盤では、明日からリュウと修行することが決まります。

春麗は強がっています。
「修行よ」
「私が、もう一度リュウに勝つための修行」
と自分に言い聞かせています。

でも、本当は嬉しい。

リュウが気づいてくれたこと。
見に来てくれたこと。
帰れと言っても逃げなかったこと。
明日も来ると決めてくれたこと。

それが、どうしようもなく嬉しい。

ただ、春麗はまだその嬉しさに名前をつけられません。
つけたくもありません。

怖い。
恥ずかしい。
悔しい。
惨めだ。

でも、嬉しい。

この感情が混ざったまま、修行編に入っていくのが今回のラストです。

今回のエピソードは、派手な勝負の回ではありません。
春麗が克服する回でもありません。

むしろ、克服できていないことを、リュウの前で認める回です。

止まっていること。
怖いこと。
一人では戻せないこと。
リュウに見られたくないのに、見てほしかったこと。

それを認めたから、ようやく修行が始まります。

この話の最後で、春麗はまだ完全には前へ進めていません。

でも、明日リュウが来る。
リュウの波動拳の前で、もう一度動く。
リュウの昇龍拳の気配の前で、もう一度立つ。

その予定だけはできた。

それが、今回の春麗にとっての最初の前進でした。
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