また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
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『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本編確定ログではありません』
『本ログは、第1話敗北ルート修行編完了後、約束の正式試合後の検証ログです』
『以下、検証ログを開始します』
その日は、修行ではなかった。
試合でもなかった。
任務でもない。
勝者特権でもない。
介抱でもない。
昨日の勝利確認でもない。
春麗は、鏡の前でそこを何度も自分に確認していた。
今日は、リュウと食事をする日。
修行場ではない場所で。
互いに構えず。
波動拳も昇龍拳もなく。
勝ち負けも、少なくとも表向きは持ち込まず。
ただ、同じ道を歩いて、同じ店に入り、食事をする。
つまり。
デート。
その言葉を頭の中で出した瞬間、春麗は自分の頬が熱くなるのを感じた。
「……違うわ」
すぐに否定する。
昨日、自分は言った。
明日は修行なし。
試合もなし。
勝負でもない。
夕方に、食事だけ。
それだけだ。
約束の正式試合に勝った。
リュウを倒した。
膝枕した。
敗者の印を額と右手に刻んだ。
その勝利を一人で抱えると、たぶん後で自分に刺さる。
だから、少し普通に食事をして、普通に話して、普通に帰る日があってもいいと思った。
そう言った。
言ったはずだ。
それなのに、今朝から春麗は何度も服を選び直している。
いつもの武道服ではない。
修行用の服でもない。
捜査官としての服でもない。
街を歩くための服。
動きやすい。
けれど、少しだけ整えている。
戦うためではない。
見られてもいいと思って選んだ服。
そこまで考えて、春麗は鏡の前で固まった。
見られてもいい。
誰に。
答えは分かっている。
リュウに。
「……何を考えているのよ」
春麗は小さく息を吐いた。
昨日は勝った。
勝者だった。
だから、リュウの額に印を刻めた。
右手にも印を刻めた。
膝枕もできた。
明日の食事も約束できた。
勝利の勢いは、恐ろしい。
だが、その勢いで約束した今日が来てしまった。
春麗は、最後にもう一度だけ鏡を見る。
悪くない。
たぶん、悪くない。
少なくとも、道着以外で来なさいと言った自分に対して、自分も少しは考えたと言える程度には整っている。
「……食事だけ」
春麗は自分に言い聞かせる。
一拍。
「本当に、食事だけ」
そう言ってから、少しだけ目を伏せた。
でも。
食事だけだからこそ、言えることがあるかもしれない。
修行ではない日。
試合でもない日。
勝負の直後でも、介抱の最中でもない時間。
昨日の勝者としてではなく。
リュウに勝った春麗として。
リュウを好きだと知っている春麗として。
あの修行最終日前夜、自分の中で名前をつけた感情を、リュウ本人に渡す。
春麗は、胸の奥で小さく息を吸った。
「……今日、言うの?」
自分で自分に問いかける。
答えは、すぐには出なかった。
けれど、待ち合わせ場所へ向かう足は止まらなかった。
待ち合わせ場所には、すでにリュウがいた。
いつも通り、少し早い。
だが、今日は白い道着ではなかった。
昨日、春麗が「道着以外で来なさい」と言ったからだろう。
簡素な旅装に近い服。
派手ではない。
整っているとも言いにくい。
けれど、リュウなりに考えたことは分かった。
その事実だけで、春麗の胸が少し温かくなる。
リュウがこちらを見る。
「春麗」
「早いのね」
「ああ」
「また少し前から待っていたの?」
「ああ」
「本当に、あなたは変わらないわね」
「そうか」
「ええ」
一拍。
「でも、今日は許すわ」
「そうか」
リュウは静かに頷いた。
春麗は、リュウの服装をちらりと見る。
「一応、考えたのね」
「服か」
「ええ」
「道着以外、と言われたからな」
「そうね」
「変か」
春麗は少しだけ目を逸らした。
