また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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※これはディレクターズカットIFです。
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。


ディレクターズカットIF:春麗は、拳の行き先を思い出して跳ぶ

 記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。

 

『本記録は、ディレクターズカットIFです』

 

『本編確定ログではありません』

『本ログは、第1話敗北ルート後続検証です』

 

『以下、検証ログを開始します』

 


 

 三日目の朝。

 

 春麗は、迷わず稽古着に袖を通した。

 

 いつもの武道服ではない。

 試合のための服ではない。

 勝つために立つ服ではない。

 

 けれど、逃げるための服でもなかった。

 

 動くための服。

 止まった身体を戻すための服。

 リュウの拳の前で、もう一度踏み込むための服。

 

 春麗は袖口を整え、鏡の前で一度だけ拳を握った。

 

「……今日は、もう少し進むわ」

 

 誰に言うでもない。

 

 けれど、その言葉を口にすると、少しだけ身体の芯が落ち着いた。

 

 朝食を済ませる。

 

 味は、いつもより少し薄く感じた。

 緊張しているのかもしれない。

 昨日より進んだからこそ、今日崩れるのが怖いのかもしれない。

 

 春麗は、それを認めないことにした。

 

 認めない。

 ただし、無視もしない。

 

 怖いなら、怖いまま動く。

 止まるなら、止まる場所を見る。

 昨日より一手でも前に出す。

 

 それだけだ。

 

 春麗は、昨日より手際よく昼食を用意した。

 

 自分の分。

 

 そして、リュウの分。

 

 もう一人分ではない。

 少し多め。

 

 ただし、昨日よりも迷いは少なかった。

 

 饅頭を少し増やす。

 肉は少し薄めに切る。

 青菜は水気を切る。

 卵は冷めても固くなりすぎないようにする。

 

 修行の途中で食べるもの。

 身体を重くしないもの。

 午後も動けるもの。

 

 そう考えているうちは、春麗も比較的落ち着いていられた。

 

 包みを結ぶ時だけ、少し手が止まる。

 

 リュウが昨日、うまいと言った。

 

 今日も言うだろうか。

 

 いや。

 

 言わなくていい。

 言わなくていいが、まずいと言われるのは困る。

 

 困る理由は、修行の効率に関わるからだ。

 

「……修行の効率」

 

 春麗は小さく繰り返した。

 

 便利な言葉だった。

 

 ただし、自分でも便利すぎると思った。

 


 

 修行場に着くと、リュウはいた。

 

 昨日と同じ場所。

 昨日と同じように、静かに立っている。

 

 それを見て、春麗の足は止まらなかった。

 

 胸の奥は少しだけ揺れた。

 でも、足は止まらない。

 

 昨日よりはましだ。

 

 春麗はリュウの前まで歩く。

 

「今日も早いのね」

 

「ああ」

 

「私を待っていた?」

 

「ああ」

 

「即答しないで」

 

「事実だ」

 

「事実なら何を言ってもいいわけではないわ」

 

「そうか」

 

 リュウはいつも通りだった。

 春麗は小さく息を吐く。

 昨日より、そのやり取りに慣れてしまっている自分がいる。

 それも少し腹立たしい。

 

「始めましょう」

 

「ああ」

 

 春麗は包みを修行場の端に置き、中央へ戻った。

 そして、リュウと向き合う。

 今日は、春麗から言った。

 

「午前は、波動拳から始めないわ」

 

 リュウの目が少しだけ動いた。

 

「いいのか」

 

「ええ」

 

「昨日は、波動拳の向こうで動く修行だった」

 

「分かっているわ」

 

「今日は?」

 

「跳び込みが成功した後をやる」

 

 一拍。

 

「近距離戦」

 

 リュウは黙って春麗を見る。

 春麗は続けた。

 

「昨日、私はあなたの拳の前で返そうとした」

 

「ああ」

 

「届かなかった」

 

「ああ」

 

「でも、返そうとはした」

 

「ああ」

 

「なら今日は、届いた後をやる」

 

 リュウは少しだけ目を細めた。

 

「近くで崩れるかもしれない」

 

「知っている」

 

「昇龍拳の気配も近くなる」

 

「知っているわ」

 

「怖さも強い」

 

「もう強いわよ」

 

 春麗は、リュウを見る。

 

「でも、波動拳を越えた後に止まるなら、そこも戻さないと意味がないでしょう」

 

