また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。
『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本編確定ログではありません』
『本ログは、第1話敗北ルート後続検証です』
『以下、検証ログを開始します』
四日目の朝。
春麗は、昨日より少し早く目を覚ました。
身体は疲れている。
だが、重さだけではなかった。
昨日、春麗は波動拳を越えた。
鶴嘴拳をリュウにガードさせた。
近距離戦へ入り、低蹴打で牽制し、開脚突拳から投げまで通した。
勝ったわけではない。
克服したわけでもない。
その後の組手では何度も止まった。
それでも。
リュウを投げた。
今のはよかった。
リュウは、そう言った。
その言葉が、まだ胸に残っている。
春麗は布団の上で一度だけ息を吐き、起き上がった。
「……今日は、崩さない」
誰に言うでもなく、そう言う。
昨日通った一手を、偶然にしない。
波動拳を越えた後も、身体を残す。
リュウの迎撃の前で、止まりすぎない。
投げまで行けたなら、その先も見る。
春麗は稽古着に着替えた。
試合用の武道服ではない。
けれど、もうただの確認用でもない。
この服で、三日間リュウと向き合った。
止まった。
膝を落とした。
手を借りた。
返そうとした。
投げた。
少しずつ、この稽古着にも記憶が増えている。
春麗は袖を整え、台所に立った。
朝食を用意し、昼食の包みも作る。
自分の分。
リュウの分。
もう、そこで手は止まらなかった。
饅頭。
青菜。
卵。
味を少し濃くした肉。
午後も動ける量。
重くなりすぎない組み合わせ。
修行のため。
栄養管理。
借りの返済。
この組手を続けるため。
便利な言葉は、今日も便利だった。
ただ、昨日より少しだけ、言い訳の形をしなくても手が動く。
それが少しまずい気もした。
包みを結ぶ時、春麗は少しだけ目を伏せる。
今日も、リュウは食べるだろうか。
今日も、うまいと言うだろうか。
言わなくていい。
言わなくていいが。
言われなかったら、たぶん少し気になる。
「……修行の効率」
春麗は小さく言った。
便利すぎる言葉だった。
それでも、今日はそれでいいことにした。
修行場に着くと、リュウはいた。
昨日と同じ場所。
静かに立っている。
春麗は、その姿を見て少しだけ眉を寄せた。
「早いわね」
「ああ」
「待っていた、は禁止と言ったでしょう」
「言っていない」
「昨日、ほぼ言ったわ」
「ほぼ」
「細かいわね」
リュウは少しだけ首を傾げる。
春麗はため息をつき、包みを修行場の端へ置いた。
「今日も昼食はあるわ」
「ああ」
「最初からあなたの分もある」
「ああ」
「でも、ありがとうは禁止」
「難しい」
「開始前から難しいと言わないで」
「分かった」
いつもの調子。
それが、少しだけ身体を軽くする。
春麗は中央へ戻り、構えた。
「今日は、昨日の午後と同じ流れから始めるわ」
「波動拳からか」
「ええ」
「いいのか」
「昨日、投げまで通した」
「ああ」
「だから、今日はそれを一度だけの偶然にしない」
リュウの目が少しだけ細くなる。
「分かった」
「昇龍拳は?」
「必要なら気配は出す」
「当てない」
「ああ」
「受け止める必要もないように、私が崩れない」
そう言った時、春麗は自分の声が少し強くなったのを感じた。
昨日より前へ進んだからこそ、今日崩れたくない。
それが、少しだけ焦りになっている。
リュウは何も言わなかった。
ただ、構える。
春麗も構えた。
距離は、波動拳が撃てる間合い。
リュウの掌に、青い気が集まる。
春麗は見た。
怖さはある。
昇龍拳はまだ身体に残っている。
波動拳の向こうにある空も、まだ忘れていない。
けれど、昨日の言葉も残っている。
春麗の拳には行き先がある。
