また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
連絡先を交換した翌日。
春麗は、仕事から帰ると最初に部屋の電話を見た。
何の変化もない。
留守番電話の表示も。
点滅していない。
当然だった。
リュウと別れてから。
まだ一日しか経っていない。
リュウは、この街へ戻ったばかりだった。
次の旅へ出る時期も、まだ決めていないかもしれない。
そもそも。
リュウは言った。
次にこの街へ戻る前に電話をする。
今は、街にすでに戻っている。
だから今日、電話が鳴る理由はない。
「……確認しただけよ」
春麗は、誰もいない部屋で言った。
「留守番電話が正常に動いているか…確認しただけ」
春麗は、電話から目を離した。
上着を脱ぐ。
鞄を置く。
夕食の準備をする。
資料を読む。
湯を沸かす。
その間。
電話は一度も鳴らなかった。
翌日。
春麗は仕事から戻ると上着を脱ぐ前に電話を見た。
留守番電話の表示。
点滅なし。
「……そう」
声が漏れた。
春麗は。
すぐに眉を寄せた。
「何が、そうなのよ」
リュウは、まだこの街にいる可能性がある。
次の旅へ出ていないなら。
戻る前に電話するという条件は成立しない。
連絡がないのは当然。
春麗は、そう整理した。
だが二人が別れる前。
リュウはどこへ泊まるのか。
何日この街にいるのか。
いつ旅へ出るのか。
話していない。
春麗も聞かなかった。
「……また」
一拍。
「聞いていない」
今度は。
電話番号を知っている。
手紙の宛先も渡した。
ケンを介した伝言経路もある。
それでも、リュウが今日この街にいるのか。
すでに旅へ出たのか。
春麗は知らない。
連絡方法を得たことで。
以前より何でも分かるようになったわけではない。
ただ。
分からないことを。
聞く方法ができただけだった。
春麗は。
電話を見た。
受話器は。
静かなままだった。
三日目。
春麗は帰宅直後には電話を見なかった。
上着を脱ぎ。
鞄を置き。
手を洗い。
それから。
何気ない動作として。
留守番電話を確認した。
点滅なし。
「まだ…ケンへ連絡していないのかもしれない」
リュウは町へ立ち寄った時ケンへ電話すると言っていた。
しかし、毎回必ず決まった時刻に連絡しているわけではない。
今回交換した連絡方法について、まだケンへ説明していない可能性もある。
ケンが春麗からの伝言を受け取ることに。
正式に同意したわけでもない。
リュウが説明するまでは連絡経路は完成したとは言えない。
「そうよ!先にケンへ説明する必要がある」
だから。
まだ電話は来ない。
合理的な理由だった。
春麗は少しだけ安心した。
電話が鳴らないのは。
リュウが連絡しようとしていないからではない。
連絡経路の準備がまだ終わっていないから。
そう考えることができた。
その夜。
電話は鳴らなかった。
四日目。
春麗は夕食中、電話へ視線を向けた。
鳴っていない。
当然だった。
鳴っていない電話を。
鳴っていないと確認しているだけ。
何もおかしくない。
春麗は、食事を続けた。
数分後。
また見た。
当然。
鳴っていない。
「……旅の途中に」
一拍。
「公衆電話がないのかもしれない」
リュウは。
都市部だけを旅するわけではない。
山へ行く。
道場へ行く。
人の少ない土地にも行く。
宿を使わない日もある。
電話が近くにないことは。
十分にあり得る。
あるいは。
硬貨を持っていない。
電話番号を書いた紙を。
荷物の奥へ入れている。
旅の途中で。
電話を使える場所を見つけてもすぐには取り出せない。
そういう可能性もある。
春麗は箸を止めた。
「……なくしていないでしょうね」
連絡先を書いた紙は小さかった。
電話番号。
住所。
連絡可能な時間。
リュウは道着の内側へ入れた。
春麗はなくすなと言った。
道着のまま洗うなとも言った。
読ませた。
復唱もさせた。
それでも。
相手はリュウである。
修行中に川へ落ちる。
雨に濡れる。
道着が破れる。
荷物ごと置き忘れる。
紙をなくす可能性は否定できない。
「……覚えたとは言っていたけれど」
リュウは電話番号を一度読み上げた。
住所も読んだ。
覚えたと言った。
春麗は紙も持てと言った。
そこまで確認した。
だからなくしたとしても電話番号は覚えているはず。
