また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
記録板AIは、外部検証領域に静かな最終試験ログを表示した。
『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本編確定ログではありません』
『本ログは、第1話敗北ルート後続検証です』
『本ログは、修行最終試験の検証記録です』
『以下、検証ログを開始します』
翌朝。
春麗は、いつもより少し早く目を覚ました。
眠れなかったわけではない。
むしろ、不思議なくらい頭は冴えていた。
昨日の夜、自分で言ってしまった言葉が、まだ胸の奥に残っている。
好き。
リュウを。
勝ちたい相手として。
悔しい相手として。
恩を借りた相手として。
昼食を一緒に食べた相手として。
自分の拳の行き先を見てくれた相手として。
その全部を含めて、好きなのだと。
春麗は布団の上で目を閉じた。
「……今日は言わないわよ」
小さく呟く。
今日は告白の日ではない。
今日は、試験の日だ。
リュウの波動拳の前で止まらないか。
リュウの昇龍拳の前で目を逸らさないか。
リュウに初勝利した二週間後に行われた再戦で身体に刻まれた停止反応を、本当に越えられるか。
それを確かめる日だ。
春麗は起き上がり、稽古着に袖を通した。
袖口を整える。
帯を結ぶ。
髪をまとめる。
鏡の中の自分は、昨日までと少し違って見えた。
好意を自覚したからといって、弱くなったわけではない。
むしろ、逃げられなくなった。
好きな相手の拳の前で、止まったままではいたくない。
好きな相手に、壊れ物のように見られたくない。
好きな相手に、格闘家として見てほしい。
だから、今日は止まらない。
春麗は昼食の包みを手に取った。
いつもより少し丁寧に結んである。
試験が終わった後、食べるかもしれない。
勝っても。
負けても。
合格でも。
まだ少し足りなくても。
リュウは、たぶん食べる。
そして、うまいと言う。
春麗は、具体的に、と返す。
その未来を思い浮かべると、胸が少しだけ温かくなる。
けれど同時に、重くもなった。
今日、試験に合格したら。
リュウは、また旅に戻るかもしれない。
いや、きっと戻る。
修行が終われば、リュウがこの街に残る理由は薄くなる。
春麗は包みを抱え直し、小さく息を吐いた。
「……だからこそ、今日で終わらせない」
修行は終わってもいい。
でも、関係まで終わらせるつもりはない。
春麗は部屋を出た。
朝の修行場は、いつもより静かに感じた。
春麗は入口の前で一度だけ足を止める。
ここへ通う日々も、今日で一区切りになる。
朝、修行場へ来る。
リュウが待っている。
波動拳を見る。
昇龍拳の気配に向き合う。
昼食を広げる。
リュウが「うまい」と言う。
春麗が「具体的に」と返す。
そんな日々が、今日で終わるかもしれない。
胸の奥が少し重い。
怖いからではない。
波動拳が怖くないわけではない。
昇龍拳の気配が身体に残っていないわけでもない。
けれど、今の重さはそれとは違う。
寂しい。
昨日、自分で認めた感情が、朝になっても消えていなかった。
春麗は首を振る。
「……試験の日に、何を考えているのよ」
今日は、リュウの拳の前に戻る日だ。
春麗は顔を上げた。
修行場の中央に、リュウが立っている。
いつもの白い道着。
いつもの静かな目。
いつもの、春麗を待つ姿。
それを見た瞬間、胸が少し跳ねる。
だが、足は止まらなかった。
春麗はリュウの前まで歩いた。
「早いのね」
「ああ」
「今日も?」
「ああ」
「本当に、あなたは変わらないわね」
「そうか」
「ええ」
一拍。
「だから、助かることもあるけれど」
リュウが春麗を見る。
春麗は、すぐに視線を逸らした。
「今のは深く考えないで」
「ああ」