 リュウは頷いた。

 

「分かった」

 

「ただし、寸止め」

 

「ああ」

 

「当てないで」

 

「わかった」

 

「投げ抜けもしていいわ」

 

「ああ」

 

「反撃もしていい」

 

「ああ」

 

「でも、最後だけ止める」

 

「分かった」

 

 短いやり取り。

 それで十分だった。

 

 春麗は構えた。

 リュウも構える。

 

 距離は近い。

 波動拳の距離ではない。

 すでに届く距離。

 一歩踏み込めば、拳も足も入る距離。

 

 春麗の喉が、少しだけ狭くなる。

 

 この距離では、逃げ道が少ない。

 波動拳を跳ぶよりも、リュウの身体が近い。

 拳が近い。

 呼吸が近い。

 

 怖い。

 

 だが、春麗はその言葉を飲み込んだ。

 

 怖いなら、動く。

 

「行くわ」

 

「ああ」

 

 春麗が先に踏み込んだ。

 

 追突拳。

 

 短く、鋭く。

 リュウの胸元へ突き込む。

 

 リュウは腕で受けた。

 

 硬い。

 

 だが、止まらない。

 

 春麗はすぐに足を返す。

 

 中段蹴。

 

 リュウの脇腹へ向かう蹴りを、リュウは肘で受ける。

 衝撃が足に返る。

 

 春麗はその反動を使って、さらに近づいた。

 

 投げる。

 

 腰を入れる。

 腕を取る。

 リュウの重心を外す。

 

 入った。

 そう思った瞬間、リュウの足が残った。

 

 投げ抜け。

 

 春麗の腕の中から、リュウの重心が消える。

 

「っ」

 

 抜けられた。

 

 その理解より早く、リュウの身体が沈んだ。

 近い。

 近距離での昇龍拳。

 

 春麗の視界が、一瞬で白くなる。

 

 下から来る拳。

 撃ち落とされた空。

 身体が持ち上げられる感覚。

 受け身を取れなかった記憶。

 

 来る。

 

 分かっている。

 寸止めだ。

 リュウは止める。

 

 それでも、身体は先に思い出した。

 

 リュウの拳は、春麗の顎の手前で止まっていた。

 

 当たっていない。

 

 当たっていないのに。

 

 春麗の膝から力が抜けた。

 

「……っ」

 

 倒れる。

 

 そう思った時には、身体が前に崩れていた。

 

 リュウが手を伸ばす。

 

 春麗は、その手を見た。

 

 昨日までなら、取らなかったかもしれない。

 

 支えられたら負けたような気がする。

 あの時と同じになる。

 倒れた自分を、リュウに拾われる。

 

 そう思ったかもしれない。

 

 けれど、今日の春麗はその手を見たまま、歯を食いしばった。

 

 これは試合ではない。

 修行だ。

 

 倒れないために来た。

 立ち上がるために来た。

 なら、手を借りてでも立って、次に動けばいい。

 

 春麗は、リュウの手を取った。

 

 悔しい。

 

 指が触れた瞬間、胸の奥が熱くなる。

 

 悔しい。

 

 でも、少しだけ嬉しい。

 

 その嬉しさが、さらに悔しい。

 

 リュウの手は強かった。

 必要以上に引っ張らない。

 春麗の体重を奪わない。

 ただ、立ち上がるための支点だけをくれる。

 

 春麗は、その支点を使って立った。

 

 自分の足で。

 

 リュウの手を借りて。

 

 その二つが同時にあることが、春麗にはひどく面倒だった。

 

「……投げ抜けから小さく昇龍拳なんて」

 

 春麗は息を整えながら言った。

 

「悪くない流れだった」

 

「褒めていないわ」

 

「春麗の投げも入っていた」

 

「抜けたでしょう」

 

「ぎりぎりだった」

 

 春麗は目を細めた。

 

「そういうことを言うから、もう一度やりたくなるのよ」

 

「ああ」

 

「分かっているの?」

 

「分かっている」

 

「なら、もう一度」

 

「ああ」

 

 午前の組手は、そこから何度も続いた。

 

 追突拳。

 中段蹴。

 投げ。

 投げ抜け。

 小昇龍拳の寸止め。

 

 春麗は何度も止まった。

 何度も呼吸を詰まらせた。

 何度か膝が落ちかけた。

 

 けれど、一度目のようには崩れなかった。

 