なら、今日も行く。
「波動拳!」
気弾が走る。
春麗は息を吐いた。
低く沈む。
床を蹴る。
波動拳を越える。
昨日より、少しだけ高い。
完全ではない。
美しい跳躍でもない。
だが、逃げるためだけの跳びではない。
入るための跳び。
春麗は空中で身体を折り、鶴嘴拳を落とす。
リュウは腕で受けた。
重い感触が返る。
着地。
すぐに低蹴打。
リュウの足元を止める。
半歩、間が開く。
春麗はそこへ開脚突拳を差し込む。
リュウのガードが動く。
昨日と同じ。
ここから。
春麗は腕を取りに行った。
投げ。
しかし、リュウは昨日より早く重心を残した。
抜けられる。
春麗は即座に足を戻す。
来る。
投げ抜けからの迎撃。
小さな昇龍拳の入り。
身体が固まりかける。
だが、今日は手が止まらなかった。
春麗は掌底を合わせに行く。
リュウの拳は上がり切らない。
寸止めの手前で止まる。
春麗の掌も、リュウの胸元には届かない。
だが、逃げてはいない。
春麗は荒い息を吐いた。
「……今のは」
「投げは抜けた」
「分かっているわ」
「その後、止まらなかった」
「完全にはね」
「ああ」
「でも、届いていない」
「ああ」
「あなたも褒めるか否定するか、どちらかにしなさいよ」
「どちらでもない」
「そういうところよ」
春麗は少しだけ口元を緩める。
悪くない。
昨日の投げを、そのまま再現できたわけではない。
けれど、投げを抜けられても全部は止まらなかった。
なら、続けられる。
「もう一度」
「ああ」
そこから何本も組手を重ねた。
波動拳。
跳躍。
鶴嘴拳。
低蹴打。
開脚突拳。
投げ。
投げ抜け。
迎撃。
毎回、同じにはならない。
春麗が跳びを浅くすることもある。
リュウがガードを変えることもある。
低蹴打を読まれて、間合いを潰されることもある。
投げに入る前に腕を取られかけることもある。
それでも、春麗は昨日より動けていた。
怖さは消えていない。
だが、怖さの中で、動ける部分が少し増えている。
それが分かるから、春麗は少しだけ前へ出すぎた。
次の一本。
リュウの波動拳。
春麗は跳んだ。
いつもより少し高い。
波動拳を越える。
越えた。
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
行ける。
そう思った。
だが、その感覚が早すぎた。
春麗の重心が、わずかに前へ流れる。
足先が予定より半拍遅れる。
着地の位置が浅い。
身体がリュウの間合いへ崩れて入る。
「っ」
しまった。
そう思った時には、もう遅かった。
リュウの身体が反応していた。
迎撃。
昇龍拳の入り。
下から来る拳。
春麗の身体が、一瞬で固まる。
あの日の空が戻りかけた。
跳び込んだ。
撃ち落とされた。
逃げ場がなかった。
地面に落ちた。
だが、リュウの拳は最後まで上がらなかった。
寸止めでもない。
それよりも前に、リュウの腕が軌道を変えた。
昇龍拳が当たりそうになる位置へ崩れて入った春麗を、リュウは受け止める形で引き込んだ。
春麗の身体が、リュウの腕の中に収まった。
一瞬、時間が止まった。
春麗は、何が起きたのか分からなかった。
床に落ちていない。
撃ち落とされてもいない。
衝撃もない。
代わりに、リュウの腕が背中を支えている。
片腕が肩の後ろに回り、もう片方の手が腰の近くを支えている。
近い。
近すぎる。
リュウの胸元がすぐそこにある。
道着越しの体温が分かる。
呼吸の動きが分かる。
腕の力が、強いのに乱暴ではない。
春麗の心臓が、跳ねた。
「……っ」
声が出そうになって、出なかった。
リュウは春麗を見ていた。
いつもの顔だった。
静かで。
落ち着いていて。
何も揺れていないような顔。
「危なかった」
リュウが言った。
それだけだった。
春麗は、まだリュウの腕の中にいた。
危なかった。
