また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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※これはディレクターズカットIFです。
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。


ディレクターズカットIF:春麗は、目を閉じた拳をもう一度見る

 記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。

 

『本記録は、ディレクターズカットIFです』

 

『本編確定ログではありません』

『本ログは、第1話敗北ルート後続検証です』

『本ログは、修行六日目の検証記録です』

 

『以下、検証ログを開始します』

 


 

 六日目の朝。

 

 春麗は、稽古着に袖を通した。

 

 鏡の前で袖口を整える。

 帯を結ぶ。

 髪をまとめる。

 

 その動きに、もう迷いは少なかった。

 

 いつもの武道服ではない。

 試合に勝つための服ではない。

 だが、この数日の修行で、この稽古着にもずいぶん記憶が増えていた。

 

 波動拳の前で止まったこと。

 昇龍拳の気配に膝を落としたこと。

 リュウに手を借りて立ったこと。

 波動拳を越えたこと。

 リュウを投げたこと。

 抱きとめられたこと。

 それを昼食の時に問いただしたこと。

 

 そして。

 

 春麗に魅力がないとは思っていない。

 

 リュウの声が、また胸に戻ってきた。

 

 春麗は鏡の中の自分を睨む。

 

「……今、思い出すことじゃないわ」

 

 修行の朝だ。

 

 波動拳を越える。

 着地を崩さない。

 昇龍拳の気配の前で止まらない。

 リュウの拳の前で、自分の身体を戻す。

 

 やるべきことは分かっている。

 

 それなのに、昨日の昼の会話を思い出すと、どうしても顔が緩みそうになる。

 

 自分だけではなかった。

 

 リュウも、何も感じていなかったわけではない。

 ただ、春麗を格闘家として尊重するために、意識して平静を保っていた。

 

 その答えは、かなり悪くなかった。

 

 かなり。

 

 春麗は、頬に手を当てそうになり、すぐにその手を下ろした。

 

「……修行よ」

 

 声に出して、自分に言い聞かせる。

 

 それから台所へ向かった。

 

 朝食を用意する。

 

 そして、昼食を用意する。

 

 自分の分。

 リュウの分。

 

 そこまで考えて、春麗は手を止めた。

 

「……当たり前みたいに作っているわね」

 

 思わず呟く。

 

 最初は、少し多めだった。

 

 あくまで少し。

 作りすぎたわけではない。

 恩を少し返すだけ。

 修行のため。

 栄養管理。

 

 そう言い訳を積み上げていた。

 

 それなのに今は、最初からリュウの分を考えている。

 

 饅頭の数。

 肉の厚さ。

 青菜の水気。

 卵の固さ。

 午後の組手で身体が重くならない量。

 

 全部、二人分で考えている。

 

 春麗は、しばらく包み布を見つめた。

 

 これは、よくないのではないか。

 

 よくない。

 たぶん、よくない。

 だが、理由はある。

 

 修行のため。

 恩を少しでも返すため。

 午後も動けるようにするため。

 リュウが付き合ってくれている以上、こちらも最低限の管理をするため。

 

 言い訳は立つ。

 

 立つなら、いい。

 

 春麗は小さく頷いた。

 

「……理由が立つなら、いいわ」

 

 そういうことにした。

 

 そういうことにして、饅頭を包みに入れる。

 

 今日は、少し味を変えた。

 

 昨日より、香りを軽くする。

 肉の味付けは強すぎないようにする。

 青菜はさっぱりさせる。

 卵には少しだけ塩を利かせる。

 

 リュウは気づくだろうか。

 気づかなくてもいい。

 気づかなくてもいいが、気づかなかったら少し腹が立つかもしれない。

 

「……具体的に聞けばいいだけよ」

 

 春麗は包みを結んだ。

 

 昨日、リュウは少し考えて答えた。

 昨日より食べやすい。

 味が落ち着いている。

 

 あの答えは、悪くなかった。

 

 今日も、少しは考えさせる。

 

 春麗は包みを手に取り、修行場へ向かった。

 


 

