また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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※これはディレクターズカットIFです。
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。


ディレクターズカットIF:春麗は、リュウと空を取り戻す修行をする

 記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。

 

『本記録は、ディレクターズカットIFです』

 

『本編確定ログではありません』

『本ログは、第1話敗北ルート後続検証です』

 

『以下、検証ログを開始します』

 


 

 翌朝。

 

 春麗は、いつもより早く目を覚ました。

 

 身体は重い。

 

 昨日、リュウの前で自分が止まっていることを認めた。

 リュウの昇龍拳が怖いと、言ってしまった。

 トラウマを刻まれた本人に、そのトラウマを克服する修行へ付き合ってほしいと頼んだ。

 

 修行は、今日の九時から。

 

 リュウは来る。

 

 たぶん、時間通りに来る。

 いつもの顔で。

 いつもの調子で。

 何も特別なことではないように。

 

 春麗は布団の上で、しばらく天井を見ていた。

 

「……本当に来るわよね」

 

 小さく呟く。

 来なければいい、とは思わなかった。

 むしろ逆だった。

 

 来なかったら困る。

 来なかったら、また一人であの拳を思い出すだけになる。

 来なかったら、昨日あれだけ言った自分が、ただひどく惨めになる。

 

 だから、来てほしい。

 

 そう思っている自分が、さらに厄介だった。

 春麗は起き上がり、鏡の前に立った。

 いつもの武道服には、手を伸ばさなかった。

 

 あれは試合のための服だ。

 リュウと正面から向き合い、勝つための服。

 けれど、今日は違う。

 

 今日は試合ではない。

 勝つ前に、止まらないための修行だ。

 春麗は、修行用の服を手に取った。

 

 いつもの武道服より軽い。

 袖も足も動かしやすい。

 身体を締めつけすぎない、動作確認のための服。

 

 跳び込むためというより、まず一歩を止めないための服。

 

 春麗は、それに袖を通した。

 

「……修行よ」

 

 そう言ってから、拳を握る。

 

 今日は、リュウが来る。

 昨日、自分は恩を借りると言った。

 最初にリュウが修行に付き合うと言ってくれた時、春麗はそれを断った。

 今は望まないと言った。

 一人で戻すと言った。

 

 それなのに、翌日。

 一人で跳ぶための訓練をしているところを、リュウに見られた。

 

 見られたくないところを見られて。

 腹が立って。

 リュウに攻撃を仕掛けて。

 その結果、リュウの波動拳の前で跳べないところも、昇龍拳の気配だけで身体が止まるところも、全部見られた。

 

 最悪だった。

 

 よりによって、リュウに見られた。

 けれど、見られたからこそ認めるしかなかった。

 自分は、リュウの拳の前で止まっている。

 リュウの昇龍拳が怖い。

 リュウにトラウマを刻まれてしまった。

 なら、克服するには、リュウの拳の前で動けるようになるしかない。

 

 ただ波動拳を見るだけでは足りない。

 ただ昇龍拳の気配を見るだけでも足りない。

 自分は、その流れの中で止まっている。

 

 波動拳。

 跳び込み。

 迎撃。

 昇龍拳。

 空中で撃ち落とされた記憶。

 

 その一連の流れの中で、身体が止まる。

 なら、戻す場所もそこだ。

 

 リュウの拳の流れの中で。

 リュウの波動拳の前で。

 リュウの昇龍拳の気配の前で。

 もう一度、止まらずに動けるようになるまで。

 

 リュウが申し出てくれたその恩を借りる。

 

 いつか絶対に恩は返すことを誓って。

 春麗は鏡の中の自分をもう一度見た。

 

「……行くわよ」

 

 今度は、少しだけ声が落ち着いていた。

 部屋を出る前に、春麗は小さな包みを手に取った。

 自分で用意した昼食だった。

 

 修行は長くなる。

 空腹で倒れるつもりはない。

 

 リュウの分はない。

 そこまでする理由はない。

 まだ、そこまでの関係ではない。

 

 春麗はそう自分に言い聞かせて、包みを持って部屋を出た。

 


 

 修行場に着くと、リュウはすでにいた。

 

 朝の空気はまだ冷たい。

 陽は高くない。

 

 リュウは静かに立ち、春麗が来るのを待っていた。

 春麗は、その姿を見た瞬間、胸が少し詰まるのを感じた。

 

 待たれていた。

 それだけで、足が鈍りそうになる。

 けれど、止まらなかった。

 春麗はリュウの前まで歩いた。

 

「早いのね」

 

「ああ」

 

「九時と言ったでしょう」

 

「少し前に来た」

 

「真面目ね」

 

「ああ」

 

「褒めていないわ」

 

「そうか」

 

 いつもの調子だった。

 そのことに少しだけ安心して、春麗はすぐに腹が立った。

 安心したことが悔しい。

 

「どこから来たの?」

 

「近くの宿だ」

 

 春麗は眉を上げた。

 

「宿?」

 

「ああ」

 

「この辺りに取ったの?」

 

「ああ」

 

「……通うつもりなの?」

 

「修行に付き合うと言った」

 

 春麗は、すぐには答えられなかった。

 昨日、自分は言った。

 

 恩を借りさせてもらう。

 あなたの波動拳の前で、あなたの昇龍拳の気配の前で、動けるようになるまで修行に付き合ってもらう。

 