「変ではないわ」
「そうか」
「似合っていないわけでもない」
「そうか」
「……もう少し嬉しそうにしなさいよ」
「嬉しい」
「表情」
「難しいな」
リュウは少しだけ考えるように春麗を見た。
視線が、いつもの武道服ではない春麗の姿に向く。
戦うための服ではない。
修行場で動くための服でもない。
街を歩くための服。
春麗は、その視線に気づいた瞬間、肩に余計な力が入りそうになった。
「……何?」
「春麗も、今日は違う」
「見れば分かるでしょう」
「ああ」
「一応聞くけれど、どこを見てそう言ったの?」
「服だ」
「それ以外だったら、今ここで蹴っていたわ」
「そうか」
「そうか、じゃないわよ」
リュウは、また少し考えた。
「似合っている」
春麗の動きが止まった。
「……今、何て?」
「似合っている」
「二回言わなくていいわ」
「聞かれた」
「確認しただけよ」
春麗は顔を背ける。
耳の辺りが熱い。
今朝、鏡の前で何度も選び直した服。
動きやすい。
けれど、少しだけ整えている。
戦うためではない。
見られてもいいと思って選んだ服。
その服を、リュウが見た。
そして、似合っていると言った。
たったそれだけで、春麗の精神がかなり削られた。
「……あなたね」
「ああ」
「そういうことは、もう少し言い方というものがあるでしょう」
「変ではない、と言えばよかったか」
「それは私がさっき言ったでしょう」
「なら、似合っている」
「だから、二回言わなくていいって言っているの」
リュウは少しだけ首を傾げた。
「嬉しくないのか」
春麗は言葉に詰まった。
嬉しい。
かなり嬉しい。
けれど、それをそのまま言えるほど、今日はまだ強くない。
「……昨日の試合の勝者だから」
「ああ」
「今日だけは、受け取っておくわ」
「そうか」
「ええ」
一拍。
「でも、覚えておきなさい。次に言う時は、もう少し自然に言いなさい」
「自然に」
「そう」
「難しいな」
「難しくないわよ」
そう言いながら、春麗は少しだけ口元を緩めた。
悪くない。
いや。
かなり、悪くない。
春麗は小さく笑った。
「本当に、あなたは」
その言葉の続きを、今日は飲み込まなかった。
「そういうところも、嫌いじゃないわ」
リュウが少しだけ目を瞬いた。
春麗は、すぐに顔を逸らす。
「今のは、聞き流して」
「聞いた」
「聞き流しなさい」
「難しい」
「でしょうね」
春麗は歩き出した。
リュウも隣に並ぶ。
近すぎない。
けれど、修行場の時よりは少し近い。
昨日、約束の試合の後に並んで歩いた時と同じくらい。
いや。
少しだけ、近いかもしれない。
春麗は、その距離を確認して、内心で少しだけ頷いた。
悪くない。
かなり、悪くない。
二人は、街の外れにある小さな店に入った。
春麗が選んだ店だった。
騒がしすぎない。
静かすぎもしない。
食事はしっかりしていて、リュウでも満足できる量がある。
昨日の試合後でも、身体に重すぎないものがある。
つまり、かなり考えて選んだ。
だが、春麗は言った。
「たまたま知っていただけよ」
「ああ」
「深い意味はないわ」
「ああ」
「あなたが試合後でもちゃんと食べられる場所を考えたわけではないから」
「そうか」
「……少しは疑いなさいよ」
「春麗が選んだなら、良い店だと思った」
春麗は黙った。
その手の素直な信頼は、まだ少し慣れない。
「そういうところよ」
「何がだ」
「今日はいいわ」
二人は向かい合って座った。
食事が運ばれてくるまでの間、春麗は店内を見回すふりをした。
実際には、リュウを見ていた。
修行場ではない場所にいるリュウ。
構えていないリュウ。
波動拳を撃たないリュウ。
昇龍拳の気配をまとっていないリュウ。
昨日、自分が倒したリュウ。
額と右手に、春麗に敗者の印をつけられたリュウ。
それを見るたびに、春麗の胸の奥が熱くなる。
昨日、自分は勝った。
約束の正式試合で。
波動拳を越えた。
昇龍拳の流れを見た。
回転足払いを防いだ。
開脚突拳を入れた。