 修行場に着くと、リュウはいつものように立っていた。

 

 春麗は足を止めない。

 

 昨日より、胸の揺れは少ない。

 

 少なくとも、そう思うことにした。

 

「早いわね」

 

「ああ」

 

「待っていた?」

 

「ああ」

 

「それはもう少し濁しなさい」

 

「濁す?」

 

「……いいわ。あなたには難しそうだから」

 

「そうか」

 

 春麗はため息をつき、昼食の包みを端に置いた。

 

「今日も昼食はあるわ」

 

「ああ」

 

「最初からあなたの分もある」

 

「ああ」

 

「当たり前だと思わないで」

 

「思っていない」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「ならいいわ」

 

 一拍。

 

「でも、ちゃんと食べなさい」

 

「ああ」

 

 言ってから、春麗は少しだけ顔を背けた。

 

 当たり前だと思うなと言いながら、ちゃんと食べろと言う。

 

 かなり矛盾している。

 

 リュウが何も言わないのが救いだった。

 

 いや、言われたら困る。

 

 でも、言われないのも少しだけ落ち着かない。

 

 春麗は自分の思考を振り払うように、中央へ歩いた。

 

「始めましょう」

 

「ああ」

 

 リュウが構える。

 

 春麗も構えた。

 

 今日は、身体が軽い。

 

 昨日の昼の会話が効いている。

 

 認めたくはないが、効いている。

 

 リュウは、春麗を何とも思っていなかったわけではない。

 それでも、修行中は格闘家として見るよう意識していた。

 

 その答えがあるだけで、春麗の足は昨日より落ち着いていた。

 

 波動拳の距離。

 

 リュウの掌に、青い気が集まる。

 

「行くぞ」

 

「ええ」

 

「波動拳!」

 

 気弾が走る。

 

 春麗は前へ跳んだ。

 

 横へ逃げない。

 

 前方跳躍。

 

 波動拳を見て、息を吐く。

 床を蹴る。

 身体を前へ運ぶ。

 

 波動拳が足元を抜ける。

 

 越えた。

 

 昨日より自然に。

 

 春麗は空中で脚を畳む。

 

 二起脚。

 

 一撃目。

 

 リュウが腕で受ける。

 

 二撃目。

 

 ガードが軋む。

 

 着地と同時に、春麗は身体を回す。

 

 上段蹴。

 

 リュウのこめかみを狙う高さ。

 

 リュウは腕を上げて受ける。

 

 重い感触が足に返る。

 

 だが、春麗は止まらない。

 

 足を引き戻し、すぐに踏み込む。

 

 百裂脚。

 

 細かく、鋭く、連続で蹴りを叩き込む。

 

 リュウはガードを固めた。

 

 腕、肩、体幹で受ける。

 一歩、下がる。

 もう一歩、下がる。

 

 春麗は追う。

 

 蹴る。

 蹴る。

 蹴る。

 

 リュウが下がる。

 

 だが、ただ押されているわけではない。

 

 春麗には分かった。

 

 リュウは、受けながら間合いを作っている。

 

 百裂脚の圧の中で、ほんのわずかに腰を落とす。

 

 掌が、春麗の懐に入る位置へ下がる。

 

 ゼロ距離。

 

 波動拳。

 

 春麗の胸が、一瞬で冷えた。

 

 この距離で。

 

 ここで波動拳を撃たれる。

 

 避けられない。

 

 衝撃が来る。

 

 身体が勝手に判断した。

 

 春麗は百裂脚を止めた。

 

 止めて、ガードを固めようとした。

 

 だが、間に合わないと思った。

 

 衝撃を予想して、目を閉じた。

 

 来る。

 

 そう思った。

 

 しかし。

 

 衝撃は来なかった。

 

 一拍。

 

 何も来ない。

 

 春麗は、恐る恐る目を開けた。

 

 リュウが目の前にいた。

 

 掌を構えたまま、止まっている。

 

 気は集まっている。

 だが、撃たれていない。

 

 リュウは静かに春麗を見ていた。

 

「今のはよかった」

 