確かに危なかった。
昇龍拳の軌道に、春麗が崩れて入ってしまった。
リュウが止めなければ、当たっていたかもしれない。
受け止められたこと自体は、正しい。
修行としても、安全管理としても、間違っていない。
分かっている。
分かっているのに。
春麗の顔が熱くなる。
リュウは全く変わらない。
全く。
本当に、全く。
春麗の内側では、心臓がひどい音を立てている。
呼吸も少し乱れている。
どこを見ればいいのか分からない。
腕の位置も、身体の近さも、全部気になる。
なのに、リュウはいつも通りだった。
まるで、倒れそうな相手を普通に支えただけの顔をしている。
事実としてはそうなのだろう。
そうなのだろうけれど。
春麗は、内心でかなり腹が立った。
何なのよ。
私は今、かなり動揺しているのに。
どうしてあなたはそんなに普通なの。
少しは何かないの。
昔、最初の試合で私を女として見て拳を鈍らせたんでしょう。
だったら今も少しは、少しくらいは、何かありなさいよ。
春麗は、そんな理不尽な文句を胸の中で並べた。
もちろん、口には出さない。
出せるわけがない。
リュウは春麗を支えたまま、静かに確認する。
「立てるか」
「……立てるわ」
声が少し低くなった。
自分でも分かった。
リュウは気づいたかもしれない。
だが、何も言わない。
春麗はゆっくりと自分の足を床につけた。
リュウの腕が離れる。
離れた。
少しだけ、ほっとした。
同時に、少しだけ残念だった。
春麗はその二つ目の感情を即座に握りつぶした。
何を考えているの。
修行よ。
これは修行。
危なかったから受け止められただけ。
それだけ。
それだけのはず。
「今のは、私の重心が崩れたわね」
春麗は、あえて修行の話に戻した。
「着地が浅かった」
リュウが答える。
「分かっているわ」
「波動拳は越えた」
「越えたけれど、その後が駄目」
「ああ」
「言い方」
「春麗がそう言った」
「あなたは肯定したでしょう」
いつものやり取り。
春麗は、それに救われるような、余計に腹が立つような気持ちになった。
リュウは春麗を見ている。
ただし、その視線は、さっき抱きとめたことには触れていない。
修行の続きを見る目だ。
春麗は眉を寄せる。
「……何よ」
「もう一度いけるか」
「いけるわよ」
即答した。
少し強すぎた。
リュウが短く頷く。
「ああ」
春麗は構え直す。
身体はまだ熱い。
波動拳のせいではない。
運動のせいでもない。
リュウの腕の感触が、まだ残っている気がする。
背中。
肩。
腰の近く。
春麗は奥歯を噛んだ。
忘れなさい。
今は修行。
でも、忘れようとすると余計に思い出す。
リュウは構えた。
いつもの顔で。
何もなかったような顔で。
春麗はその顔を見て、また腹が立った。
もう一度、絶対に崩れない。
そう思った。
それが修行への集中なのか、単なる意地なのか、春麗自身にも少し分からなかった。
昼になった。
二人は修行場の端に座った。
春麗は、包みを開いた。
自分の分。
リュウの分。
いつものように、少し多め。
だが、今日は少しだけ手元がぎこちなかった。
リュウはそれに気づいたのか、気づいていないのか、いつものように受け取った。
「ありがとう」
「禁止」
「……すまない」
「それも少し違うわ」
「そうか」
「ええ」
春麗は自分の包みを開きながら、リュウを見ないようにした。
見ないようにしている時点で、見ているのと同じだ。
リュウが一口食べる。
「うまい」
いつも通りの言葉。
いつも通りの声。
いつも通りの顔。
春麗は箸を持つ手を止めかけた。
だが、今日は止めない。
「そう」
「ああ」
「午前中、あれだけ動いたのだから、しっかり食べなさい」
「ああ」
「午後も組手を続けるでしょう」
「ああ」
「あなたが受け止める必要がないように、私が崩れないためにも必要なの」
言ってから、春麗は少しだけ固まった。
