また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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※これはディレクターズカットIFです。
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートの修行編後日談より先の未来時空のエピソードです。


ディレクターズカットIF:春麗は、勝った日の膝枕を癖にしている

『記録板AI』

 

『ディレクターズカットIF未来時空ログを起動します』

 

『対象』

 

『第1話ギリギリ敗北ルート春麗』

 

『時系列』

『修行編後日談ログよりさらに先』

 

『状況』

『春麗はリュウと再戦を重ね、勝利、敗北、引き分けを経験しています』

『ただし、総合勝率は現在もリュウ優勢』

 

『本ログの検証対象』

『春麗がリュウに勝った日に、膝枕と敗者の印を勝利確認の儀式として求めるようになった場合』

 

『記録開始』

 


 

 春麗は、地面に手をついた。

 

 息が荒い。

 肩が上下する。

 膝が震えている。

 立っているのが、少しつらい。

 だが、倒れてはいない。

 

 目の前では、リュウもまた片膝をついていた。

 こちらも息が乱れている。

 額には汗。

 白い胴着の肩には、春麗の蹴りを受けた跡が残っていた。

 

 夕暮れの修行場。

 

 何度も戦った場所。

 何度も負けた場所。

 何度も勝てなかった場所。

 何度も引き分けた場所。

 そして、たまに勝てるようになった場所。

 

 リュウは、まだ立ち上がれない。

 

 気絶はしていない。

 意識もはっきりしている。

 ただ、今の一撃は入った。

 春麗の連撃を受け、最後の投げで体勢を崩され、リュウは明確に敗北した。

 

 春麗は、ゆっくり息を吐いた。

 

 勝った。

 今日は、勝った。

 毎回ではない。

 むしろ、まだ負ける日の方が多い。

 

 リュウは相変わらず強い。

 リュウは、春麗が波動拳を越えるようになれば、それを読んでくる。

 昇龍拳の恐怖を乗り越えれば、今度は間合いの外から崩してくる。

 着地を刈れば、春麗はそれを防ぐ。

 するとリュウは、次の試合ではさらに違う形で待つ。

 

 勝てる。

 負ける。

 引き分ける。

 その繰り返し。

 

 けれど、全体で見ればまだリュウの方が上だ。

 それは春麗にも分かっている。

 分かっているからこそ。

 今日の勝ちは、譲れない。

 

 春麗は、片膝をついたリュウの前に立った。

 

「リュウ」

 

「ああ」

 

 リュウは顔を上げる。

 春麗は、乱れた呼吸を整えながら、少しだけ顎を上げた。

 

「今回は、私の勝ちね」

 

「ああ」

 

「聞こえなかったわ」

 

 リュウは、静かに瞬きをした。

 春麗は、もう一歩近づく。

 

「今回は」

 

 一拍。

 

「私の勝ち」

 

 リュウは春麗を見る。

 それから、いつものように短く答えた。

 

「春麗の勝ちだ」

 

 胸の奥が、熱くなる。

 何度聞いても、これは慣れない。

 勝った後に、リュウ本人の口から自分の勝ちを認められる。

 それだけで、試合中に削られた体力とは別の場所が削られる。

 春麗は、それを表情に出さないようにした。

 

 今日は勝者だ。

 ここで崩れてはいけない。

 

「ええ」

 

 春麗は、少しだけ勝ち誇るように笑った。

 

「今日は、私の勝ちよ」

 

「強かった」

 

 リュウは、すぐにそう言った。

 春麗の呼吸が一瞬だけ止まる。

 

「……まだ何も聞いていないわ」

 

「言っておく」

 

「あなた、そういうところがあるわよね」

 

「事実だ」

 

「事実なら、何でも言っていいわけじゃないの」

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

 春麗は、目を逸らしそうになった。

 だが、逸らさなかった。

 

 勝ったのだから。

 今日は、逃げない。

 

 春麗は、リュウの前でしゃがんだ。

 

「立てる?」

 

「ああ」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「意識は?」

 

「ある」

 

「気分は?」

 

「問題ない」

 

「なら」

 

 一拍。

 