 手を取ったことが、少しだけ残っている。

 

 あれは負けではない。

 完全な支えでもない。

 立つための支点。

 

 そう思うことにした。

 

 思うことにしただけで、顔が少し熱くなった。

 

 春麗は、その熱を攻撃に変えた。

 

 追突拳を出す。

 リュウが受ける。

 中段蹴を返す。

 リュウが捌く。

 投げに入る。

 抜けられる。

 昇龍拳の寸止め。

 

 近い。

 

 怖い。

 

 でも、だんだん見えてくる。

 

 リュウの足が沈む瞬間。

 肩が上がる前の呼吸。

 拳が来る前の腰の入り。

 

 昇龍拳は怖い。

 

 だが、怖いだけではない。

 見えるものがある。

 

 午前の終わり頃、春麗は投げに入る直前で一度だけ動きを止めた。

 

 リュウが反応する。

 

 投げ抜けの準備。

 

 その瞬間、春麗は投げずに中段蹴へ切り替えた。

 

 リュウの腕に当たる。

 深くはない。

 崩せてもいない。

 

 だが、リュウの呼吸が一瞬だけ変わった。

 

 春麗はそれを見た。

 

「……今の」

 

「ああ」

 

「反応したわね」

 

「ああ」

 

「投げだと思った?」

 

「思った」

 

 春麗は小さく笑った。

 

「少しだけ、見えたわ」

 

「ああ」

 

「でも、まだあなたの昇龍拳は怖い」

 

「ああ」

 

「そこは否定しないのね」

 

「否定することではない」

 

 春麗は少しだけ息を吐く。

 

「本当に、あなたは」

 

 一拍。

 

「面倒ね」

 

 リュウは首を傾げた。

 

「俺がか」

 

「ええ」

 

 春麗は言い切った。

 

 自分のことではない。

 

 たぶん。

 


 

 昼になった。

 

 二人は、昨日と同じように修行場の端に座った。

 

 近すぎない。

 遠すぎない。

 

 ただ、三日目になると、その距離は昨日よりさらに自然だった。

 

 春麗は包みを開く。

 

 自分の分。

 そして、リュウの分。

 リュウは宿の包みを出そうとしていたが、春麗が先に差し出した。

 

「今日は、最初からあなたの分もあるわ」

 

 言ってから、少しだけ顔が熱くなる。

 

 最初から。

 

 言い方が、少しまずかった気がした。

 だが、言ってしまったものは仕方ない。

 

「受け取って」

 

「ありがとう」

 

「これはお礼ではないわ」

 

「ああ」

 

「修行のためよ」

 

「ああ」

 

「午後も動くでしょう」

 

「ああ」

 

「そのための栄養管理よ」

 

「ああ」

 

「分かっているなら、そんなに頷かなくていいわ」

 

「分かった」

 

 リュウは包みを受け取った。

 

 昨日と同じように丁寧に開く。

 そして、食べる。

 

 一口目。

 

 春麗は見ないふりをする。

 

 だが、見ている。

 

 リュウは静かに頷いた。

 

「うまいな」

 

 春麗は箸を持つ手を止めかけた。

 

 だが、今日は止めない。

 

「そう」

 

「ああ」

 

「昨日と比べて?」

 

「今日もうまい」

 

「比較になっていないわ」

 

「昨日もうまかった」

 

「だから、比較を」

 

「どちらもうまい」

 

 春麗は小さく息を吐いた。

 

「……あなたに細かい感想を求めた私が間違いだったわ」

 

「すまない」

 

「謝ることではないわ」

 

 そう言いながらも、春麗は少しだけ口元を緩めた。

 

 うまい。

 

 今日も言った。

 

 それだけで、朝の手間が無駄ではなかったと思えてしまう。

 

 春麗は自分の分を食べる。

 

 しばらく、二人は黙っていた。

 

 沈黙は、昨日ほど気まずくない。

 

 食べる音。

 風の音。

 遠くの鳥の声。

 

 それだけがある。

 

 その時、リュウが口を開いた。

 

「春麗」

 

「何?」

 

「昨日、捜査官だと言っていた」

 

「ええ」

 

「なぜ、格闘家をしているんだ?」

 

 春麗は箸を止めた。

 リュウは続ける。

 

「戦う理由があるのか?」

 

 春麗は、少しだけ視線を落とした。

 

 来た。

 