元伝暗殺蹴で崩した。
虎襲倒で倒した。
そして、膝枕した。
そこまで思い出して、春麗は内心で顔を覆いたくなった。
昨日の自分は、かなり強かった。
そして、かなり大胆だった。
食事が運ばれてきた。
リュウは一口食べる。
「うまい」
春麗は思わず笑いそうになった。
「具体的に」
リュウは少し考える。
「香りがいい」
「珍しく具体的ね」
「そうか」
「ええ」
「昨日の試合後にも食べやすい」
春麗は箸を止めた。
「……昨日の試合後?」
「ああ」
「まだ痛む?」
「少し」
「どこが」
「背中と肩だ」
「虎襲倒の影響ね」
「ああ」
「当然よ。私が勝ったのだから」
「ああ」
「そこは素直に認めるのね」
「春麗の勝ちだ」
春麗の胸が鳴った。
昨日も聞いた。
それでも効く。
リュウ本人の口から、自分の勝ちだと言われるたびに、勝利がもう一度沈み込んでくる。
「……そう」
「ああ」
「忘れないで」
「忘れない」
「額の印も」
「ああ」
「右手の印も」
「ああ」
「今日、それで来るの少し恥ずかしくなかった?」
「春麗が刻んだ」
「だから?」
「忘れないためには、消えないうちはあってもいい」
春麗は、完全に箸を止めた。
「……そういうところよ」
「何がだ」
「今日は本当にいいわ」
春麗は、少しだけ顔を背けた。
危ない。
食事が始まったばかりなのに、もうかなり刺されている。
しばらく、二人は食事を続けた。
修行場の昼食とは違う。
春麗が包んできたものではない。
午後の組手に備えた栄養管理でもない。
勝った後の介抱でもない。
ただ、同じ店で食事をしている。
それだけなのに、不思議と落ち着いた。
春麗は、ふと箸を置いた。
「ねえ、リュウ」
「ああ」
「昨日の試合」
「ああ」
「悔しい?」
「ああ」
「まだ?」
「ああ」
「どのくらい?」
リュウは少し考えた。
「また戦いたいくらい」
春麗は、思わず笑ってしまった。
「昨日と同じ答えね」
「ああ」
「でも、いい答えだわ」
「そうか」
「ええ」
一拍。
「私も、また戦いたい」
「ああ」
「勝ったけれど」
「ああ」
「今日の勝ちは、消したくないけれど」
「ああ」
「でも、これで終わりにはしたくない」
「ああ」
リュウは頷いた。
「また戦おう」
春麗は静かに頷く。
「ええ」
それだけで、胸が少し落ち着く。
勝った。
でも終わらない。
勝負は続く。
その約束があるから、今日の食事もただ甘いだけでは終わらない。
春麗は、リュウを見る。
「あの私が昇龍拳に止まっていた時の修行のこと、覚えている?」
「覚えている」
「本当に?」
「ああ」
「では問題です」
春麗は少しだけ意地悪く言った。
「私が初めてあなたの分も昼食を持ってきた時、私は何と言ったでしょう」
リュウは少し考えた。
「礼ではない」
「正解」
「修行のため」
「正解」
「栄養管理」
「大正解」
「恩を少し返すだけ」
「……本当に覚えているのね」
「ああ」
リュウは当然のように頷いた。
春麗は、少しだけ胸が温かくなる。
覚えている。
やはりこの男は、そういうところを忘れない。
「あなた、あの頃から本当に素直に食べていたわね」
「うまかった」
「毎回それ」
「本当にそう思った」
「具体的に言わせるのも、途中から楽しくなっていたわ」
「そうなのか」
「ええ」
一拍。
「あなたが少し考える顔を見るのが、わりと好きだったの」
リュウの箸が止まった。
春麗は、その反応を見て少しだけ満足する。
今日は、少しは動じさせたい。
修行中ではない。
昨日の試合中でもない。
ただの食事だけの日なのだから。
「春麗」
「何」
「今のは」
「聞いたままでいいわ」
「そうか」
「ええ」
春麗は、少しだけ息を整えた。
ここからが本題だった。
「修行の最終日前日」
春麗は静かに言った。
リュウの目が、春麗を見る。
「あの日の夜、私、自室でずっと考えていたの」
「ああ」
「翌日は、試合形式の最終試験だったでしょう」
「ああ」
「波動拳も、昇龍拳もあり。あなたは最後だけ寸止め。私は、あなたの拳の前で止まらずに動けるか試す」