 言った。

 確かに言った。

 けれど、本当に近くに宿を取って来られると、どう受け止めればいいのか分からない。

 

「勝手ね」

 

 少しだけ強い声になった。

 隠しきれない困惑の声だった。

 

「迷惑か?」

 

「私の修行に付き合ってもらうのだから、迷惑じゃないけど……」

 

 一拍。

 

「ありがとう、とは言わないわ」

 

「分かった」

 

「その分かったも、少し困るわね」

 

 リュウは何も言わなかった。

 春麗は小さく息を吐く。

 

「朝から修行して、暗くなる前には終わりにしましょう」

 

「ああ」

 

「私も帰れる時間にしたいし、あなたも宿に戻るんでしょう」

 

「ああ」

 

「無理に夜まで付き合わせるつもりはないわ」

 

「分かった」

 

 リュウは頷いた後、春麗の服装に視線を向けた。

 

「今日は、いつもの武道服じゃないんだな」

 

 春麗は、自分の袖口を見た。

 

「ええ」

 

 一拍。

 

「いつものは試合用よ」

 

「試合用」

 

「あなたに勝つための服」

 

 リュウは静かに聞いている。

 春麗は続けた。

 

「でも、今日は修行でしょう」

 

 一拍。

 

「あなたに勝つ前に、あなたの拳の前で止まらないようにする修行」

 

 一拍。

 

「だから、修行用にしたの」

 

 リュウは少しだけ目を細めた。

 

「似合っている」

 

 春麗の呼吸が、一瞬だけ乱れた。

 

「……今、それを言うの?」

 

「そう思った」

 

「修行用よ」

 

「ああ」

 

「勝負服じゃないわ」

 

「ああ」

 

「だから、そういうことを言う場面じゃないの」

 

「それでも、似合っている」

 

「……本当に、あなたは」

 

 春麗は視線を逸らした。

 

 困る。

 

 腹が立つ、とは少し違う。

 悪い気はしない。

 だから困る。

 

 修行用の服を選んできたこと。

 今日は試合ではなく、修行として来たこと。

 その意味に、リュウが気づいた。

 それだけで、今日ここに立っている自分を少しだけ認められた気がした。

 

「始めましょう」

 

「ああ」

 


 

 二人は距離を取った。

 

 試合の開始間合いよりは少し遠い。

 波動拳を撃てる距離。

 跳び込めば、リュウの迎撃が間に合う距離。

 その距離に立っただけで、春麗の喉が少し狭くなった。

 

 ここだ。

 この距離だ。

 波動拳がある。

 波動拳を越えようとすれば、その先に昇龍拳がある。

 

 春麗の身体は、その流れを覚えている。

 

 波動拳。

 跳び込み。

 昇龍拳。

 空中で撃ち落とされる。

 その後の竜巻旋風脚。

 

 完全な敗北。

 

 春麗は奥歯を噛んだ。

 リュウが言う。

 

「最初は、波動拳だけでいいか」

 

「いいえ」

 

 春麗は即座に答えた。

 リュウの目が、少しだけ動く。

 春麗は、息を整えた。

 

「波動拳だけを見ても駄目」

 

 一拍。

 

「私は、波動拳で止まっているんじゃない」

 

 リュウは黙って聞いている。

 春麗は続けた。

 

「その向こうを見ているの」

 

 一拍。

 

「あなたの昇龍拳を」

 

 言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 けれど、逃げなかった。

 

「だから、波動拳だけを切り離しても意味がないわ」

 

「ああ」

 

「あなたの拳の流れの中でやる」

 

 一拍。

 

「波動拳から、迎撃まで」

 

 リュウは春麗を見た。

 

「組手か」

 

「ええ」

 

「実戦形式で?」

 

「実戦形式で」

 

「いいのか」

 

「いいわ」

 

「負荷が高い」

 

「知っている」

 

「怖さが強く残るかもしれない」

 

「もう残っているわ」

 

 春麗は、リュウを見る。

 

「残っているものを見に来たの」

 

 一拍。

 

「あなたの拳の流れの中で、私がどこで止まるのかを見たい」

 

 リュウは少しだけ目を伏せた。

 

「分かった」

 

「ただし、約束して」

 

「ああ」

 

「波動拳は撃っていい」

 

「ああ」

 

「昇龍拳の気配も出していい」

 

「ああ」

 

「殺気も抜かなくていい」

 

「ああ」

 

「でも、当てないで」

 

 リュウは頷いた。

 

「当てない」

 

「寸止めよ」

 

「分かった」

 

「本当に止める?」

 

「止める」

 

「流れは止めない?」

 

「寸止めの直前までは、止めない」

 

 春麗は、リュウの目を見た。

 

「怖さが偽物なら、意味がないわ」

 

「ああ」

 

「でも、今当てられたら……たぶん、私は駄目になる」

 

「当てない。最後だけ止める」

 

 その言葉は短かった。

 けれど、春麗は少しだけ息を吐けた。

 

 甘やかしではない。

 リュウは波動拳を撃つ。

 迎撃の気配も出す。

 昇龍拳の軌道にも入る。

 ただし、最後だけ当てない。

 手加減ではなく、安全装置。

 

 春麗は、自分に言い聞かせた。

 