「考えないのも腹が立つわね」
「難しいな」
「ええ。私もそう思うわ」
春麗は昼食の包みを修行場の端に置き、軽く身体を伸ばした。
肩。
腕。
腰。
膝。
足首。
どこにも大きな違和感はない。
怖さはある。
けれど、身体は動く。
春麗は構えた。
「今日の確認をしましょう」
「ああ」
「試合形式」
「ああ」
「波動拳を使っていい」
「ああ」
「昇龍拳も使っていい」
「ああ」
「ただし、最後だけは寸止め」
「ああ」
「あなたが本当に当てたら、試験ではなく負傷事故になるから」
「当てない」
「信じるわ」
そう言ってから、春麗は自分で少し驚いた。
信じる。
以前なら、ここまで自然には言えなかったかもしれない。
リュウは、その言葉を静かに受け取った。
「分かった」
「でも、気配は抜かないで」
「ああ」
「流れも止めないで」
「ああ」
「私も止まらない」
春麗はリュウを見る。
「そのための試験よ」
「ああ」
リュウは頷いた。
「春麗が、俺の拳の前に戻れたかどうか」
「そう」
一拍。
「今日、確かめるわ」
最初の数本は、確認だった。
リュウが波動拳を撃つ。
春麗は見る。
喉は塞がらない。
低く沈む。
足を残す。
横へ逃げ切らず、前への線を消さない。
波動拳を避ける。
跳ぶ。
着地する。
リュウの迎撃の気配を見る。
昇龍拳の入り。
二週間後の再戦で身体に刻まれた恐怖が、奥の方で小さく震える。
だが、春麗は止まらなかった。
拳を下ろさない。
膝を落とさない。
視線を逸らさない。
リュウの拳が手前で止まる。
春麗の足も、止まらずに次の位置へ入っていた。
「……悪くないわね」
春麗は息を吐きながら言った。
リュウは頷く。
「ああ」
「そこは、もっと褒めてもいいところよ」
「よかった」
「短い」
「春麗は止まっていない」
春麗は、少しだけ黙った。
その言葉は、効いた。
「……そう」
一拍。
「なら、それでいいわ」
続く数本も、春麗は止まらなかった。
完全に美しい動きではない。
波動拳を越える角度が浅い時もある。
着地がわずかに重い時もある。
昇龍拳の気配に肩が固くなる瞬間もある。
だが、止まらない。
最初の日のように、膝が落ちない。
当たっていない拳に身体が倒れない。
波動拳の向こうにある昇龍拳を見ても、足を止めない。
春麗は、そこまで積み上げてきた。
リュウも、それを見ていた。
ただ、見るだけではない。
毎日の波動拳。
寸止めの昇龍拳。
小さく当てた波動拳。
小さく当てた昇龍拳。
春麗が膝をついた時に、必要以上に手を出さずに待っていたこと。
春麗が自分で立つまで、踏み込みすぎなかったこと。
昼食の後、春麗の拳には行き先があると言ったこと。
抱きとめた時、揺れを見せないようにしていたこと。
その全部が、今日の春麗の足に残っている。
春麗は、リュウを見た。
好き。
その言葉が胸の奥で小さく鳴る。
だが、その音に足を取られなかった。
むしろ、足が少しだけ強く床を踏んだ。
好きだから、止まりたくない。
好きだから、壊れ物のように見られたくない。
好きだから、格闘家として届きたい。
春麗は構え直した。
「リュウ」
「ああ」
「次で、最後にしましょう」
リュウの目が、少しだけ鋭くなる。
「いいのか」
「ええ」
「最後は、流れを止めない」
「そうして」
「波動拳から、昇龍拳まで」
「ええ」
「試験の最後だ」
「分かっているわ」
春麗は小さく笑った。
「あなたの拳の前で、私が止まるかどうか」
一拍。
「見せてあげる」
「ああ」
「見ていなさい」
「見ている」
その言葉に、胸がまた少しだけ熱くなる。
見ている。
リュウは、いつも見ていた。
止まった春麗も。
膝が落ちた春麗も。
手が出た春麗も。
半歩動いた春麗も。
昼食を差し出す春麗も。
難しいことを言って、勝手に動揺して、勝手に機嫌を直す春麗も。
