また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。
『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本編確定ログではありません』
『本ログは、第1話敗北ルート後続検証です』
『本ログは、修行五日目の検証記録です』
『以下、検証ログを開始します』
翌朝。
春麗は、いつもより少しだけ早く起きた。
眠れた。
眠れたはずだった。
だが、目を覚ました瞬間に思い出したのは、昨日の波動拳でも、崩れた重心でも、午後に崩れず残れた組手でもなかった。
リュウの腕だった。
背中を支えられた感覚。
肩の後ろに回った腕。
腰の近くを支えた手。
道着越しに伝わった体温。
そして。
危なかった。
立てるか。
着地が浅かった。
それだけを言った、リュウの平然とした顔。
春麗は布団の上で目を閉じた。
「……思い出さなくていいのよ」
言っても、思い出したものは消えなかった。
昨日の夜、自分はかなり面倒なことを考えた。
次は崩れない。
それはいい。
修行として正しい。
格闘家として正しい。
波動拳を越えた後、着地を崩さない。
リュウの昇龍拳の軌道に入り込まない。
受け止められず、自分の足で立つ。
そこまではいい。
問題は、その後だ。
少しは動じさせる。
そう言った。
言ってしまった。
春麗は、布団の中で顔を覆った。
何を言っているのか。
修行だ。
これは修行だ。
リュウの拳の前で止まった身体を戻すための修行だ。
なのに、リュウを少しは動じさせたいなどと考えている。
かなり面倒くさい。
かなり。
春麗は起き上がった。
「……聞くわ」
小さく言う。
昨日のことを。
なぜあんなに平然としていたのか。
本当に何とも思っていなかったのか。
自分だけが動揺したのか。
聞かなければ、たぶん今日の夜も同じことを考える。
それは嫌だった。
春麗は稽古着に着替えた。
袖を通す。
帯を整える。
鏡の前で拳を握る。
今日は崩れない。
それとは別に、昨日のことは聞く。
修行と関係がある。
たぶん。
かなりある。
そういうことにする。
春麗は朝食を済ませ、昼食の準備に入った。
いつもより、少しだけ丁寧だった。
理由はない。
ないはずだった。
自分の分。
リュウの分。
少し多め。
饅頭は、昨日より少し小さくして数を増やす。
肉は食べやすいように薄く切る。
青菜は水気をよく切る。
卵は冷めても固くなりすぎないように火を弱める。
午前中に動く。
昼に食べる。
午後も動く。
そのための昼食。
修行のため。
栄養管理。
借りの返済。
この組手を続けるため。
便利な言葉は、今日も便利だった。
ただし、包み布を結ぶ時だけ、春麗の手が少し止まった。
昨日より食べやすくした。
味も少し整えた。
リュウは気づくだろうか。
いや。
そこはどうでもいい。
どうでもいいが、気づかなかったら少し腹が立つかもしれない。
「……修行の効率」
春麗は小さく繰り返した。
便利な言葉だった。
ただし、自分でも便利すぎると思った。
修行場に着くと、リュウはいた。
昨日と同じ場所。
いつも通り、静かに立っている。
昨日と同じ顔。
昨日、春麗を抱きとめた腕の持ち主とは思えないくらい、いつも通りの顔。
春麗は胸の奥が少しだけ揺れるのを感じた。
だが、足は止めなかった。
「早いわね」
「ああ」
「待っていた?」
「ああ」
「そこは少し考えてから答えなさい」
「考えても同じだ」
「そういうところよ」
リュウは首を傾げた。
春麗はため息をつき、昼食の包みを修行場の端に置いた。
「今日も昼食はあるわ」
「ああ」
「最初からあなたの分もある」
「ああ」
「でも、今日は午前の修行をちゃんと終えてからよ」
「ああ」
「ありがとうは、昼まで保留」
「分かった」
春麗は中央へ戻った。
