また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
記録板AIは、外部検証領域に静かなログを表示した。
『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本編確定ログではありません』
『本ログは、第1話敗北ルート後続検証です』
『本ログは、修行六日目夜、試験前夜の検証記録です』
『以下、検証ログを開始します』
その夜。
春麗は自室に戻ってから、しばらく動けなかった。
修行用の服を脱ぐ前に、鏡の前に立つ。
汗を含んだ髪。
少し疲れた目。
肩に残る筋肉の張り。
腕に残る波動拳の衝撃。
昇龍拳を受けた時の鋭い痺れ。
どれも、今日の修行の結果だった。
午前、春麗は波動拳を前方跳躍で越えた。
二起脚をリュウにガードさせた。
上段蹴へつなげ、百裂脚で押した。
そこまではよかった。
けれど、リュウがゼロ距離で波動拳を撃つ形に入った瞬間、春麗は目を閉じた。
衝撃が来ると思った。
避けられないと思った。
身体が、先に目を閉じてしまった。
それが悔しかった。
だから午後、春麗は小さな波動拳を受けた。
小さな昇龍拳を受けた。
目を閉じずに。
最後まで見て。
自分の腕で受けて、自分の足で立った。
リュウは言った。
これなら、明日、修行が完成したか試験できる。
試験。
明日。
その言葉が、今も胸の奥に沈んでいる。
春麗は、鏡の中の自分を見つめた。
「……明日」
小さく呟く。
明日、自分は試験を受ける。
波動拳を見る。
越える。
近距離に入る。
リュウの迎撃を見ても、止まらない。
波動拳を受ける。
昇龍拳を受ける。
目を閉じない。
足を止めない。
リュウの拳の前で、自分が戻れたかどうかを見る。
それは、良いことだ。
いつまでもこの修行を続けるわけにはいかない。
リュウにも旅がある。
春麗にも仕事がある。
追うべき組織がある。
捕まえなければならない相手がいる。
修行は、終わるべきものだ。
克服できるなら、終わった方がいい。
そう分かっている。
分かっているのに。
春麗は、鏡の前で動けなかった。
明日、試験に合格したら。
リュウは、また旅立つのではないか。
そう思ってしまったからだ。
春麗は椅子に座り、ゆっくり髪をほどいた。
この数日だけではない。
リュウと出会ってからのことが、順番ではなく、ひとつながりになって戻ってきた。
最初に見誤られた。
女として見られ、拳を鈍らされた。
春麗はそれを見抜き、その甘さを叩き潰すつもりだった。
けれど、リュウは試合中に修正した。
春麗を格闘家として見直し、女として見た事実も消さず、その両方を抱えたまま春麗へ届いた。
負けた。
ギリギリだった。
あと一撃。
あと半歩。
あと一呼吸。
それでも、最後に立っていたのはリュウだった。
その後も、春麗は何度もリュウと戦った。
負けた。
また負けた。
届きかけて、届かなかった。
そのたびに、リュウは春麗を見ていた。
勝ち誇らず。
軽く扱わず。
ただ、春麗を見ていた。
そして、強かったと言った。
悔しかった。
悔しいのに、その言葉を捨てられなかった。
ようやく勝った日も覚えている。
リュウの額に敗者の印をつけた。
やっと刻み返せたと思った。
嬉しかった。
誇らしかった。
ようやく自分が勝者になれたと思った。
けれど、その後、リュウは二週間来なかった。
春麗は待った。
認めたくなかったが、待っていた。
今日来るかもしれない。
明日来るかもしれない。
私に負けたことを、あの男はどう受け止めているのだろう。
忘れていたら許せない。
覚えていたら、たぶん落ちる。
来たら困る。
来なければ腹が立つ。
そんなことばかり考えていた。
勝ったのは自分なのに。
待っていたのも自分だった。
「……あの二週間は、今思い返しても本当に腹が立つわ」
春麗は小さく言った。
けれど、今はもう、その腹立たしさだけでは説明できない。