「ああ」
「本当なら、集中しなければいけない夜だったわ」
一拍。
「なのに、私は修行の日々を振り返っていた」
春麗は、窓の外に目を向けた。
街の明かりが揺れている。
修行場の夕方とも、昨日の試合場とも違う光。
でも、あの日の夜を思い出すには十分だった。
「最初に負けたこと」
一拍。
「何度も負けたこと」
一拍。
「やっと勝って、あなたの額に敗者の印をつけたこと」
リュウは黙って聞いている。
「その後、二週間待たされたこと」
春麗は少しだけ目を細める。
「これは、まだ少し怒っているわ」
「すまない」
「今は謝っていいわ」
「すまない」
「よろしい」
春麗は小さく笑った。
「それから、あなたが戻ってきて、私は完敗した」
「ああ」
「その試合で、あなたの波動拳の向こうに昇龍拳を見て、身体が止まるようになった」
一拍。
「だから、あなたとの修行が始まった」
リュウは頷いた。
「ああ」
「最初は悔しかったわ」
一拍。
「あなたに修行を手伝ってもらうなんて」
一拍。
「しかも、私を止めた本人に」
リュウは、少しだけ目を伏せた。
春麗は続ける。
「でも、毎日あなたが来た」
「ああ」
「朝、修行場に立っていた」
「ああ」
「波動拳を撃った」
「ああ」
「昇龍拳を寸止めした」
「ああ」
「私が膝をついても、勝手に支えなかった」
「ああ」
「私が立つまで待っていた」
「ああ」
「昼には、私の作った昼食を食べて、うまいと言った」
「ああ」
「具体的に言えと言われて、少し考えた」
「ああ」
「旅のことも話した」
「ああ」
「宿のことも」
「ああ」
「ケンに金の管理を任せていることも」
「……ああ」
「そこは、今でも少し心配よ」
「そうか」
「ええ」
春麗は、少しだけ表情を柔らかくした。
「私も話したわね」
「ああ」
「捜査官のこと」
「ああ」
「追っている組織のこと」
「ああ」
「父のこと」
「ああ」
「あなたは、余計な慰めは言わなかった」
「ああ」
「ただ、私の拳には行き先があると言った」
リュウは静かに春麗を見ていた。
春麗の声が、少しだけ小さくなる。
「あの言葉、覚えている?」
「覚えている」
「私は、かなり覚えているわ」
「ああ」
「多分、あなたが思っているよりずっと」
リュウは何も言わなかった。
急かさない。
遮らない。
ただ、聞いている。
その姿勢は、修行の頃と変わらなかった。
春麗は続けた。
「修行中の事故もあったわ」
「事故」
「私が波動拳を跳んだ後にバランスを崩して、あなたに抱きとめられた日」
「ああ」
リュウは少しだけ目を伏せた。
「危なかった」
「そうね」
一拍。
「でも、私には別の意味でも危なかったわ」
リュウが春麗を見る。
春麗は少しだけ頬を赤くした。
「私は、かなりドキドキしたの」
「ああ」
「あなたは全く動じていないように見えた」
「ああ」
「だから翌日、聞いたでしょう」
一拍。
「私って魅力ない? って」
リュウは、少しだけ真面目な顔になった。
「ああ」
「今思い出しても、よく聞いたと思うわ」
「春麗は、まっすぐだった」
「違うわ。かなり追い詰められていたの」
「そうなのか」
「そうよ」
春麗は苦笑した。
「あなたは答えた」
「ああ」
「私に魅力がないとは思っていない」
「ああ」
「初戦で私を女としても見てしまった。それで拳が鈍った。だから今は、一人の格闘家として見るよう意識している」
「ああ」
「それを聞いて、私は」
一拍。
「かなり嬉しかった」
リュウの目が、少しだけ動いた。
春麗は、逃げずに続けた。
「でも、全く反応がないのも違う、と言った」
「ああ」
「あなたは言ったわ」
一拍。
「春麗は難しいな、って」
リュウは少しだけ目元を緩めた。
「今も、少しそう思う」
「失礼ね」
「すまない」
「謝らなくていいわ。私もそう思うもの」
春麗は、小さく息を吐いた。
そして、リュウを見た。
「その全部を、最終日前日の夜に思い出していたの」
「ああ」