そして今日、止まらない春麗を見る。
春麗は息を吸った。
そして、吐いた。
最後の一本。
二人の間合いが、試合の距離に近づく。
遠すぎない。
近すぎない。
リュウの波動拳が届く距離。
春麗が跳び込めば、昇龍拳が間に合う距離。
二週間後のあの日と同じ構図。
あの日、春麗は跳び込んだ。
リュウの昇龍拳に撃ち落とされた。
その後、竜巻旋風脚までつながれ、身体に恐怖を刻まれた。
あの日から、この修行が始まった。
悔しさ。
敗北。
待った二週間。
完敗。
修行。
昼食。
会話。
自覚。
春麗は、今、その全部を持って立っている。
リュウが掌を構える。
青い気が集まる。
春麗は見た。
波動拳。
その向こうにある昇龍拳。
怖さは、ある。
まだある。
だが、春麗は笑った。
「来なさい」
リュウの目が、静かに応えた。
「波動拳!」
青い気弾が放たれた。
春麗は、息を止めなかった。
低く沈む。
前足を残す。
気弾の圧が迫る。
春麗は跳んだ。
高くではない。
低く、鋭く。
波動拳の上を越えるのではなく、波動拳の流れの切れ目を踏むように。
足が空を捉える。
怖い。
だが、身体は動いている。
波動拳を越えた瞬間、リュウが踏み込んだ。
昇龍拳の入り。
下から来る軌道。
あの日の空が、一瞬だけ目の前に重なる。
撃ち落とされる。
そう身体が覚えている。
だが、春麗はそこで止まらなかった。
膝を固めない。
拳を下ろさない。
視線を逸らさない。
空中で身体を畳む。
着地の位置を修正する。
リュウの拳の軌道を見ながら、身体を半身にする。
昇龍拳の気配が迫る。
直撃寸前。
胸が鳴る。
恐怖が、足を掴もうとする。
それでも、春麗の手は前に出ていた。
掌底。
止まらない。
あの日、止まった身体。
あの日、撃ち落とされた空。
あの日から戻すために積み上げた一歩。
その全部を乗せて、春麗の掌がリュウへ伸びる。
リュウの昇龍拳は、春麗の顎の手前で止まった。
寸止め。
約束どおり。
だが、同時に。
春麗の掌底も止まっていなかった。
春麗の掌は、リュウの胸元に届いていた。
強く打ち抜いたわけではない。
試験としての接触。
止まらなかった証明。
春麗の掌が、リュウに触れている。
リュウの拳が、春麗の手前で止まっている。
二人は、その姿勢のまま止まった。
風が通る。
春麗は、荒い息を吐いた。
膝は落ちていない。
呼吸は止まっていない。
視線も逸らしていない。
掌は、リュウに届いている。
「……届いた」
春麗が言った。
声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
リュウは静かに頷く。
「ああ」
「止まらなかった」
「ああ」
「あなたの昇龍拳の前で」
「ああ」
「直撃寸前まで」
「ああ」
「私の掌も、止まらなかった」
「ああ」
春麗は、ゆっくりと手を引いた。
リュウも拳を下ろす。
春麗は、しばらく自分の掌を見ていた。
震えている。
だが、それは恐怖だけの震えではなかった。
動いた後の震え。
届いた後の震え。
戻ってきた証拠のような震え。
春麗は小さく息を吐いた。
「……完了、ね」
リュウは頷いた。
「完了だ」
「本当に?」
「ああ」
「甘く見ていない?」
「見ていない」
「女だから、とか」
「それはない」
「修行に付き合ったから、とか」
「それもない」
「本当に、私が止まらなかったから?」
「ああ」
リュウは、春麗を真っ直ぐに見た。
「春麗は、俺の波動拳を見た」
一拍。
「昇龍拳の前でも止まらなかった」
一拍。
「掌が届いた」
春麗は、唇を噛みかけた。
嬉しい。
悔しい。
泣きそう。
でも、泣かない。
これは修行の完了だ。
涙で終わらせるより、胸を張って終わらせたい。
春麗は、少しだけ顎を上げた。
「なら、この修行は終わりね」
「ああ」
「あなたの拳の前に、戻れた」