受け止める。
自分で言った。
リュウは普通に頷いた。
「ああ」
本当に普通だった。
春麗は胸の奥でまた少しだけ腹を立てた。
なぜ普通なの。
だが、ここで文句を言えば、自分が意識していることを自白するようなものだ。
それだけは避けたい。
春麗は黙って饅頭を口に運んだ。
味は、悪くない。
ただ、午前の感触が邪魔をする。
背中。
肩。
腰の近く。
春麗は水を飲む。
落ち着け。
これは修行。
事故。
安全確保。
それ以上ではない。
そう思うほど、余計に思い出す。
「春麗」
「何」
「午後は、距離を少し戻すか」
春麗はリュウを見た。
「どうして」
「午前の最後、重心が崩れた」
「分かっているわ」
「疲れもある」
「分かっている」
「近距離だけにすると、同じ崩れ方をするかもしれない」
リュウは淡々と言う。
本当に、淡々と。
春麗は箸を置いた。
「……分かったわ」
一拍。
「でも、逃げるために戻すわけじゃない」
「ああ」
「波動拳の距離から、もう一度入る」
「ああ」
「今度は崩れない」
「ああ」
「受け止められない」
「ああ」
リュウは、そこで少しだけ春麗を見た。
「無理はするな」
「無理はしないわ」
「意地は?」
「少しは張るわよ」
「そうか」
「そうよ」
春麗は自分の昼食を食べ切った。
リュウも、春麗の分まで最後まできちんと食べた。
「ごちそうさま」
「……その言葉は、禁止ではないわ」
「ああ」
「でも、あまり丁寧に言わないで」
「難しい」
「あなた、最近そればかりね」
「難しいことが多い」
春麗は思わずリュウを見る。
リュウは本気で言っている顔だった。
その顔を見て、春麗は少しだけ笑いそうになった。
午前の動揺が、ほんの少しだけ薄まる。
ほんの少しだけ。
午後は、波動拳の距離から再開した。
春麗は構える。
午前の失敗は残っている。
抱きとめられた感触も残っている。
だが、それを消そうとするのはやめた。
残っているなら、残ったまま動く。
それが、この修行の始まりだった。
「行くぞ」
「ええ」
「波動拳!」
気弾が走る。
春麗は跳んだ。
午前より少し低く。
けれど、逃げる跳びではない。
波動拳を越える。
空中で身体を折る。
鶴嘴拳。
リュウは受ける。
着地。
今度は深く入りすぎない。
足を残す。
重心を前へ流しすぎない。
低蹴打。
リュウの足を止める。
開脚突拳。
ガードを動かす。
投げに入る。
リュウが重心を残す。
投げ抜け。
来る。
迎撃の気配。
春麗の身体が固まりかけた。
午前の腕の感触が戻る。
抱きとめられたこと。
支えられたこと。
近かったこと。
リュウが平然としていたこと。
腹が立つ。
その腹立たしさを、春麗は足に乗せた。
逃げない。
崩れない。
受け止められない。
春麗は半歩引かずに、掌底を出した。
リュウの拳が寸前で止まる。
春麗の掌も届かない。
だが、身体は崩れていない。
春麗は立っていた。
自分の足で。
「……今の」
「ああ」
「崩れなかったわ」
「ああ」
「受け止められなかった」
「ああ」
「そこは、もう少し何か言いなさいよ」
「よかった」
春麗は目を細めた。
「それだけ?」
「ああ」
「本当に、あなたは」
一拍。
「本当に、そういうところよ」
リュウは首を傾げる。
春麗はそれ以上言わなかった。
言えなかった。
午後の組手は、その後も続いた。
波動拳を越える。
着地を崩さない。
近距離で止まらない。
投げに入る。
抜けられる。
迎撃の気配を見る。
構えを残す。
完全ではない。
何度も止まった。
何度も呼吸が乱れた。
昇龍拳の入りを見た瞬間、肩が上がった。
だが、午前のように崩れて抱きとめられることはなかった。
その事実が、春麗には妙に大きかった。
夕方。
リュウが構えを解いた。
「今日はここまでにしよう」
「……そうね」
春麗も構えを下ろした。