 春麗は、やや声を落とした。

 

「横になって」

 

 リュウは、少しだけ目を細めた。

 

「横に?」

 

「ええ」

 

「今は、気絶していない」

 

「知っているわ」

 

「介抱は必要ない」

 

「あるわ」

 

 リュウは、春麗を見る。

 春麗は、視線を逸らさず言った。

 

「敗者には、勝者の確認に付き合う義務があるの」

 

「そういうものか」

 

「そういうものよ」

 

 一拍。

 

「少なくとも、私に負けた日は」

 

 リュウは、しばらく黙っていた。

 それから、小さく頷く。

 

「分かった」

 

 春麗は、少しだけ息を詰まらせた。

 

 分かった。

 また、あっさり受け入れた。

 初めてこの流れになった時、リュウは意識を失っていた。

 

 春麗は介抱として膝枕をした。

 そして勝利の余韻に押されて、額と拳に敗者の印を刻んだ。

 あの時は、勢いだった。

 

 勝ったから。

 怖いまま勝ったから。

 リュウを倒せたから。

 自分でも信じられないほど大胆なことをしてしまった。

 その夜、自室で精神を大きく削られた。

 

 もう二度とあんなことはしない。

 そう思った。

 思ったのに。

 

 二度目に勝った時、春麗はまた言っていた。

 

「少しだけ休みなさい」

 

 その時も、リュウは気絶していなかった。

 それでも、受け入れた。

 三度目の勝利の日には、春麗の方から言った。

 

「今日は、私の膝よ」

 

 言った後で、内心では盛大に動揺した。

 でも、リュウはやはり受け入れた。

 そこから、少しずつ。

 春麗がリュウに勝った日だけの、妙な習慣になった。

 

 もちろん、毎回ではない。

 人がいる場所ではしない。

 試合後、二人だけで、互いに納得した時だけ。

 

 それでも。

 

 春麗は、自覚している。

 癖になっている。

 リュウに勝った後。

 自分を何度も倒してきた男を、自分の膝に乗せること。

 その額に敗者の印を刻むこと。

 あの拳にも印を刻むこと。

 そして、今日の勝利をリュウに忘れさせないこと。

 それが、もう自分の中で勝利確認の一部になっている。

 

 春麗は、それを認めるのが恥ずかしい。

 

 でも、やめる気はなかった。

 


 

 春麗は、修行場の端に腰を下ろした。

 膝を整える。

 リュウは、ゆっくりと横になった。

 意識はある。

 自分の意思で。

 春麗の要求を受け入れて。

 頭を、春麗の膝に預けた。

 重みが乗る。

 温かさが伝わる。

 

 春麗の指が、ほんの少しだけ震えた。

 何度目でも、この瞬間だけは慣れない。

 リュウは静かに目を開け、春麗を見上げている。

 

 近い。

 何度やっても近い。

 勝った直後の春麗は強気になれる。

 だが、リュウの顔が膝の上にあると、別の意味で体力を削られる。

 それでも、今日は勝者だ。

 春麗は、背筋を伸ばした。

 

「動かないで」

 

「ああ」

 

「今日は気絶していないけれど、休む必要はあるわ」

 

「ああ」

 

「それと」

 

 一拍。

 

「私が確認する必要もある」

 

「勝利の確認か」

 

「ええ」

 

 春麗は、少しだけ笑った。

 

「あなたに勝った日の確認よ」

 

「今日は春麗の勝ちだ」

 

「そう」

 

 一拍。

 

「もっと言ってもいいのよ」

 

 言った瞬間、春麗は内心で自分を殴りたくなった。

 

 何を言っているのか。

 だが、もう遅い。

 

 リュウは真面目に答えた。

 

「今日は春麗が強かった」

 

「……そこまで素直に言わなくていいわ」

 

「求められた」

 

「求めたけど」

 

「春麗は、俺の踏み込みを読んだ」

 

「ええ」

 

「波動拳への入りも速かった」

 

「ええ」

 

「最後の投げも、避けきれなかった」

 

「……ええ」

 

「負けた」

 

 春麗の胸が、じんと熱くなる。

 