「ああ」
「……長かったわ」
「ああ」
「本当に長かった」
「ああ」
「あなた、もう少し何か言いなさいよ」
リュウは少し考えた。
「春麗は、強い」
春麗は目を細めた。
「それは前から知っているわ」
「もっと強くなった」
春麗は黙った。
少しだけ、目元が緩みかけた。
「……そう」
一拍。
「それなら、受け取っておくわ」
リュウは頷いた。
「ああ」
修行場の端で、二人は昼食を広げた。
試験が終わった後の昼食だった。
春麗は、いつもより少しだけ丁寧に包んできた昼食をリュウに渡した。
「はい」
「ああ。ありがとう」
「今日は言ってもいいわ」
「そうか」
「今日は、最後だから」
言ってから、春麗は少しだけ胸が痛んだ。
最後。
修行の最後。
昼食を一緒に食べるのも、今日で一区切り。
リュウは包みを受け取り、静かに食べた。
一口。
「うまい」
「具体的に」
いつもの返し。
リュウは少し考える。
「今日は、力が出る味がする」
春麗は、少しだけ笑った。
「何よ、それ」
「そう思った」
「もっと具体的に」
「朝から動いた後に、ちょうどいい」
「それは少し具体的ね」
「ああ」
「合格」
リュウは頷いた。
春麗は、自分の分を食べながら、少しだけ空を見た。
このやり取りも、もう習慣のようになっている。
最初は、昼食を渡すだけで言い訳が必要だった。
今は、当然のようにリュウの分を用意している。
それを寂しいと思っている自分がいる。
春麗は、その気持ちを隠すように口を開いた。
「リュウ」
「ああ」
「今日の試験は、修行の完了よね」
「ああ」
「でも、勝負としては違うわ」
リュウが春麗を見る。
春麗は箸を置き、リュウを正面から見た。
「今日、あなたは最後を寸止めした」
「ああ」
「私の掌も届いた」
「ああ」
「でも、これは修行の試験」
「ああ」
「正式な試合ではない」
リュウは静かに頷いた。
「そうだな」
「だから」
一拍。
春麗は、少しだけ口元を引き締めた。
「次は、正式に試合をしましょう」
リュウの目が少しだけ強くなる。
「春麗と、か」
「他に誰がいるのよ」
「ああ」
「波動拳も、昇龍拳も、全部あり」
「ああ」
「寸止めではなく」
一拍。
「本当の試合」
リュウは春麗を見ていた。
春麗も目を逸らさなかった。
好きだと気づいた。
だからこそ、言えた。
守られたいだけではない。
見ていてほしいだけでもない。
隣にいたいだけでもない。
勝負したい。
この男と。
もう一度、正式に。
リュウは静かに頷いた。
「受ける」
春麗の胸が、強く鳴った。
「簡単に言うのね」
「戦いたいと思った」
「……そう」
「春麗と」
春麗は、少しだけ視線を逸らした。
「余計な一言を足すの、上手くなったわね」
「そうか」
「ええ」
一拍。
「でも、今日は受け取っておくわ」
リュウは頷いた。
「ああ」
「次の約束よ」
「ああ」
「黙ってどこかへ行かないで」
「行く時は言う」
「戻るなら?」
「戻るつもりも言う」
「よろしい」
春麗は、少しだけ満足そうに言った。
リュウは真面目に頷いた。
その真面目さに、春麗は少し笑いそうになる。
好き。
胸の奥で、またその言葉が鳴る。
でも、今は言わない。
今は、次の試合の約束で十分だった。
夕方。
修行場を出る時、春麗はいつものように荷物を持った。
リュウも、宿へ戻るための荷物を肩にかける。
だが、今日はいつもと違う。
リュウは明日、この街を出る。
修行は終わった。
旅人は旅へ戻る。
春麗は、それを分かっている。
分かっているが、胸が少しだけ重い。
「明日の朝?」
「ああ」
「早いの?」
「あまり早くはない」
「曖昧ね」
「宿を出てから決める」
「そういうところよ」
春麗はため息をついた。
「ちゃんと食べてから出なさい」
「ああ」
「無理に野宿しない」
「たぶん」
