また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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※これはディレクターズカットIFです。
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。


ディレクターズカットIF:春麗は、約束の試合のあとで食事だけを約束する

 記録板AIは、外部検証領域に新しい未来ログを表示した。

 

『本編確定ログではありません』

『本ログは、第1話敗北開始ルート修行編完了後の後日談です』

 

『以下、検証ログを開始します』

 


 

 約束の日は、よく晴れていた。

 

 空は高い。

 あの日、撃ち落とされた空とは違う。

 修行最終試験の日に、春麗がもう一度見上げた空とも違う。

 

 今日は、約束した空だった。

 修行ではない。

 寸止めを前提にした最終試験でもない。

 リュウの拳の前で止まらないことを確認するためだけの稽古でもない。

 

 正式な試合。

 勝つための試合。

 春麗は、試合用の青い武道服で修行場に立っていた。

 布を直す指先に、少しだけ力が入る。

 呼吸は整っている。

 だが、完全に落ち着いているわけではない。

 

 目の前には、リュウがいる。

 

 白い道着。

 静かな目。

 何度も春麗を倒した拳。

 何度も春麗を立たせた拳。

 そして、春麗がもう一度届くと決めた相手。

 

 リュウは春麗を見ていた。

 

「春麗」

 

「何?」

 

「今日は、正式な試合だ」

 

「分かっているわ」

 

「ああ」

 

「あなたも、分かっているわよね」

 

「ああ」

 

「修行じゃない」

 

「ああ」

 

「寸止め前提でもない」

 

「ああ」

 

「勝つために来たの」

 

「ああ」

 

「だから」

 

 春麗は構えた。

 

「私が勝っても、言い訳しないでね」

 

 リュウも構える。

 

「しない」

 

「よろしい」

 

 一拍。

 

「それと」

 

「ああ」

 

「勝ったら、ちゃんと覚えておきなさい」

 

「覚えておく」

 

「まだ勝っていないうちから素直に言わないで」

 

「春麗が言った」

 

「言ったけど」

 

 春麗は少しだけ目を細めた。

 

「本当に、あなたは調子を狂わせるのが上手いわね」

 

「そうか」

 

「褒めていない」

 

「ああ」

 

 リュウは頷く。

 

 春麗は軽く息を吐いた。

 

 いつものやりとり。

 けれど今日は、いつもと違う。

 修行を終えた。

 止まらなかった。

 掌底を届かせた。

 そして今日、正式に勝ちに来た。

 

 春麗は、足裏に力を入れる。

 

 地面の感触。

 呼吸。

 距離。

 リュウの肩。

 掌。

 足の沈み。

 波動拳の気配。

 昇龍拳の気配。

 

 全部、見えている。

 

 怖さは、まだある。

 完全には消えていない。

 でも、もう怖さだけではない。

 怖さの奥に、読みがある。

 読みの奥に、踏み込む意思がある。

 

 春麗は小さく笑った。

 

「始めましょう」

 

「ああ」

 

 リュウが頷いた。

 そして、試合が始まった。

 


 

 序盤から、リュウは強かった。

 

 分かっていた。

 修行に付き合ってくれたリュウは、優しかったわけではない。

 甘かったわけでもない。

 だが、あれは春麗を戻すための修行だった。

 

 今日は違う。

 リュウは勝ちに来ている。

 間合いを取れば、波動拳。

 詰めれば、拳。

 横へ逃げても、足が追ってくる。

 春麗の踏み込みに合わせ、リュウは重心を沈める。

 

 迎撃の気配。

 

 春麗の身体が、それを読む。

 あの頃なら、そこで止まっていた。

 波動拳の向こうに昇龍拳が見えた瞬間、足が止まっていた。

 

 だが今は違う。

 

 止まる代わりに、見る。

 固まる代わりに、読む。

 逃げる代わりに、次の足を置く。

 

 春麗は低く滑り込んだ。

 

 リュウの拳が頬の近くを抜ける。

 空気が切れる。

 恐怖はある。

 でも、身体は動いている。

 

 春麗は掌底を返す。

 

 リュウは受ける。

 

 重い。

 

 受けた腕から衝撃が返る。

 やはり、この男は強い。

 

 それが嬉しい。

 腹が立つ。

 そして、勝ちたい。

 

「はあっ!」

 

 春麗は中段蹴を放つ。

 リュウは一歩下がり、最小限で避ける。

 中段蹴を避けたリュウは反撃の正拳。

 春麗は肩を引く。

 

 かすめる。

 

 リュウの拳が近い。

 

 近すぎる。

 