リュウと向き合う。
昨日の午前、春麗は跳び込みの重心を崩し、リュウに受け止められた。
昨日の午後、同じ失敗を繰り返さず、自分の足で残った。
今日は、その続きだ。
「昨日と同じ流れで始めるわ」
「波動拳からか」
「ええ」
「いいのか」
「昨日、午後は崩れなかった」
「ああ」
「だから今日は、最初から崩れない」
リュウは静かに頷いた。
「分かった」
「受け止める必要はないわ」
「ああ」
「危ない時は止める」
「ああ」
「でも、できれば受け止める前に止めて」
「ああ」
春麗は言ってから、少しだけ顔が熱くなった。
また自分で話題を寄せてしまった。
リュウは特に反応しない。
それがまた腹立たしい。
「行くわよ」
「ああ」
リュウが構える。
掌に青い気が集まる。
春麗は、それを見た。
怖さはある。
昇龍拳はまだ身体に残っている。
昨日の腕も残っている。
だが、今日はまず動く。
「波動拳!」
気弾が走る。
春麗は息を吐いた。
低く沈む。
床を蹴る。
波動拳を越える。
昨日より、跳躍は安定していた。
高すぎない。
前へ流れすぎない。
着地を急がない。
空中で身体を折る。
鶴嘴拳。
リュウは腕で受ける。
着地。
昨日と違う。
重心は崩れていない。
足が残っている。
身体がリュウの間合いへ流れすぎていない。
春麗はすぐに低蹴打を出す。
リュウが半歩ずれる。
開脚突拳。
ガードが動く。
投げに入る。
リュウが重心を残す。
抜けられる。
迎撃の気配。
昇龍拳の入り。
春麗の身体が一瞬だけ固まる。
だが、崩れない。
足を残す。
構えを下ろさない。
掌底を前に出す。
リュウの拳は、春麗の手前で止まる。
寸止め。
春麗の掌も届いていない。
だが、春麗は立っていた。
自分の足で。
「……今の」
「ああ」
「崩れなかったわね」
「ああ」
「受け止める必要は?」
「なかった」
春麗は小さく息を吐いた。
「当然よ」
「ああ」
「昨日の失敗を、そのままにするわけがないでしょう」
「ああ」
「あなたに抱きとめられるのも、一度で十分よ」
言ってから、春麗は少しだけ後悔した。
自分で言った。
自分で話題を出した。
リュウは、特に表情を変えなかった。
「ああ」
それだけだった。
春麗は内心でさらに腹を立てた。
だから、その反応が問題なのよ。
言いたかった。
だが、午前中は言わない。
修行中に聞けば、たぶん自分が崩れる。
聞くなら昼食の時。
座っている時。
箸を持っている時。
逃げ場が少ない時。
春麗はそう決めて、午前の組手を続けた。
波動拳。
跳躍。
鶴嘴拳。
低蹴打。
開脚突拳。
投げ。
投げ抜け。
迎撃。
昨日より、春麗の跳躍は安定していた。
もちろん、完璧ではない。
時には着地が浅くなる。
時には低蹴打が読まれる。
時には投げに入る前に腕を外される。
昇龍拳の気配に、肩が上がることもある。
それでも、昨日のように大きく崩れることはなかった。
リュウも、それを見ていた。
「今のは、昨日よりいい」
「でしょうね」
「着地が残っている」
「意識しているもの」
「迎撃の前でも足が逃げていない」
「逃げたら、また受け止められるでしょう」
「ああ」
また普通に頷く。
春麗は、内心で拳を握った。
昼に聞く。
絶対に聞く。
昼。
二人は修行場の端に腰を下ろした。
いつもの距離。
近すぎない。
遠すぎない。
ただ、今日の春麗にとっては、その距離も少しだけ意識に引っかかった。
昨日は、これよりずっと近かった。
近すぎた。
春麗は、その記憶を振り払うように包みを開いた。
自分の分。
リュウの分。
リュウが宿の包みを出す前に、春麗は先に差し出す。
「はい」
リュウは受け取った。
「ああ。ありがとう」
「今日は言ってもいいわ」
「そうか」
「毎回は駄目」
「ああ」
リュウは、いつものように丁寧に包みを開いた。
一口食べる。
春麗は見ないふりをする。