 この男は、本当に。

 負けた時も、逃げない。

 

 認める。

 言葉にする。

 だから春麗は、次も戦いたくなる。

 だから、困る。

 

 春麗は、リュウの額を見た。

 

「じゃあ、印」

 

「ああ」

 

 リュウは目を閉じない。

 見上げたまま、春麗を受け入れている。

 春麗は、指先を伸ばした。

 額に触れる。

 かつて、初めて勝った時に刻んだ場所。

 恐怖を越えて勝った日に刻んだ場所。

 その後も、春麗が勝った日にだけ、刻む場所。

 

 消える印。

 でも、記憶には残る印。

 春麗は、ゆっくりと指を動かした。

 

「今日の敗者の印」

 

 一拍。

 

「今日は、あなたの負け」

 

 リュウは、静かに答える。

 

「ああ」

 

「まだ、総合ではあなたの方が勝っているわ」

 

「ああ」

 

「昨日は私が負けた」

 

「ああ」

 

「この前は引き分けだった」

 

「ああ」

 

「でも」

 

 一拍。

 

 春麗は、少しだけ勝ち誇るように微笑んだ。

 

「今日は、私の勝ち」

 

「今日は春麗の勝ちだ」

 

 春麗は、満足した。

 額の印を刻み終える。

 指先を離す。

 薄い印が残る。

 それだけで、胸の奥が温かくなる。

 

 勝った。

 今日の試合は、自分が勝った。

 何度負けていても。

 総合でリュウの方が上でも。

 今日は、自分の勝ち。

 それを、リュウの額に残した。

 

 春麗は、次にリュウの拳を見る。

 

「じゃあ次は右手」

 

 リュウは、右手を上げた。

 もう慣れた動きだった。

 

 春麗は、それを見て、胸が変に跳ねる。

 慣れている。

 リュウも、この流れを覚えている。

 自分が勝った日、春麗が拳にも印を刻むことを。

 抵抗せず、拒まず、ただ受け入れる。

 そのことが、春麗をさらに困らせる。

 

 春麗は、リュウの拳を取った。

 

 硬い拳。

 何度も打ち合った拳。

 何度も春麗を倒した拳。

 今でも強い拳。

 全体で見れば、まだ春麗の方がこの拳に負けている。

 それでも今日は、この拳を越えた。

 

 春麗は、拳の甲に指を置く。

 

「ここにも」

 

「ああ」

 

「今日、私を止められなかった拳の印」

 

 一拍。

 

「何度刻んでも、ここは特別ね」

 

 言ってから、春麗は少しだけ頬が熱くなった。

 余計なことを言った。

 しかし、リュウは静かに答える。

 

「春麗にとってか」

 

「ええ」

 

 春麗は、今度は誤魔化さなかった。

 

「私にとって」

 

 一拍。

 

「この拳は、怖かった」

 

 リュウは黙って聞いている。

 

「今も、怖くないわけじゃない」

 

 一拍。

 

「でも、怖いまま勝てる日がある」

 

 一拍。

 

「だから、勝った日は印を刻むの」

 

 指先が動く。

 リュウの拳に、薄い印が残る。

 

「あなたの拳が、今日は私を止められなかったって」

 

 一拍。

 

「私が覚えるために」

 

 リュウは、ゆっくりと頷いた。

 

「分かった」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「あなたの拳に印をつけられるの、嫌じゃないの?」

 

 リュウは少し考えた。

 

「負けた記録だ」

 

「ええ」

 

「なら、受ける」

 

 春麗は、胸が詰まった。

 

 リュウらしい答えだった。

 あまりにもリュウらしい。

 負けた記録。

 だから受ける。

 それだけ。

 

 でも春麗には、それがとても大きい。

 

「悔しくないの?」

 

「悔しい」

 

 春麗は、目を細めた。

 

「そう」

 

「ああ」

 

「悔しいのね」

 

「悔しい」

 

 春麗の口元が、自然と緩む。

 勝者として、少しだけ意地悪く。

 だが、甘くなりすぎないように。

 

「なら、覚えておいて」

 

「ああ」

 