「これは、教えてもらう修行じゃないわ」

 

 春麗は言った。

 リュウが見る。

 

「あなたを相手に、私が戻すの」

 

「分かった」

 

「その分かったは、少し気に入ったわ」

 

「そうか」

 

「ええ」

 

 春麗は構えた。

 

「始めましょう」

 

「ああ」

 


 

 一本目。

 

 リュウの掌に気が集まる。

 青い光。

 見慣れたはずの光。

 何度も越えてきたはずの技。

 だが、今は違う。

 あの光の向こうに、昇龍拳がある。

 

「波動拳!」

 

 気弾が放たれた。

 春麗は、息を止めそうになった。

 だが、止めなかった。

 

 喉を開く。

 息を吐く。

 横へ一歩。

 

 大きい。

 

 実戦なら、次に移るのが遅い。

 攻めに戻る形にもなっていない。

 ただ避けただけ。

 リュウは追わなかった。

 

 春麗は着地し、肩で息をした。

 

「今のは、組手じゃないわね」

 

 自分で言った。

 リュウは頷く。

 

「ああ」

 

「避けただけ」

 

「ああ」

 

「あなたは追っていない」

 

「最初だからな」

 

「次は追って」

 

 リュウは春麗を見る。

 

「いいのか」

 

「ええ」

 

 春麗は構え直した。

 

 二本目。

 

 リュウが波動拳を撃つ。

 春麗は横へ動く。

 今度は、動いた後に足を戻そうとした。

 リュウへ向き直ろうとした。

 その瞬間、リュウの身体が沈んだ。

 昇龍拳の入り。

 まだ拳は上がっていない。

 気配だけ。

 それだけで、春麗の身体は固まった。

 

「っ……」

 

 足が止まる。

 呼吸が詰まる。

 視線がリュウの拳に吸い寄せられる。

 

 来る。

 来ない。

 来る。

 来ない。

 

 分かっているのに、身体は震える。

 リュウはそこで止まった。

 構えを解かず、ただ止まる。

 春麗は、荒い息を吐いた。

 

「……今、跳ぶ前じゃない」

 

 一拍。

 

「避けた後に止まった」

 

 リュウは頷く。

 

「ああ」

 

「波動拳だけじゃない」

 

「ああ」

 

「その後ろを見た」

 

「ああ」

 

 春麗は拳を握った。

 

 悔しい。

 

 でも、見えた。

 自分がどこで止まるのか。

 波動拳を見るだけではない。

 波動拳を避けた後、リュウが迎撃に入る気配。

 そこで止まる。

 

 春麗は自分に言い聞かせる。

 

「もう一度」

 

「ああ」

 

 三本目。

 

 リュウの波動拳。

 春麗は横へ逃げかけた。

 違う。

 ただ避けるだけでは駄目だ。

 春麗は低く沈んだ。

 足を横へ流すのではなく、少し前へ残そうとする。

 だが、身体が固い。

 リュウが踏み込む。

 波動拳の後ろから、迎撃の距離へ入る。

 

 春麗はそこで跳ぼうとした。

 

 ほんの少し。

 床を蹴ろうとする。

 その瞬間、リュウの拳が下から来る気配がした。

 

 昇龍拳。

 

 春麗の身体が完全に固まった。

 リュウの拳は、春麗の手前で止まっていた。

 当たっていない。

 

 寸止め。

 

 約束どおり。

 それでも、春麗の膝が震えた。

 

「春麗」

 

「……大丈夫じゃないわ」

 

 春麗は、珍しくすぐ認めた。

 認めた瞬間だった。

 膝から力が抜けた。

 

「っ……」

 

 春麗は踏みとどまろうとした。

 

 足裏に力を入れる。

 床を掴む。

 腰を落とし、姿勢を戻そうとする。

 

 だが、身体が命令を聞かなかった。

 

 リュウの拳は当たっていない。

 昇龍拳は寸止めだった。

 衝撃はない。

 痛みもない。

 

 それなのに、身体は、撃ち落とされた後の形を覚えていた。

 

 空中で持ち上げられた感覚。

 受け身を取れなかった感覚。

 竜巻旋風脚で身体が持っていかれた感覚。

 最後に、足が床を見失った感覚。

 

 それらが一度に戻ってきた。

 

 春麗の膝が落ちた。

 片膝が地面に触れる。

 春麗は咄嗟に手をつきかけて、歯を食いしばった。

 

 倒れたくない。

 倒れたら、あの時と同じになる。

 

 そう思っているのに、もう片方の足も震えている。

 リュウが一歩、近づきかけた。

 

「来ないで」

 

 春麗の声が出た。

 

 鋭くはなかった。

 むしろ、かすれていた。

 

 それで、リュウは止まった。

 

 春麗は片膝をついたまま、荒い息を吐く。

 

 悔しい。

 当たっていない。

 当たっていないのに。

 

 寸止めだと分かっていた。

 リュウが止めると約束した。

 実際に止めた。

 

 それなのに、膝が落ちた。

 

 春麗は、拳を握った。

 拳は震えていた。

 

「……最悪」

 

 声が低く落ちる。

 

「当たってもいないのに」

 

 一拍。

 

「膝が落ちた」

 

 リュウは何も言わなかった。

 

 慰めない。

 否定しない。

 大丈夫だとも言わない。

 ただ、春麗の前で止まっている。

 