だが、見ている。
「うまい」
「具体的に」
リュウは少し考えた。
春麗は、その考える間を見て少しだけ満足した。
考えている。
昨日よりは進歩している。
「昨日より、食べやすい」
「昨日より?」
「ああ。味が落ち着いている」
春麗は、少しだけ目を細めた。
「そう。ならいいわ」
「ああ」
「午前中、あれだけ動いたのだから、しっかり食べなさい」
「ああ」
「午後も組手を続けるでしょう」
「ああ」
「あなたが受け止める必要がないように、私が崩れないためにも必要なの」
言ってから、春麗は少しだけ固まった。
受け止める。
また、自分で言った。
リュウは普通に頷いた。
「ああ」
本当に普通だった。
春麗は胸の奥でまた少しだけ腹を立てた。
なぜ普通なの。
だが、ここで引くとまた夜に悶々とする。
今日聞くと決めた。
聞く。
聞かなければならない。
二人はしばらく黙って食べた。
風が通る。
修行場は静かだった。
春麗は箸を持ったまま、何度か口を開きかけて、閉じた。
今か。
まだか。
いや、今聞かなければ、たぶんまた夜に思い出す。
春麗は小さく息を吸った。
「リュウ」
「ああ」
「昨日のことだけど」
リュウが春麗を見る。
「昨日のこと?」
春麗は眉を寄せた。
「昨日のこと、で分からないの?」
「修行のことか」
「修行のことだけれど」
一拍。
「私が空中でバランスを崩した時のこと」
「ああ」
リュウは頷いた。
「危なかった」
「そこは分かっているわ」
「着地が浅かった」
「それも分かっているわ」
「今日は直っている」
「修行の反省会をしたいわけじゃないの」
リュウは少しだけ首を傾げた。
春麗は、その顔を見て覚悟を決めた。
遠回しに聞いても、たぶん伝わらない。
この男には、たまに直球で聞くしかない。
春麗は、箸を置いた。
「私って」
一拍。
「魅力ない?」
リュウの動きが止まった。
完全に止まった。
春麗は、その反応を見て少しだけ胸が跳ねた。
ようやく動じた。
いや、そういう動じ方を求めていたのかは分からない。
リュウは、しばらく沈黙した。
「春麗」
「何」
「それは、修行の質問か」
「違うわ」
「そうか」
「でも、修行と関係はあるわ」
「難しいな」
「まだ早いわよ、その台詞」
春麗は少しだけ顔を赤くしながら続けた。
「昨日、あなたは私を抱きとめたでしょう」
「ああ」
「私は、かなり……その」
一拍。
「動揺したの」
言ってしまった。
春麗は視線を逸らした。
「でも、あなたは全く変わらなかった」
「ああ」
「危なかった。立てるか。着地が浅かった。それだけ」
「ああ」
「だから」
一拍。
「私だけが意識したみたいで、すごく腹が立ったの」
リュウは何も言わなかった。
春麗は、もう止まれなかった。
「最初の試合で、あなたは私を女としても見て、拳が鈍ったと言ったでしょう」
「ああ」
「なら、昨日は何なの?」
一拍。
「私はあんなにドキドキしたのに、あなたは全然平気そうで」
一拍。
「私って、そんなに何とも思われていないのかと思ったのよ」
言い終わった瞬間、春麗はかなり後悔した。
言いすぎた。
かなり率直に言いすぎた。
しかし、もう遅い。
リュウは春麗をじっと見ていた。
その目は、からかいではなかった。
困惑だけでもない。
逃げる気配もない。
ただ、真面目に答えようとしている目だった。
春麗は、少しだけ身構えた。
リュウが口を開く。
「春麗に魅力がないとは思っていない」
春麗の心臓が、跳ねた。
「……そう」
「ああ」
「なら」
「最初の試合で」
リュウは静かに続けた。
「俺は、春麗を格闘家としてだけではなく、女としても見た」
春麗は黙った。
「それで、拳が鈍った」
「ああ」
「あれは未熟だった」
リュウの声は淡々としていた。
だが、軽くはなかった。
「春麗に対しても、失礼だったと思っている」
「失礼?」
「ああ」