「今日、あなたは私に負けた」

 

「ああ」

 

「額にも、拳にも、印を刻まれた」

 

「ああ」

 

「次に戦う時まで、忘れないで」

 

「忘れない」

 

 春麗は、満足した。

 そして、少しだけ身をかがめる。

 リュウの顔が、さらに近くなる。

 

「リュウ」

 

「ああ」

 

「私、強かった?」

 

 何度も聞いている。

 勝った日は、つい聞いてしまう。

 

 本当は、自分でも分かっている。

 今日の自分は強かった。

 だから勝った。

 でも、リュウの口から聞きたい。

 

 自分を何度も倒した相手に。

 自分をライバルとして見ている相手に。

 今日、自分が強かったと認めてほしい。

 

 リュウは、少しも迷わなかった。

 

「強かった」

 

 春麗は、息を吸う。

 効く。

 何度聞いても効く。

 

「どのくらい?」

 

 言ってから、春麗はまた内心で自分を殴りたくなった。

 何を聞いているのか。

 だが、リュウは真面目に答えようとする。

 

「最後の踏み込みは、反応が遅れた」

 

「細かいわね」

 

「聞かれた」

 

「聞いたけど」

 

「投げに入る前の間合いもよかった」

 

「……そう」

 

「今日は、春麗の勝ちだった」

 

 春麗は、目を伏せた。

 

 嬉しい。

 悔しいくらい嬉しい。

 

 自分の勝ちを、リュウがこんなに真っ直ぐ認めてくれる。

 だから、癖になる。

 

 リュウに勝つことが。

 勝った後に、こうして近くで確認することが。

 

 額に印を刻むことが。

 拳に印を刻むことが。

 強かったと聞くことが。

 

 全部、癖になってしまう。

 

 春麗は、小さく息を吐いた。

 

「ねえ、リュウ」

 

「ああ」

 

「あなた、私が勝つたびにこれを求めるの、どう思っているの?」

 

 リュウは、春麗を見上げた。

 

「春麗に必要なことだと思っている」

 

 春麗は、少しだけ眉を寄せた。

 

「必要?」

 

「ああ」

 

「勝利確認が?」

 

「ああ」

 

「敗者の印も?」

 

「ああ」

 

「膝枕も?」

 

 リュウは、そこで一拍置いた。

 春麗は、少し緊張する。

 言いすぎたかもしれない。

 だが、リュウは静かに言った。

 

「それで春麗が、今日の勝ちを覚えられるなら」

 

 春麗の胸が、大きく跳ねた。

 

「……あなたね」

 

「ああ」

 

「そういうことを言うから、困るのよ」

 

「すまない」

 

「謝らないで」

 

「ああ」

 

「それに」

 

 一拍。

 

 春麗は、リュウの額の印を見た。

 拳の印も見る。

 

「必要だからしているだけじゃないわ」

 

 リュウは黙っている。

 春麗は、少しだけ声を落とした。

 

「私が、したいからしているの」

 

 言った。

 言ってしまった。

 

 春麗は、自分の耳が熱くなるのを感じた。

 リュウは、目を逸らさない。

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

「分かった」

 

「……それだけ?」

 

「受け入れる」

 

 春麗は、言葉を失った。

 

 この男は、本当に。

 受け入れる。

 それだけで済ませる。

 だから余計に、こちらが困る。

 

 春麗は、少しだけ勝者の顔を作り直した。

 

「なら、次に私が勝った時も、覚悟しておいて」

 

「ああ」

 

「負けたら、額」

 

「ああ」

 

「拳」

 

「ああ」

 

「膝枕」

 

「ああ」

 

「私が強かったかどうかの確認」

 

「ああ」

 

「あと、今回は私の勝ちだって、ちゃんと言うこと」

 

「ああ」

 

「……本当に全部受け入れるのね」

 

「負けたら、受ける」

 

 春麗は、堪えきれずに笑ってしまった。

 

「あなた、負けた時まで真面目ね」

 

「負けた時ほど、覚える必要がある」

 

 その言葉に、春麗の胸が静かになった。

 