「それで、気づいた」
一拍。
春麗は、少しだけ手元を見た。
言うのは怖くない。
いや、少し怖い。
でも、あの頃とは違う。
昨日、春麗はリュウに勝った。
自分の掌で届き、自分の手で印を刻んだ。
その勝利が、今の春麗を支えている。
だから今日は、言える。
逃げるためではなく。
渡すために。
「私、あの夜に気づいたの」
春麗は顔を上げた。
「あなたが好きだって」
店の音が、少し遠くなった気がした。
リュウは黙っていた。
驚いているのか。
考えているのか。
受け止めているのか。
いつものように、表情は大きく変わらない。
だが、春麗にはもう分かる。
全く動じていないわけではない。
リュウの呼吸が、ほんの少しだけ深くなった。
春麗は、言ってしまってから、思ったよりも落ち着いている自分に気づいた。
あの夜、自室で一人で言った時は、顔が熱くなった。
最悪だと思った。
よりによって、最終試験の前夜に気づくなんてと、自分に腹を立てた。
けれど今は。
リュウの前で言ったのに、胸の奥は静かだった。
もちろん、恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
でも、後悔はなかった。
「……何か言いなさいよ」
春麗は少しだけ拗ねたように言った。
リュウは静かに答える。
「春麗の気持ちは嬉しい」
春麗の胸が、強く鳴った。
「短い」
「すまない」
「でも、悪くないわ」
「ああ」
「それだけ?」
リュウは少し考えた。
春麗は待った。
昔より、少しだけ待てるようになった。
リュウは、ゆっくりと言った。
「あの修行の最終日前日、春麗がそう思っていたとは知らなかった」
「でしょうね」
「あの日、春麗は翌日の試験のことを考えていると思っていた」
「考えていたわ」
「ああ」
「でも、それだけじゃなかった」
「そうか」
「ええ」
リュウは、春麗を見る。
「あの試験で、春麗は止まらなかった」
「ええ」
「俺の昇龍拳の前で、掌を届かせた」
「ええ」
「その前夜に、そう気づいていたのか」
「そうよ」
リュウは、少しだけ目を伏せた。
「強いな」
春麗は、思わず笑った。
「そこなの?」
「ああ」
「今、私はかなり甘い話をしたつもりだったのだけれど」
「甘い話だと思う」
「思うの?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「なら、なぜ最初に出るのが強いなのよ」
リュウは真面目に答えた。
「好きだと気づいても、春麗は翌日止まらなかった」
一拍。
「むしろ、前へ出た」
一拍。
「それは、強い」
春麗は、言葉を失った。
胸の奥が、熱くなる。
この男は、本当に。
春麗を見ている場所が、時々ずるい。
甘い言葉を期待していたのに。
返ってきたのは、格闘家としての承認だった。
でも。
それが嬉しい。
春麗は、静かに息を吐いた。
「……ありがとう」
「ああ」
「今のは、かなり効いたわ」
「そうか」
「ええ」
一拍。
「でも、甘い言葉も足りないわ」
リュウが春麗を見る。
「甘い言葉」
「ええ」
「難しいな」
「知っているわ」
「春麗が好きだと言ってくれたことは、嬉しい」
春麗の頬が熱くなる。
リュウは、続けた。
「俺も、春麗といる時間は好きだ」
春麗の手が止まった。
リュウは、真っ直ぐだった。
いつものように。
飾らない。
ただ、思ったことを言っている。
「修行の時間も」
一拍。
「昼食を食べる時間も」
一拍。
「昨日の試合も」
一拍。
「今日のように、修行でも試合でもない時間も」
一拍。
「俺は、好きだ」
春麗は、思わず顔を背けた。
「……あなた」
「ああ」
「そういうこと、急に言うのは反則よ」
「春麗が甘い言葉が足りないと言った」
「言ったけれど」
「違ったか」
「違わないわよ」
春麗は、片手で口元を隠した。
嬉しすぎる。
これは危険だ。
食事中に聞くには、少し威力が高い。
昔の自分なら、ここで完全に反論していたかもしれない。
今も反論したい。