リュウは、忘れていなかった。
春麗に負けたことを覚えていた。
春麗がつけた印を覚えていた。
だから、修行して戻ってきた。
そして、戻ってきたリュウは春麗を倒した。
波動拳で誘い。
跳び込んだ春麗を昇龍拳で撃ち落とし。
動けなくなったところへ、竜巻旋風脚まで重ねた。
完敗だった。
あの時、春麗の身体は止まった。
リュウは、覚えて強くなった。
春麗は、覚えて止まった。
同じ「覚えている」なのに、リュウは前へ進み、春麗は止まった。
それが悔しくて。
それが許せなくて。
だから、この修行が始まった。
波動拳を見ること。
跳び込むこと。
昇龍拳の気配に足を止めないこと。
衝撃を予想しても目を閉じないこと。
自分の腕で受け、自分の足で立つこと。
リュウは、それを見ていた。
どこで止まるか。
どこで息を詰めるか。
どこからなら動けるか。
無理に励まさなかった。
慰めもしなかった。
ただ、春麗を壊れ物のようには扱わなかった。
止まっている身体を、戻せるものとして見ていた。
それが、悔しくて。
ありがたかった。
春麗は、机の上に置いた包み布を見る。
明日の昼食用に、すでに畳んである布。
いつからだろう。
これを準備するのが、こんなに自然になったのは。
最初は、自分の分だけだった。
次は、少し多め。
あくまで少し。
もう一人分ではない。
作りすぎたわけでもない。
修行に付き合ってもらっているから。
恩を少し返すだけだから。
栄養管理だから。
午後も動くためだから。
言い訳なら、いくつもあった。
今もある。
けれど、六日目の朝には、春麗はもう最初からリュウの分を考えていた。
饅頭の数。
肉の厚さ。
青菜の水気。
卵の固さ。
午後の組手で身体が重くならない量。
そして、リュウが気づくかどうかまで考えていた。
「……当たり前みたいに作っているわね」
朝にも言った言葉を、もう一度言う。
今度は、少し違って聞こえた。
朝はまだ、修行のためだと押し切れた。
でも、夜は違う。
自室。
一人。
明日の試験の前夜。
もう、誰に言い訳する必要もない。
春麗は、ゆっくり息を吐いた。
リュウが食べるところを見るのは、嫌ではなかった。
嫌ではないどころか。
嬉しかった。
うまい、と言われるのが嬉しかった。
具体的に、と迫るのが楽しかった。
少し考えて、昨日より食べやすいとか、動きやすい味だとか、よく分からない感想を返されるのも悪くなかった。
宿のことも聞いた。
旅のことも聞いた。
金の管理をケンに任せていることも知った。
リュウが、拳以外の部分では思ったより危なっかしいことも知った。
それを心配してしまった。
自分のことも少し話した。
捜査官であること。
追っている組織があること。
父のことが関係していること。
すべてを話したわけではない。
でも、少し話した。
リュウは聞いた。
余計な慰めは言わなかった。
無理に踏み込んでも来なかった。
ただ、受け止めた。
そして言った。
春麗の拳には行き先がある。
その言葉は、今でも胸に残っている。
春麗は鏡の中の自分を見る。
自分の拳には行き先がある。
その行き先へ向かう途中に、今、リュウがいる。
そう思っていた。
その時は、それでよかった。
けれど今は、もう少し違う。
リュウは、ただ途中にいる相手ではなくなっている。
四日目のことも思い出す。
波動拳を越えた後、着地の重心を崩した。
そのままリュウの昇龍拳の軌道に入りかけて、抱きとめられた。
修行中の事故。
安全確保。
それだけ。
それだけのはずだった。
けれど、リュウの腕が背中に回ったことも。
肩の後ろを支えられたことも。
腰の近くに手があったことも。
道着越しの体温が近かったことも。
春麗の心臓は、全部覚えていた。
それなのに、リュウは平然としていた。
危なかった。
立てるか。
着地が浅かった。
それだけ。
春麗だけが動揺しているように見えた。
だから、翌日の昼食で聞いた。
私って魅力ない?