 それが今はありがたかった。

 

 触れられたら、たぶん崩れる。

 支えられたら、あの時と同じになる。

 今は、自分で戻らなければならない。

 

 春麗は、片膝をついたまま息を整えた。

 

 吸う。

 吐く。

 もう一度、吐く。

 

 膝は震えている。

 胸は痛い。

 視界の奥には、まだ昇龍拳の残像がある。

 だが、今の自分は試合場で倒れているわけではない。

 ここは修行場だ。

 リュウの拳は当たっていない。

 自分は、まだ意識がある。

 息もできる。

 

 春麗は、ゆっくり顔を上げた。

 

「……今の、見てた?」

 

「ああ」

 

 一拍。

 

「体に撃ち落とされた記憶が、残っているのよ」

 

 春麗は苦い笑みを浮かべた。

 

「あなたの昇龍拳は、当たらなくても私の膝を落とす」

 

 言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 だが、言えた。

 逃げずに言えた。

 

 リュウは静かに頷く。

 

「昇龍拳の気配で体が止まっていた」

 

「最悪よ」

 

「ああ」

 

「でも」

 

 一拍。

 

 春麗は膝に手を置いた。

 

「今、倒れ切ってはいない」

 

 リュウの目が、少しだけ動いた。

 春麗は自分に言い聞かせるように続ける。

 

「膝は落ちた」

 

 一拍。

 

「でも、意識は飛んでいない」

 

 一拍。

 

「あなたに支えられてもいない」

 

 一拍。

 

「自分で、戻るわ」

 

 春麗は足に力を入れた。

 すぐには立てなかった。

 膝がまた震える。

 それでも、春麗はもう一度息を吐いた。

 

 焦るな。

 

 倒れたわけではない。

 終わったわけではない。

 これは修行だ。

 

 春麗はゆっくり立ち上がった。

 

 完全に綺麗な動きではなかった。

 少しよろめいた。

 膝もまだ震えている。

 けれど、立った。

 自分の足で。

 リュウは、そこで初めて静かに言った。

 

「立てたな」

 

「……ええ」

 

「自分の力だけで立った」

 

「そんなことで言わないで」

 

「事実だ」

 

「分かっているわ」

 

 一拍。

 

「だから、余計に悔しいのよ」

 

 春麗は額の汗を拭った。

 呼吸はまだ荒い。

 けれど、今の一連の動きで、春麗自身にもはっきり分かった。

 

 これは気のせいではない。

 癖でもない。

 単なる慎重さでもない。

 試合勘の鈍りでもない。

 

 リュウの昇龍拳は、春麗の身体に刻まれている。

 

 当たらなくても、身体が倒れた後を思い出す。

 だから、克服には時間がかかる。

 

 そして、だからこそ。

 逃げずに、ここで続ける必要がある。

 

「リュウ」

 

「ああ」

 

「今は休むわ」

 

 リュウは少しだけ頷いた。

 

「ああ」

 

「でも、終わりじゃないわ」

 

「ああ」

 

「午後、もう一度やるかどうかは、私が決める」

 

「分かった」

 

 春麗はゆっくり座った。

 今度は崩れたのではない。

 休むために座った。

 その違いだけは、春麗自身が手放さなかった。

 


 

 昼前まで、二人は短い組手を何度か繰り返した。

 

 波動拳を見る。

 避ける。

 戻ろうとする。

 リュウが追う。

 迎撃の気配が来る。

 春麗が止まる。

 

 時には、昇龍拳の気配が出る前に止まった。

 時には、波動拳を避けた後に身体が横へ逃げた。

 時には、足は動いたが、拳が下がった。

 

 成果は、小さかった。

 

 波動拳を越えられたわけではない。

 昇龍拳の気配にも、まだ何度も固まる。

 実戦の流れの中では、まだリュウに届かない。

 

 それでも、春麗は逃げなかった。

 

 やがて昼前になった。

 春麗は額の汗を拭い、修行場の端に座った。

 リュウも少し離れて腰を下ろす。

 

 近すぎない。

 遠すぎない。

 その距離が、今の二人にはちょうど良かった。

 

 春麗は朝に用意してきた包みを開いた。

 

 簡単な昼食だ。

 

 小さな饅頭。

 青菜と卵を炒めたもの。

 少しだけ味を濃くした肉。

 修行の合間に食べやすいように、全部少しずつ包んできた。

 

 リュウは、宿の人に用意してもらったらしい包みを開いていた。

 

 握り飯。

 漬物。

 焼いた魚。

 質素だが、悪くない。

 きちんと食べるための昼食だった。

 

 春麗は、リュウの包みを少しだけ見た。

 

「宿で用意してもらったの?」

 

「ああ」

 

「朝、頼んだの?」

 

「宿の人が持たせてくれた」

 

「……そう」

 

 春麗は、自分の包みに視線を戻した。

 

 リュウは、近くに宿を取った。

 昼食も用意してもらっている。

 明日も来る。

 その次も、たぶん来る。

 自分の修行に、付き合うために。

 春麗は、箸を持つ指に少しだけ力を入れた。

 

 リュウが食べているのを見て、ふと、考えが浮かんだ。

 