 だが、今日は逃げない。

 春麗は足を返し、連続で中段蹴を放ち攻めた。

 それでもリュウは崩れない。

 むしろ、少しずつ春麗を押していく。

 

 試合の中盤を越える頃には、春麗の呼吸は荒くなっていた。

 

 腕が重い。

 脚も軽くない。

 それでも、目は逸らしていない。

 

 リュウも息を乱している。

 だが、まだ芯が沈んでいる。

 

 春麗は分かった。

 

 このままだと、リュウが流れを取る。

 いや、もう取られかけている。

 

 それを認めるのは悔しい。

 だが、認めなければ勝てない。

 

 春麗は一歩下がった。

 リュウが追ってくる。

 距離が開く。

 ほんのわずか。

 そのわずかな距離に、リュウの掌が沈んだ。

 青い気が集まる。

 

 春麗の身体の奥で、古い記憶が開く。

 

 来る。

 波動拳。

 その向こうに、昇龍拳。

 

 あの日、自分を撃ち落とした流れ。

 修行で何度も向き合った流れ。

 最終試験で、止まらなかった流れ。

 そして今日は、試合として越えなければならない流れ。

 

 リュウが息を吐く。

 

「波動拳!」

 

 青い気弾が放たれた。

 

 春麗は跳んだ。

 

 迷わなかった。

 息も止めなかった。

 波動拳を越える。

 高すぎない。

 低すぎない。

 昇龍拳の餌にならない角度。

 

 けれど、リュウはもう沈んでいた。

 

 読まれている。

 

 春麗の跳躍を。

 春麗の克服を。

 春麗が止まらずに来ることを。

 リュウは、分かったうえで迎撃に来た。

 

 昇龍拳。

 

 春麗の身体の奥で、あの日の記憶が蘇る。

 

 撃ち落とされる。

 下から来る拳。

 身体が持ち上げられる感覚。

 

 息が詰まる。

 

 竜巻旋風脚の追撃。

 地面。

 敗北。

 全部が一瞬で戻る。

 けれど、春麗は消さなかった。

 忘れなかった。

 そのまま見た。

 

 リュウの拳。

 肩。

 足。

 角度。

 間合い。

 届くか。

 届かないか。

 

 ほんの少し。

 ほんの少しだけ、春麗の跳躍の芯を捉えきれない。

 

 リュウも、それを見抜いた。

 打ち切らない。

 昇龍拳を途中で捨てる。

 

 リュウの身体が低く回った。

 

 回転足払い。

 

 着地を狩る選択。

 

 速い。

 

 判断が速い。

 

 やはり、リュウは甘くない。

 

 春麗は、着地と同時に腕を下げた。

 足元へ来る刈りを受ける。

 

 衝撃。

 

 身体が揺れる。

 だが、崩れない。

 ガードできた。

 

 次。

 

 考えるより先に、身体が動く。

 低い体勢から、春麗の拳が突き込まれる。

 

 開脚突拳。

 

 リュウの中心に入る。

 

「っ……!」

 

 リュウの呼吸が乱れた。

 

 春麗は逃さない。

 足を返す。

 

 元伝暗殺蹴。

 

 鋭く、深く。

 リュウの体勢を崩す。

 リュウは後退する。

 それでも倒れない。

 立つ。

 本当に、立つ。

 

 だからこそ、ここで終わらせる。

 

 春麗は踏み込んだ。

 もう波動拳の距離ではない。

 もう昇龍拳のために沈む時間もない。

 春麗の間合い。

 勝つための間合い。

 

「はあっ!」

 

 虎襲倒。

 

 身体ごと入る。

 重心を崩す。

 リュウの身体が浮く。

 

 その瞬間、春麗の胸に熱が走った。

 

 勝てる。

 勝つ。

 今日は、勝つ。

 

 リュウの身体が地面へ叩きつけられた。

 大きな音。

 沈黙。

 

 春麗は、膝をつきかけた。

 だが、落ちなかった。

 立っていた。

 

 息は荒い。

 身体は限界に近い。

 だが、立っているのは春麗だった。

 倒れているのは、リュウだった。

 

「……勝った」

 

 小さく、声が出た。

 自分でも驚くほど、震えていた。

 春麗はリュウに近づく。

 

「リュウ」

 

 返事はない。

 意識が落ちている。

 春麗はすぐに膝をつき、呼吸を確認した。

 

 ある。

 大丈夫。

 虎襲倒の衝撃で意識が飛んだだけだ。

 

 春麗は、安堵の息を吐いた。

 

「……本当に、強いんだから」

 

 倒したのは自分なのに、そう言ってしまう。

 そして、しばらくリュウの顔を見た。

 