 リュウは、負けを恥として隠さない。

 負けを覚える。

 だから強くなる。

 春麗は、そのリュウに勝った。

 

 今日は。

 今日だけは。

 

 それで十分だった。

 


 

 しばらく、そのまま時間が流れた。

 夕暮れの光が、少しずつ薄くなっていく。

 

 リュウは春麗の膝の上で静かに休んでいる。

 気絶しているわけではない。

 意識はある。

 だからこそ、春麗は少し落ち着かない。

 けれど、以前ほどではない。

 この時間も、少しずつ二人の間に馴染んできている。

 春麗は、それが恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。

 

「リュウ」

 

「ああ」

 

「悔しい?」

 

「悔しい」

 

「次は勝つつもり?」

 

「ああ」

 

「でしょうね」

 

「春麗も、そうだろう」

 

「もちろんよ」

 

 一拍。

 

「私が次も勝つわ」

 

「分からない」

 

「そこは、そうだなって言いなさいよ」

 

「分からない」

 

 春麗は、少しだけ笑った。

 

 そういうところがリュウだ。

 勝者である春麗を認める。

 今日の敗北も受け入れる。

 でも、次まで譲ることはしない。

 

 だから、また戦いたくなる。

 

「総合では、まだあなたの方が上」

 

「ああ」

 

「でも、少しずつ近づいているわ」

 

「ああ」

 

「そのうち、追い抜く」

 

「待っている」

 

 春麗は、リュウを見下ろした。

 

「待っていなさい」

 

 言ってから、少しだけ笑う。

 

「……いえ、違うわね」

 

 リュウが春麗を見る。

 春麗は、リュウの額の印を指先で軽くなぞった。

 

「追いつくから」

 

 一拍。

 

「逃げないで」

 

 リュウは静かに答えた。

 

「逃げない」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「なら、いいわ」

 

 春麗は、膝の上のリュウを見つめた。

 かつて、この距離はありえなかった。

 リュウの拳が怖かった。

 昇龍拳が怖かった。

 近づくことも、飛び込むことも、次の拳を考えるだけで足が止まった。

 

 それが今は。

 勝った日に、膝枕を要求している。

 額に敗者の印を刻んでいる。

 拳にも印を刻んでいる。

 しかも、それが癖になっている。

 春麗は、内心で少しだけ頭を抱えた。

 

 かなり進んでしまった。

 

 でも。

 悪くない。

 悪くないと思ってしまうから、さらに困る。

 

「そろそろ起きて」

 

「ああ」

 

「暗くなるわ」

 

 リュウは、ゆっくりと身体を起こした。

 春麗の膝から重みが消える。

 その瞬間、少しだけ寂しいと思ってしまった。

 春麗は、その感情をすぐに押し込めた。

 

 勝者が寂しがってどうする。

 今日は、自分の勝ちなのだ。

 

 リュウは立ち上がり、拳の印を見た。

 薄い印。

 すぐに消える。

 でも、今は残っている。

 

 リュウはそれを静かに見つめた。

 

「忘れない」

 

 春麗は、少しだけ驚いた。

 

「まだ何も言っていないわ」

 

「言うと思った」

 

「……そう」

 

 春麗は、胸の奥がまた熱くなるのを感じた。

 

「なら、いいわ」

 

 一拍。

 

「今日の試合、忘れないで」

 

「ああ」

 

「私が勝ったことも」

 

「ああ」

 

「あなたの額と拳に印を刻んだことも」

 

「ああ」

 

「私が、強かったことも」

 

「ああ」

 

 リュウは、真っ直ぐに春麗を見た。

 

「忘れない」

 

 春麗は頷いた。

 

「私も忘れない」

 

 一拍。

 

「あなたが、悔しそうだったことも」

 

「そうか」

 

「ええ」

 

 一拍。

 

「ごちそうさま」

 

 言ってから、春麗は固まった。

 今、何を言った。

 リュウは静かに瞬きをする。

 

「ごちそうさま」

 

「……忘れて」

 

「忘れない」

 

「そこは忘れなさい」

 

「今日のことは忘れないと言った」

 

「都合よく覚えないで!」

 