「私を女として見たことが?」
「そうではない」
リュウは少しだけ言葉を探した。
「春麗は、俺と戦いに来ていた」
「ええ」
「全力で向かってきていた」
「ええ」
「なのに俺は、その一瞬、春麗を一人の格闘家として見切れていなかった」
一拍。
「だから、拳が鈍った」
春麗は、リュウを見ていた。
リュウは続ける。
「今の春麗は、俺の拳の前で止まった身体を戻そうとしている」
「ああ」
「俺は、その修行に付き合うと決めた」
「ええ」
「なら、春麗を一人の格闘家として見る」
一拍。
「そう意識している」
春麗は、言葉を失った。
リュウは、全く何も感じていなかったわけではなかった。
意識していなかったわけでもない。
むしろ、意識していた。
初戦の自分の未熟を覚えているから。
春麗を軽く扱わないために。
修行中の春麗を乱さないために。
女として見ないようにしていたのではない。
女としても見えるからこそ、それに引っ張られないようにしていた。
春麗は、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
満更ではない。
かなり、満更ではない。
魅力がないわけではない。
何とも思われていないわけでもない。
リュウはリュウなりに、春麗をちゃんと見ている。
ただし。
春麗は、すぐに眉を寄せた。
「……それは」
「ああ」
「かなり、誠実な答えね」
「そうか」
「ええ」
一拍。
「満点に近いわ」
「そうか」
「でも」
春麗はリュウを見る。
「全く反応がないのも違うわ」
リュウは止まった。
今度は、本当に困った顔をした。
「違うのか」
「違うわ」
「春麗を格闘家として見るのは」
「正しいわ」
「春麗を修行中に乱さないようにするのは」
「正しいわ」
「初戦と同じ未熟を繰り返さないようにするのは」
「正しいわ」
リュウは少し考えた。
「なら、何が違う」
春麗は、少しだけ顔を赤くした。
「……そこを全部、私に言わせるつもり?」
「分からない」
「でしょうね」
「すまない」
「謝らないで」
春麗は小さく息を吐いた。
「私は、格闘家として見てほしいわ」
「ああ」
「修行中に変な目で見られたら怒るわ」
「ああ」
「初戦みたいに拳が鈍るのも、失礼だと思う」
「ああ」
「でも」
一拍。
「全く何も感じていないみたいな顔をされると、それはそれで腹が立つの」
リュウは、深く考え込んだ。
春麗は、言ってから自分でも思った。
面倒くさい。
かなり面倒くさい。
だが、本当のことだった。
軽く見られたくない。
女だからと拳を鈍らせられたくない。
格闘家として正面から向き合ってほしい。
でも、女として何とも思われていないのも嫌だ。
春麗は、自分の頬が熱くなるのを感じながら、リュウから視線を逸らした。
「……言っておくけど、これは私が面倒くさいだけよ」
「そうなのか」
「そうよ」
「春麗は難しいな」
春麗は、箸を持ったまま固まった。
それから、じろりとリュウを見る。
「今、しみじみ言ったわね」
「ああ」
「そこは、もう少し柔らかく言いなさい」
「春麗は、とても難しい」
「悪化したわよ」
「すまない」
「謝らないで」
春麗は、つい笑いそうになった。
笑いそうになったことが悔しくて、顔を背ける。
リュウは真面目な顔のままだ。
本当に難しいと思っている顔だった。
春麗は、少しだけ肩の力を抜いた。
「でも」
一拍。
「今の答えは、悪くなかったわ」
リュウが春麗を見る。
「そうか」
「ええ」
「なら、よかった」
「よかった、じゃないわ」
「違うのか」
「違わないけど、違うの」
「やはり難しいな」
「もう言わないで」
春麗は、少しだけ笑ってしまった。
リュウも、ほんのわずかに目元を緩めた。
昼の風が通る。
春麗は、再び箸を取った。
胸の奥が、まだ少し熱い。
けれど、昨日の夜のような沈み方ではなかった。
私だけだったの?