 明日、少し多めに作ってくるくらいなら。

 いや。

 春麗は、すぐにその考えを消した。

 何を考えているの。

 これは修行だ。

 

 でも、リュウには修行に付き合ってもらっている恩がある。

 恩を借りっぱなしというのも、どうにも座りが悪い。

 それに、修行には栄養管理が必要だ。

 なら、そういうことにすればいい。

 礼ではない。

 まだ、礼を言えるほど整理できていない。

 ただ、朝から夕方まで修行するなら、食べるものは必要になる。

 自分だけ用意して、リュウが宿の包みを開くのを見ているのも、少し落ち着かない。

 だから、修行のため。

 そういうことにすればいい。

 

 春麗は、自分の中で勝手に言い訳を作ってから、饅頭を口に運んだ。

 

「春麗」

 

 リュウが言った。

 

「何」

 

「それは、自分で作ったのか」

 

 春麗の手が止まりかけた。

 

「……そうよ」

 

「そうか」

 

「何」

 

「うまそうだと思った」

 

 春麗は、リュウを見た。

 まっすぐだった。

 本当に、ただそう思っただけの顔だった。

 

「……あげないわよ」

 

「分かっている」

 

「私の昼食だもの」

 

「ああ」

 

「あなたには宿の人が用意してくれているでしょう」

 

「ああ」

 

「足りないの?」

 

「足りる」

 

「なら見ないで」

 

「すまない」

 

「謝らないで」

 

 春麗は顔を背け、青菜を口に運んだ。

 明日、少し多めに。

 そう思ってしまったことは、まだ認めない。

 絶対に認めない。

 

 リュウは静かに握り飯を食べていた。

 しばらく、二人は黙って昼食を取った。

 

 風が通る。

 修行場は静かだった。

 試合場とは違う。

 歓声もない。

 勝敗もない。

 ただ、動けなくなった身体を、少しずつ戻す時間がある。

 

 春麗は、水を飲んでから口を開いた。

 

「リュウ」

 

「ああ」

 

「あなたが来なかった二週間」

 

 リュウの目が、春麗を見る。

 春麗は、自分の包みを見たまま続けた。

 

「私は、ずっと待っていたわ」

 

 一拍。

 

「今日来るかもしれない」

 

 一拍。

 

「明日来るかもしれない」

 

 一拍。

 

「そう思っていた」

 

 言いながら、胸が痛くなる。

 でも、言うと決めた。

 この修行は、身体だけでは進まない。

 残っているものを言葉にしなければ、足はまた止まる。

 

「私、あなたに勝ったでしょう」

 

「ああ」

 

「ようやく勝った」

 

「ああ」

 

「額に印をつけた」

 

「覚えている」

 

 その言葉に、春麗の指がわずかに震えた。

 覚えている。

 リュウは、やはり覚えている。

 

「忘れないって言ったわ」

 

「ああ」

 

「だから、次もすぐ来ると思っていた」

 

 一拍。

 

「でも、あなたは来なかった」

 

「修行をしていた」

 

「分かっているわ」

 

 一拍。

 

「分かっているけれど、待っていたの」

 

 春麗は、少し笑った。

 自分を笑うように。

 

「おかしいでしょう」

 

 一拍。

 

「何度もあなたに負けて、でもやっと勝てたから…」

 

 一拍。

 

「敗者のあなたが挑戦しに来るのを、私は待っていたの」

 

 リュウは、黙って聞いていた。

 春麗は続ける。

 

「それで、戻ってきたあなたは強くなっていた」

 

 一拍。

 

「私に負けたことを覚えて、強くなっていた」

 

 一拍。

 

「それは嬉しかった」

 

 一拍。

 

「でも、同じくらい悔しかった」

 

 リュウは、ただ聞いていた。

 春麗は、自分の膝に置いた手を見ていた。

 リュウの拳が怖い。

 でも、その拳から逃げたいだけではない。

 リュウに勝ったことも。

 その勝利をリュウが覚えていることも。

 リュウが来なかった二週間に、自分が待っていたことも。

 全部、まだ残っている。

 春麗は、ゆっくり顔を上げた。

 

「最初の試合のことも、ずっと残っている」

 

 リュウの表情が、ほんの少し変わった。

 

「最初の試合」

 

「ええ」

 

 一拍。

 

「あなた、あの時、拳が鈍ったでしょう」

 

 リュウは否定しなかった。

 春麗は唇を噛む。

 

「私を女として見たから」

 

 一拍。

 

「一瞬、迷った」

 

 一拍。

 

「それなのに、私は負けた」

 

 声が少し低くなる。

 

「本当に悔しかった」

 

 一拍。

 

「あなたの拳が鈍ったのに」

 

 一拍。

 

「女として見られたのに」

 

 一拍。

 

「それでも、私は勝てなかった」

 

 一拍。

 

「格闘家としても、女としても、悔しかった」

 

 リュウは、静かに頭を下げた。

 

「すまなかった」

 

 春麗の胸が、また痛む。

 

「……謝られると、余計に悔しいわ」

 

「それでも、すまなかった」

 

「どうして」

 

「あれは、俺の未熟だった」

 

「未熟?」

 

「春麗を見た」

 

 一拍。

 

「格闘家としてだけではなく、女としても見た」

 

 一拍。

 

「そのことを、拳の中で整理できなかった」

 

 一拍。

 

