また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
夕方。
リュウは、いつもの道を歩いていた。
修行の帰りだった。
体は温まっている。
呼吸も乱れていない。
今日は、誰かと戦ったわけではない。
ただ、いつものように体を動かした。
拳を振り。
足を運び。
呼吸を整え。
自分の中に戻る。
その帰り道。
道の脇に、小さな白いものが見えた。
石の上。
風で飛ばないように、平たい石が端に置かれている。
封筒だった。
リュウは、足を止めた。
封筒の表には、短く字がある。
リュウへ。
その字を見て、リュウはしばらく黙った。
春麗の字だった。
丁寧で。
少し力が入っていて。
たぶん、何度か止まりながら書いた字。
リュウは、封筒を手に取った。
辺りを見る。
春麗の姿はない。
ただ、風がある。
青い袖の残り香のようなものは、もちろんない。
だが、少し前までそこにいたのだろうと分かった。
リュウは、封筒を見つめる。
自分が、昨日したことを思い出した。
春麗へ。
宿題の答えを考えた。
直接話したい。
いつもの場所で待つ。
リュウ。
短い紙だった。
長く書けなかった。
考えたことはあった。
言葉にできない部分もあった。
だが、あの日は、直接話したかった。
だから呼んだ。
春麗は来た。
そして、聞いた。
自分の答えを。
九十九点、と言った。
次がある、と言った。
そして、帰った。
追い打ちは禁止、と言って。
リュウは何も言わなかった。
何も言わない方がいいと思ったからだ。
今日も、春麗はいない。
その代わり、手紙がある。
リュウは、封筒を開いた。
紙は、一枚だけだった。
短い。
だが、短いから軽いわけではない。
リュウは、そこに書かれた文字を読んだ。
リュウへ。
答えは受け取ったわ。
九十九点。
まだ全部は持てない。
でも、なかったことにはしない。
少し待ちなさい。
逃げてはいないから。
春麗。
リュウは、一度読み終えた。
もう一度読んだ。
さらに、もう一度読んだ。
言葉は短かった。
だが、春麗の間合いがあった。
答えは受け取った。
九十九点。
そこまでは、昨日の続きだった。
その後。
まだ全部は持てない。
リュウは、その一文で少しだけ目を伏せた。
春麗は、持てないと書いた。
持てない、と。
受け取らない、ではない。
違う、でもない。
返す、でもない。
持てない。
その言い方が、春麗らしいのかどうかは、リュウには分からない。
だが、春麗が自分で選んだ言葉だということは分かった。
そして、次の一文。
でも、なかったことにはしない。
リュウは、そこを静かに見た。
なかったことにはしない。
それだけで、十分だった。
少し待ちなさい。
逃げてはいないから。
リュウは、そこで息を吐いた。
待つ。
その言葉は、浮かんだ。
だが、口には出さなかった。
春麗が、少し待ちなさい、と書いた。
それに対して、待つ、と返すことは簡単だ。
たぶん、間違いではない。
けれど。
今、それを言葉にすると、春麗に届きすぎる気がした。
春麗は、逃げてはいないから、と書いた。
それは、たぶん春麗が自分で立つために書いた言葉だ。
そこへ、こちらから待つと言い重ねる必要はない。
リュウは、手紙を畳まなかった。
もう少しだけ、読んだ。
字の止まり方を見る。
言葉の短さを見る。
説明の少なさを見る。
それで、十分だった。
春麗は、長く書けなかったのだろう。
だが、書いた。
直接会わずに。
それでも、返した。
リュウは、紙を静かに持ったまま、道の端に立っていた。
「……分かった」
それだけを言った。
誰に聞かせるためでもない。
春麗はここにいない。
だから、これは返事ではない。
ただ、受け取ったという確認だった。
答えは受け取った。
まだ全部は持てない。
でも、なかったことにはしない。
少し待ちなさい。
逃げてはいないから。
分かった。
それだけ。
リュウは、手紙を丁寧に畳んだ。
胸元へしまいかけて、少し考える。
しまう。
それでいい。
大事なものだから、しまう。
春麗がどう書いたのか。
どういう顔で書いたのか。
どこで止まったのか。
それは、今は聞かない。
聞きに行かない。
探しにも行かない。