 そう思った。

 

 二日目に仕事の話をした。

 だから、いずれ聞かれるとは思っていた。

 

 ただ、リュウは回りくどく聞かない。

 

 まっすぐ聞く。

 

 なぜ格闘家をしているのか。

 戦う理由があるのか。

 

 春麗は、少しだけ息を吐いた。

 

「仕事だからよ」

 

 まず、そう答えた。

 

 嘘ではない。

 

 捜査官として必要だった。

 格闘大会に出る理由もあった。

 情報を得るため。

 相手に近づくため。

 強い者が集まる場所には、目的の組織に繋がるものもある。

 

 だが、それだけではない。

 

 リュウは何も言わず、春麗を見ている。

 

 急かさない。

 追及もしない。

 

 ただ、聞いている。

 

 春麗は、もう一度箸を置いた。

 

「詳しく話すつもりはないわ」

 

「ああ」

 

「話せないこともある」

 

「ああ」

 

「でも」

 

 一拍。

 

「私は、捕まえなければならない相手がいる」

 

 リュウの目が少しだけ変わった。

 

 春麗は続ける。

 

「追っている組織があるの」

 

 一拍。

 

「その組織のせいで、私の父は……」

 

 そこまで言って、止めた。

 

 全部を話すつもりはない。

 

 今ここで、重くしすぎる必要もない。

 

 これは昼食の時間だ。

 修行の途中だ。

 過去を全部広げる場所ではない。

 

 春麗は静かに言い直す。

 

「父のことも、関係しているわ」

 

 それだけで十分だった。

 リュウは、黙って聞いている。

 

「だから私は、強くなった」

 

 一拍。

 

「捕まえなければならない相手を捕まえるために」

 

 一拍。

 

「情報を得るために、格闘大会にも出た」

 

 一拍。

 

「私は、ただ強い相手と戦いたくて大会にいたわけではないの」

 

 リュウは、春麗の言葉を受け止めるように少しだけ頷いた。

 

「そうか」

 

「軽く聞こえるわね」

 

「軽くは聞いていない」

 

 春麗は、リュウを見る。

 

 リュウの顔は、いつも通り静かだった。

 だが、軽く扱っている顔ではなかった。

 

 リュウは言った。

 

「なら、春麗の拳には行き先があるんだな」

 

 春麗は、少しだけ目を見開いた。

 

 行き先。

 

 その言葉は、思っていたより深く刺さった。

 

 目的。

 任務。

 捜査。

 組織。

 父。

 

 それらを、リュウはまとめてそう言った。

 

 春麗の拳には、行き先がある。

 

 春麗は、少しだけ視線を落とす。

 

「……そうね」

 

 一拍。

 

「あるわ」

 

 自分で答えて、胸の奥が少し締まった。

 

 自分の拳は、ただ振っているものではない。

 

 届かせたい場所がある。

 捕まえたい相手がいる。

 越えなければならないものがある。

 戻らなければならない理由がある。

 

 リュウは、強さを求めて旅をしている。

 

 春麗は、捕まえなければならない相手がいるから戦っている。

 

 違う。

 

 だが、どちらも拳を止めない理由だった。

 

「リュウ」

 

「ああ」

 

「あなたは、何のために戦っているの?」

 

 リュウは少しだけ考えた。

 

「まだ、探している」

 

「答えを?」

 

「ああ」

 

「強さの?」

 

「ああ」

 

 春麗は、小さく息を吐いた。

 

「そう」

 

 一拍。

 

「あなたらしいわね」

 

「そうか」

 

「ええ」

 

 春麗は再び箸を取る。

 

 それ以上は聞かなかった。

 

 今日は、そこまででいい。

 

 自分も全部は話していない。

 リュウも全部を言葉にしたわけではない。

 

 それでも、少しだけ分かった。

 

 春麗の拳には、行き先がある。

 リュウの拳は、答えを探している。

 

 同じではない。

 

 でも、向き合える。

 

 春麗は、残りの昼食を食べた。

 

 味は、悪くなかった。

 


 

 午後。

 

 春麗は、修行場の中央へ戻った。

 

 午前と同じ近距離ではない。

 

 少し離れる。

 

 波動拳が撃てる間合い。

 跳び込めば、リュウの迎撃が間に合う間合い。

 

 そこに立った瞬間、胸の奥がわずかに冷えた。

 

 だが、春麗は足を止めなかった。

 