 春麗は、息を呑んだままリュウを見る。

 

「……よかった?」

 

「ああ」

 

「どこが」

 

「波動拳を前に越えた」

 

 一拍。

 

「二起脚も入った」

 

 一拍。

 

「上段蹴につないだ」

 

 一拍。

 

「百裂脚で押した」

 

 リュウは淡々と言った。

 

 春麗は、少しだけ胸が熱くなる。

 

 よかった。

 

 リュウが、そう言った。

 

 だが、リュウは続けた。

 

「だが、波動拳で目を閉じたのは問題だ」

 

 春麗は言葉を詰まらせた。

 

「……今のは」

 

「ああ」

 

「何?」

 

「波動拳を出す直前で止めた」

 

「直前で?」

 

「ああ」

 

「撃つつもりだったの?」

 

「撃てる形には入った」

 

「撃たなかった」

 

「ああ」

 

「どうして」

 

「今の段階で、ゼロ距離で受けさせるのは早い」

 

 リュウは春麗を見る。

 

「だが、春麗が目を閉じるかは見たかった」

 

 春麗は眉を寄せた。

 

「……試したの?」

 

「ああ」

 

「悪趣味ね」

 

「必要だと思った」

 

「だからといって、ゼロ距離で波動拳を見せる?」

 

「春麗は、波動拳を越えられるようになってきた」

 

「ああ」

 

「昇龍拳の気配にも、少しずつ動けるようになっている」

 

「ああ」

 

「だが、近い距離で波動拳を見た時、目を閉じた」

 

 春麗は唇を結んだ。

 

 反論できない。

 

 事実だ。

 

 身体が勝手に閉じた。

 

 衝撃が来ると思った。

 受ける前に、目を閉じた。

 

 それは、格闘家として致命的だった。

 

 衝撃は怖い。

 波動拳は怖い。

 近距離ならなおさらだ。

 

 だが、目を閉じれば、次が見えない。

 

 リュウがどう動くかも。

 自分がどう受けるかも。

 どこへ逃がすかも。

 何も見えなくなる。

 

 春麗は拳を握った。

 

「……分かっているわ」

 

「ああ」

 

「今のは駄目」

 

「ああ」

 

「でも、動き自体は悪くなかった」

 

「ああ」

 

「そこは否定しないのね」

 

「しない」

 

 春麗は小さく息を吐いた。

 

 嬉しい。

 

 悔しい。

 

 やはり同時に来る。

 

「もう一度」

 

 春麗が言った。

 

 リュウは首を横に振った。

 

「午前はここまででいい」

 

「まだできるわ」

 

「今の課題は、昼に整理した方がいい」

 

「……あなた、そういう判断は本当に冷静ね」

 

「ああ」

 

「褒めていないわ」

 

「そうか」

 

 春麗は構えを下ろした。

 

 胸の奥はまだ熱い。

 

 波動拳を前方跳躍で越えた。

 二起脚をガードさせた。

 上段蹴へつないだ。

 百裂脚で押した。

 

 そこまではよかった。

 

 だが、ゼロ距離の波動拳で目を閉じた。

 

 新しい課題だった。

 

 怖さは消えていない。

 

 それは分かっていた。

 

 だが、今日はそれが、目を閉じるという形で出た。

 

 春麗は、自分のまぶたに指を当てる。

 

「……次は閉じないわ」

 

 小さく呟いた。

 


 

 昼になった。

 

 二人は修行場の端に座った。

 

 春麗は包みを開く。

 

 自分の分。

 リュウの分。

 

 今日も、当然のようにリュウの分を差し出す。

 

 当然ではない。

 

 ないはずだ。

 

 だが、今さらそこを毎回言い訳するのも面倒だった。

 

「はい」

 

「ああ。ありがとう」

 

「今日は言っていいわ」

 

「そうか」

 

「でも、感想は具体的に」

 

「分かった」

 

 リュウは包みを開いた。

 

 春麗は見ないふりをする。

 だが、もちろん見ている。

 

 リュウが一口食べる。

 

 少しだけ考える。

 