「結果として、春麗に失礼だった」

 

 春麗は、リュウを見た。

 怒りたい。

 でも、言葉が出なかった。

 

 リュウは逃げていない。

 

 あの時のことまで、逃げずに言っている。

 

「……聞けてよかった」

 

 春麗は小さく言った。

 

「でも、悔しいのは変わらない」

 

「ああ」

 

「そこは、覚えておいて」

 

「覚えておく」

 

 しばらく沈黙が落ちた。

 

 風が通る。

 

 春麗は、自分の膝に置いた手を見ていた。

 

 悔しかった。

 

 そして、少しだけ嬉しかった。

 自分が女として見られたこと。

 それでも負けたこと。

 

 その矛盾が、ずっと残っていた。

 

 リュウが口を開いた。

 

「春麗」

 

「何」

 

「俺が、女の格闘家に負けたのは、春麗が初めてだった」

 

 春麗は、息を止めた。

 

「……そうなの?」

 

「ああ」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「私が、初めて?」

 

「そうだ」

 

 胸の奥が、熱くなった。

 春麗は、それを隠すように横を向く。

 

「……そう」

 

 声が少しだけ上ずりそうになる。

 

 抑える。

 でも、抑えきれない。

 

 嬉しい。

 

 悔しさとは違う熱が、確かにある。

 自分が初めてだった。

 女性格闘家として、リュウに初めて勝った。

 リュウの中に、その記録がある。

 春麗の額の印だけではない。

 リュウの記憶の中にも、自分の勝利がある。

 

「それを」

 

 一拍。

 

「もっと早く聞きたかったわ」

 

「すまない」

 

「謝らないで。今のは、ただの文句」

 

「そうか」

 

「ええ」

 

 春麗は、少しだけ笑った。

 

「でも」

 

 一拍。

 

「嬉しい」

 

 一拍。

 

「私が初めてだったこと」

 

 一拍。

 

「女としても、格闘家としても、あなたに勝ったこと」

 

 リュウは頷いた。

 

「ああ」

 

「忘れないで」

 

「忘れない」

 

 春麗は少し息を吸い、それから慎重に言った。

 

「……今度は、二週間来ないのはなしにして」

 

 リュウは静かに答えた。

 

「分かった。修行するにしても、一言伝えるようにする」

 

 春麗は、少しだけ目を伏せた。

 

 そういうことではない。

 いや、そういうことでもある。

 

 来ないなら来ないと言ってほしかった。

 修行するなら修行すると聞きたかった。

 次に来るつもりがあるのなら、それだけでも残してほしかった。

 

 勝ったのは自分なのに。

 待っていたのも自分で。

 来なかったことに傷ついたのも自分だった。

 

 春麗は、その面倒くささを自分で噛みしめる。

 

「……そうして」

 

 一拍。

 

「その方が、たぶん私も落ち着くから」

 

「ああ」

 

 リュウは頷いた。

 春麗は、残っていた饅頭を小さく割った。

 半分になったそれを見て、少しだけ迷う。

 今、渡す必要はない。

 リュウの昼食は足りている。

 これは自分の分だ。

 そう思って、口に入れる。

 

 けれど、明日は。

 明日は、少し多めに作ってきてもいいかもしれない。

 

 修行に付き合ってもらっているのだから。

 それに、恩の借りっぱなしは座りが悪い。

 それに、栄養管理は修行のために重要だ。

 

 春麗は、そういうことにした。

 


 

 午後。

 

 春麗は、修行場の中央へ戻った。

 身体は重い。

 午前の寸止めの記憶が、まだ膝に残っている。

 当たっていないのに、膝が落ちた。

 それを思い出すだけで、喉の奥が少し詰まる。

 

 リュウは春麗を見る。

 

「今日は、ここまででもいい。無理をすると、怖さが残る」

 

「もう残っているわ」

 

「なら、なおさらだ」

 

「でも」

 

 春麗は構えた。

 

「最後を、膝が落ちたままで終わらせたくないの」

 

 リュウは黙った。

 

「…なら、最後にもう一度だけ、組手して終える」

 

 リュウはそういうと構えた。

 

 二人は距離を取る。

 

 朝と同じ距離。

 

 波動拳の距離。

 跳び込めば、迎撃が間に合う距離。

 

 怖い。

 

 それは消えない。

 

 今日一日修行しただけで消えるはずがない。

 

 寸止めでも、膝は落ちた。

 当たらなくても、身体はあの敗北を思い出した。

 

 けれど、春麗はそれも分かっている。

 

 怖いままでも、呼吸はできる。

 怖いままでも、一歩は動ける。

 膝が落ちても、自分で立ち上がることはできる。

 

 そして、止まっても、構えを下ろさずにいられるかもしれない。

 

 それを見たい。

 

「行くぞ」

 

「ええ」

 

「波動拳!」

 

 気弾が放たれる。

 

 春麗は、息を止めなかった。

 膝を沈める。

 横へ逃げるだけではなく、少しだけ前へ残る。

 足が床から離れた。

 

 ほんのわずか。

 

 跳んだというには低い。

 波動拳を越えたと言うには足りない。

 実戦なら、まだ駄目。

 だが、足は床から離れた。

 

 その瞬間、リュウの身体が沈む。

 昇龍拳の気配。

 春麗の身体が固まりかけた。

 

