また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
リュウは、夜明け前の修行場に立っていた。
空はまだ暗い。
風は低く、土の匂いがする。
春麗が来るとは、思っていた。
だが、どの春麗が来るかまではわからなかった。
青い武道服か。
黒いドレスか。
青い武道服の春麗とは、正面から届き合った。
ぎりぎりで勝ち、ぎりぎりで負け、そして同時に倒れた。
黒いドレスの春麗には、以前、ようやく届いた。
捕まえた。
あの黒い春麗を、女としても、格闘家としても見たうえで、ようやく最後の一瞬を取った。
だが、それから少し間が空いた。
黒いドレスの春麗と向き合うのは、久しぶりだった。
リュウは、そのことをわかっていた。
身体は覚えている。
目も、拳も、呼吸も、あの黒い姿を覚えている。
だが、久しぶりというのは厄介だった。
忘れているわけではない。
しかし、慣れが薄れている。
一度は捕まえたはずの相手でも、間が空けば、また最初の一拍を奪われる。
まして相手は春麗だ。
リュウが何を忘れ、何を覚えているか。
その差まで読んでくる。
リュウは静かに息を整えた。
そして、春麗が現れた。
黒いドレスだった。
一瞬、呼吸が止まりかけた。
いや、止まってはいない。
そう自分に言い聞かせる。
だが、胸の奥で何かが揺れた。
久しぶりだったからではない。
いや、それもある。
けれど、それだけではなかった。
久しぶりに見る黒衣の春麗は、いつもより整えられていた。
髪が違う。
青い武道服の時のように結い上げていない。
下ろした髪が、黒いドレスの輪郭に重なっている。
立ち姿も違う。
ただ立っているだけではない。
裾の落ち方も、足の置き方も、肩の位置も、すべてが戦うために整えられている。
黒いドレスそのものが、春麗の構えになっていた。
リュウはそれに気づいた。
気づいたが、言わなかった。
「その姿で来たのか」
以前なら、そう言ったかもしれない。
だが、今日は言わない。
言葉にすると、そこに意識が固定される。
春麗は、それすら読む。
黒いドレスに触れた言葉。
髪に触れた視線。
素足に一瞬止まった意識。
それらを、春麗はすべて間合いにする。
だから、リュウは黙った。
だが、黙ったからといって、平静ではなかった。
春麗が構える。
黒い裾が、静かに揺れる。
その下で、足がわずかに角度を変えた。
リュウは見た。
黒いドレス。
裾の揺れ。
そこから一瞬見える素足の踏み込み。
蹴りの初動。
呼吸。
春麗の目。
見なければならない。
春麗の蹴りは、足から来る。
踏み込みを見なければ、受けられない。
軸足を見なければ、次の蹴りは読めない。
だが、黒いドレスの下から見える素足は、ただの戦闘情報では済まなかった。
それは、リュウの視線を強く引いた。
足運びを見るために見ている。
蹴りを読むために見ている。
それは本当だ。
しかし、それだけではないことも、リュウは自覚していた。
見なければならない。
だが、見たことで一拍遅れた。
春麗が動いた。
黒い裾が跳ねる。
素足の踏み込みが一瞬だけ見える。
リュウは蹴りに備えた。
だが、来たのは掌底だった。
胸元へ滑り込む掌。
リュウは受けた。
受けたが、遅い。
半拍。
ほんの半拍。
その遅れが、胸に重く残る。
春麗はすでに次へ入っていた。
裾が揺れる。
足が見える。
リュウは蹴りを読む。
だが春麗は蹴らない。
逆の軸で入り、肩口を崩してくる。
リュウは踏みとどまる。
崩れてはいない。
倒れてもいない。
だが、呼吸がわずかに重い。
拳の戻りが遅れている。
春麗はそれを逃さない。