けれど、今日は少しだけ受け取ると決めていた。
「……受け取っておくわ」
「ああ」
「ただし」
一拍。
「昨日、試合には勝ったし、今日は私の方が先に言ったのだから、今日も私の勝ちよ」
リュウは少し考えた。
「勝負だったのか」
「そういうことにしておくの」
「そうか」
「ええ」
春麗は少しだけ得意そうに笑った。
「あなたに好きだと言えた」
一拍。
「それも、ちゃんと自分の言葉で」
一拍。
「だから今日は、私の勝ち」
リュウは静かに頷いた。
「春麗の勝ちだ」
春麗の胸が、また鳴る。
「……素直に認めるのね」
「ああ」
「悔しくないの?」
「いや、悔しいよりも春麗の気持ちは嬉しい」
「そういう返しは」
一拍。
「ずるいわ」
リュウは少しだけ目元を緩めた。
「そうか」
「ええ」
食事を終えた後、二人は店を出て、川沿いの道を歩いた。
夜風が心地よかった。
春麗は、リュウの隣を歩く。
修行場とは違う道。
任務の移動とも違う。
昨日の試合後の帰り道とも違う。
ただ、食事の後に二人で歩いている。
それだけの時間。
春麗は、少しだけ歩幅を緩めた。
リュウも合わせる。
それが自然だった。
「ねえ」
「ああ」
「あの修行、長かったわね」
「ああ」
「その後の約束の試合も、かなり長く感じたわ」
「ああ」
「勝ったのは私だけど」
「ああ」
「昨日は、まだ身体中に熱が残っていた」
「ああ」
「今も少し残っている」
リュウは春麗を見る。
「痛むのか」
「少し」
「どこが」
「秘密」
「そうか」
「本当に聞き返さないのね」
「言いたくないなら、聞かない」
春麗は、少しだけ黙った。
そういうところも、修行の頃から変わらない。
踏み込まない。
けれど、見ている。
春麗は夜の川を見る。
「今の私にとって、あの修行も、昨日の試合も、かなり大事な時間だった」
「ああ」
「あなたは?」
リュウが春麗を見る。
「俺も、大事な時間だった」
春麗は、少しだけ笑った。
「短いけれど、いい答えね」
「ああ」
「具体的には?」
リュウは少し考えた。
春麗は、それを見てまた少し機嫌が良くなる。
昔と同じだ。
うまいと言われて、具体的にと言った時と。
リュウは、考えてから言った。
「春麗が、止まらなくなるまでを見た」
「ええ」
「春麗の昼食を食べた」
「ええ」
「春麗の拳の行き先を知った」
「ええ」
「春麗が俺に勝った」
「昨日ね」
「ああ」
「そこは、よく覚えておきなさい」
「覚えている」
「よろしい」
リュウは続けた。
「春麗が難しいことも知った」
「そこは入れなくていいわ」
「でも、大事だ」
「大事なの?」
「ああ」
「どう大事なのよ」
リュウは、少しだけ首を傾げるように考えた。
「春麗が難しいから、考える」
一拍。
「考えるから、覚えている」
一拍。
「覚えているから、また会いたくなる」
春麗は、足を止めた。
リュウも止まる。
夜風が二人の間を通った。
「……あなた」
「ああ」
「それ、かなり甘いわよ」
「そうなのか」
「そうよ」
「なら、よかった」
「自覚しなさい」
「難しい」
「本当に、あなたは」
春麗は、顔を背けた。
口元が緩むのを隠すためだった。
好きだと告げた。
リュウも、春麗といる時間が好きだと言った。
修行の日々を、大事な時間だと言った。
昨日の勝利も覚えていると言った。
難しいから覚えている、と言った。
また会いたくなる、と言った。
十分だった。
今日の春麗には、十分すぎるほどだった。
しばらく歩いて、道の分かれ目に着いた。
春麗は足を止める。
昨日もここで別れた。
その時、春麗は「食事だけ」と言った。
今日は、その約束の先にいる。
春麗はリュウを見る。
「リュウ」
「ああ」
「今日は、来てくれてありがとう」
「ああ」
「それと」
一拍。
「聞いてくれて、ありがとう」
リュウは静かに頷いた。
「言ってくれて嬉しかった」
「……そう」
春麗は、少しだけ視線を落とした。
「次は」
「ああ」
「正式な試合の続きもあるわよね」
「ああ」
「昨日、私が勝ったから終わりじゃない」