 視界の奥に、あの空の記憶が戻る。

 

 撃ち落とされた空。

 逃げ場のない空。

 受け身も取れないまま落ちた空。

 

 怖い。

 

 足が重くなる。

 膝が震える。

 呼吸が詰まりかける。

 

 それでも、春麗は構えを下ろさなかった。

 

 拳を胸元に戻さなかった。

 視線を逸らさなかった。

 足が着地した後も、リュウへ身体を向けたまま残った。

 

 リュウの拳は、春麗の手前で止まっていた。

 寸止め。

 当たっていない。

 春麗は肩で息をする。

 

「……今の」

 

「ああ」

 

「跳べたとは、言えないわね」

 

「ああ」

 

「でも」

 

 一拍。

 

「構えは、下ろさなかった」

 

 リュウは静かに頷いた。

 

「ああ」

 

「止まったけど」

 

 一拍。

 

「全部は、止まらなかった」

 

「ああ」

 

 その言葉が、胸に落ちた。

 春麗は、目を閉じかけて、すぐ開いた。

 泣く場面ではない。

 けれど、少しだけ目が熱かった。

 

「今日はここまでね」

 

「ああ」

 

「明日も……来られる?」

 

「ああ」

 

「朝から?」

 

「朝から」

 

「夜暗くなる前には終わり」

 

「ああ」

 

「宿に戻るのね」

 

「ああ」

 

「なら」

 

 一拍。

 

「明日も、修行に付き合って」

 

 リュウは頷いた。

 

「分かった」

 

 春麗は、少しだけ笑った。

 

「いつか、あなたの昇龍拳を見ても止まらなくなるわ」

 

「ああ」

 

「いつか、あなたの波動拳を越える」

 

「ああ」

 

「いつか、あなたにまた勝つ」

 

「待っている」

 

「……待っていなさい」

 

 言ってから、春麗は少しだけ困ったように笑った。

 

「でも、あまり強くなりすぎないで」

 

 リュウは少し考えた。

 

「それは難しい」

 

「でしょうね」

 

 春麗は、呆れたように笑った。

 

「なら、私も戻るしかないじゃない」

 

「ああ」

 

 夕方の修行場に、風が通った。

 

 空はまだ遠い。

 昇龍拳はまだ怖い。

 波動拳の向こうにある拳を、身体はまだ覚えている。

 

 それでも、今日、春麗は知った。

 

 自分はどこで止まるのか。

 当たっていなくても、身体はどこで膝を落とすのか。

 そして、止まっても、すべてを下ろさずに残せるものがあることを。

 

 それは勝利ではない。

 再戦でもない。

 克服でもない。

 けれど、春麗にとっては確かな一日だった。

 

 帰り支度をしながら、春麗は空になった自分の包みを見る。

 明日は少し多めに作ってもいい。

 そう思った。

 

 礼ではない。

 まだ、そんなふうに素直には言えない。

 ただ、朝から夕方まで修行するなら、昼は必要だ。

 

 リュウも食べる。

 なら、ついでに。

 ついでに、少しだけ。

 

 春麗は、誰に言うでもなく小さく息を吐いた。

 

「……修行のためよ」

 

 自分に言い訳する声は、夕方の風に紛れた。

 


 

 記録板AIは、そこで検証ログを停止した。

 

『検証ログ終了』

 

『保存名』

『春麗は、リュウと空を取り戻す修行をする』

 

『保存先』

『ディレクターズカットIF外部検証領域』

 

『以上、保存完了』




Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?

A:

今回のエピソードは、リュウとの修行初日です。

前回、春麗はようやく自分が止まっていることをリュウの前で認めました。

リュウの昇龍拳が怖い。
波動拳の後に跳べない。
昇龍拳の気配だけで身体が止まる。
そして、そのトラウマを刻んだ本人に、克服のための修行へ付き合ってもらうことになった。