 あの日、自分を撃ち落とした男。

 修行に付き合ってくれた男。

 最終試験で、自分の掌底を受けた男。

 今日、正式試合で自分に倒された男。

 

 春麗は、ゆっくりと座り直した。

 リュウの頭をそっと支える。

 自分の膝に乗せる。

 

 重い。

 温かい。

 近い。

 

 春麗は、一瞬だけ息を止めた。

 けれど、逃げなかった。

 

「介抱よ」

 

 誰にともなく言った。

 

 一拍。

 

「それと」

 

 春麗は、膝の上のリュウを見下ろす。

 

「勝者の権利」

 

 少しだけ、声が震えていた。

 けれど言えた。

 

 今日は正式試合だ。

 約束した試合だ。

 その試合で、春麗は勝った。

 なら、これくらいは許される。

 いや、許されるかどうかではない。

 勝ったのだ。

 

 春麗は、静かにリュウの額へ手を伸ばした。

 

「……今日の敗者」

 

 一拍。

 

「あなたよ、リュウ」

 

 まだリュウは眠っている。

 それでも、春麗はその額に敗者の印を刻んだ。

 

 薄く。

 消える程度に。

 だが、確かに。

 

 初勝利の時とは違う。

 修行中の到達確認とも違う。

 これは、約束した正式試合での勝利の印。

 怖いまま飛んで、越えて、勝った印。

 春麗の指先が、少し震えた。

 

 次に、リュウの右手を取る。

 

 波動拳を撃った手。

 昇龍拳を放とうとした拳。

 春麗を何度も止めた拳。

 今日は、春麗を止められなかった拳。

 

「ここにも」

 

 春麗は、拳の甲へ指を置いた。

 

「今日、私を止められなかった拳の印」

 

 ゆっくりと刻む。

 右手にも、敗者の印。

 

 それを見た瞬間、春麗の胸の奥に、勝利がようやく沈み込んできた。

 

 勝った。

 私は、勝った。

 リュウに。

 約束の試合で。

 波動拳から昇龍拳への流れを越えて。

 その拳に、敗者の印を刻んだ。

 春麗は、目を閉じかけた。

 

 その時、膝の上でリュウの呼吸が少し変わった。

 


 

 リュウのまぶたが震えた。

 春麗はすぐに気づく。

 

「動かないで」

 

 リュウの目が開いた。

 焦点が戻り、すぐ近くに春麗の顔を見つける。

 

「春麗……」

 

「意識を失っていたの」

 

「ああ」

 

「虎襲倒で」

 

「ああ」

 

「まだ動かない方がいいわ」

 

 リュウは状況を確認しようとし、頭が春麗の膝にあることに気づいた。

 そのまま、静かに止まった。

 

「これは」

 

「介抱よ」

 

 春麗は即答した。

 自分でも少し早かったと思った。

 だが、続ける。

 

「それと、勝者特権」

 

 言ってから、胸が跳ねた。

 リュウは春麗を見上げる。

 

「勝者特権」

 

「ええ」

 

 春麗は、額に刻んだ印を指で軽くなぞった。

 

「あなた、負けたのよ」

 

「ああ」

 

「今日の正式試合で」

 

「ああ」

 

「約束した試合で」

 

「ああ」

 

「私に」

 

「ああ」

 

「ちゃんと分かっている?」

 

「ああ」

 

 リュウは、静かに答えた。

 

「春麗の勝ちだ」

 

 春麗の精神が、かなり削れた。

 分かっている。

 自分で言わせた。

 それなのに、リュウの口から聞くと効く。

 

「……そう」

 

「ああ」

 

「なら、忘れないで」

 

「忘れない」

 

「額にも刻んだわ」

 

「ああ」

 

「右手にも」

 

 リュウは、春麗に取られたままの自分の右手を見る。

 薄い印。

 敗者の印。

 春麗が刻んだもの。

 

「この拳にもか」

 

「ええ」

 

 一拍。

 

「今日、私を止められなかった拳だから」

 

 リュウは、少しだけ目を細めた。

 

「そうか」

 

「悔しい?」

 

「ああ」

 

 春麗は、勝者の顔を作った。

 

「でしょうね」

 

「ああ」

 

「私も、あなたに負けた日は悔しかったわ」

 

「ああ」

 

「二週間待たされた時も」

 

「ああ」

 

「その後、完敗した時も」

 

「ああ」

 

「あなたの波動拳の向こうに昇龍拳が見えて、身体が止まった時も」

 

「ああ」

 

「ずっと悔しかった」

 

「ああ」

 

「でも、今日」

 

 一拍。

 

「私は止まらなかった」

 

「ああ」

 

「勝った」

 