疲れている。
波動拳を越えた足も、近距離で踏み残した腰も、何度も掌底を出した腕も、全部重い。
だが、それ以上に頭が疲れていた。
修行で疲れた。
それは事実。
だが、それだけではない。
春麗はリュウを見た。
いつも通りの顔。
静かで、落ち着いていて、何もなかったような顔。
その顔に、また少しだけ腹が立つ。
「リュウ」
「ああ」
「今日の午前のことだけど」
「ああ」
「危なかったから受け止めたのよね」
「ああ」
「それだけよね」
「ああ」
即答。
春麗は胸の奥で何かが落ちるのを感じた。
それだけ。
そう言われるべきだ。
そうでなければ困る。
なのに、即答されると少し腹が立つ。
「……そう」
「ああ」
「ならいいわ」
「ああ」
「いいけど」
一拍。
「次は受け止めさせないわ」
リュウは頷いた。
「ああ」
「私が崩れない」
「ああ」
「あなたに支えられない」
「ああ」
「自分で立つ」
「ああ」
春麗は少しだけ目を伏せる。
そして、小さく付け足した。
「……でも、危ない時は止めなさい」
リュウは静かに答えた。
「ああ」
「そこは迷わないで」
「ああ」
「でも、できれば受け止める前に止めて」
「ああ」
「……何を言っているのか分からなくなってきたわ」
「そうか」
「そうよ」
春麗は包みを持ち直す。
今日の包みも空になっている。
「明日も」
「ああ」
「少し多めに作るかもしれないわ」
「ああ」
「今日みたいに崩れないためよ」
「ああ」
「修行のため」
「ああ」
「栄養管理」
「ああ」
「受け止められないため」
言ってから、春麗はまた固まった。
リュウは少しだけ首を傾げる。
「そうか」
「……そうよ」
春麗は顔を背けた。
これ以上ここにいると、余計なことを言いそうだった。
「明日も同じ時間」
「ああ」
「待っていたは禁止」
「分かった」
「ありがとうも禁止」
「難しい」
「難しくないわ」
「分かった」
春麗は、今度こそ背を向けた。
歩き出す。
身体は疲れている。
けれど、足は昨日よりしっかりしている。
午後は崩れなかった。
午前は抱きとめられた。
午後は自分の足で残った。
それでいい。
今日は、それでいい。
そう思いたい。
だが、背中と肩と腰の近くには、まだリュウの腕の感触が残っている気がした。
春麗は歩きながら、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……忘れなさい」
忘れなさい。
修行よ。
事故よ。
安全確保よ。
それだけ。
そう言い聞かせるほど、忘れられなかった。
その夜。
春麗は自室に戻り、鏡の前で髪をほどいた。
修行用の服を脱ぎ、汗を拭い、軽く身体を伸ばす。
筋肉に疲労がある。
波動拳を越えた時の足の負荷もある。
着地を崩した時に、少しだけ腰に力が入った感覚も残っている。
けれど、一番残っているのはそこではなかった。
リュウの腕。
あの近さ。
受け止められた瞬間の体温。
春麗は、髪をほどく手を止めた。
「……忘れなさい」
鏡の中の自分に言う。
忘れるべきだ。
修行中の安全確保。
昇龍拳が当たりそうだった。
リュウは正しく止めた。
以上。
それだけ。
それなのに、春麗の胸はまた熱くなった。
あの距離。
近かった。
かなり近かった。
自分は、ひどく動揺した。
心臓が跳ねた。
呼吸も乱れた。
顔が熱くなった。
どこを見ればいいのか分からなかった。
それなのに。
リュウは。
「……全然、動じていなかったわよね」
春麗は鏡を睨んだ。
そう。
全然。
本当に全然。
あの男は、まるで倒れそうな荷物を支えたくらいの顔をしていた。
危なかった。
立てるか。
着地が浅かった。
それだけ。
それだけだった。
春麗は椅子に座り、両手で顔を覆った。
「……私だけ?」
声が小さくなる。
私だけ、あんなにドキドキしたの?
私だけ、あの距離を意識したの?