その問いに、答えが出た気がした。
リュウは全く何も感じていなかったわけではない。
ただ、春麗を軽く扱わないために、そう見せないようにしていた。
それは、少し悔しい。
でも。
嬉しい。
かなり、嬉しい。
春麗は、自分の口元が緩みそうになるのを必死に抑えた。
「リュウ」
「ああ」
「午後も、昨日の続きよ」
「ああ」
「波動拳を越えた後、崩れない」
「ああ」
「あなたに抱きとめられない」
「ああ」
一拍。
春麗は、少しだけ悪戯っぽく目を細めた。
「でも、少しは動じなさい」
リュウは箸を止めた。
「修行中にか」
「……そこは、動じなくていいわ」
「では、いつだ」
春麗は自分で言っておきながら詰まった。
「……そういうところよ」
「どこだ」
「本当に、難しいのはあなたの方じゃない」
春麗は顔を背けて昼食を食べる。
リュウは、しばらく考えていた。
春麗はそれを横目で見て、少しだけ満足した。
少しは困っている。
それだけで、昨日の自分が少し報われた気がした。
午後の修行は、春麗の調子がよかった。
波動拳を見る。
呼吸を止めない。
低く沈む。
跳ぶ。
波動拳を越える。
着地する。
崩れない。
リュウの迎撃の気配を見て、足を残す。
完全ではない。
だが、昨日よりは明らかに安定していた。
リュウもそれに気づいた。
「今日は、いい」
「でしょうね」
「昼の話が効いたのか」
春麗は危うく着地を乱しかけた。
「修行中に蒸し返さないで!」
「すまない」
「謝らないで!」
その後、春麗はさらに集中した。
崩れない。
絶対に崩れない。
抱きとめられない。
いや、抱きとめられたいわけではない。
違う。
そうではない。
春麗は頭の中で自分に言い訳しながら、波動拳を越えた。
今度は着地が安定していた。
リュウが迎撃に入る。
昇龍拳の気配。
春麗は固まらない。
足を残す。
拳を下ろさない。
掌底を前に出す。
リュウの拳が、春麗の手前で止まる。
春麗の掌も、リュウへ届き切らない。
けれど、重心は崩れていない。
自分の足で立っている。
「今のは」
リュウが言う。
「よかった」
春麗は肩で息をしながら、少しだけ笑った。
「当然よ」
一拍。
「昨日の借りは、少し返したわ」
「借り?」
「抱きとめられた分」
「それは借りなのか」
「私の中では借りなの」
「そうか」
「ええ」
春麗は構えを解いた。
身体は疲れている。
だが、気分は悪くなかった。
かなり、悪くなかった。
午後の組手は、その後も続いた。
波動拳。
跳躍。
着地。
近距離。
投げ。
投げ抜け。
迎撃。
昨日ほど大きく崩れることはなかった。
もちろん、まだ止まる。
昇龍拳の気配に、身体の奥は反応する。
肩が上がる。
呼吸が詰まりかける。
だが、昼の会話が妙な場所で支えになっていた。
自分だけではなかった。
リュウは、何とも思っていなかったわけではない。
そう分かっただけで、春麗の足は昨日より少し落ち着いた。
それが修行に良いのか悪いのかは分からない。
だが、少なくとも今日は、崩れなかった。
夕方。
リュウが構えを解いた。
「今日はここまでにしよう」
「ええ」
春麗も構えを下ろした。
息が上がっている。
身体は重い。
だが、昨日のような妙な沈み方はなかった。
「リュウ」
「ああ」
「今日は受け止められなかったわね」
「ああ」
「私が崩れなかったからよ」
「ああ」
「そこは、もう少し悔しがりなさい」
「悔しいのか?」
「私は、少し得意なの」
「そうか」
「ええ」
春麗は包みを手に取る。
今日の包みも空になっている。
「明日も」
「ああ」
「少し多めに作るかもしれないわ」
「ああ」
「午後も動くため」
「ああ」
「修行のため」
「ああ」
「栄養管理」
「ああ」
「昨日の借りを返し切るため」
「ああ」
「そして」
一拍。
「あなたを少しは動じさせるため」
リュウは、また少しだけ考え込んだ。
「それは修行なのか」
春麗は顔を赤くした。
「違うわよ!」
「そうか」
「でも、まったく関係なくもないわ」
「難しいな」
「もう言わないで!」
春麗は背を向けた。
怒っている。
怒っているはずだった。
だが、口元は少しだけ緩んでいた。
それをリュウに見られたくなくて、春麗は振り返らずに歩き出した。
その夜。
春麗は自室に戻り、鏡の前に座っていた。
髪をほどき、修行用の服を脱ぎ、身体を拭く。
昨日と同じように、疲労はあった。
だが、昨日とは違う。
昨日は、リュウに抱きとめられた記憶が何度も戻ってきて、胸が熱くなって、最後には少し落ち込んだ。
私だけだったの?