「ああ」

 

「だから」

 

 春麗は、リュウを見下ろした。

 

「今日は、私のご褒美よ」

 

 言った。

 言ってしまった。

 リュウは、静かに春麗を見上げている。

 

「ご褒美」

 

「ええ」

 

「膝枕がか」

 

「介抱でもあるわ」

 

「ああ」

 

「でも、それだけじゃない」

 

 一拍。

 

「あなたに勝った私が、あなたの敗北を近くで見ている」

 

 一拍。

 

「これは、私へのご褒美」

 

 春麗は、言ってから顔が熱くなるのを感じた。

 大胆すぎる。

 しかし、引かない。

 今日は勝者だ。

 春麗は、勝者としてここにいる。

 

「リュウ」

 

「ああ」

 

「私、強かった?」

 

 問いは、思ったより小さくなった。

 

 勝者としての確認。

 でも、それだけではない。

 

 リュウ本人から聞きたい。

 

 今日の自分が、本当に強かったのか。

 本当に止まらなかったのか。

 本当に勝てたのか。

 

 リュウは迷わなかった。

 

「強かった」

 

 春麗の胸が跳ねる。

 

「……そう」

 

「波動拳を越えた」

 

 一拍。

 

「昇龍拳の間合いを見ていた」

 

 一拍。

 

「俺が足払いに切り替えた後も、崩れなかった」

 

 一拍。

 

「そこから、届いた」

 

 春麗は、唇を引き結んだ。

 

「細かく言わなくていいわ」

 

「事実だ」

 

「そういうところよ」

 

 リュウは春麗を見上げている。

 

 その目には、嘘がない。

 慰めではない。

 事実として言っている。

 だから、効く。

 

 春麗は、敗者の印を刻んだリュウの右手を軽く握った。

 

「ねえ」

 

「ああ」

 

「あなたに勝った女性格闘家は」

 

 一拍。

 

「まだ、私だけ?」

 

 リュウは、また迷わなかった。

 

「ああ」

 

 春麗は目を伏せた。

 

 だめだ。

 これは、嬉しすぎる。

 勝ったことよりも、いや、勝ったことと一緒に、その言葉が胸の中へ入ってくる。

 

「そう」

 

「ああ」

 

「なら、覚えておきなさい」

 

「ああ」

 

「今日、もう一度勝ったこと」

 

「ああ」

 

「私が、あなたの波動拳を越えたこと」

 

「ああ」

 

「あなたの昇龍拳の流れを読んだこと」

 

「ああ」

 

「あなたの拳に、敗者の印を刻んだこと」

 

「ああ」

 

 リュウは、春麗を見上げて言った。

 

「春麗だ」

 

 春麗の呼吸が止まりかけた。

 

「……名前で言わなくていいわ」

 

「聞かれた」

 

「そこまで聞いていない」

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

 春麗は、少しだけ笑ってしまった。

 

 勝った。

 でも、リュウの言葉で何度も撃ち落とされている。

 今日は、どちらの勝ちなのか分からなくなる。

 

 いや。

 勝ったのは春麗だ。

 そこは譲らない。

 

「今日は、私の勝ち」

 

「ああ」

 

「忘れないで」

 

「忘れない」

 

「それでいいわ」

 

 春麗は、満足そうに頷いた。

 そのあと、少しだけ目を逸らした。

 

「……でも、ずっとこのままではいられないわね」

 

「そうだな」

 

「もう少し休んだら、宿まで歩ける?」

 

「ああ」

 

「無理なら言いなさい」

 

「ああ」

 

「勝者として、介抱くらいはしてあげるわ」

 

「助かる」

 

「そこで素直に受け取られると、また困るのよ」

 

「難しいな」

 

「ええ」

 

 春麗は小さく笑った。

 

 風が通る。

 夕方の修行場。

 約束の試合が終わった場所。

 春麗は、リュウの頭を膝に乗せたまま、空を見た。

 

 撃ち落とされた空。

 戻った空。

 そして、勝った空。

 そのどれもが、同じ空の下にある気がした。

 


 

 その後、リュウは立ち上がれるようになった。

 完全に平気ではなさそうだったが、歩けないほどではない。

 春麗はそれを確認し、荷物をまとめた。

 

 リュウの右手の印は、薄く残っている。

 額の印も、まだ消えていない。

 春麗はそれを見るたび、胸の奥が熱くなった。

 

「見ないのか」

 

「何を?」

 

「印」

 

「……見ていないわ」

 

「見ていた」

 

「そういうところ、細かいのよ」

 

「春麗が刻んだ」

 

「ええ」

 

「なら、見てもいい」

 