今思い出しても、よく聞いたと思う。
春麗は、恥ずかしさで少しだけ顔をしかめた。
「……本当に、よく聞いたわね」
けれど、聞いてよかった。
リュウは逃げなかった。
春麗に魅力がないとは思っていない。
そう答えた。
初戦で、春麗を格闘家としてだけではなく女としても見て、拳が鈍った。
それは未熟だった。
春麗に対して失礼だった。
だから今は、春麗を一人の格闘家として見るように意識している。
その答えを聞いた時。
春麗は、かなり満更ではなかった。
かなり。
かなり、だった。
なのに、全く反応がないのも違うと言った。
自分でも面倒だと思う。
格闘家として見てほしい。
女だからと拳を鈍らせられるのは嫌。
修行中に変な目で見られたら怒る。
でも、女として何とも思われていないように見えるのも嫌。
矛盾している。
ものすごく面倒くさい。
それなのに、リュウは考えた。
分からないなりに、真面目に考えた。
そして、春麗は難しいな、と言った。
春麗は、思い出して少し笑った。
「……本当に、難しいのはあなたの方よ」
誰もいない部屋で言う。
でも、声は柔らかかった。
リュウは分からない。
分からないなりに、逃げない。
春麗が面倒なことを言っても、受け止める。
間違える。
直球で言う。
春麗を怒らせる。
けれど、軽く扱わない。
それが、リュウだった。
春麗は、髪をほどき終えた。
肩が軽くなる。
だが、胸の奥は重かった。
明日。
試験に合格したら。
リュウは、きっとまた旅に戻る。
明日で修行が終わるなら、リュウがこの街に残る理由も薄くなる。
最初から、そうだった。
リュウは旅をしている。
強さの答えを探している。
一つの場所に留まる人間ではない。
春麗の修行に付き合ってくれたのは、リュウが春麗と向き合うことも修行になると言ったからだ。
でも、修行が一区切りついたら。
リュウは、また次へ行く。
たぶん。
きっと。
春麗は机の上の包み布を見つめた。
明日の昼食。
試験の後に食べるかもしれない。
勝っても。
負けても。
止まらずに動けても。
まだ少し足りなくても。
リュウは、たぶん食べる。
そして、うまいと言う。
春麗は、具体的に、と返す。
そのやり取りが、明日もある。
でも、その次は?
明後日は?
その次の日は?
朝、修行場へ行く。
リュウがいる。
波動拳を見る。
組手をする。
昼食を広げる。
リュウが食べる。
春麗が文句を言う。
夕方、また明日と言う。
その日々が、明日で終わるかもしれない。
そう思った瞬間、春麗の胸の奥に、はっきりとした寂しさが広がった。
「……寂しい」
言ってしまった。
小さな声だった。
それでも、自分には聞こえた。
修行が終わるのが寂しい。
リュウと朝から夕方まで過ごす日々が終わるのが寂しい。
昼食を広げて、くだらないようでくだらなくない会話をする時間がなくなるのが寂しい。
リュウがまた旅に戻るかもしれないと思うと、胸が重い。
それは、勝負相手に対する感情だけではなかった。
春麗は、椅子から立ち上がった。
鏡の前に立つ。
自分の顔を見る。
疲れている。
少し照れている。
困っている。
でも、もう逃げられない顔をしている。
「……私は」
言葉が喉で止まる。
勝ちたい。
それは本当。
今でも本当。
明日の試験で止まりたくない。
リュウの波動拳の前で、昇龍拳の前で、自分の足で立ちたい。
いつか、もう一度リュウに勝ちたい。
それは消えない。
けれど、それだけではない。
悔しい。
それも本当。
最初に見誤られたことも。
そのうえで届かれて負けたことも。
ようやく勝った後、二週間待たされたことも。
二週間後に、波動拳から昇龍拳、竜巻旋風脚で完敗させられたことも。
抱きとめられて自分だけ動揺したことも。
具体的な感想をなかなか言わないことも。
全部、腹が立つ。
けれど、それだけでもない。
恩がある。
それも本当。
修行に付き合ってくれた。
春麗を壊れ物のように扱わず、格闘家として見てくれた。
止まった身体を、戻せるものとして見てくれた。
けれど、恩だけでは足りない。
リュウに見ていてほしい。
リュウに覚えていてほしい。
リュウが自分の昼食を食べるのが嬉しい。
うまいと言われるのが嬉しい。
春麗の拳には行き先があると言われたことが、今でも残っている。
魅力がないとは思っていないと言われて、あんなに機嫌が良くなった。
明日で修行が終わるのが寂しい。
リュウが旅立つかもしれないのが嫌だ。
これに、名前をつけるなら。
春麗は、鏡の中の自分を見つめた。
「……好き、なのね」
言った瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
声は小さかった。
誰にも聞こえない。
それでも、自分には聞こえた。
春麗は、リュウに好意を抱いている。