今回は、その翌日です。

春麗はいつもの武道服ではなく、修行用の服を選んでいます。

いつもの武道服は、リュウに勝つための服。
試合場で正面から向き合うための服。

けれど、今日は試合ではありません。

まずは止まらないための修行。
勝つ前に、もう一度動けるようになるための一日です。

この服装の違いは、春麗自身の心構えの違いでもあります。

リュウに勝ちに行くのではなく、リュウの拳の前で止まらないようにする。
そのために、春麗は「試合」ではなく「修行」としてこの場に来ています。

そして、リュウは本当に来ました。

しかも近くに宿まで取っている。

春麗としては、自分から修行に付き合ってほしいと言った以上、来てもらわないと困る。
でも、本当に宿まで取って来られると、それはそれで受け止め方に困る。

このあたりの「来てほしいけど、来られたら来られたで困る」が春麗です。

リュウの「修行に付き合うと言った」というシンプルな返答も、春麗には刺さります。

リュウは特別なことをしているつもりがない。
約束したから来た。
必要なら通う。
それだけです。

でも春麗にとっては、それがありがたくて、悔しくて、困る。

この修行編では、リュウの真っ直ぐさが春麗の面倒くささを余計に浮かび上がらせています。

修行は実戦形式で行っています。
春麗は、単に波動拳が怖いわけではありません。

波動拳そのものではなく、その向こうにある昇龍拳を見てしまっている。
波動拳を越えようとした瞬間に、また撃ち落とされるのではないかと思ってしまう。

だから、波動拳だけを切り離して練習しても意味がない。

春麗自身がそう判断し、リュウの拳の流れの中で、自分がどこで止まるのかを見ようとします。
リュウを相手にして、自分の止まった身体を戻しに来ています。

もちろん、リュウには寸止めしてもらいます。
今、本当に昇龍拳を当てられたら、春麗は壊れてしまうかもしれない。

でも、怖さが偽物なら意味がない。

だから、リュウは波動拳を撃つ。
迎撃の気配も作る。
昇龍拳の軌道にも入る。
ただし、最後だけ当てない。

これは甘やかしではなく、安全装置です。

今回の春麗は、その安全装置がある状態で、実戦の流れにもう一度入っています。

そして、結果として、春麗は止まります。

波動拳を避けた後、リュウが迎撃に入ろうとするだけで止まる。
昇龍拳の軌道に入られると、寸止めでも膝が落ちる。

当たっていないのに、膝が落ちる。

ここはかなり重要です。

春麗の恐怖は、気分の問題ではありません。
試合勘が鈍っているだけでもありません。
身体が、あの敗北を覚えてしまっている。

空中で撃ち落とされたこと。
受け身を取れなかったこと。
竜巻旋風脚までつながれて完全に倒されたこと。

その記憶が、リュウの拳の流れに反応している。

だからこそ、克服には時間がかかります。

ただし、今回の春麗は、膝が落ちて終わりではありません。

リュウに支えられず、自分で立ちます。

ここも大事です。

支えられたら、あの時と同じになってしまう。
倒れた自分をリュウに受け止められた記憶に戻ってしまう。

だから、春麗は「来ないで」と言う。

これは拒絶ではなく、自分で戻るための線引きです。

リュウも、そこで踏み込まない。

慰めない。
大丈夫だとも言わない。
ただ見ている。

この距離感が、今回のリュウの役割です。

リュウは優しいですが、春麗を守りすぎない。
春麗が自分で立つ場所を残している。

昼食の場面では、少し空気を変えています。

リュウは近くに宿を取っていて、宿の人に昼食を用意してもらっている。
春麗は自分の分だけ用意してきている。

ここで春麗が「明日は少し多めに作ってきてもいいかもしれない」と思い始めます。

ただし、素直な礼ではありません。

修行に付き合ってもらっている恩がある。
借りっぱなしは座りが悪い。
修行には栄養管理が必要。

だから、修行のため。

そう自分に言い訳しています。

この「修行のためよ」は、春麗にとってかなり便利な言葉です。

本当は少し世話を焼きたい。
でも、素直にそうは言えない。
だから全部「修行のため」にする。

ここから昼食を用意する流れにつながっていきます。

昼食中の会話では、二週間来なかったリュウへの気持ちも出しています。

春麗は、勝った側なのにリュウを待っていました。

今日来るかもしれない。
明日来るかもしれない。
そう思いながら待っていた。

勝ったのは春麗なのに、敗者のリュウを春麗が待っていた。

この矛盾も春麗らしい部分です。

リュウは修行していた。
それは分かっている。
でも、待っていたことは変わらない。

戻ってきたリュウが強くなっていたことは嬉しかった。
でも、同じくらい悔しかった。

この「嬉しい」と「悔しい」が同時にあるのが、春麗の感情の厄介なところです。

また、最初の試合でリュウの拳が鈍ったことにも触れています。

リュウが春麗を格闘家としてだけではなく、女としても見て、一瞬迷った。
それなのに春麗は負けた。

格闘家としても悔しい。
女として見られたことも残っている。
でも、それで勝てなかったことがさらに悔しい。

このあたりは、春麗の中にずっと残っていた傷です。

リュウがそれを「俺の未熟だった」と認めたことで、春麗は少しだけ聞けてよかったと思っています。

ただし、悔しさは消えません。
消えないまま、修行は進みます。

午後の最後では、春麗はもう一度だけ組手を望みます。

理由は、最後を膝で終わらせたくないからです。

ここで春麗は、波動拳を完全に越えたわけではありません。
昇龍拳を克服したわけでもありません。
低く跳べたと言えるかどうかも怪しい。

でも、止まっても構えを下ろしませんでした。

今回の成果は、そこです。

勝ったわけではない。
克服したわけではない。
でも、全部は止まらなかった。

春麗は、実戦の流れの中で、自分がどこで止まるのかを知りました。
そして、止まっても、構えを残せることを知りました。

修行初日としては、これで十分です。

今回のエピソードは、派手な成功回ではありません。

むしろ、春麗が自分の止まる場所を突きつけられる回です。

でも、それは後退ではありません。

止まる場所が分からなければ、戻すこともできない。
膝が落ちることを認めなければ、立ち直ることもできない。
怖さを偽物にしてしまえば、本当の意味でリュウの拳の前には戻れない。

だから今回、春麗はまず、自分がどこで止まるのかを見ました。

そして、止まっても、構えを下ろさなかった。

それが、修行初日の成果です。

春麗はまだ、リュウの波動拳を越えられません。
昇龍拳の気配も怖いままです。
空はまだ遠いです。

けれど、撃ち落とされた拳の前で、もう一度立ちました。

この修行編は、そこから始まります。
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