「あなたが言うと、私が負けた気分になるのだけれど」

 

「春麗の勝ちだ」

 

「そこを即答するのも、ずるいわね」

 

 春麗は荷物を抱え直した。

 試合場を出る。

 

 いつもの道。

 修行の帰りに何度も通った道。

 だが今日は、少し違う。

 

 リュウが隣にいる。

 

 いつもより少しだけ遅い歩調。

 虎襲倒の影響もある。

 けれど、それだけではない気がした。

 春麗も、少しだけ歩幅を合わせていた。

 

「痛む?」

 

「少し」

 

「そう」

 

「問題ない」

 

「問題がないかどうかは、私が見ても判断するわ」

 

「ああ」

 

「勝者だから」

 

「ああ」

 

「あなたは今日の敗者だから」

 

「ああ」

 

「……本当に、素直に受け入れるわね」

 

「事実だ」

 

「事実を言えば何でも許されると思わないで」

 

「すまない」

 

「謝らないで」

 

「難しいな」

 

「ええ」

 

 二人は、ゆっくり歩いた。

 

 春麗は、しばらく黙っていた。

 試合の熱が、まだ身体に残っている。

 勝利の熱も。

 膝枕の近さも。

 リュウの「強かった」も。

 「春麗だ」も。

 全部、胸の中で鳴っている。

 次に会った時、どんな顔をすればいいのか。

 そう思った。

 

 だが、今はまだ隣にいる。

 

 次に会った時ではなく、今、ここにいる。

 春麗は少しだけ息を吐いた。

 

「ねえ、リュウ」

 

「ああ」

 

「今日の試合」

 

「ああ」

 

「あなたは、悔しい?」

 

「ああ」

 

「どのくらい?」

 

 リュウは少し考えた。

 

「また戦いたいくらい」

 

 春麗は、思わず笑いそうになった。

 

「それは、悔しいの?」

 

「ああ」

 

「あなたらしいわね」

 

「そうか」

 

「ええ」

 

 一拍。

 

「私も、また戦いたいわ」

 

「ああ」

 

「勝ったけど」

 

「ああ」

 

「今日の勝ちは、消したくないけど」

 

「ああ」

 

「でも、これで終わりにはしたくない」

 

「ああ」

 

「勝負は、終わらない」

 

「ああ」

 

 リュウは頷いた。

 

「また戦おう」

 

 春麗は、前を向いたまま言った。

 

「ええ」

 

 一拍。

 

「ただし」

 

「ああ」

 

「明日は、戦わない」

 

 リュウが春麗を見る。

 

「明日」

 

「ええ」

 

「休むのか」

 

「休むわよ。あなたも私も、今日かなり動いたでしょう」

 

「ああ」

 

「特にあなたは、私に投げられて意識を飛ばしたのだから」

 

「ああ」

 

「敗者は休養も必要」

 

「ああ」

 

「素直ね」

 

「必要だと思う」

 

「よろしい」

 

 春麗は少しだけ歩調を緩めた。

 

「だから、明日は修行なし」

 

「ああ」

 

「試合もなし」

 

「ああ」

 

「勝負もなし」

 

「ああ」

 

「でも」

 

 一拍。

 

 春麗は、言葉を選んだ。

 

 修行ではない。

 勝負ではない。

 介抱でもない。

 勝利の確認でもない。

 何と呼べばいいのか、まだ分からない。

 でも、今日は言える気がした。

 

 勝ったから。

 

 リュウに勝ったから。

 リュウが「春麗の勝ちだ」と言ったから。

 その言葉を胸に持っているから。

 

「食事くらいなら、してもいいわ」

 

 リュウは静かに春麗を見た。

 

「食事」

 

「ええ」

 

「明日か」

 

「そう」

 

「春麗と」

 

「他に誰がいるのよ」

 

「そうか」

 

「勘違いしないで」

 

「ああ」

 

「あなたの状態確認も兼ねているの」

 

「ああ」

 

「試合後の栄養管理」

 

「ああ」

 

「敗者の回復確認」

 

「ああ」

 

「それと」

 

 一拍。

 

 春麗の声が少しだけ小さくなる。

 

「約束した試合が終わったから」

 

 リュウは、黙って聞いていた。

 

「今日の勝利を、私だけで抱えると、たぶん後で自分に刺さるの」

 

「ああ」

 

「だから」

 

 一拍。

 

「少しくらい、普通に食事をして、普通に話して、普通に帰る日があってもいいと思っただけ」

 

 リュウは、少しだけ目を柔らかくした。

 

「行きたい」

 

 春麗は、足を止めかけた。

 

「……早いわね」

 

「そう思った」

 