勝負相手としてだけではない。
恩人としてだけでもない。
修行相手としてだけでもない。
最初に自分を見誤った相手。
それでも試合中に見直し、最後に自分へ届いた相手。
自分を何度も負かした相手。
自分がようやく勝った相手。
二週間、自分を待たせた相手。
自分に負けたことを覚えて、修行して戻ってきた相手。
自分を波動拳で誘い、昇龍拳で撃ち落とし、竜巻旋風脚で完敗させた相手。
その後、自分の修行に付き合った相手。
昼食を一緒に食べた相手。
自分の拳の行き先を見てくれた相手。
自分を格闘家として見てくれた相手。
それでも、女として何も感じていないわけではなかった相手。
その全部を含めて。
春麗は、リュウのことが好きなのだ。
春麗は両手で顔を覆った。
「……最悪」
声は、思ったより弱かった。
最悪。
本当に最悪。
よりによって、明日が試験だという夜に気づくなんて。
二週間後のあの試合で刻まれた波動拳と昇龍拳の前で、自分が止まらずに動けるかどうかの試験前夜に。
自分がリュウを好きだと気づくなんて。
集中しなければいけないのに。
明日は目を閉じてはいけないのに。
リュウの拳の前で、自分の足で立たなければいけないのに。
こんな感情を、今、自覚するなんて。
春麗は、顔を覆ったまま深く息を吐いた。
けれど。
最悪と言いながら、胸の奥は不思議と軽かった。
名前をつけてしまったからだ。
今まで、勝負心だと思っていた。
悔しさだと思っていた。
恩だと思っていた。
修行仲間への信頼だと思っていた。
気になるだけだと思っていた。
その全部が嘘だったわけではない。
でも、それらをまとめる名前が、ようやく分かった。
好き。
その一言を認めたら、今までの出来事が違う形で並び始めた。
初戦で見誤られ、見直され、負けたこと。
何度も負けたこと。
ようやく勝ったこと。
二週間、リュウを待っていたこと。
二週間後の再戦で、リュウに完敗し、身体に止まる記憶を刻まれたこと。
昼食を作る時の言い訳。
抱きとめられた夜の落ち込み。
魅力がないのかと聞いた昼。
具体的な感想を求める自分。
修行が終わることへの寂しさ。
全部、つながった。
春麗は、ゆっくり顔を上げた。
鏡の中の自分は、まだ困っていた。
けれど、さっきより少しだけ覚悟が決まっている顔だった。
「……明日は止まらない」
明日の試験は、告白のためではない。
恋を確認するための試合でもない。
これは、自分がリュウの拳の前に戻れるかどうかの試験だ。
好きだと気づいたからといって、手を抜く理由にはならない。
むしろ、余計に止まれない。
好きな相手の拳の前で、止まったままではいたくない。
好きな相手に、壊れ物のように見られたくない。
好きな相手に、格闘家として見てほしい。
そして、できるなら。
春麗は、少しだけ口元を引き結んだ。
勝ちたい。
やっぱり、それは変わらない。
リュウに勝ちたい。
好きだと気づいても、そこは消えなかった。
むしろ、少し強くなった。
「……面倒ね」
春麗は、鏡の中の自分に言った。
好き。
勝ちたい。
見ていてほしい。
でも、見られすぎると困る。
修行が終わるのは寂しい。
でも、試験には合格したい。
リュウに旅立ってほしくない。
でも、リュウの旅を止める理由はまだない。
自分でも呆れるほど、面倒だった。
けれど、今夜だけは。
春麗は、その面倒さを少しだけ許した。
明日の昼食用の包みを手に取る。
少し考えて、いつもより丁寧に結び直した。
明日、試験が終わった後に食べるかもしれない。
リュウは、たぶん食べる。
そして、うまいと言う。
春麗は、具体的に、と返す。
その未来を思い浮かべて、春麗は少しだけ笑った。
「……明日で終わりなんかに、してたまるものですか」
小さく言う。
修行は一区切りつくかもしれない。
でも、リュウとの関係まで終わるわけではない。
終わらせない。
そのためにも、明日は止まらない。
春麗は灯りを落とす前に、もう一度だけ鏡を見た。
「リュウのことが好き」
今度は、最初より少しだけ落ち着いて言えた。
それからすぐに、顔を赤くして目を逸らす。
「……明日だけは、絶対に本人の前で言わないわよ」
誰に対する釘刺しか分からない。
けれど、その言葉を最後に、春麗はようやく眠る準備に入った。
明日は、試験。
二週間後の再戦で刻まれた、リュウの波動拳の前で。
リュウの昇龍拳の前で。
自分が止まらずにいられるかを見る日。
そして。
自分がリュウを好きだと知った、最初の翌日だった。
記録板AIは、夜のログを静かに保存した。
『検証ログ終了』
『保存名』
『春麗は、終わる修行の前夜に名前をつけてしまう』
『保存先』
『ディレクターズカットIF外部検証領域』
『補足』
『翌日、試合形式による克服試験予定』
『補足』
『春麗、修行終了への寂しさを自覚』
『補足』