私って魅力ないの?
その問いが、ずっと胸に残っていた。
だが、今日は違う。
リュウは言った。
春麗に魅力がないとは思っていない。
初戦で春麗を女としても見てしまった。
それで拳が鈍った。
あれは未熟だった。
だから今は、春麗を一人の格闘家として見るように意識している。
春麗は、鏡の前で頬に手を当てた。
顔が少し緩んでいる。
「……魅力がないとは思っていない、ね」
小さく呟く。
言われた時は、平静を装った。
装ったつもりだった。
実際には、たぶん少し顔が赤かった。
でも、今なら誰も見ていない。
春麗は、口元を押さえた。
嬉しい。
かなり嬉しい。
リュウは何も感じていなかったわけではなかった。
見ないようにしていた。
意識して、格闘家として見ようとしていた。
それはつまり。
意識しなければ、そうではないということではないのか。
春麗は、そこまで考えて、顔を覆った。
「……何を考えているのよ」
修行中だ。
まだ完全には戻っていない。
昇龍拳の気配に身体が固まることもある。
波動拳を越えた後の着地も、やっと安定し始めたところだ。
それなのに。
昼の会話を思い出すと、どうしても口元が緩む。
春麗は机に肘をつき、頬を支えた。
「春麗は難しいな、だって」
少し腹が立つ。
でも、今はそれすら少し面白い。
難しい。
確かに難しい。
格闘家として見てほしい。
でも女として何も感じていないように見られるのは嫌。
修行中に変に動じられたら怒る。
でも全く動じないのも腹が立つ。
自分でも面倒だと思う。
でも、リュウは逃げなかった。
分からないなりに考えた。
正直に答えた。
春麗が難しいと言いながら、それでも聞いていた。
春麗は、鏡の中の自分を見る。
昨日より、少し機嫌がいい顔をしている。
「……悪くない答えだったわ」
小さく言う。
そして、すぐに言い直す。
「かなり、悪くなかったわ」
春麗は立ち上がり、明日の修行用の服を用意した。
波動拳を越える。
着地を崩さない。
昇龍拳の気配の前で止まらない。
やることは変わらない。
でも、少しだけ変わったものもある。
昨日は、抱きとめられたことを思い出して落ち込んだ。
今日は、昼の会話を思い出して機嫌がいい。
それが何を意味するのか、春麗はまだ考えないことにした。
考えると、たぶん面倒になる。
すでに十分面倒なのだから、これ以上増やす必要はない。
春麗は、包み布を取り出した。
明日の昼食用だ。
いつもより少し丁寧に畳む。
リュウの分も、当然のように考える。
当然ではない。
ないはずだ。
でも、もう今さらそこに引っかかるのも面倒だった。
「……明日は、少し味を変えようかしら」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そして、すぐに頬を緩めた。
明日、リュウは何と言うだろう。
うまい、と言うだろう。
具体的に、と言えば、たぶん少し考えるだろう。
その時の顔を想像して、春麗はまた少し機嫌が良くなった。
「本当に」
一拍。
「難しいのは、あなたの方よ」
そう言いながら。
春麗は、自分がかなりご機嫌になっていることを、最後まで認めなかった。
記録板AIは、その夜のログを静かに保存した。
『検証ログ終了』
『保存名』
『春麗は、自分の魅力について問いただす』
『保存先』
『ディレクターズカットIF外部検証領域』
『補足』
『春麗認識:自分だけではなかったと判明』
『補足』
『リュウ回答:格闘家として尊重するため、意識して平静を保っている』
『補足』
『春麗精神HP:昼食後に回復』
『補足』
『春麗機嫌:良好』
『補足』
『修行進捗:午後は着地安定、抱きとめ発生なし』
『以上』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、修行五日目のエピソードになります。