「昨日より、軽い」

 

 春麗は箸を止めた。

 

「軽い?」

 

「ああ。動きやすい味だ」

 

「何それ」

 

「午後も動ける」

 

 春麗は、少しだけ目を細めた。

 

「……まあ、悪くない感想ね」

 

「ああ」

 

「本当に分かって言っている?」

 

「食べやすい」

 

「それを最初に言いなさい」

 

「すまない」

 

「謝らないで」

 

 春麗は自分の分を口に運ぶ。

 

 味は悪くない。

 

 リュウの言う通り、少し軽めにした。

 午後も動けるように。

 胃が重くならないように。

 

 ちゃんと気づいた。

 

 それだけで、朝の手間は無駄ではなかった。

 

 春麗は、少しだけ口元が緩みそうになるのを抑えた。

 

 しばらく、二人は黙って食べた。

 

 沈黙は、もうあまり気まずくない。

 

 風の音。

 箸の音。

 リュウが食べる気配。

 

 その中で、春麗は午前の最後を思い出す。

 

 ゼロ距離の波動拳。

 閉じた目。

 来なかった衝撃。

 

 春麗は箸を置いた。

 

「リュウ」

 

「ああ」

 

「私、だいぶ動けるようにはなってきたわよね」

 

「ああ」

 

 リュウは即答した。

 

 そこは嬉しい。

 

 春麗は少しだけ目を伏せる。

 

「波動拳を越えることも、前よりはできる」

 

「ああ」

 

「着地も崩れにくくなった」

 

「ああ」

 

「昇龍拳の気配を見ても、前よりは足が残る」

 

「ああ」

 

「でも、今日みたいに近くで波動拳を見たら目を閉じた」

 

「ああ」

 

 リュウは静かに頷く。

 

 春麗は、少しだけ息を吸った。

 

「だから、次は受ける修行をしたい」

 

 リュウの目が少し動いた。

 

「受ける?」

 

「ええ」

 

「波動拳を?」

 

「波動拳も」

 

 一拍。

 

「昇龍拳も」

 

 リュウは黙った。

 

 春麗は続ける。

 

「もちろん、本気で当てろと言っているわけじゃないわ」

 

「ああ」

 

「小さい威力でいい」

 

「ああ」

 

「でも、実際に来るものを見て、身体が恐怖に負けずにガードできるか確認したいの」

 

 一拍。

 

「避けるだけでは駄目」

 

 一拍。

 

「越えるだけでも駄目」

 

 一拍。

 

「私は、あなたの拳を見て、受けなければならない」

 

 リュウは春麗を見ている。

 春麗は視線を逸らさなかった。

 

「目を閉じたくないの」

 

 小さく、でもはっきり言った。

 

「次に波動拳が来ると思った時、私は目を閉じた」

 

 一拍。

 

「それが嫌だった」

 

 一拍。

 

「だから、閉じないための修行をする」

 

 リュウは、しばらく考えた。

 

 それから頷く。

 

「分かった」

 

「やるの?」

 

「ああ」

 

「午後?」

 

「ああ」

 

「本当に当てる?」

 

「小さく当てる」

 

「昇龍拳も?」

 

「小さく、軌道を見せる。受けられる強さにする」

 

「寸止めじゃなくて?」

 

「今日は、受ける修行だからな」

 

 春麗は、少しだけ喉が鳴るのを感じた。

 

 怖い。

 

 小さくても、当たる。

 波動拳も、昇龍拳も、実際に来る。

 

 だが、それを受けなければ、この先には進めない気がした。

 

「いいわ」

 

 一拍。

 

「やる」

 

 リュウは静かに答えた。

 

「ああ」

 


 

 午後。

 

 二人は距離を取った。

 

 午前より近い。

 だが、ゼロ距離ではない。

 

 波動拳を見て、ガードできる距離。

 

 春麗は構えた。

 

 足裏に力を込める。

 肩を上げすぎない。

 視線を逸らさない。

 

 目を閉じない。

 

 それだけを、何度も自分に言い聞かせる。

 

「最初は波動拳だ」

 