『春麗、リュウへの好意を言語化』
『補足』
『春麗認識:試験合格後、リュウが旅立つ可能性を予感』
『補足』
『設定整理:初戦は見誤り・見直し・ギリギリ敗北。昇龍拳トラウマは初勝利後、二週間待たされた再戦で発生』
『補足』
『春麗精神HP:減少ではなく高負荷安定状態』
『以上』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、修行六日目の夜、試験前夜のエピソードになります。
前回、春麗は小威力の波動拳と昇龍拳を、目を閉じずに受けました。
それによって、リュウから「明日、修行が完成したか試験できる」と言われています。
つまり今回は、修行そのものではなく、その試験前夜に春麗が何を思うかの回です。
冒頭では、まず今日の修行の成果を振り返っています。
午前はゼロ距離の波動拳で目を閉じてしまった。
午後は、小威力とはいえ波動拳と昇龍拳を目を開けたまま受けた。
ここで春麗は、自分が本当に少しずつ戻ってきていることを理解しています。
ただ、今回の主題は修行の進捗そのものではありません。
明日、試験に合格したらどうなるのか。
春麗はそこで、リュウがまた旅立つかもしれないと予感します。
ここが今回の一番大きな転換点です。
これまでの修行は、春麗がリュウの拳の前で止まった身体を戻すためのものでした。
波動拳を越える。
昇龍拳の気配に止まらない。
近距離で崩れない。
実際に波動拳と昇龍拳を受ける。
そうやって、格闘家としての春麗はかなり戻ってきています。
でも、戻ってきたからこそ、修行が終わる可能性が出てきた。
修行が終われば、リュウがこの街に残る理由も薄くなる。
リュウは旅をしている男なので、きっとまた次へ行く。
その予感が、春麗に「寂しい」と思わせます。
ここで春麗は、初めて自分の感情を逃げずに見ています。
最初にリュウに負けたこと。
その後、何度も負けたこと。
ようやく勝って、リュウの額に敗者の印をつけたこと。
けれど、リュウが二週間来なくて、自分が待っていたこと。
リュウが春麗の敗北も勝利も覚えていたこと。
昇龍拳に撃ち落とされたこと。
修行に付き合ってくれたこと。
昼食を一緒に食べたこと。
「うまい」と言われるのが嬉しかったこと。
自分の拳には行き先があると言われたこと。
抱きとめられた夜に、自分だけ動揺したのかと落ち込んだこと。
「魅力がないとは思っていない」と言われて、かなり機嫌が良くなったこと。
これまで別々の感情だと思っていたものが、今回ようやく一つにつながります。
勝ちたい。
悔しい。
恩がある。
見ていてほしい。
覚えていてほしい。
昼食を食べてほしい。
旅立ってほしくない。
明日で終わるのが寂しい。
その全部に名前をつけるなら、「好き」だった。
この回は、春麗がリュウへの好意を自覚する回です。
ただし、この春麗らしいのは、好きだと気づいても「勝ちたい」が消えないところです。
好きだと分かったから、勝負がどうでもよくなるわけではありません。
むしろ、好きな相手だからこそ、波動拳の前で止まったままではいたくない。
好きな相手だからこそ、壊れ物のように見られたくない。
好きな相手だからこそ、格闘家として正面から見てほしい。
そして、できれば勝ちたい。
ここが、今回の春麗の大事なところです。
恋を自覚しても、格闘家としての春麗は消えません。
勝ちたい春麗も消えません。
むしろ、恋を自覚したことで、勝ちたい理由が少し強くなっています。
それと同時に、昼食の意味も変わってきています。
最初は「少し多め」でした。
礼ではない、修行のため、栄養管理、恩の返済。
そう言い訳しながら作っていました。
でも今は、明日の試験後にリュウが食べることを考えて、包みを丁寧に結び直しています。
リュウが「うまい」と言い、春麗が「具体的に」と返す未来を想像して、少し笑っている。
この時点で、昼食はもう単なる栄養管理ではありません。
春麗にとって、リュウと続いてほしい時間の象徴になっています。
だから最後に、春麗は「明日で終わりなんかに、してたまるものですか」と言います。
修行は終わるかもしれない。
でも、リュウとの関係まで終わるわけではない。
終わらせない。
この気持ちが、次の試験につながります。
今回のエピソードは、修行編としては「試験前夜」。
感情面では「好意の自覚回」。
構造としては、「リュウとの修行が終わるかもしれない寂しさが、春麗に自分の気持ちを認めさせる回」でした。
春麗は、リュウを好きだと気づきました。
でも明日やることは変わりません。
波動拳を見る。
昇龍拳を見る。
目を閉じない。
止まらない。
自分の足で立つ。
そして、好きな相手の前で、格闘家として戻ってみせる。
そこが、この修行編の最終試験前夜として一番書きたかった部分です。