「午後は、この距離からやるわ」

 

 リュウは頷く。

 

「波動拳からか」

 

「ええ」

 

「いいのか」

 

「ええ」

 

 一拍。

 

「午前は近くで止まった」

 

「ああ」

 

「なら、午後は入るところからやる」

 

 リュウは春麗を見る。

 

「怖さは残っている」

 

「残っているわ」

 

「それでもか」

 

「それでもよ」

 

 春麗は構えた。

 

 昼の言葉が、胸の中にある。

 

 春麗の拳には行き先がある。

 

 リュウは、そう言った。

 

 その言葉は、春麗の中で妙に重かった。

 

 そうだ。

 

 自分の拳には行き先がある。

 

 ただリュウに勝つためだけではない。

 ただ怖さを消すためだけでもない。

 捕まえなければならない相手がいる。

 届かせたい場所がある。

 止まっている場合ではない理由がある。

 

 なら。

 

 波動拳の向こうで止まっているわけにはいかない。

 

「行くぞ」

 

「ええ」

 

 リュウの掌に気が集まる。

 

 青い光。

 

 春麗の胸が固くなる。

 

 波動拳。

 

 その向こうにある昇龍拳。

 

 撃ち落とされた空。

 

 全部が見える。

 

 それでも、春麗はリュウを見た。

 

 波動拳だけではない。

 その後ろにいるリュウを見る。

 

 そして、そのさらに先を見る。

 

 自分の拳の行き先を。

 

「波動拳!」

 

 気弾が放たれた。

 

 春麗は跳んだ。

 

 低くない。

 

 昨日より高く。

 逃げるためではなく、入るために。

 

 波動拳が足の下を抜ける。

 

 空中。

 

 一瞬、身体がこわばる。

 

 ここだ。

 

 この空で、自分は撃ち落とされた。

 この高さで、昇龍拳が来た。

 この先で、身体が止まる。

 

 だが、今日は違った。

 

 リュウは昇龍拳に入らない。

 

 代わりに構える。

 

 受ける構え。

 

 春麗は、その判断を見た。

 

 来ない。

 

 昇龍拳は来ない。

 

 なら、行く。

 

 春麗は空中で身体を折り、腕を鋭く落とした。

 

 鶴嘴拳。

 

 リュウのガードへ叩き込む。

 

 重い感触が腕に返る。

 

 当たった。

 

 防がれた。

 

 だが、入った。

 

 春麗は着地と同時に間合いを詰める。

 

 近距離戦。

 

 午前と同じ距離。

 けれど、午前とは入り方が違う。

 

 波動拳を越えた。

 自分から入った。

 リュウの昇龍拳を待って固まったのではない。

 

 春麗は低蹴打を放つ。

 

 リュウの足元を狙う。

 牽制。

 崩しというには浅いが、リュウの踏み込みを止める。

 

 リュウが半歩引いた。

 

 間が開く。

 

 春麗はその間を見逃さなかった。

 

 開脚突拳。

 

 低い姿勢から、身体を伸ばすように突き込む。

 リュウのガードが動く。

 

 その瞬間、春麗は腕を取った。

 

 投げる。

 

 午前、抜けられた流れ。

 午前、そこから小昇龍拳を寸止めされた流れ。

 

 身体が思い出しそうになる。

 

 抜けられる。

 沈まれる。

 昇龍拳が来る。

 

 だが、春麗は止まらなかった。

 

 腰を入れる。

 足を残す。

 腕を引く。

 

 リュウの重心が崩れた。

 

「っ」

 

 リュウの身体が宙を流れる。

 

 投げた。

 

 春麗が投げた。

 

 リュウは地面に受け身を取る。

 すぐに転がり、立ち上がる。

 

 春麗は構えたまま、息を荒くしていた。

 

 勝ったわけではない。

 決着ではない。

 リュウに大きなダメージを与えたわけでもない。

 

 だが、投げた。

 

 午前、抜けられた投げを。

 小昇龍拳の寸止めで身体が崩れた流れを。

 午後、波動拳を越えた後の近距離戦で、最後まで通した。

 

 リュウが立ち上がる。

 

 静かな目で春麗を見る。

 

「今のはよかった」

 

 春麗の胸が、大きく揺れた。

 

「……そう」

 

「ああ」

 

「投げられたのに?」

 

「ああ」

 

「悔しくないの?」

 