春麗が置いた手紙を、リュウが受け取った。
それで、今は十分だ。
リュウは、歩き出した。
道はいつもと同じだった。
だが、胸元に紙がある。
短い紙。
春麗の返事。
まだ全部は持てない。
でも、なかったことにはしない。
リュウは、その言葉を心の中で繰り返した。
待つとは言わない。
追わない。
呼び返さない。
ただ、分かった。
それだけを置く。
そう決めた。
夜。
リュウは、宿に戻った。
小さな灯りをつける。
荷を置く。
手を洗う。
それから、胸元から手紙を取り出した。
もう一度読む。
リュウへ。
答えは受け取ったわ。
九十九点。
まだ全部は持てない。
でも、なかったことにはしない。
少し待ちなさい。
逃げてはいないから。
春麗。
短い。
だが、春麗の言葉だ。
リュウは、紙を机の上に置いた。
返事を書くか、少し考えた。
紙はある。
書くこともできる。
分かった。
その一言だけなら、書ける。
だが、書かない。
今、返事を返せば、また春麗は読まなければならない。
読めば、考える。
考えれば、持とうとする。
まだ持てない、と書いてきた春麗に、今すぐ次の紙を渡すのは違う。
リュウは、筆を取らなかった。
代わりに、手紙をもう一度畳む。
乱れないように。
折り目を増やさないように。
丁寧に。
そして、自分の荷の中の小さな布に包んだ。
大げさかもしれない。
だが、紙が傷まないようにするには、それでいい。
リュウは、灯りの横に座った。
春麗の言葉を思い返す。
少し待ちなさい。
待つ、と言えばいいのか。
違う。
少し待ちなさい、と言われたのなら。
今は、言葉にしない方がいい。
待っていることを見せつけない。
待つと言って、春麗の逃げ道を塞がない。
逃げてはいない、と書いた春麗に、逃げていないな、と言わない。
それも、きっと届きすぎる。
リュウは、目を閉じた。
春麗が、昨日、自分の前で言ったことを思い出す。
追い打ちは禁止。
今から何か言うのは禁止。
リュウは、それを守った。
今日も同じだ。
手紙を読んだからといって、すぐに言葉を返すことが正しいとは限らない。
拳なら、打たない間合いがある。
会話にも、同じものがあるのかもしれない。
リュウは、そう思った。
言葉を出さない。
だが、逃げない。
近づきすぎない。
だが、離れすぎない。
春麗が書いた、少し待ちなさい、という言葉は、その間合いを教えているようにも思えた。
リュウは、小さく頷いた。
「分かった」
もう一度、そう言った。
今度も、誰に聞かせるためでもない。
ただ、自分の中に置くために。
翌朝。
リュウは、いつもより少し早く目を覚ました。
手紙は、布に包んだまま荷の中にある。
開かなかった。
開けば読める。
読めばまた考える。
だが、今日は読まない。
読まなくても、覚えている。
答えは受け取った。
九十九点。
まだ全部は持てない。
なかったことにはしない。
少し待ちなさい。
逃げてはいない。
それで十分だった。
リュウは、外へ出た。
朝の空気は冷たかった。
拳を構える。
一度、息を吸う。
打つ。
引く。
足を運ぶ。
また打つ。
いつもの稽古。
だが、昨日と少し違う。
春麗から返事が来た。
それを、言葉で追わないことにした。
リュウは、拳を止めた。
春麗は、逃げてはいないと書いた。
なら、探しに行く必要はない。
逃げていない相手を、追う必要はない。
ただ、次に会った時。
その時の春麗を見る。
昨日、自分が言ったことと同じだ。
変わった春麗を見る。
受ける。
次も聞け。
ただし、今はそれを繰り返さない。
リュウは、もう一度拳を構えた。
言葉にしないことも、向き合うことになるなら。
今日は、言わない。
それだけを決めて、リュウは朝の稽古を続けた。
同じ朝。
春麗は、青い小箱の前で目を覚ました。
布団ではない。
机に突っ伏していたわけでもない。
昨夜は、ちゃんと布団に入ったはずだ。
それでも、目が覚めると、最初に青い小箱を見た。
返事は置いてきた。
リュウが読んだかどうかは分からない。
返事は来ていない。
扉の隙間にも、紙はない。
机の上にも、何もない。
春麗は、少しだけ息を止めた。
「……何も、ない」
ない。
返事がない。
追撃がない。
待つ、もない。