「思ったことを全部すぐ言わないで」

 

「言わない方がよかったか」

 

「違う」

 

 春麗は、少しだけ顔を背ける。

 

「嫌だったわけじゃない」

 

「ああ」

 

「むしろ」

 

 一拍。

 

「……困るくらい、嬉しかっただけ」

 

 言ってしまった。

 

 春麗はすぐに咳払いする。

 

「今のは、勝者の余裕だから」

 

「ああ」

 

「勝者だから、少し素直になってあげただけ」

 

「ああ」

 

「毎回こうだと思わないで」

 

「分かった」

 

「本当に分かっている?」

 

「たぶん」

 

「そこは言い切りなさいよ」

 

 リュウは少しだけ考えた。

 

「分かった」

 

「よろしい」

 

 二人はまた歩き出した。

 

 夕方の道。

 修行場から街へ。

 風は少し冷たい。

 けれど、春麗の胸の中はまだ熱い。

 

 試合の熱。

 勝利の熱。

 そして、明日への約束の熱。

 


 

 道の分かれ目に着いた。

 春麗は足を止める。

 

「私はこっち」

 

「ああ」

 

「あなたは宿」

 

「ああ」

 

「明日は休み」

 

「ああ」

 

「修行はなし」

 

「ああ」

 

「試合もなし」

 

「ああ」

 

「勝負でもない」

 

「ああ」

 

 春麗は、一拍置いた。

 

「夕方に、食事だけ」

 

 リュウは頷く。

 

「分かった」

 

「道着以外で来なさい」

 

 リュウが少しだけ首を傾げる。

 

「道着以外」

 

「そう」

 

「難しい」

 

「難しくないわよ」

 

「考える」

 

「ちゃんと考えて」

 

「ああ」

 

「私も」

 

 一拍。

 

「少しだけ、考えるから」

 

 リュウは春麗を見る。

 

「楽しみにしている」

 

 春麗は、今度は顔を背けなかった。

 

 ただ、頬は熱い。

 

「……期待しすぎないで」

 

「ああ」

 

「でも、少しは期待していいわ」

 

「分かった」

 

「本当に分かっている?」

 

「たぶん」

 

「そこは言い切りなさいって、さっきも言ったでしょう」

 

 二人は、少しだけ笑った。

 春麗は一歩、後ろへ下がる。

 

「じゃあ、また明日」

 

「ああ」

 

「遅れないで」

 

「遅れない」

 

「黙ってどこかへ行かないで」

 

「行かない」

 

 その言葉に、春麗の胸が少しだけ静かになった。

 修行最終試験の日にも言った。

 行く時は言う。

 戻るつもりがあるなら、それも言う。

 リュウは、それを覚えている。

 

「……なら、いいわ」

 

 春麗は背を向けた。

 数歩歩く。

 けれど、少しだけ振り返った。

 リュウはまだそこにいた。

 いつものように静かに。

 だが、今日は春麗を待っているのではない。

 見送っている。

 

 額には薄い敗者の印。

 右手にも、春麗が刻んだ印。

 それを見て、春麗の胸がまた熱くなる。

 

 勝った。

 今日、私は勝った。

 でも、明日は修行でも勝負でもない。

 では、何だろう。

 

 リュウが言った。

 

「春麗」

 

「何?」

 

「明日は、食事だけだな」

 

「ええ」

 

「修行ではない」

 

「そうよ」

 

「勝負でもない」

 

「そう」

 

「では、何だ」

 

 春麗は、言葉に詰まった。

 

 何だ。

 

 修行ではない。

 勝負ではない。

 栄養管理でもない。

 恩の返済でもない。

 介抱でもない。

 勝者特権でもない。

 

 ただ、二人で食事をする。

 

 それを何と呼ぶのか。

 

 春麗は、一拍置いてから答えた。

 

「……約束」

 

 リュウの目が、少しだけ柔らかくなった。

 

「ああ」

 

 一拍。

 

「約束だ」

 

 春麗は、今度こそ背を向けた。

 

 歩き出す。

 足取りは軽い。

 空は、もう夕暮れから夜へ変わろうとしている。

 撃ち落とされた空。

 戻った空。

 勝った空。

 そして、明日へ続く空。

 

 春麗は胸の中で小さく息を吐いた。

 

 修行は終わった。

 約束した試合も、今日終わった。

 勝負はまだ終わらない。

 また戦う。

 また勝ちたい。

 でも、その間に。

 

 少しだけ、別の約束が増えた。

 


 

 その夜。

 

 春麗は自室で試合用の武道服を畳んでいた。

 手が少しだけ震えている。

 疲労のせい。

 そう思いたい。

 