 リュウは、少しだけ表情を緩めた。

 

 春麗は顔が熱くなるのを感じながら、そっぽを向いた。

 

 勝った。

 今日は確かに勝った。

 でも、最後の最後で余計なことを言った。

 また自室で反動が来る。

 それはもう分かっていた。

 

 分かっていても。

 春麗は、リュウの額の印と拳の印を思い出す。

 

 今日の勝利。

 今日の膝枕。

 今日の敗者の印。

 今日のリュウの悔しさ。

 

 それを、なかったことにはしたくなかった。

 


 

 その夜。

 春麗は自室で、試合用の武道服を畳んでいた。

 

 腕が痛い。

 脚も痛い。

 リュウとの試合は、勝っても身体に残る。

 むしろ、勝った日の方が残る時もある。

 

 ぎりぎりまで追い詰められて。

 何度も崩されて。

 それでも最後に届いた。

 春麗は、畳んだ武道服の上に手を置いた。

 

「今回は、私の勝ち」

 

 小さく言う。

 部屋の中で、自分だけに聞こえるように。

 

 リュウは認めた。

 

 春麗の勝ちだと。

 強かったと。

 負けたと。

 額に印を受け入れた。

 拳にも印を受け入れた。

 膝枕も受け入れた。

 

 春麗は、両手で顔を覆った。

 

「……癖になっているわね」

 

 認めるしかなかった。

 

 リュウに勝った日の膝枕。

 敗者の印。

 拳への印。

 勝利の確認。

 強かったかと聞くこと。

 リュウに負けを認めてもらうこと。

 全部、癖になっている。

 

 ひどい。

 かなりひどい。

 格闘家としてどうなのか。

 勝者としてはどうなのか。

 女としてはどうなのか。

 

 いや、そこは考えない方がいい。

 考えると精神HPが落ちる。

 すでに落ちている。

 

 春麗は、ベッドに腰を下ろした。

 

 リュウは、まだ全体では自分より勝っている。

 今日勝ったからといって、春麗の方が上になったわけではない。

 

 次は負けるかもしれない。

 引き分けるかもしれない。

 また、あの拳に止められるかもしれない。

 

 でも。

 今日だけは、自分の勝ちだった。

 そして、その勝ちをリュウの額と拳に刻んだ。

 

 膝枕しながら。

 顔を近くで見ながら。

 悔しいと聞きながら。

 

「……ごちそうさま、はないわ」

 

 春麗は、枕を抱きしめた。

 

 言った。

 言ってしまった。

 

 リュウは忘れないと言った。

 

 今日のことは忘れないと。

 

 春麗は、顔を枕に埋める。

 

「そこだけ忘れてほしいのに」

 

 一拍。

 

「でも、今日のことは忘れないでほしい」

 

 矛盾している。

 

 いつものことだ。

 

 春麗は、小さく息を吐いた。

 勝った日の余韻が、まだ身体の中にある。

 リュウの拳に印を刻んだ感触が、指先に残っている。

 額に触れた時の温度も。

 膝に乗った重みも。

 強かったと言われた声も。

 全部、残っている。

 

 春麗は、枕を抱いたまま目を閉じた。

 

「次も勝つわ」

 

 一拍。

 

「勝って、また刻む」

 

 言ってから、顔が熱くなる。

 でも、今度は取り消さなかった。

 それは、もう春麗の中で勝利の一部になっていた。

 

 怖い拳を越えた証。

 今日だけは自分が勝った証。

 そして、リュウがそれを受け入れた証。

 

 春麗は、枕に顔を埋めたまま、小さく笑った。

 

「……覚悟しておきなさい、リュウ」

 

 一拍。

 

「私が勝った日は、逃がさないんだから」

 


 

『記録板AI』

 

『未来時空ログを保存します』

 

『春麗は、リュウに勝利した日の膝枕と敗者の印を勝利確認の儀式として定着させつつあります』

 

『リュウは気絶していない場合でも、敗者として春麗の要求を受け入れます』

 

『刻印対象』

 

『額』

 

『拳』

 

『本ログの要点』

 

『総合勝率はまだリュウ優勢』

 

『ただし、今日の勝者は春麗』

 

『春麗は、勝った日のリュウの悔しさと承認を強く記憶しています』

 

『追加記録』

 

『膝枕習慣化により、春麗の勝利後精神HP反動は継続中』

 

『保存完了』




Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?