「悔しい」

 

「なら、そんな顔で褒めないで」

 

「よかったものは、よかった」

 

 春麗は視線を逸らした。

 

 嬉しい。

 

 悔しい。

 

 まただ。

 

 また、同時に来る。

 

 リュウを投げた。

 褒められた。

 悔しがられた。

 その全部が、胸に残る。

 

「もう一度」

 

 春麗が言った。

 

「ああ」

 

 リュウは構える。

 

 それから、二人は何度も組手を繰り返した。

 

 波動拳。

 跳躍。

 鶴嘴拳。

 ガード。

 近距離。

 低蹴打。

 開脚突拳。

 投げ。

 

 毎回うまくいくわけではなかった。

 

 二度目は、波動拳を越えた後にリュウの踏み込みで止まった。

 三度目は、鶴嘴拳を外されて着地を狙われた。

 四度目は、低蹴打を読まれて間合いを潰された。

 五度目は、投げに入る前に腕を取られかけた。

 

 それでも、春麗は崩れなかった。

 

 膝は震えた。

 呼吸も乱れた。

 昇龍拳の気配が近づくたびに、身体の奥はまだ冷えた。

 

 だが、午前のように倒れ込まなかった。

 

 昼の言葉が残っていた。

 

 春麗の拳には行き先がある。

 

 その言葉が、足を一歩だけ前に残す。

 

 リュウの拳は怖い。

 怖いままでいい。

 

 それでも、春麗の拳には行き先がある。

 

 なら、戻る。

 向き直る。

 もう一度入る。

 

 やがて、夕方になった。

 

 春麗は肩で息をしながら、両手を膝に置いた。

 

「……今日は、ここまで」

 

 リュウも息を整えながら頷く。

 

「ああ」

 

「まだ、安定していないわ」

 

「ああ」

 

「一度投げただけ」

 

「ああ」

 

「その後は何度も止まった」

 

「ああ」

 

「でも」

 

 一拍。

 

 春麗は顔を上げる。

 

「手応えはあった」

 

 リュウは静かに頷いた。

 

「ああ」

 

「あなたもそう思う?」

 

「ああ」

 

「本当に?」

 

「春麗は、波動拳の向こうに来た」

 

 一拍。

 

「近距離で返した」

 

 一拍。

 

「投げまで通した」

 

 春麗は唇を結んだ。

 

 言葉にされると、胸の奥が熱くなる。

 

「……まだ途中よ」

 

「ああ」

 

「克服したわけじゃない」

 

「ああ」

 

「あなたの昇龍拳は、まだ怖い」

 

「ああ」

 

「でも」

 

 一拍。

 

「今日は、少し戻った」

 

「ああ」

 

 リュウのその短い肯定が、春麗には少しだけ重かった。

 

 軽くない。

 慰めでもない。

 ただ見たままの言葉。

 

 だから、受け取ってしまう。

 

 春麗は包みを手に取った。

 

 朝、用意した包みは空になっている。

 

 リュウも最後まで食べた。

 うまいと言った。

 午後、春麗は波動拳を越えた。

 リュウを投げた。

 

 因果関係はない。

 

 ないはずだ。

 

 けれど、春麗は小さく息を吐く。

 

「明日も」

 

「ああ」

 

「少し多めに作るかもしれないわ」

 

 リュウは春麗を見る。

 

「いいのか」

 

「かもしれない、と言ったでしょう」

 

「ああ」

 

「借りを返すため」

 

「ああ」

 

「修行のため」

 

「ああ」

 

「栄養管理」

 

「ああ」

 

「午後も動くため」

 

「ああ」

 

「そして」

 

 一拍。

 

 春麗は、リュウを見た。

 

「この組手を続けるため」

 

 リュウは静かに頷いた。

 

「ああ」

 

「ありがとうは禁止」

 

「難しい」

 

「禁止」

 

「……分かった」

 

 春麗は、少しだけ満足しそうになって、すぐに表情を戻した。

 

 満足してどうする。

 

 まだ届いていない。

 まだ怖い。

 まだリュウには勝てない。

 

 でも、今日は投げた。

 

 波動拳を越えた。

 鶴嘴拳をガードさせた。

 低蹴打で間を作った。

 開脚突拳から投げを通した。

 

 春麗の拳には行き先がある。

 

 そして、その行き先へ向かう途中に、今はリュウがいる。

 