「たぶんじゃない」
「ああ」
「ケンに連絡は?」
「する」
「本当に?」
「たぶん」
「そこも、たぶんじゃない」
リュウは少し困ったように頷いた。
「分かった」
春麗は、その顔を見て、少しだけ胸が緩む。
この危なっかしさも、知ってしまった。
知ってしまったから、気になる。
以前なら、リュウがどこへ行こうが勝手にしなさいと言えたかもしれない。
今は、そう言えない。
「リュウ」
「ああ」
「次の試合」
「ああ」
「忘れないで」
「忘れない」
「私も、仕事に戻るわ」
「ああ」
「捜査官として」
「ああ」
「武力が必要な現場にも、戻れる」
春麗は、自分の手を見る。
リュウに届いた掌。
止まらなかった掌。
「あなたの波動拳と昇龍拳の前で止まらなくなったんだもの」
一拍。
「もう、仕事でも止まらない」
リュウは静かに頷いた。
「春麗ならできる」
春麗は、少しだけ笑った。
「そういうところは、迷わず言うのね」
「ああ」
「……ありがとう」
今度は、少し素直に言えた。
リュウは頷いた。
「ああ」
「明日、見送りはしないわ」
春麗は言った。
リュウが見る。
「いいのか」
「ええ」
「なぜだ」
「仕事に戻る準備があるから」
「ああ」
「それに」
一拍。
「見送ったら、少し寂しくなるでしょう」
言ってしまってから、春麗はすぐに顔を背けた。
リュウは黙っていた。
春麗は少しだけ頬を赤くしながら続ける。
「だから、今日でいいわ」
「そうか」
「ええ」
リュウは、少しだけ目元を緩めた。
「春麗」
「何」
「また来る」
春麗の胸が、静かに鳴った。
その言葉が欲しかった。
勝負の約束とは別に。
ただ、また来るという言葉が。
春麗は、すぐに余裕のある顔を作った。
「当然よ」
一拍。
「次の試合があるもの」
「ああ」
「逃げたら、許さないわ」
「逃げない」
「なら、いいわ」
春麗は一歩下がる。
「またね、リュウ」
「ああ」
「また、春麗」
名前を呼ばれただけで、胸が熱くなる。
春麗は、それを隠すように背を向けた。
振り返らない。
今日は、振り返らない。
振り返ったら、たぶん少しだけ顔が緩む。
だから振り返らない。
けれど、背中で分かっていた。
リュウは、しばらくこちらを見ていた。
春麗は、その視線を受け取って歩いた。
もう、撃ち落とされた空だけを背負っているわけではない。
止まらずに届いた掌と。
次の試合の約束を持って。
翌日。
リュウは街を出た。
春麗は、見送りには行かなかった。
その代わり、朝早く起きて、いつもより丁寧に部屋を整えた。
修行用の服を畳む。
包み布を洗って干す。
使い慣れた髪留めを置き直す。
鏡の前に立つ。
今日から、日常に戻る。
いや。
前の日常に戻るわけではない。
リュウとの修行を終えた自分として、戻る。
春麗は、捜査官としての服に袖を通した。
久しぶりの感覚だった。
背筋が伸びる。
武道家としての身体と、捜査官としての自分が、少しずつ重なる。
リュウの波動拳の前で止まらなかった。
昇龍拳の直撃寸前でも、掌を止めなかった。
なら、現場でも動ける。
武力が必要な仕事にも戻れる。
逃げていたわけではない。
だが、どこかで不安はあった。
リュウの拳の前で止まる自分が、仕事の現場で本当に動けるのか。
危険な相手を前にした時、自分の身体は以前のように動くのか。
その問いに、昨日の掌が答えてくれた。
止まらなかった。
届いた。
春麗は、自分の右手を見る。
昨日、リュウに届いた掌。
「……大丈夫」
小さく言う。
根拠のない言葉ではない。
積み上げた日々の上にある言葉だった。
春麗は机に置いていた包み布を見た。
今日は昼食を二人分作らない。
リュウはいない。
その事実が、少しだけ胸を締めつける。
けれど、昨日ほど重くはなかった。
次がある。
試合の約束がある。
リュウは、また来ると言った。