「本当に?」
春麗は自分で言ってから額へ手を当てた。
「私は今…電話が来ない理由を」
一拍。
「紙をなくした可能性にして安心しようとしているの?」
意味が分からない。
紙をなくしていた方が。
困る。
それなのに。
電話が来ない理由として。
春麗は。
その可能性まで使おうとしていた。
電話は鳴らなかった。
五日目。
春麗は帰宅時間を少し遅らせた。
仕事が残っていた。
無理に残ったわけではない。
本当に処理すべき書類があった。
だから帰宅が遅くなった。
部屋へ入る。
靴を脱ぐ。
明かりをつける。
留守番電話を見る。
点滅なし。
春麗は数秒動かなかった。
「仕事中に…かけてきた可能性もあるでしょう」
留守番電話には何も残っていない。
だが、リュウが留守番電話の操作を理解できなかった可能性がある。
機械の声が流れ何をすればいいのか分からず切った。
そして夜にもう一度かけるつもりでいる。
春麗は時計を見た。
まだ遅すぎる時間ではない。
今夜、電話が鳴る可能性はある。
春麗は上着を脱いだ。
夕食を用意する。
資料を開く。
だが、いつもなら電話から離れた机で読む資料を今日は電話に近い場所へ持ってきた。
「……偶然よ」
春麗は言った。
「照明が…こちらの方が明るいだけ」
電話は鳴らなかった。
一時間。
二時間。
夜が深くなる。
春麗は資料の同じ行を何度も読んだ。
内容が頭に入らない。
時計を見る。
電話を見る。
時計を見る。
電話を見る。
そしてようやく自分が何をしているのか認めた。
「私は…待っている」
電話を。
リュウからの電話を。
待っている。
その事実を認めた瞬間。
胸の奥が。
少しだけ重くなった。
六日目。
電話は鳴らなかった。
春麗は以前とは違う順番で考え始めた。
まだケンへ連絡していない。
公衆電話がない。
街へ戻る予定がない。
紙をなくした。
番号を忘れた。
留守番電話の使い方が分からなかった。
どれも。
あり得ないことではない。
だが、すべてリュウが電話をかけようとしていることを前提にした理由だった。
春麗は机の前へ座った。
青い小箱は開けない。
今日は。
正式回答を整理するつもりはない。
電話が鳴らない理由を考えるだけ。
「リュウは…本当に、電話をかけようとしているの?」
声にしたその問いは。
春麗が避けていたものだった。
連絡先を渡した。
次にこの街へ戻る前には電話をするとリュウは言った。
だからいつか電話が来る。
春麗はそう思っていた。
しかし、リュウの側から見れば事情は単純ではない。
リュウは春麗の出した宿題の正式回答を渡した。
春麗はその回答を受け取った。
九十九点。
なかったことにはしない。
逃げない。
だが。
まだ持てない。
少し待ってほしい。
そう返した。
リュウは待つと決めた。
正式回答の続きを。
春麗が持てるようになるまで。
急かさない。
押しつけない。
答えを求めない。
春麗が会えると思える時まで。
距離を置く。
それがリュウの選んだ待ち方だった。
春麗はそこで動きを止めた。
「……電話も……同じなの?」
電話をかける。
春麗か、と呼ぶ。
旅から戻ると伝える。
次にいつ会うか尋ねる。
それだけなら。
正式回答について話す必要はない。
試合もしない。
答えを求めるわけでもない。
ただリュウが電話をかければ。
春麗は受話器を取る。
リュウの声を聞く。
会う日を決める。
まだ正式回答を持てない自分のままリュウの前へ立つことになる。
リュウはそこまで考える男ではない。
細かく分析し、複数の可能性を並べ精神への影響を計算する男ではない。
だが。
春麗を急かさないことだけは決めている。
正式回答を持てないと伝えた春麗へ。
自分から会おうと言えば。
それが催促になるかもしれない。
答えはまだか、と。
言葉にしなくても春麗が感じるかもしれない。
だからリュウは電話番号を持っている。
覚えている。
電話を使える場所も。
おそらく見つけられる。
それでも電話をかけない。
春麗が次に会っていいと自分から示すまで待っている。
春麗は部屋の電話を見た。
受話器は静かなまま。
その静けさが今までとは違って見えた。
連絡が来ない。
忘れられた。
紙をなくされた。
会いたいと思われていない。
そういう沈黙ではない。
リュウが春麗へ渡した沈黙。