「ええ」

 

「小さく撃つ」

 

「分かっている」

 

「無理なら言え」

 

「言うわ」

 

「本当にか」

 

「……言うわよ」

 

 リュウは頷いた。

 

 掌に気が集まる。

 

 小さい。

 

 いつもの波動拳より、明らかに抑えられている。

 

 それでも、青い光が見えた瞬間、春麗の胸は固くなった。

 

 来る。

 

 今度は本当に来る。

 

 午前は止めた。

 午後は来る。

 

 春麗は唇を結んだ。

 

 閉じない。

 

「波動拳」

 

 声は小さかった。

 

 気弾が放たれる。

 

 春麗はガードした。

 

 腕に衝撃。

 

 軽い。

 

 だが、確かに来た。

 

 波動拳が腕に当たり、身体が少し押される。

 

 足で床を掴む。

 腰を落とす。

 衝撃を逃がす。

 

 目は閉じていなかった。

 

 春麗は息を吐いた。

 

「……受けた」

 

「ああ」

 

「目は?」

 

「閉じていなかった」

 

 春麗は小さく息を吸った。

 

 胸の奥が熱くなる。

 

 怖かった。

 怖かったが、見ていた。

 

 波動拳が来るところを。

 腕に当たる瞬間を。

 衝撃が抜けるところを。

 

 見ていた。

 

「もう一度」

 

「ああ」

 

 二度目。

 

 波動拳。

 

 春麗はガードする。

 

 今度は少しだけ足が滑った。

 だが、目は閉じない。

 

 三度目。

 

 春麗は半歩踏み込んで受けた。

 

 衝撃が強くなる。

 

 怖い。

 

 だが、目は閉じない。

 

 リュウが頷く。

 

「いい」

 

「まだよ」

 

「ああ」

 

「次」

 

 春麗は言った。

 

 リュウは構えを変えた。

 

 昇龍拳。

 

 小さい威力。

 受けられる軌道。

 それでも、春麗の身体の奥は一気に冷えた。

 

 波動拳とは違う。

 

 この拳は、春麗を撃ち落とした拳だ。

 

 空を奪った拳。

 膝を落とした拳。

 寸止めでも身体を固めた拳。

 

 それが、今度は当たる。

 

 小さくても。

 

 春麗は拳を握った。

 

「来て」

 

 声が少しだけ震えた。

 

 リュウは、それを聞いてから動いた。

 

 ゆっくりではない。

 だが、本気の速度でもない。

 

 身体が沈む。

 拳が下から上がる。

 

 昇龍拳。

 

 春麗の視界が狭くなる。

 

 閉じるな。

 

 春麗は、自分に命じた。

 

 腕を上げる。

 

 ガード。

 

 リュウの拳が当たった。

 

 軽い衝撃。

 

 だが、波動拳より鋭い。

 

 腕を押し上げられる。

 身体がわずかに浮きそうになる。

 足が床を掴む。

 

 春麗は目を閉じなかった。

 

 最後まで見た。

 

 リュウの拳が上がるところ。

 自分の腕に当たるところ。

 衝撃が抜けるところ。

 リュウが止まるところ。

 

 全部、見た。

 

 春麗は、荒い息を吐いた。

 

「……受けた」

 

「ああ」

 

「昇龍拳を」

 

「ああ」

 

「小さいけど」

 

「ああ」

 

「本気じゃないけど」

 

「ああ」

 

「でも、受けた」

 

「ああ」

 

 リュウは、静かに頷いた。

 

「目を閉じていなかった」

 

 その言葉で、春麗の胸が大きく揺れた。

 

 怖かった。

 

 かなり怖かった。

 

 でも、閉じなかった。

 

 春麗は腕を下ろす。

 

 少し痺れている。

 

 だが、嫌な痺れではない。

 

 自分で受けた感触だった。

 

「もう一度」

 

 春麗が言った。

 

 リュウは、少しだけ春麗を見る。

 

「今日は、あと一度だけだ」

 

「分かったわ」

 

「怖さを残しすぎると、明日に響く」

 