私だけ、受け止められた腕の感触をまだ覚えているの?
春麗は顔を上げ、鏡の中の自分を見る。
修行後で少し髪が乱れている。
頬にもまだ赤みが残っている。
汗も引き切っていない。
魅力がない。
とは思いたくない。
思いたくないが。
リュウがあまりにも平静だったせいで、胸の奥が少し沈む。
「……私って、そんなに何とも思われていないの?」
言ってから、春麗はすぐに顔をしかめた。
何を言っているの。
思われたいの?
どう思われたいの?
修行中よ。
相手はリュウよ。
しかも、初戦で自分を女として見て拳を鈍らせたことを、未熟だったと認めた男よ。
あの時の反省があるから、今はそうしないようにしているのかもしれない。
むしろ、そう考えるべきだ。
リュウは、春麗を軽く扱わないために、女として見すぎないようにしている。
修行相手として、格闘家として向き合おうとしている。
それなら、リュウは正しい。
正しい。
たぶん正しい。
でも。
「……正しければいいってものじゃないのよ」
春麗は、机に突っ伏した。
理屈では分かる。
リュウは誠実だ。
リュウは春麗をちゃんと格闘家として見ている。
修行中に変に動揺しないようにしている。
初戦の失礼を繰り返さないようにしている。
分かる。
分かるが。
それならそれで、こっちだけが動揺しているみたいで腹が立つ。
いや、実際にそうなのかもしれない。
春麗は、机に額をつけたまま小さく呻いた。
「……悔しい」
勝負で負けた時とは違う悔しさだった。
波動拳を越えたのに、着地を崩した。
昇龍拳の軌道に入りかけた。
抱きとめられた。
自分だけドキドキした。
リュウは平然としていた。
何ひとつ勝てていない気がする。
春麗は顔を上げた。
「……次は崩れない」
まず、そう言った。
修行として。
格闘家として。
着地を崩さない。
受け止められない。
自分の足で立つ。
それが第一。
春麗は拳を握る。
それから、少し間を置いて、もう一つ呟いた。
「……それとは別に」
一拍。
「少しは動じさせる」
言ってから、春麗は自分で固まった。
何を言っているの。
修行よ。
修行でしょう。
動じさせてどうするの。
でも、言ってしまった。
春麗は両手で顔を覆った。
「……本当に、面倒ね」
リュウが面倒なのか。
自分が面倒なのか。
たぶん、今回も両方だった。
その夜、春麗はなかなか眠れなかった。
波動拳を越えた感覚。
崩れた重心。
リュウの腕。
平然としたリュウの顔。
その全部が、順番に戻ってきた。
そして最後に、鏡の中の自分が戻ってくる。
私だけだったの?
その問いに答えは出なかった。
ただ、翌日の修行で絶対に崩れないことと。
リュウを少しは困らせたいことだけが。
春麗の中で、なぜか同じくらい強く残っていた。
一方、その頃。
リュウは宿の部屋で、静かに座っていた。
目を閉じている。
呼吸を整えている。
いつもの瞑想のように見える。
だが、今日の呼吸は、ほんの少しだけ深かった。
春麗の身体を受け止めた時の感触が、まだ手に残っていた。
軽い。
いや、軽いだけではない。
鍛えられた身体だった。
柔らかさの奥に、確かな芯がある。
格闘家の身体。
何度も自分に向かってきた相手の身体。
そして。
女性の身体でもあった。
リュウは目を開けた。
最初の試合を思い出す。
春麗を格闘家としてだけではなく、女として見て、拳が鈍った。
あれは未熟だった。
春麗に対して失礼だった。
だから今は、同じことを繰り返さない。
春麗は修行している。
自分の拳の前で止まった身体を戻そうとしている。
その相手を、自分の迷いで乱してはいけない。
リュウは、静かに息を吐いた。
「……危なかった」
それは、昇龍拳が当たりそうだったことへの言葉でもあり。
自分の内側が一瞬揺れたことへの言葉でもあった。
リュウは再び目を閉じる。
明日も修行がある。
春麗の前では、揺らさない。
春麗が、自分の拳の前で戻れるように。
そのために。
リュウは、もう一度呼吸を整えた。
記録板AIは、その両者のログを静かに保存した。