次の一歩を春麗自身が選ぶための。
空白だった。
「……あなた……私からの連絡を待っているのね」
春麗は誰もいない部屋で言った。
「私が…自分から動くまで」
電話は鳴らない。
鳴らせないのではない。
鳴らさない。
春麗のために。
リュウなりに何もしないことを選んでいる。
春麗は額へ手を当てた。
「誠実すぎるのよ…そういうところだけ」
一拍。
「正確に待たないで」
胸の奥が少し痛んだ。
拒絶ではない。
むしろ。
春麗の言葉を。
リュウが正確に受け取った結果だった。
待ってほしい。
まだ持てない。
その言葉を。
リュウは自分から連絡しないことまで含めて守っている。
「……私が言ったのよね……待ってほしいと」
リュウは待っている。
なら電話が鳴らないことへ怒ることはできない。
寂しいと感じても。
責めることはできない。
春麗がそう頼んだのだから。
七日目。
春麗は帰宅すると電話を見た。
点滅なし。
だが今日は実務的な理由を探さなかった。
ケンへ連絡していない。
公衆電話がない。
紙をなくした。
まだ戻る予定がない。
どれも考えなかった。
電話が鳴らない理由を。
春麗はもう知っている。
リュウは春麗からの連絡待ちである。
正式回答への返事だけではない。
次に会ってよいのか。
連絡してよいのか。
自分から春麗の日常へ入ってよいのか。
その最初の許可まで春麗へ預けている。
連絡先を交換した時春麗は思った。
これで次は偶然ではなく会える。
物語の奇跡を待たなくてよい。
リュウが電話をかける。
春麗が出る。
二人で会う日を決める。
そのように新しい道ができたと思った。
確かに道はできた。
ただし道ができたことと誰かが自動的に歩いてきてくれることは同じではない。
電話番号は勝手に電話を鳴らさない。
住所は勝手に手紙を届けない。
伝言先は言葉を預けなければ何も運ばない。
道はある。
だが。
どちらかが最初の一歩を踏み出さなければ二人は会えない。
そして。
リュウはその一歩を春麗へ渡している。
正式回答を渡したのはリュウだった。
待つと決めたのもリュウだった。
だから次は春麗がリュウに会いたいのなら。
春麗からその意思を届けなければならない。
春麗は電話の前へ立った。
受話器には触れない。
ケンの連絡先は机の引き出しにある。
自分で確認した。
正しい番号。
リュウへの伝言を預けられる場所。
必要なものはもう全部ある。
足りないのは電話番号ではない。
連絡手段でもない。
主人公補正でもない。
春麗自身がその道を使うという選択だけ。
「……今度は…私からなのね」
言葉が部屋へ落ちた。
電話は鳴らない。
リュウは春麗を拒んでいない。
忘れてもいない。
次に会いたくないわけでもない。
ただ正式回答を持てない春麗を自分から動かすことをしない。
待っている。
春麗が自分の意思で次の一歩を選ぶのを。
それは優しかった。
誠実だった。
だけど春麗にとってはあまりにも厳しかった。
偶然なら会えた。
主人公補正ならリュウが現れた。
いつもの場所へ行けば物語が二人を同じ場所へ置いた。
だけどこれからは。
春麗が会いたいと伝えない限りリュウは現れない。
正式回答をまだ持てない春麗がその正式回答を渡した相手へ。
自分から会いたいと伝える。
電話を一本かけるだけ。
伝言を一つ残すだけ。
それだけのことが。
正式回答そのものとは別のはずなのに。
春麗には答えへ手を伸ばすこととほとんど同じ重さに感じられた。
春麗は机の引き出しを開けた。
連絡方法を書いた紙がある。
その下に。
自分で書いた一文。
『会いたい時は、会いたいと伝える』
春麗は紙を取り出した。
何度も読んだ。
「……書いたのは私」
一拍。
「決めたのも私」
もう一拍。
「でも」
電話を見る。
まだ。
受話器には触れられない。
「実際に伝えるのは…こんなに違うのね」
春麗は紙を机へ置いた。
今日は電話をかけなかった。
伝言も残さなかった。
それでも電話が鳴らない理由から目を逸らすことはやめた。
リュウは連絡できないのではない。
春麗を待っている。
次の一歩は完全に春麗へ渡されている。
電話はその夜も鳴らなかった。
だが今度の静けさは何も起きていない静けさではない。
春麗の選択を待っている静けさだった。
Q:今回の断章IFについて解説して?