分かった、もない。
何もない。
その何もなさが、妙に静かだった。
春麗は、扉の方を見る。
紙はない。
当然だ。
昨夜、リュウが手紙を読んだかどうかも分からない。
分からない。
でも。
妙な確信があった。
読んだ気がする。
そして、何も返してこないことを選んだ気がする。
それは、言葉ではない。
確定ログでもない。
でも、なぜかそう思った。
春麗は、青い小箱の蓋に指を置いた。
「……言わないつもりなの?」
誰も答えない。
リュウもいない。
記録板AIもいない。
それでも、春麗の内側で何かが少し揺れた。
待つと言われたら危険だった。
分かったと書かれても、たぶん危険だった。
逃げていないならそれでいい、と返されても危険だった。
でも、何も返ってこない。
それはそれで。
「……危険なのよ」
春麗は、小さく言った。
言葉にしない配慮。
返事を急がせない沈黙。
こちらが「まだ持てない」と書いたことを、そのまま置いてくれている気配。
それが、届いてしまう。
届いてしまうが、まだ形になっていない。
だから、落ちるほどではない。
落ちるほどではないのに、胸の奥が熱い。
春麗は、額に手を当てた。
「……本当に、あなたは」
一拍。
「言わないことまで上手くならないで」
言ってから、顔が熱くなった。
褒めている。
これは、ほとんど褒めている。
春麗は、首を振った。
「違うわ」
違う。
たぶん。
ただの分析。
そういうことにする。
春麗は、青い小箱を開けた。
正式回答への初回返事。
長文失敗。
短文成立。
直接会う前に、返した。
逃げてはいない。
そこに、もう一行書く。
返事なし。
追撃なし。
ただし、届いた気がする。
春麗は、そこでペンを止めた。
危険。
非常に危険。
届いた気がする、などと書くと、あまりにも認めすぎだ。
しかし、書かないと、また頭の中で増える。
春麗は、仕方なく書いた。
届いた気がする。
一拍。
その横に、小さく追記する。
未確認。
さらに。
ただし、危険。
春麗は、紙を見た。
正式回答への初回返事。
長文失敗。
短文成立。
直接会う前に、返した。
逃げてはいない。
返事なし。
追撃なし。
届いた気がする。
未確認。
ただし、危険。
「……何なの、これ」
自分で書いた分類に文句を言う。
だが、必要だった。
リュウが何も言わなかったこと。
それを自分が受け取ってしまっていること。
その両方を、紙に置く必要があった。
春麗は、紙を青い小箱の特別区画に戻す。
蓋を閉じる。
指先を置く。
「……返事は、来ていない」
一拍。
「でも」
もう一拍。
「急がされてもいない」
言葉にすると、少しだけ楽になった。
返事が来ないことは、不安ではある。
でも、急がされていないことでもある。
リュウが何も言わないのは、無視ではない。
たぶん。
たぶん、ではある。
でも。
春麗は、少しだけ目を伏せた。
「……分かった、くらいは言っていそうね」
想像した瞬間、胸が熱くなる。
春麗は、慌てて自分に言った。
「想像禁止」
一拍。
「今日は、そこまで」
また同じことを言っている。
昨日も言った。
これからも、たぶん何度も言う。
今日は、そこまで。
今は、そこまで。
春麗は立ち上がる。
足元は昨日より少しだけ安定していた。
正式回答は、まだ持てない。
でも、返事はした。
リュウから追撃は来ていない。
それは、少しだけ助かった。
助かった。
春麗は、その言葉を思い浮かべて、すぐに消した。
「……それは、まだ書かない」
危険だから。
あまりにも危険だから。
でも、青い小箱の中の紙には、もう十分危険な言葉が並んでいる。
春麗は、鏡の前に立った。
映っているのは、正式回答を受け取り、まだ持てず、それでも返事をした春麗。
昨日までより、少しだけ進んだ春麗。
リュウからの追撃がなかったことで、少しだけ立てている春麗。
春麗は、自分に向かって小さく言った。
「急がない」
一拍。
「でも、逃げない」
もう一拍。
「言わないでいてくれたことも」
そこで止まる。
危険。
でも、言う。
「……受け取っておく」
言ってから、春麗は顔を伏せた。
精神は削れた。
けれど、落ちなかった。
今日は、それで十分だった。
Q:今回の断章IF幕間について解説して?