リュウはわかった。
春麗の裾の揺れは偶然ではない。
足の見え方も偶然ではない。
静止の長さも、距離も、声も、全部が計算されている。
黒いドレスを着ているのではない。
黒いドレスで戦っている。
いや、それだけでもない。
春麗は、向かい合った時にはもう始めていたのではない。
この姿を整えた時から、俺との戦いを始めていた。
その気づきは、遅かった。
春麗はすでに、いくつもの小さな遅れをリュウの中に積んでいた。
見せる。
ずらす。
見せない。
踏み込む。
リュウが足を見る。
春麗は蹴らない。
リュウが拳を置く。
春麗はさらに近く入る。
距離が詰まる。
近い。
春麗の呼吸が聞こえる。
黒いドレスの揺れが視界の端に入る。
素足が土を噛む音がする。
リュウは拳を出す。
春麗はそこにいない。
裾が遅れて翻り、足が一瞬だけ円を描く。
リュウの視線が動く。
その視線の動きごと、春麗は間合いを変える。
一つ一つは、小さい。
だが、積もる。
受けるたびに息が重くなる。
拳を戻すたびに、わずかに遅れる。
踏み込みの角度が、ほんの少し浅くなる。
春麗は、その小さな差を作るために来ていた。
リュウは歯を食いしばる。
このままでは、遅れる。
ずっと遅れる。
黒いドレスを見る。
素足の踏み込みを見る。
春麗の目を見る。
そのたびに切り分けようとしている。
これは足運び。
これは裾の揺れ。
これは視線。
これは呼吸。
だが、春麗はそれを切り分けさせない。
全部を重ねてくる。
リュウは一度、腕で春麗の拳を受けた。
重くはない。
だが、速い。
次の瞬間には、別の角度から足が来る。
リュウは受ける。
遅れる。
春麗はさらに踏み込む。
中盤に入っても、春麗の流れは切れない。
リュウは反撃を差し込み始めていた。
春麗の踏み込みに拳を置く。
足運びのフェイントに乗らず、戻りを狙う。
裾だけを追わず、肩と呼吸も見る。
それでも、まだ春麗が先に作った差が残っている。
リュウの拳は届きかける。
だが、届く寸前で鈍る。
春麗が先に刻んだ一拍が、まだそこにある。
巻き返している。
しかし、流れはまだ完全には戻らない。
リュウは悟った。
見る場所を選んでいる限り、遅れる。
足を見る。
裾を見る。
目を見る。
呼吸を見る。
そうやって一つずつ追えば、春麗は必ず次を重ねてくる。
なら、切り分けるのではない。
全部見る。
黒いドレスも。
素足の踏み込みも。
それを見た自分の呼吸の揺れも。
春麗の視線も。
拳の遅れも。
全部、春麗だ。
そう受け止める。
リュウの呼吸が変わった。
春麗の目が、わずかに細くなる。
気づかれた。
だが、それでいい。
リュウは踏み込む。
春麗が裾を揺らす。
リュウは乗らない。
春麗が足を見せる。
リュウは足だけを見ない。
肩を見る。
腰を見る。
呼吸を見る。
そして、黒いドレスに反応した自分の胸の揺れも見る。
その上で、拳を出す。
今度は届いた。
春麗の肩に拳が入る。
浅い。
だが、入った。
春麗の呼吸が乱れる。
リュウはさらに進む。
手首を取りにいく。
春麗は抜く。
だが、リュウは抜ける先へ半歩入る。
春麗の目が、ほんの少し揺れた。
勝ち筋が見えた。
ここだ。
ここで詰める。
リュウは、さらに踏み込む。
春麗は一度、間合いを外す。
追う。
黒い裾が視界の端で揺れる。
リュウはもう、それに遅れない。
裾も見る。
足も見る。
だが、それに引かれて止まらない。
春麗の掌底が来る。
腕で受ける。
そのまま前へ出る。
差が詰まっている。
さっきまで作られていた遅れが、一つずつ消えていく。
リュウは感じていた。
今は、自分の時間だ。