「分かっている」

 

「なら、最後に一度」

 

「ああ」

 

 最後の一本。

 

 リュウは小さく波動拳を撃つ。

 

 春麗はガードする。

 

 目を閉じない。

 

 そのまま、リュウが踏み込む。

 

 昇龍拳の軌道。

 

 春麗は腕を上げる。

 

 ガード。

 

 衝撃。

 

 怖い。

 

 でも、見ている。

 

 リュウの拳が止まる。

 

 春麗は立っていた。

 

 自分の足で。

 

 目を開けたまま。

 

 息は荒い。

 腕も痛い。

 足も震えている。

 

 だが、立っている。

 

「……できた」

 

「ああ」

 

 リュウは、少しだけ表情を緩めたように見えた。

 

「これなら、明日できる」

 

 春麗は顔を上げる。

 

「明日?」

 

「ああ」

 

「何を?」

 

「修行が完成したか、試験できる」

 

 春麗は息を呑んだ。

 

 試験。

 

 その言葉が、胸の中に落ちる。

 

 波動拳を見る。

 越える。

 近距離に入る。

 投げる。

 受ける。

 昇龍拳を見ても目を閉じない。

 

 その全部が、少しずつ繋がってきた。

 

 明日、それを試す。

 

 春麗は、疲れた腕を握った。

 

「……いいわ」

 

 一拍。

 

「明日、試験しましょう」

 

「ああ」

 

「でも、勘違いしないで」

 

「ああ」

 

「完成したかどうかを確かめるだけよ」

 

「ああ」

 

「あなたに勝つための修行は、そこからまた続くわ」

 

 リュウは静かに頷いた。

 

「ああ」

 

「待っていなさい」

 

「ああ」

 

 春麗は構えを解いた。

 

 身体は疲れ切っている。

 

 だが、今日の疲れは悪くなかった。

 

 午前、目を閉じた。

 午後、目を開けて受けた。

 

 それだけで、今日一日の意味は十分だった。

 


 

 その日の帰り道。

 

 春麗は、いつもより少しだけ腕を気にしながら歩いていた。

 

 波動拳を受けた腕。

 昇龍拳を受けた腕。

 

 軽い威力だった。

 修行用だった。

 本気ではなかった。

 

 それでも、確かに受けた。

 

 怖さに目を閉じずに。

 

 春麗は、空になった包みを持ち直す。

 

 明日も、昼食は作るだろう。

 

 試験がある。

 体力がいる。

 集中もいる。

 リュウも食べる。

 

 理由は立つ。

 

 十分に立つ。

 

「……明日は、少し多めじゃなくて」

 

 一拍。

 

「ちゃんと二人分かしら」

 

 言ってから、春麗は足を止めた。

 

 何を言っているの。

 

 少し多め。

 

 あくまで少し多め。

 

 春麗は、誰もいない道で小さく首を振った。

 

「……修行のためよ」

 

 そう言い聞かせる。

 

 だが、その声は、昨日より少しだけ弱かった。

 


 

 記録板AIは、その日のログを静かに保存した。

 

『検証ログ終了』

 

『保存名』

『春麗は、目を閉じた拳をもう一度見る』

 

『保存先』

『ディレクターズカットIF外部検証領域』

 

『補足』

『午前進捗:前方跳躍から二起脚、上段蹴、百裂脚まで接続成功』

 

『補足』

『新規課題:ゼロ距離波動拳の予備動作で目を閉じる』

 

『補足』

『午後進捗:小威力波動拳、小威力昇龍拳のガード成功』

 

『補足』

『修行状態:翌日、完成確認試験へ移行可能』

 

『補足』

『春麗昼食認識:少し多めから二人分へ移行しかけるも未承認』

 

『以上』

 




Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?