A:
今回の断章IFは、連絡先を交換したことで「これでもう、いつでも会える」と思った本編春麗が、連絡手段を持つことと、実際に相手へ連絡することはまったく別なのだと知る話でした。
電話番号もある。
住所もある。
ケンを介した伝言経路もある。
以前のように、リュウが偶然街へ現れるのを待つ必要はありません。
それでも、電話は鳴りません。
最初の数日、春麗は電話が鳴らない理由を、すべて実務的な事情として整理しようとしています。
まだケンへ説明していないのかもしれない。
旅の途中に公衆電話がないのかもしれない。
連絡先を書いた紙をなくしたのかもしれない。
留守番電話の使い方が分からなかったのかもしれない。
どれもリュウならありそうな理由ではあります。
しかし、春麗がその可能性を次々と考えるのは、リュウが自分へ電話をかけようとしている、という前提を手放したくないからです。
電話が来ないのは、かけたくないからではない。
何か事情があるからだ。
そう考えることで、春麗は電話を待っている自分を、まだ正面から見なくて済みます。
五日目に春麗が「私は、待っている」と認める場面は、今回の最初の転換点です。
これは電話を待っているというだけではありません。
リュウの方から、次の関係を始めてくれることを待っている。
リュウから電話をかけてきてほしい。
リュウから会おうと言ってほしい。
リュウの方から、自分の日常へ入ってきてほしい。
その意味で春麗は、連絡先を交換した後も、まだ以前の主人公補正に近いものを期待しています。
偶然会える。
いつもの場所へ行けばリュウがいる。
物語の側が二人を再会させてくれる。
連絡手段を手に入れたことで、その奇跡が電話という現実的な形に変わっただけだと思っていたのです。
しかし六日目、春麗は電話が鳴らない本当の理由へたどり着きます。
リュウは電話をかけられないのではありません。
春麗が「まだ正式回答を持てない」「少し待ってほしい」と伝えたから、自分から春麗を動かさないように待っている。
電話をかけることさえ、春麗に答えを催促する行為になるかもしれない。
リュウがそこまで細かく分析しているわけではありませんが、「春麗を急かさない」と決めた結果として、連絡しないことを選んでいる。
ここが今回のリュウの誠実さであり、同時に春麗にとっての厳しさです。
リュウは春麗を拒んでいません。
忘れてもいません。
会いたくないわけでもありません。
むしろ、春麗の言葉を正確に受け取っているから、電話を鳴らさない。
春麗のために空白を残している。
だから春麗は、寂しいと思っても、リュウを責められません。
「待ってほしい」と言ったのは自分だからです。
そして七日目。
春麗は、電話が鳴らない理由をもう探しません。
電話番号があっても、電話は勝手に鳴らない。
住所があっても、手紙は勝手に届かない。
伝言先があっても、言葉を預けなければ何も運ばれない。
連絡手段とは、二人を自動的に会わせる装置ではありません。
二人の間に、歩ける道を作るものです。
道はできた。
けれど、誰かが最初の一歩を踏み出さなければ、二人は会えない。
そして今回は、正式回答を渡したリュウが、次の一歩を春麗へ渡しています。
春麗が会いたいなら。
春麗がもう一度会ってもよいと思うなら。
春麗自身が、その意思を伝えなければならない。
これは、正式回答への最終的な返事をすることとは別です。
まだ答えを完全に持てなくても、会うことはできます。
まだ関係に名前を付けられなくても、声を聞くことはできます。
まだ九十九点の残り一点を決められなくても、次の約束はできます。
けれど春麗にとっては、「会いたい」と伝えること自体が、正式回答へ手を伸ばすこととほとんど同じ重さを持っています。
だから、今回の春麗はまだ電話をかけません。
これは後退ではありません。
受話器を取れなかった。
伝言を残せなかった。
それでも、電話が鳴らない理由を別の事情へ押しつけることはやめた。
リュウが何を待っているのか。
次に動かなければならないのは誰なのか。
春麗は正しく理解しました。
今回の到達点は、電話をかけることではなく、
「今度は、私からなのね」
と認めることです。
本編春麗はこれまで、リュウの言葉によって何度も変わってきました。
しかし、これから必要になるのは、リュウの言葉を待つだけではなく、変わった後の自分が何をしたいのかを、自分の側から示すことです。
机の引き出しに入っていた、
『会いたい時は、会いたいと伝える』
という一文は、春麗自身が書き、春麗自身が決めたものです。
ただ、紙に書けることと、現実の相手へ伝えられることの間には、まだ距離があります。
今回の七日間は、その距離を春麗が初めて正確に測った時間でした。
最後まで電話は鳴りません。
けれど、その静けさは、忘れられた静けさではありません。
リュウが何もしないことで守っている空白。
そして、春麗が自分の意思で次の一歩を選ぶのを待っている静けさです。
何も起きなかった七日間ではなく、春麗が「待つ側」から「自分で会いに行く側」へ変わり始めた七日間として描きました。