A:
今回は、春麗がリュウに返事を書いた後、その返事をリュウがどう受け取るかを描く幕間でした。
前回の春麗は、リュウからの宿題正式回答に対して、ようやく短い手紙を返しました。
答えは受け取ったわ。
九十九点。
まだ全部は持てない。
でも、なかったことにはしない。
少し待ちなさい。
逃げてはいないから。
これは、春麗にとってかなり大きな一歩です。
正式回答を完全に持てるようになったわけではありません。
でも、無反応ではない。
逃げてもいない。
直接会うにはまだ危険だから、手紙で返す。
それが前回の春麗側の到達点でした。
今回の幕間では、その手紙を受け取ったリュウ側を描いています。
ポイントは、リュウが「待つ」と言わないことです。
普通に考えると、春麗が「少し待ちなさい」と書いたら、リュウは「待つ」と返しそうです。
そして、それを読んだ春麗がまた精神HPを落とす。
これは今までの流れなら十分あり得る展開です。
ただ、今回はあえてそれをしませんでした。
理由は、「待つ」という言葉がこの連作ではすでにかなり高火力化しているからです。
リュウが「待つ」と言えば、それは春麗に届きすぎます。
春麗は今、まだ正式回答を持てない状態です。
そこにさらに「待つ」と明文化された返事が来ると、またその言葉を持たなければならなくなります。
だから、今回のリュウは待つと言わない。
返事も書かない。
呼び返さない。
探しに行かない。
ただ、手紙を読んで、
分かった。
とだけ言います。
この「分かった」は、春麗に直接届く返事ではありません。
誰かに聞かせるための言葉でもありません。
リュウが自分の中で、春麗の言葉を受け取った確認です。
ここが今回のリュウ側の静かな強さです。
リュウは、春麗の「まだ全部は持てない」を読んでいます。
そして、それを急がせない。
「持てるようになるまで待つ」と言葉にしない。
「逃げていないならそれでいい」とも言わない。
そのどれも、春麗に届きすぎる可能性があるからです。
つまり、今回は「何かを言うリュウ」ではなく、「言わないことで向き合うリュウ」の回です。
拳で言えば、打たない間合い。
踏み込まない距離。
でも、逃げてはいない。
リュウは、言葉を返さないことで、春麗の置いた距離を尊重しています。
これは、正式回答の実践でもあります。
リュウは前に、
変わった春麗を見る。
その春麗を受ける。
変わった後でも、次も俺に聞け。
と答えました。
今回、春麗はその答えをまだ持てないと返してきました。
その春麗に対して、リュウはさらに言葉を重ねるのではなく、言葉を重ねないことを選ぶ。
これが、今回のリュウなりの「受ける」です。
一方で、本編春麗側にとっては、それでも危険です。
返事がない。
追撃がない。
待つもない。
分かったもない。
何もない。
普通なら不安になってもおかしくありません。
でも春麗は、そこに「急がされていない」気配を感じ取ってしまいます。
ここが今回の春麗側の被弾ポイントです。
リュウが何も言わない。
でも、それは無視ではない気がする。
たぶん読んだ。
たぶん分かった。
でも、あえて返してこない。
こちらが「まだ持てない」と書いたから、そのまま置いてくれている。
この「言葉にしない配慮」が、春麗に届いてしまうわけです。
本当にこの二人は、言葉を言っても危険ですし、言わなくても危険です。
ただし、今回の春麗は落ちません。
精神HPは削れます。
胸は熱くなります。
「言わないことまで上手くならないで」と言ってしまいます。
けれど、ノックアウトまではいかない。
これはかなり大事です。
なぜなら、リュウが追撃しなかったからです。
春麗が「少し待ちなさい」と書いた。
リュウがそれを受けて、何も返さなかった。
その沈黙によって、春麗は少しだけ立っていられる。
これは、正式回答後の関係性としてかなり良い距離感です。
今回の分類としては、
リュウ:春麗の返事を受け取り、「待つ」と言わず、「分かった」だけを自分の中に置いた男。
本編春麗:リュウから返事が来なかったことで、急がされていない配慮を受け取り、精神HPを削られながらも落ちなかった春麗。
になります。
特に春麗側の最後の言葉、
急がない。
でも、逃げない。
言わないでいてくれたことも、受け取っておく。
ここが今回の到達点です。
前回は、春麗が「逃げてはいない」とリュウへ手紙で返しました。
今回は、リュウがそれに言葉を返さなかったことで、春麗が「急がされていない」と受け取ります。
この往復によって、二人の間に新しい距離ができました。
直接会ってはいない。
試合もしていない。
恋愛的な名前も付けていない。
でも、手紙は届いた。
返事は読まれた。
追撃は来なかった。
そして、春麗は少しだけ立てている。
今回はとても静かな幕間ですが、正式回答後の二人にとってはかなり重要な一歩だったと思います。