A:

今回のエピソードは、前回の掲示板回で予告していた断章IFの本編春麗が出した宿題の正式回答受領編の合間に挿入された第1話ギリギリ敗北ルート春麗の未来時空のエピソードになります。
断章IFは既に7話連続、続きの一区切りまでは9話ほどを予定しているので箸休め的なエピソードを挿入しました。

第1話ギリギリ敗北ルート春麗の修行編後日談の約束した正式試合では、春麗はリュウの波動拳から昇龍拳への恐怖連鎖を越え、リュウに逆転勝利しました。
その時の膝枕は、まだ一回限りの大きな到達点でした。

自分を撃ち落とした男を倒した。
その男を膝枕した。
額と拳に敗者の印を刻んだ。
自分が強かったか確認した。
その全部が、克服の記念碑のような行動でした。

今回のエピソードは、その行動が一回限りではなく、春麗の中で「勝った日の確認儀式」になってしまった話です。
ここが非常に大きいです。
この春麗はもう、単に昇龍拳を怖がっていた頃の春麗ではありません。

リュウに勝つこともある。
負けることもある。
引き分けることもある。
ただし、総合勝率ではまだリュウの方が上。

この設定がとても重要です。

春麗が毎回リュウに勝てるようになっているわけではない。
完全にリュウを越えたわけでもない。
リュウは今でも強い。
むしろ、春麗が成長すればリュウもそれに対応してくる。
だからこそ、春麗の「今回は私の勝ち」が強くなります。

全体ではまだリュウが上。
でも、今日だけは私が勝った。
今日のリュウは、私に負けた。
この「今日の勝利」を春麗が絶対に逃がしたくない。

だから膝枕を要求する。
だから額に敗者の印を刻む。
だから拳にも印を刻む。

この構造がとても良いです。

今回の春麗は、勝利を自分の中に留めるのがうまくなっています。
以前の春麗は、リュウに勝っても、その後の完敗で身体が止まってしまいました。
勝利の記憶より、敗北の記憶が身体に残ってしまった。

でも未来の春麗は違います。
勝った日の記録を、きちんと自分の中に刻む。
しかも、リュウの額と拳にも刻む。
これは勝者としての甘味でもありますが、それ以上に「記憶の主導権を取り返している」行動です。

かつてリュウの拳は、春麗に恐怖を刻みました。
今度は春麗が、リュウの拳に敗者の印を刻む。

この反転は、このルート独自の強さです。
今回の膝枕が、リュウが気絶していない状態で行われるのも重要です。
最初の約束した正式試合での勝利ログでは、リュウは虎襲倒で意識を失っていました。
そのため、春麗の膝枕には「介抱」という理由がありました。

でも今回は違います。
リュウは気絶していない。
意識もある。
動ける。
それでも春麗が要求し、リュウが受け入れる。
ここで、膝枕は単なる介抱から、二人の間の合意された勝利儀式へ変化しています。

春麗は言い訳として「介抱」と言える段階を越えてしまった。
もちろん、まだ照れもある。
大胆な自覚もある。
でも、はっきり「私がしたいからしているの」と言えるようになっている。
これはかなり大きな進展です。

この台詞は今回の核心の一つです。
春麗はもう、必要だから膝枕しているだけではない。
勝利確認として必要でもある。
でも、それだけではない。

自分がしたい。

リュウに勝った日に、リュウを膝枕したい。
額に印を刻みたい。
拳にも印を刻みたい。
強かったと認めてもらいたい。
リュウの悔しさを近くで感じたい。
その欲求を、春麗が自分でかなり認めてしまっている。