A:

今回は、修行六日目のエピソードになります。

前回、春麗はリュウに「自分だけが動揺していたのか」を問いただし、リュウから「春麗に魅力がないとは思っていない」という答えを受け取りました。
そのうえで、リュウは春麗を軽く扱わないために、修行中は一人の格闘家として見るよう意識していたことも分かりました。

その結果、今回の春麗はかなり調子がいいです。

精神的な引っかかりが一つ取れたことで、身体の動きも安定してきています。
波動拳を前方跳躍で越え、二起脚、上段蹴、百裂脚までつなげる。
ここまで来ると、最初に波動拳の前で止まっていた頃とはかなり違います。

ただ、順調に見えたところで新しい課題が出ます。

リュウが百裂脚をガードしながら後退し、ゼロ距離で波動拳を撃つ形に入る。
春麗は百裂脚を止めますが、その瞬間、来るはずの衝撃を予想して目を閉じてしまう。

ここが今回の大きなポイントです。

春麗はもう波動拳を越えられるようになってきました。
昇龍拳の気配にも、以前よりは身体が残るようになっています。
でも、近距離で本当に波動拳が来ると思った時、まだ目を閉じてしまう。

避ける修行は進んだ。
踏み込む修行も進んだ。
でも、受ける覚悟はまだ足りなかった。

今回の午前は、その課題を見つけるための組手でした。

リュウは波動拳を撃つ直前で止めています。
これは春麗を追い詰めるためではなく、今の春麗がどこで目を閉じるのかを見るためです。
春麗としては悪趣味に感じるでしょうが、修行としてはかなり必要な確認でした。

そして昼食パートでは、春麗が自分から次の段階を提案します。

波動拳を避けるだけではなく、実際に受ける。
昇龍拳も、寸止めではなく、小さい威力で実際にガードする。

これは、かなり大きな進歩です。

今までは、リュウの拳を「来る前にどう越えるか」「来る気配の前でどう止まらないか」が中心でした。
今回はそこから一歩進んで、「来る拳を見たまま受ける」段階に入っています。

春麗が一番嫌だったのは、目を閉じたことです。
怖かったこと自体ではありません。
怖いのは仕方ない。
でも、格闘家として、来るものを見ずに目を閉じた。
そこが春麗には許せなかった。

だから午後、春麗は小威力の波動拳を受けます。
そして、小威力の昇龍拳も受けます。

本気ではありません。
修行用に抑えた威力です。
それでも、春麗にとっては非常に大きい。

波動拳が来るところを見た。
腕に当たる瞬間を見た。
衝撃が抜けるところを見た。
昇龍拳が上がるところを見た。
自分のガードに当たるところを見た。
最後まで目を閉じなかった。

この「目を閉じなかった」が、今回の勝利です。

勝負に勝ったわけではありません。
リュウを倒したわけでもありません。
でも、春麗は自分の身体に刻まれた恐怖に対して、一つ明確に勝っています。

そして最後に、リュウから「明日、修行が完成したか試験できる」と言われます。

ここで修行編は、いよいよ完成確認に入ります。
波動拳を越える。
近距離に入る。
投げる。
波動拳を受ける。
昇龍拳を受ける。
目を閉じない。

ここまで積み上げてきたものを、明日まとめて試す段階に来たわけです。

もう一つ、今回の裏の進行として、昼食があります。

春麗はもうかなり自然にリュウの分を作っています。
本人は「修行のため」「栄養管理」「恩を返すため」と言い続けていますが、最後には「少し多めではなく、ちゃんと二人分かしら」と言いかけています。

これはかなり危険です。

最初は本当に少し多めでした。
でも、今はもうリュウが食べることを前提に献立を考えている。
しかも、味の感想まで具体的に求めている。

春麗本人はまだ認めていませんが、修行場での昼食は、もう二人の時間として定着し始めています。

今回のエピソードは、修行面では「目を閉じずに受ける回」。
関係面では「昼食が少し多めから二人分に変わりかける回」。
そして次回への引きとしては、「修行完成確認試験の前日」になります。

春麗はまだ完全に克服したわけではありません。
でも、もう波動拳から目を逸らすだけの春麗ではありません。
昇龍拳を前に、目を閉じずに受けた春麗です。

ようやく、リュウの拳の前で止まっていた身体が、次の段階へ進み始めました。
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