春麗は、ゆっくり息を吐いた。
修行は終わった。
けれど、何も終わっていない。
好きだと気づいたことも。
勝ちたいと思っていることも。
リュウに見ていてほしいことも。
リュウを覚えていたいことも。
全部、今の春麗の中にある。
けれど、その気持ちに呑まれてはいない。
春麗は捜査官として仕事に戻る。
リュウは旅に戻る。
二人は、それぞれの場所へ戻る。
そして、次に会った時には、正式に試合をする。
その約束がある。
春麗は鏡の中の自分を見た。
昨日までの修行用の自分ではない。
だが、昨日までの日々を失ったわけでもない。
全部、持っている。
「……次は、正式な試合」
一拍。
「その時は、勝つわ」
春麗は少しだけ笑った。
好きだと気づいても、そこは変わらない。
むしろ、より強くなっている。
リュウに勝ちたい。
リュウに見ていてほしい。
リュウに覚えていてほしい。
そして、次に会った時には。
今日より少しだけ、自分の気持ちを扱えるようになっていたい。
春麗は部屋を出る前に、干してある包み布を一度だけ見た。
次に使う時は、いつになるだろう。
リュウが戻ってきた時か。
正式な試合の日か。
あるいは、その前に。
春麗は、少しだけ頬を緩めた。
「……考えすぎね」
そう言って、扉を開ける。
朝の光が差し込む。
春麗は、捜査官としての一歩を踏み出した。
リュウとの修行は終わった。
けれど、何も終わっていない。
波動拳の向こうにあった昇龍拳は、もう春麗を止めるだけのものではない。
それは、次の約束へ続く拳になった。
春麗は前を向く。
仕事へ。
日常へ。
そして、いつか来る次の試合へ。
記録板AIは、その修行編最終ログを静かに保存した。
『検証ログ終了』
『保存名』
『春麗は、止まらなかった掌で次の約束を掴む』
『保存先』
『ディレクターズカットIF外部検証領域』
『補足』
『最終試験:完了』
『補足』
『春麗、リュウの波動拳および昇龍拳への停止反応を突破』
『補足』
『試験結果:昇龍拳寸止め直前まで行動継続、掌底到達』
『補足』
『次回正式試合の約束成立』
『補足』
『春麗、捜査官業務へ復帰可能状態』
『補足』
『修行編:一区切り』
『以上』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、修行編の最終試験回になります。
前回、春麗は試験前夜に、自分がリュウを好きなのだと自覚しました。
ただし、その自覚は今回の試験を甘くするものではありません。
むしろ逆です。
好きだと気づいたからこそ、春麗はリュウの拳の前で止まりたくない。
好きな相手に、壊れ物のように見られたくない。
好きな相手に、格闘家として見てほしい。
そして、できるなら届きたい。
今回の試験は、そういう意味で、恋愛回の続きでありながら、きちんと格闘家としての決着回でもあります。
修行の目的は、春麗がリュウの波動拳と昇龍拳の前で止まってしまう身体を戻すことでした。
特に重要なのは、二週間後の再戦で刻まれた停止反応です。
リュウに負けたことそのものではなく、波動拳で誘われ、跳び込んだ先で昇龍拳に撃ち落とされ、身体が止まってしまったこと。
そこから春麗は、リュウの拳の前で以前のように動けなくなっていました。
その春麗が、今回ようやく最終試験に挑みます。
最初の数本では、完全に美しい動きではありません。
波動拳を越える角度が浅い時もある。
着地が重い時もある。
昇龍拳の気配に肩が固くなる瞬間もある。
でも、止まらない。
ここが今回の一番大事なところです。
恐怖が完全に消えたわけではありません。
昇龍拳の記憶も残っています。
でも、その恐怖があるまま、春麗は足を止めない。
目を逸らさない。
膝を落とさない。
つまり、春麗は「怖くなくなった」のではなく、「怖いまま動けるようになった」わけです。