ここに、この未来時空春麗の大胆さがあります。

第1話ギリギリ敗北ルート春麗の場合、根底にはまだ「怖かった拳を越えた」という記憶があります。
だから膝枕も印も、単なる甘味ではありません。

勝った日の自分を忘れないため。
リュウの拳に止まらなかったことを覚えるため。
恐怖を勝利の記録に書き換えるため。

その意味があります。
今回のエピソードでは、その克服の儀式が、だんだん甘味化してきた。
ここが面白いです。

最初は痛みから始まった儀式だった。
けれど、何度も勝ち、何度も刻み、何度もリュウに受け入れられるうちに、春麗にとって勝った日の楽しみになってきている。
つまり、
「克服の証」から「勝利の癖」へ進化している。
この変化が今回のエピソードの肝です。

リュウの受け入れ方も良かったです。
リュウは、膝枕を甘く受け入れているというより、敗者として受け入れています。

負けた記録だから受ける。
春麗に必要なら受ける。
春麗が今日の勝ちを覚えられるなら受ける。
この姿勢が、非常にリュウらしいです。

リュウは春麗の大胆さを茶化さない。

困らせようともしない。
負けたことを誤魔化さない。
だから春麗は、さらに困る。

この関係が良いです。

春麗は勝ち誇りたい。
でも、リュウが真面目に受け入れるから、自分の方が照れる。

「もっと言ってもいいのよ」と言ったら、本当に細かく強かったところを言われる。
「どのくらい?」と聞いたら、真面目に技術分析される。
このやり取りは、かなりこの二人らしいです。

春麗は勝者として甘く攻めているつもりなのに、リュウの真面目な承認で逆に精神HPを削られている。
この構図がとても良いです。
また、「ごちそうさま」と言ってしまう場面も効いています。

これは完全に春麗の勝利酔いです。
リュウの悔しさを味わった。
膝枕した。
額と拳に印を刻んだ。
強かったと認めてもらった。
その満足が漏れてしまった言葉です。
でも、言った直後に自分で固まる。
そしてリュウが「忘れない」と返す。
ここで、勝ったはずの春麗がまた自爆する。
この流れが非常に春麗らしいです。

勝利中は大胆。
勝った直後はもっと大胆。
でも、少し冷静になると精神HPが落ちる。
この反動があるから、春麗の大胆さが嫌味になりません。
むしろ可愛く見えます。
今回のラスト、自室で「癖になっているわね」と自覚する場面も重要です。

春麗はもう否定できなくなっています。

リュウに勝った日の膝枕。
敗者の印。
拳への印。
勝利確認。
強かったかと聞くこと。
リュウに負けを認めてもらうこと。

全部が癖になっている。
そして、春麗はそれを恥ずかしいと思っている。

でも、やめる気はない。

ここがこの未来時空春麗の到達点です。

かつてはリュウの拳が怖くて止まっていた春麗が、今ではリュウに勝った日に、その拳へ自分の勝利の印を刻むことを楽しみにしている。

これは本当に大きな変化です。
しかも、総合ではまだリュウが上だから、勝利が貴重です。
毎回できるわけではない。
だからこそ、勝った日は逃がさない。

「今日は私の勝ち」と何度も確認する。
この貴重さが、春麗の勝利儀式に説得力を与えています。

総合すると、今回のエピソードは、第1話ギリギリ敗北ルート春麗が、恐怖克服を越えて「勝者としての自分の楽しみ方」を手に入れた回です。

ただ救われた春麗ではない。
ただ勝てるようになった春麗でもない。
勝った日のリュウを、自分の膝に乗せ、額と拳に印を刻み、今日の勝利を認めさせる春麗になった。
それでいて、帰宅後には自分の大胆さに精神HPを削られる。

このバランスがとても良いです。

一言でまとめるなら、今回のエピソードは、
「リュウの拳に止められていた春麗が、今ではリュウに勝った日の膝枕と敗者の印を、自分だけの勝利確認儀式として癖にしてしまった回」
です。

本編春麗の青の蓄積とも違う。
黒執着春麗の黒の戦術とも違う。
この春麗は、怖かった拳を越えた証として、リュウの額と拳に印を刻む。
その印を刻むたびに、今日だけは自分が勝ったと確認する。

第1話ギリギリ敗北ルート春麗だけの特別な甘味になったと思います。
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