 春麗は歩き出す。

 

「リュウ」

 

「ああ」

 

「明日も、同じ時間」

 

「ああ」

 

「遅れないで」

 

「分かった」

 

「待たせるのも禁止」

 

「ああ」

 

「待っていた、も禁止」

 

「それは難しい」

 

「難しくないわ」

 

 リュウは少しだけ考えた。

 

「では、先に来ている」

 

「それは結局、待っているでしょう」

 

「ああ」

 

「……もういいわ」

 

 春麗は小さく息を吐き、背を向けた。

 

 明日も来る。

 

 リュウは来る。

 自分も来る。

 

 昼食は、少し多めに作るかもしれない。

 

 借りを返すため。

 修行のため。

 栄養管理のため。

 午後も動くため。

 この組手を続けるため。

 

 そして。

 

 いつか、自分の拳を行き先へ届かせるため。

 

 春麗は、その最後の理由だけは口にしなかった。

 


 

 記録板AIは、そこで検証ログを停止した。

 

『検証ログ終了』

 

『保存名』

『春麗は、拳の行き先を思い出して跳ぶ』

 

『保存先』

『ディレクターズカットIF外部検証領域』

 

『以上、保存完了』

 




Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?

A:

今回は、修行三日目のエピソードになります。

前回までで、春麗はリュウの波動拳と昇龍拳の流れの中で、自分の身体が止まってしまうことを認めました。
そして二日目では、逃げるだけではなく、リュウに「返そうとする手」まで進みました。

今回のポイントは、その次です。

三日目の春麗は、ただ波動拳を越える修行だけではなく、あえて近距離戦から始めています。
跳び込んだ後、リュウの間合いに入った後、そこでも自分が止まるのか。
そこを確かめに行く回です。

その結果、午前中はしっかり崩れます。
追突拳、中段蹴、投げまでは入る。
でも、リュウに投げ抜けされて、小さな昇龍拳を寸止めされると身体が固まってしまう。
ここで春麗は、まだ克服できていないことを突きつけられます。

ただ、今回はそこでリュウの手を取るのが大事でした。
以前の春麗なら、悔しさだけでその手を拒んだかもしれません。
でも今回は、修行として、立ち上がるための支点として、その手を取る。
悔しい。
でも、嬉しさもある。
この「悔しいのに嬉しい」が、このルートの春麗らしさだと思っています。

昼食パートでは、春麗が三日目にして最初からリュウの分を用意しています。
本人はもちろん「修行のため」「栄養管理」「借りの返済」と言い張っていますが、もうかなり言い訳が便利になっています。
便利すぎるので、本人も少し分かっています。

そして今回の昼食会話の中心は、「春麗の拳には行き先がある」です。

春麗はただ強い相手と戦いたいから格闘家をしているわけではありません。
捜査官として、追っている組織があり、父のことがあり、捕まえなければならない相手がいる。
そのために戦っている。

一方で、リュウはまだ答えを探している。
春麗の拳には行き先があり、リュウの拳は答えを探している。
二人の戦う理由は同じではありません。
でも、同じではないからこそ、向き合える形にしました。

午後の組手では、その昼食会話が効いています。

春麗は波動拳を跳び越えます。
ただ怖さを消したから跳べたわけではありません。
自分の拳には行き先がある、と昼に言葉にされたから、怖いままでも前に行けた。
そして、跳び込みから鶴嘴拳をガードさせ、近距離戦に入り、低蹴打、開脚突拳、投げまで通します。

もちろん、これで完全克服ではありません。
リュウに勝ったわけでもありません。
その後の組手では何度も止まります。

でも、一度投げた。
波動拳を越えて、近距離戦に入り、投げまで通した。
リュウに「今のはよかった」と言わせた。

この一手が、今回の春麗にとっての大きな前進です。

今回のエピソードは、日常寄りの昼食回に見せつつ、実際には修行三日目の実戦適応回でもあります。
春麗がリュウのために昼食を用意すること。
リュウがそれを食べて「うまい」と言うこと。
春麗の拳には行き先があるとリュウが言うこと。
その言葉を受けて、午後の春麗が波動拳を越えること。

この全部が、最後の投げにつながっています。

春麗はまだ怖いままです。
昇龍拳はまだ身体に残っています。
でも、止まったままではなくなっている。

次に進むための一手を、ようやく自分の手で掴み始めた回でした。
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