 だが、たぶん違う。

 

 リュウに勝った。

 約束した正式試合で。

 波動拳を越えた。

 昇龍拳の流れを読んだ。

 回転足払いを防いだ。

 開脚突拳を入れた。

 元伝暗殺蹴で崩した。

 虎襲倒で倒した。

 

 そして、膝枕した。

 

 額に敗者の印を刻んだ。

 右手にも刻んだ。

 強かったかと聞いた。

 まだ私だけかと聞いた。

 

 春麗は、畳んだ武道服の上に手を置いたまま、顔を赤くした。

 

「……何をしているのよ、私は」

 

 勝った。

 勝者だから。

 正式試合で勝ったから。

 だから、あの場ではできた。

 でも、部屋に戻ると全部返ってくる。

 

 リュウの声。

 

 春麗の勝ちだ。

 強かった。

 春麗だ。

 忘れない。

 

 全部、返ってくる。

 

 春麗は、ベッドに倒れ込んだ。

 

「……次に会った時、どんな顔をすればいいのよ」

 

 一拍。

 

 すぐに、明日の約束を思い出す。

 次に会うのは、明日だ。

 修行ではない。

 勝負でもない。

 食事だけ。

 約束。

 春麗は、枕を抱きしめた。

 

「……食事だけ」

 

 一拍。

 

「本当に、食事だけ」

 

 一拍。

 

「修行じゃない」

 

 一拍。

 

「勝負でもない」

 

 一拍。

 

「でも」

 

 春麗は、枕に顔を埋める。

 

「何を着ればいいのよ」

 

 そこだった。

 試合用の武道服ではない。

 修行用の服でもない。

 捜査官としての服でもない。

 リュウには道着以外で来なさいと言った。

 自分も少しだけ考えると言った。

 

 言った。

 言ってしまった。

 勝利の勢いとは恐ろしい。

 

 春麗は、枕を抱きしめたまま目を閉じた。

 

 でも、嫌ではない。

 困っている。

 恥ずかしい。

 明日の自分を想像して、精神が削れている。

 

 それでも、嫌ではない。

 今日の勝利を一人で抱えると、自分に刺さる。

 だから、明日、リュウと食事をする。

 

 ただ食べる。

 話す。

 今日の試合を、少しだけ普通の明日へつなげる。

 それが、たぶん必要だった。

 

 春麗は、小さく息を吐いた。

 

「……忘れないでって言ったけど」

 

 一拍。

 

「少しだけ、忘れてほしいかもしれない」

 

 すぐに首を振る。

 

「嘘」

 

 一拍。

 

「忘れないで」

 

 今日の勝利を。

 

 怖いまま飛んだことを。

 リュウに勝ったことを。

 敗者の印を刻んだことを。

 約束した試合で勝ったことを。

 そして、明日の約束を。

 

 全部、忘れないでほしい。

 自分も忘れない。

 恥ずかしくても。

 精神が削れても。

 勝ったことは消さない。

 

 春麗は、枕に顔を埋めたまま小さく笑った。

 

「……明日、遅れたら怒るから」

 

 誰に言うでもない言葉が、部屋に落ちる。

 それから、春麗はゆっくり起き上がった。

 明日の服を考えなければならない。

 ただの食事。

 ただの約束。

 けれど、それは修行でも勝負でもない、初めての約束だった。

 


 

 記録板AIは、ログを保存した。

 

『検証ログ終了』

 

『保存名』

『春麗は、約束の試合のあとで食事だけを約束する』

 

『保存先』

『ディレクターズカットIF外部検証領域』

 

『補足』

『本ログは、修行最終試験後に約束された正式試合の後日談です』

 

『以上』

 




Q:今回のディレクターズカット」IFについて解説して?

A:

今回は、修行編完了後に約束していた「正式試合」の後日談になります。

修行最終試験で春麗は、リュウの波動拳と昇龍拳の前で止まらず、掌底を届かせました。
ただし、あれはあくまで修行の最終試験です。
最後は寸止めであり、リュウを倒したわけではありません。

だからこそ、春麗とリュウは改めて正式な試合を約束しました。

今回のエピソードは、その約束の試合を回収する話です。

ここで大事なのは、春麗がただ勝っただけではないことです。

リュウは当然、勝ちに来ています。
修行の時のように、春麗を戻すために拳を置いているわけではありません。
波動拳も使う。
昇龍拳も使う。
春麗が克服したことを分かったうえで、さらにその先を狙ってくる。