春麗の足の戻りが重くなっている。
呼吸の余裕が消えている。
黒いドレスの揺れが、誘いではなく逃げの余韻を含み始めている。
ここで詰め切れれば、勝てる。
リュウは踏み込んだ。
春麗の黒いドレスの裾を読む。
素足の踏み込みも読む。
次の蹴りも読む。
拳が、春麗の肩口へ向かう。
届く。
そう思った。
だが、春麗はぎりぎりで外した。
本当に、わずかだった。
拳は肩をかすめる。
一瞬遅くなければ、止められた。
捕まえられた。
勝負を決められた。
だが、届かない。
リュウの拳が空を切った、その内側へ春麗が沈む。
黒い裾が跳ねる。
素足が土を噛む。
春麗は、リュウの踏み込みの内側に入っていた。
蹴りではない。
掌底。
胸元に入る。
身体が止まる。
リュウの拳は、あと少しのところで届かなかった。
片膝が土についた。
負けた。
リュウは呼吸を整えようとする。
胸が重い。
肩も痛い。
手首にも春麗の捌きの感触が残っている。
終盤、巻き返した。
春麗の準備も、視線も、足運びも、黒いドレスの揺れも、ようやく全部まとめて見られた。
拳も届いた。
手首も取れかけた。
逃げる先にも入れた。
だが、詰め切れなかった。
遅かった。
春麗は、序盤と中盤で作った差を最後まで残していた。
リュウが巻き返し始めた時には、春麗はもう逃げ切るだけの一拍を持っていた。
その一拍を奪えなかった。
リュウは春麗を見上げる。
春麗は立っていた。
息は乱れている。
黒いドレスの裾には土がついている。
肩も少し震えている。
それでも、立っている。
勝者として。
春麗が近づく。
「何も言わなかったわね、リュウ」
リュウは顔を上げる。
否定はしない。
言わなかった。
言えなかったのではない。
言わなかった。
だが、言葉にしなかったことと、見ていなかったことは違う。
春麗は続ける。
「でも、ちゃんと見ていたのは知っているわ」
黒いドレスの裾が、リュウの視界の端で揺れる。
「拳に出ていたもの」
リュウは、否定できなかった。
その通りだった。
呼吸に出た。
踏み込みに出た。
拳の戻りに出た。
足を見る時間に出た。
黙っていた。
だが、春麗には読まれていた。
春麗は静かに笑う。
「今日は、戦う前から私の勝ちだったのかもしれないわね」
その言葉は、深く刺さった。
戦う前から。
リュウは、ようやく理解する。
春麗は、修行場で向かい合った時に戦いを始めたのではない。
黒いドレスを整えた時から。
髪を下ろした時から。
裾の揺れを確かめた時から。
素足の踏み込みがどう見えるかを数えた時から。
春麗は、リュウとの戦いを始めていた。
リュウは、その始まりに気づくのが遅れた。
「巻き返すには、少し遅かったわ」
春麗の言葉に、リュウは静かに息を吐いた。
悔しい。
だが、正しい。
終盤で追い上げた。
最後には届きかけた。
しかし、詰め切れなかった。
春麗の黒衣は、目の前に現れた瞬間には、もう完成していた。
その場で見れば足りると思っていたわけではない。
だが、まだ足りなかった。
次は、春麗が黒いドレスで現れた時に驚いていては遅い。
いつ黒いドレスで来るかはわからない。
青い武道服で来るかもしれない。
黒いドレスで来るかもしれない。
何も告げずに、ただ修行場に現れるかもしれない。
だから、次は待ち方から変えなければならない。
春麗がどの姿で来ても。
青でも。
黒でも。
その姿を選んだ時点で、春麗はもう戦いを始めている。
リュウは、片膝をついたまま拳を握る。
次は、現れた春麗を見るだけでは遅い。
春麗がその姿で来た意味ごと、見る。
黒衣の春麗との戦いは、目の前に立った時にはもう始まっているのだから。