「ああ」
「忘れていない?」
「忘れていない」
「今日の話で、甘くなったからといって、手加減はなしよ」
「しない」
「本当に?」
「ああ」
「私も、しないわ」
「ああ」
「好きだから、勝ちたいの」
リュウの目が、春麗を見る。
春麗は、今度は逃げなかった。
「好きだから、あなたの拳の前で止まりたくない」
一拍。
「好きだから、あなたに格闘家として届きたい」
一拍。
「好きだから、勝ちたい」
リュウは、静かに頷いた。
「分かった」
「分かっただけ?」
「俺も、春麗と戦いたい」
一拍。
「春麗が好きだから」
春麗は、完全に固まった。
数秒。
言葉が出なかった。
それから、ようやく顔を赤くして言う。
「……今の」
「ああ」
「今のは、かなり反則」
「そうなのか」
「そうよ」
「でも、そう思った」
「だから、思ったことを急に言わないで」
「言わない方がよかったか」
「違うわよ」
春麗は、両手で顔を覆いそうになって、必死に耐えた。
ここは外だ。
川沿いの道だ。
さすがにそれはできない。
「……受け取っておくわ」
「ああ」
「今日は、かなり受け取りすぎね」
「そうか」
「ええ」
春麗は、小さく息を吐いた。
それから、少しだけ笑った。
「でも、悪くないわ」
リュウも、ほんの少しだけ目元を緩める。
「また、食事をしよう」
春麗は、その言葉に胸を温かくした。
「ええ」
一拍。
「修行じゃない日に」
「ああ」
「試合でもない日に」
「ああ」
「でも、次の試合のことは忘れずに」
「ああ」
「よろしい」
春麗は一歩下がる。
「またね、リュウ」
「ああ」
「また、春麗」
今度は、春麗は振り返ってから歩き出した。
背中を向けても、怖くない。
振り返っても、悔しくない。
今日は、ちゃんと渡せた。
あの修行最終日前日の夜。
一人で気づいた気持ちを。
昨日、自分が勝った相手に。
今、隣を歩いたリュウに。
言葉にして渡せた。
春麗は、夜風の中で小さく笑った。
修行は終わった。
約束の試合も終わった。
でも、何も終わっていない。
波動拳の向こうにあった昇龍拳は、もう春麗を止めるだけのものではない。
それは、次の試合へ続く拳で。
昼食の包みは、修行のためだけのものではなくなって。
昨日の食事だけの約束は、今日、また次の約束に変わった。
好きという言葉は、勝負を弱くするものではなくなった。
春麗は前を向く。
次に会う時。
きっとまた、リュウは静かに待っている。
春麗は、その前へ歩いていく。
止まらずに。
少しだけ胸を高鳴らせながら。
記録板AIは、ログを静かに保存した。
『検証ログ終了』
『保存名』
『春麗は、あの試験前夜に気づいた気持ちの名前をリュウに渡す』
『補足』
『本ログは、約束の正式試合後に発生した“食事だけ”の翌日ログです』
『補足』
『春麗、修行最終日前夜の好意自覚をリュウ本人へ告白』
『補足』
『リュウ、春麗といる時間への好意を明言』
『補足』
『リュウ、春麗が好きだから戦いたいと明言』
『補足』
『次回正式試合の継続意志、成立』
『補足』
『糖分濃度:高』
『以上』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、正式試合の翌日、「食事だけ」の約束を回収するエピソードになります。
前回、春麗は約束していた正式試合でリュウに勝ちました。
修行最終試験ではなく、寸止めでもなく、本当の試合として。
波動拳から昇龍拳への流れを越え、さらにリュウの切り替えにも対応して、最後は虎襲倒で倒す。
そして勝者として、リュウの額と右手に敗者の印を刻みました。
その勝利の翌日が、今回の話です。
重要なのは、今回は修行でも試合でもないということです。
春麗自身も何度も確認しています。
修行ではない。
試合ではない。
任務でもない。
勝者特権でもない。
介抱でもない。
昨日の勝利確認でもない。
ただ、食事だけ。
ただ、その「食事だけ」が春麗にとってはかなり大きい。