そして最後の一本です。
リュウが波動拳を撃つ。
春麗が前へ出る。
その先に、昇龍拳が来る。
構図としては、二週間後の再戦で春麗の身体に止まる記憶を刻んだ流れと同じです。
だからこそ、ここで春麗が止まらないことに意味があります。
リュウの昇龍拳は、約束どおり春麗の手前で止まります。
けれど、春麗の掌底も止まっていません。
春麗の掌は、リュウの胸元に届いている。
この「打ち抜いた」ではなく「届いた」が今回のポイントです。
これは正式な勝負ではありません。
リュウを倒したわけでもありません。
けれど、春麗の身体が止まらなかった証明としては十分です。
あの日、波動拳の向こうにある昇龍拳で止まった春麗が、今回は同じ流れの中で掌を届かせた。
だから、リュウは「完了だ」と言えます。
この試験は、勝敗ではなく回復の証明です。
そして、試験が終わった後に昼食があります。
ここも修行編らしい締め方にしました。
戦って、確認して、終わった後に二人で昼食を食べる。
リュウが「うまい」と言い、春麗が「具体的に」と返す。
このやり取りは、最初はただの言い訳つきの昼食でした。
修行のため。
栄養管理。
恩を返すため。
少し多めに作っただけ。
でも、ここまで来ると、もう二人の時間として定着しています。
だからこそ春麗は、「今日は最後だから」と言って、少し胸が痛む。
修行は終わった。
昼食の時間も一区切りになる。
リュウは旅に戻る。
その寂しさがあるから、春麗は次の約束を取りに行きます。
今回の春麗は、ここで告白はしません。
好きだと自覚していても、まだ本人には言わない。
代わりに、正式な試合の約束をします。
これが春麗らしいところです。
守られたいだけではない。
一緒にいたいだけでもない。
寂しいから引き止めたいだけでもない。
好きだからこそ、正式に戦いたい。
寸止めではなく、修行でもなく、本当の試合をしたい。
恋愛感情と勝負心が矛盾せず、むしろ同じ方向へ向かっているのが、この春麗の面倒くささであり、強さでもあります。
リュウもまた、「春麗と戦いたい」と返します。
この一言で、春麗はかなり刺されています。
ただの試合の約束ではなく、リュウの方からも春麗を相手として選んでいるからです。
その後の別れの場面では、春麗は見送りに行かないと言います。
これは強がりでもありますが、同時に彼女なりの整理でもあります。
見送ったら寂しくなる。
だから今日でいい。
その代わり、次の試合の約束を取る。
黙って行かないことも約束させる。
また来ると言わせる。
春麗は、リュウの旅を止めてはいません。
でも、自分との関係まで流されて終わることは許していない。
このバランスが今回の終盤の大事な部分です。
翌日、リュウは街を出ます。
春麗は見送りには行きません。
その代わり、自分の部屋を整え、修行用の服を畳み、捜査官としての服に袖を通します。
ここで春麗は、日常に戻ります。
ただし、元に戻るわけではありません。
リュウとの修行を終えた春麗として戻ります。
波動拳の前で止まらなかった春麗。
昇龍拳の直撃寸前でも掌を止めなかった春麗。
リュウを好きだと自覚した春麗。
そして、それでもリュウに勝ちたい春麗です。
今回のエピソードは、修行編としては「克服試験完了回」。
関係面では「次の正式試合の約束回」。
春麗個人としては「好きだと自覚したまま、それに呑まれず仕事へ戻る回」でした。
修行は終わりました。
でも、何も終わっていません。
波動拳の向こうにあった昇龍拳は、もう春麗を止めるだけのものではなくなりました。
それは、次の約束へ続く拳になりました。
ここで修行編は一区切りです。
春麗は、リュウの拳の前に戻りました。
そして次は、修行ではなく正式な試合として、もう一度リュウの前に立つことになります。