だから、今回のリュウはかなり強いです。

春麗が波動拳を越え、昇龍拳の流れを見ても、リュウはそこで終わりません。
昇龍拳が春麗の芯を捉えきれないと判断すると、すぐに打ち切って回転足払いに切り替えます。

これは、春麗が修行で克服した形を、リュウもまた読んでいるということです。

春麗が止まらなくなった。
ならば、止まらない春麗を相手に、次の手を打つ。

このあたりは、修行を経て二人とも前に進んでいる部分になります。

それでも、春麗は止まりません。

かつては、波動拳の向こうに昇龍拳が見えただけで身体が止まっていました。
けれど今回は、あの記憶を消すのではなく、見たまま進んでいます。
昇龍拳の気配も、撃ち落とされた記憶も、竜巻旋風脚までつながれた敗北も、全部戻ってくる。
それでも、春麗は止まらない。

ここが今回の勝利の一番大きな意味です。

恐怖をなかったことにして勝ったのではありません。
怖いまま、覚えたまま、越えています。

そして、リュウが足払いに切り替えた後も、春麗は崩れません。
受けて、開脚突拳を入れて、元伝暗殺蹴で崩し、最後は虎襲倒で倒す。

修行最終試験では「掌が届いた」だけでした。
今回は、正式試合で「倒した」ことになります。

この差はかなり大きいです。

修行の完了を、正式な勝利として回収した回になります。

その後の膝枕と敗者の印は、春麗にとってのご褒美パートです。

ただし、ここも単なる甘い場面ではありません。

春麗は、勝者としてリュウを介抱しています。
リュウを倒したのは自分。
でも、心配もしている。
勝ったから近くで見ていたい。
でも、近いと自分も危ない。
その状態で、額と右手に敗者の印を刻む。

特に右手への印は、今回かなり重要です。

その右手は、波動拳を撃った手であり、昇龍拳を放とうとした拳です。
春麗を何度も止めてきた拳。
そして今日は、春麗を止められなかった拳。

そこに春麗が敗者の印を刻むことで、過去の「止められた春麗」が、今度は「止められなかった拳」に印を返している形になります。

リュウが目を覚ました後のやり取りも、春麗にとってはかなり刺さるものになっています。

「春麗の勝ちだ」
「強かった」
「春麗だ」

このあたりは、春麗が自分で確認したくて言わせているのに、実際にリュウの口から言われると精神に直撃してしまう言葉です。

勝ったのは春麗です。
でも、リュウの言葉で何度も撃ち落とされている。
このあたりの面倒くささが、このルートの春麗らしいところだと思います。

そして後半では、勝負の熱が少しずつ「次」へ移っていきます。

今日の勝ちは消したくない。
でも、これで終わりにはしたくない。
リュウもまた、悔しいから、また戦いたい。

ここで二人の関係は、勝った負けたで終わりません。
勝ったから終わりではなく、勝ったから次が生まれる。
負けたから終わりではなく、負けたから次に進む。

この二人にとって、勝負は関係を切るものではなく、続けるものになっています。

その上で、春麗は「明日は戦わない」と言います。

これも今回の大事なところです。

修行ではない。
試合でもない。
勝負でもない。
介抱でもない。
勝者特権でもない。

でも、食事くらいならしてもいい。

春麗はまだ、それを何と呼べばいいのか分かっていません。
だから最後に、リュウに「では、何だ」と聞かれて、少し迷った後に「約束」と答えます。

この「約束」が、今回の着地点です。

修行の約束でもない。
試合の約束でもない。
勝者要求でもない。
ただ、二人で食事をする約束。

春麗にとっては、かなり大きな一歩です。

最後の自室パートでは、勝者としての勢いが切れた春麗に、全部が返ってきています。

リュウに勝った。
膝枕した。
敗者の印を刻んだ。
強かったかと聞いた。
自分だけかと聞いた。
翌日の食事を約束した。
道着以外で来なさいと言った。
自分も少しだけ考えると言った。

勝者の場ではできたことが、一人になると一気に恥ずかしくなる。
けれど、嫌ではない。
むしろ、忘れてほしくない。

この矛盾が、今回の春麗の可愛さであり、面倒くささでもあります。

今回のエピソードは、構造としては「修行最終試験の成果を正式試合で回収する回」です。
感情面では、「勝利の熱が、修行でも勝負でもない約束へ変わる回」になります。

撃ち落とされた空。
戻った空。
勝った空。
そして、明日へ続く空。

春麗はようやく、リュウに正式な試合で勝ちました。
でも、それで終わりではありません。
むしろ、その勝利によって、次の食事という、まったく別の約束が生まれました。

この先の春麗は、勝ちたい相手としてのリュウと、好きな相手としてのリュウを、どちらも抱えたまま進んでいくことになります。
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