修行中の昼食は、最初は言い訳つきでした。
修行のため。
栄養管理。
恩を返すため。
少し多めに作っただけ。
でも、それがいつの間にか、リュウと過ごす時間そのものになっていました。
今回の食事は、その延長線にありながら、もう修行の言い訳が使えません。
だから春麗は困っています。
食事だけ。
でも、道着ではないリュウと会う。
自分も武道服でも修行着でも捜査官の服でもない服を選ぶ。
リュウに見られてもいいと思っている。
ここで春麗は、昨日の勝者としての勢いと、恋を自覚した女性としての照れの間で揺れています。
今回のもう一つの大きな軸は、修行最終日前夜に自覚した「好き」を、ようやくリュウ本人へ渡すことです。
あの夜、春麗は一人で気づきました。
リュウを好きなのだと。
ただ、その直後は最終試験でした。
告白どころではありません。
波動拳と昇龍拳の前で、自分が止まらずに動けるかを証明しなければならなかった。
そして、その後は正式試合の約束がありました。
春麗はリュウに勝つ必要がありました。
好きだからこそ、壊れ物のように見られたくない。
好きだからこそ、格闘家として届きたい。
好きだからこそ、勝ちたい。
その流れを経て、今回ようやく言葉にしています。
「あなたが好きだって」
この告白は、単なる恋愛告白ではなく、修行編全体の感情の回収でもあります。
最初に見誤られたこと。
何度も負けたこと。
ようやく勝ったこと。
二週間待たされたこと。
完敗して身体が止まったこと。
修行を始めたこと。
昼食を作ったこと。
抱きとめられて動揺したこと。
魅力がないわけではないと聞いて嬉しかったこと。
そして、昨日の正式試合で勝ったこと。
それら全部を通った春麗が、今のリュウに対して言う「好き」です。
だから、この「好き」は勝負心を消しません。
むしろ、リュウがそこをちゃんと見ているのが今回のポイントです。
リュウは、春麗が好きだと気づいても翌日の試験で止まらなかったことを「強い」と言います。
甘い言葉を期待した春麗としては、そこなの? となるわけですが、この答えはかなりリュウらしいと思います。
リュウは春麗を、恋愛対象としてだけではなく、まず格闘家として見ている。
そして春麗にとって、それはとても大事なことです。
好きだと言われるのも嬉しい。
でも、強いと言われるのも嬉しい。
格闘家として見られることが、春麗にとっては恋愛感情と矛盾しないどころか、むしろ深く刺さる。
ここが、この二人らしい関係だと思っています。
後半では、リュウ側もかなり素直に返しています。
春麗といる時間が好き。
修行の時間も、昼食の時間も、昨日の試合も、今日のように修行でも試合でもない時間も好き。
リュウとしては飾らずに言っているだけなのですが、春麗にはかなり高火力です。
しかも最後には、「春麗が好きだから戦いたい」とまで言っています。
ここで大事なのは、二人とも「好き」と「戦いたい」が並んでいることです。
普通なら、好きだから戦いたくない、傷つけたくない、となる方向もあります。
でもこの二人は違います。
好きだから、手加減しない。
好きだから、格闘家として届きたい。
好きだから、勝ちたい。
好きだから、また戦いたい。
ここまで来ると、春麗の恋はただ甘いだけではありません。
勝負と同じ方向を向いた感情になっています。
そして最後に、また食事の約束が生まれます。
前話では、約束の正式試合のあとに「食事だけ」の約束が発生しました。
今回は、その食事だけの日が、さらに次の約束へつながっています。
修行は終わった。
約束の試合も終わった。
告白もした。
でも、何も終わっていない。
次の試合がある。
次の食事がある。
また会う理由がある。
今回のエピソードは、前話の勝利の余韻を受けた後日談であり、修行編前夜に春麗が一人でつけた「好き」という名前を、ようやくリュウ本人に渡す回でした。
糖分は高めですが、ただ甘いだけではなく、春麗らしく「好きだから勝ちたい」まできちんと残したつもりです。