前回、春麗は波動拳を越えた後に重心を崩し、リュウに抱きとめられました。
状況としては完全に修行中の事故です。
昇龍拳の軌道に入りかけた春麗を、リュウが安全のために受け止めた。
それだけです。
ただ、春麗の精神HPはそれだけでは済みませんでした。
自分はかなり動揺した。
リュウの腕の中に入って、近さも体温も意識してしまった。
なのにリュウは平然としていた。
危なかった、立てるか、着地が浅かった。
それだけ。
この「私だけだったの?」という疑問を、今回は昼食の場で春麗が正面から問いただす回になります。
春麗が「私って魅力ない?」と聞く場面は、かなり直球です。
でも、この春麗はそこまで聞かないと処理できないところまで来ています。
初戦でリュウは、春麗を女としても見て拳が鈍った。
それを未熟だったと認めた。
なら、昨日は何だったのか。
自分はあんなに動揺したのに、リュウは本当に何とも思っていなかったのか。
ここでリュウが答える内容は、かなり重要です。
リュウは、春麗に魅力がないとは思っていない。
ただ、初戦で拳が鈍ったことを未熟だったと考えている。
だから今は、修行中の春麗を乱さないように、一人の格闘家として見るよう意識している。
つまり、リュウは何も感じていなかったわけではありません。
感じているからこそ、出さないようにしていた。
春麗を軽く扱わないために、修行相手として正面から見ようとしていた。
春麗からすると、これはかなり誠実な答えです。
満点に近い。
でも、それでも「全く反応がないのも違う」と言ってしまうのが、今回の春麗です。
格闘家として見てほしい。
女だからと拳を鈍らせられるのは嫌。
修行中に変な目で見られたら怒る。
でも、女として何とも思われていないように見えるのも嫌。
自分でも面倒くさいと分かっている。
でも、それが本音でもある。
この矛盾を、春麗が自分で言葉にしてしまうところが今回の見どころでした。
一方で、リュウもリュウでかなり困っています。
春麗を格闘家として見るのは正しい。
修行中に乱さないようにするのも正しい。
初戦と同じ未熟を繰り返さないようにするのも正しい。
なら何が違うのか。
ここで「春麗は難しいな」としみじみ言ってしまうのが、このルートのリュウらしいところです。
間違ってはいない。
でも言い方が直球すぎる。
そして春麗は怒りながら、少し笑ってしまう。
この会話で、前回の「私だけだったの?」という沈みはかなり回復しています。
リュウは本当に何とも思っていなかったわけではない。
ただ、春麗を尊重するために平静を保っていた。
それが分かったことで、春麗の足も午後の修行で安定します。
午後は、抱きとめられないことが春麗の目標になります。
波動拳を越える。
着地を崩さない。
昇龍拳の気配の前でも足を残す。
リュウに受け止められず、自分の足で立つ。
これは修行としての前進です。
同時に、昨日抱きとめられた分の借りを返す、という春麗個人の意地でもあります。
今回の最後で、春麗はかなり機嫌が良くなっています。
昨日は、抱きとめられた記憶で落ち込んでいた。
今日は、昼の会話を思い出して口元が緩んでいる。
リュウの「魅力がないとは思っていない」という言葉が、しっかり刺さっています。
ただし、本人はそれを素直には認めません。
明日の昼食の味を少し変えようかと考えながら、これは修行のため、栄養管理のため、という言い訳も続けています。
修行は進んでいます。
波動拳を越える動きも安定してきました。
抱きとめられずに立てるようにもなりました。
でも同時に、春麗の中ではリュウへの意識もどんどん面倒な方向へ進んでいます。
今回のエピソードは、身体の修行としては「着地安定の回」。
感情面では「自分だけではなかったと分かる回」。
そして春麗の面倒くささとしては、「正しい答えをもらっても、それだけでは満足しきれない回」でした。