『検証ログ終了』
『保存名』
『春麗は、抱きとめられて全く動じられないことを不満に思う』
『保存先』
『ディレクターズカットIF外部検証領域』
『補足』
『春麗認識:リュウは全く動じていない』
『補足』
『リュウ実態:動じていないように見せる努力中』
『以上』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、修行四日目のエピソードになります。
前回、春麗は波動拳を越えて、鶴嘴拳をガードさせ、近距離戦に入り、最後にはリュウを投げるところまで進みました。
もちろん完全克服ではありませんが、「波動拳の向こうに行けた」「リュウを投げられた」という手応えは、春麗にとってかなり大きい一歩でした。
今回の四日目は、その手応えの翌日です。
前に進めたからこそ、春麗はもう一段階踏み込もうとします。
昨日できたことを偶然で終わらせたくない。
波動拳を越えた後も崩れたくない。
リュウの迎撃の前でも、自分の足で残りたい。
その気持ち自体は前向きなのですが、そこで少しだけ前へ行きすぎます。
波動拳を越えた。
昨日より高く跳べた。
行けると思った。
その瞬間、重心が崩れる。
この「進歩したからこそ起きる失敗」を今回は入れました。
単に怖がって失敗したのではなく、前へ進んだからこそ崩れる。
修行編としては、こういう失敗の方が春麗らしいと思っています。
そして、今回の中心はリュウに抱きとめられる場面です。
ここは甘い事故イベントに見えますが、状況としてはかなり真面目です。
春麗が昇龍拳の軌道へ崩れて入りかけたので、リュウが当てる前に受け止めた。
修行としても、安全管理としても正しい判断です。
ただし、春麗側の精神HPは当然無事では済みません。
近い。
支えられている。
リュウの腕が背中や腰の近くにある。
自分はものすごく動揺している。
なのにリュウは平然としている。
この「私だけ?」という負け方が、今回の春麗の一番面倒くさいところです。
勝負で負けたわけではありません。
組手の成果としては、午後にはちゃんと崩れずに立てています。
でも、精神的には勝手に負けそうになっている。
しかも、リュウが悪いわけではない。
むしろリュウは正しい。
だから余計に処理できない。
春麗としては、リュウに動じてほしいわけではないはずです。
修行中に変な意識をされたら困る。
初戦で女として見られて拳が鈍ったことを、リュウ自身が未熟だったと認めている。
だから今のリュウが、春麗を格闘家としてまっすぐ見ようとしているのは正しい。
正しいのですが。
正しければいいってものじゃない、というのが今回の春麗です。
ここが非常に春麗らしい面倒くささだと思っています。
一方で、最後にリュウ側のログも入れています。
春麗から見ると、リュウは全く動じていません。
危なかった。
立てるか。
着地が浅かった。
それだけを淡々と言っているように見える。
でも実際には、リュウも無反応だったわけではありません。
春麗を受け止めた時、そこに格闘家の身体を感じている。
同時に、女性の身体でもあることを意識している。
ただ、初戦で拳を鈍らせた未熟を繰り返さないために、春麗の前では揺らさないようにしている。
つまり、春麗の認識では「私だけ動揺している」ですが、実際にはリュウも揺れています。
ただし、リュウはそれを修行相手の前に出さないようにしている。
このすれ違いが今回のラストです。
春麗は、次は崩れないと決める。
それとは別に、少しはリュウを動じさせたいとも思ってしまう。
修行としての目標と、女としての意地が、なぜか同じくらい強く残ってしまう。
修行は進んでいます。
午後には崩れずに組手を続けられました。
でも、精神的には新しい面倒くささが増えました。
この修行編は、春麗がリュウの拳の前で動けるようになる話であると同時に、リュウという相手をどんどん処理できなくなっていく話でもあります。
今回は、その両方がかなり分かりやすく出た回になったと思います。