また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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断章IF:本編春麗は本当の理由を電話で言えない

 電話をかければいい。

 

 何をすればいいのかは、春麗にももう分かっている。

 

 ケンへ連絡する。

 リュウへの伝言を頼む。

 次に連絡が取れた時、春麗へ電話するよう伝えてもらう。

 

 あるいは、もっと直接。

 会いたいと伝える。

 それだけだった。

 

 連絡先はある。

 電話もある。

 適切な時間帯も調べられる。

 英語での会話にも何の問題もない。

 

 不足している情報はない。

 不足している手段もない。

 

 足りないのは、春麗が受話器を取ることだけだった。

 だから春麗は、電話をかける理由を考えた。

 


 

 仕事から帰った夜。

 

 春麗は机へ一枚の紙を置いた。

 

 左側には、ケンへつながる電話番号。

 右側は空白。

 

 電話で話す内容を、先に整理するつもりだった。

 仕事の連絡なら、春麗はいつもそうしている。

 

 確認事項。

 伝達事項。

 開示可能な範囲。

 相手へ求める回答。

 

 事前に要点を整理すれば、無駄なく会話できる。

 今回も同じようにすればいい。

 

「用件を決めればいいのよ」

 

 春麗はペンを持ち、紙の最初の行へ書いた。

 

『次の試合について』

 

 数秒、その文字を見つめた。

 

 次の試合。

 

 リュウと春麗なら、いつかまた戦う。

 それは嘘ではない。

 

 試合の日程を相談することも不自然ではない。

 むしろ二人にとって、最も自然な用件だった。

 

 だが春麗は、その一行へ横線を引いた。

 

「今は、試合をする段階ではない」

 

 試合を口実にすれば、リュウには会える。

 以前なら、それで十分だった。

 

 戦いたい。

 技を確かめたい。

 次の勝負をしたい。

 

 その言葉の後ろへ、「会いたい」を隠すことができた。

 しかし今、春麗がリュウへ連絡したい理由は試合ではない。

 試合を用件にすれば、本当の理由をまた勝負の中へ逃がすことになる。

 

 春麗は次の行へ書いた。

 

『連絡方法が正しく機能するかの確認』

 

 これは実務的だった。

 

 電話番号が正しいか。

 ケンへ本当につながるか。

 リュウへの伝言を預かってもらえるか。

 

 連絡経路を作った以上、動作確認は必要である。

 

「……確認だけなら、電話できる」

 

 目的がある。

 必要性がある。

 手順がある。

 

 春麗が得意な形だった。

 だが、電話がつながり、連絡方法が正しいと確認できたとして。

 その後、何をするのか。

 

 電話を切るだけか。

 リュウへの伝言は残さないのか。

 本当は伝えたいことがあるのに、経路だけ確認して終わるのか。

 

 春麗はその一行にも横線を引いた。

 

「嘘ではない。でも、それだけではない」

 

 次。

 

『ケンへの挨拶』

 

 リュウの古い友人。

 賞金の管理を任され、今後は伝言の中継を頼むかもしれない相手。

 

 最初に挨拶しておくことは、礼儀として間違っていない。

 しかし、リュウは春麗へ、ケンに挨拶しておけとは言っていない。

 ケンも、春麗からの挨拶を待っているわけではない。

 挨拶だけのために海外へ電話する。

 不自然ではないが、本当でもない。

 春麗は横線を引いた。

 

 次。

 

『正式回答について補足』

 

 ペン先が止まった。

 

 正式回答。

 受領済み。

 九十九点。

 まだ持てない。

 持てるようになるまで待つ。

 

 現時点で新しく伝える補足はない。

 

 持てるようになったわけではない。

 評価が変わったわけでもない。

 回答を否定する気もない。

 

 だから、リュウへ伝えるべき更新は何もない。

 

 むしろ正式回答を用件にすれば、リュウは春麗が続きを話せるようになったと思うかもしれない。

 

 それは違う。

 春麗はその一行を二重線で消した。

 

 次。

 

『リュウの旅程確認』

 

 いつ街へ戻るのか。

 今どこにいるのか。

 次にどこへ向かうのか。

 

 確認したい。

 それは本当だった。

 

 だが、なぜ確認したいのか。

 

 会いたいから。

 それ以外にはない。

 

 旅程そのものを知りたいわけではない。

 業務上の必要もない。

 居場所を把握したいわけでもない。

 

 戻る時期が分かれば、会える日を考えられる。

 だから知りたい。

 

 春麗は横線を引いた。

 

 次。

 

『道場から伝言があったかの確認』

 

 書いた直後、春麗はペンを止めた。

 

「ないでしょう」

 

 道場から春麗へ伝言はない。

 リュウが道場へ伝言を残したとも聞いていない。

 

 確認する根拠がない。

 

 春麗はその一行を黒く塗りつぶした。

 

「これは用件ではない。完全な口実」

 


 

 紙の右側は、横線と塗りつぶしで埋まった。

 春麗は別の紙を出した。

 

「理由ではなく、台詞を作る」

 

 電話をかける理由が完全には整理できなくても、最初に話す言葉さえ決めれば会話を始められる。

 

 春麗は新しい紙へ書いた。

 

『先日は、連絡先の交換を──』

 

 止まった。

 

 先日、連絡先を交換した相手はリュウである。

 ケンではない。

 

 ケンへ電話して、先日の連絡先交換について話し始めても、何を求めているのか分からない。

 

 違う。

 

 横線を引く。

 

『リュウから、あなたへ連絡するよう聞いて──』

 

「言われていない」

 

 リュウは、春麗が連絡したい時にはケンへ伝言を預けられると言った。

 しかし、今すぐケンへ連絡しろとは言っていない。

 書いた通りに話せば、リュウの指示で電話していることになる。

 

 違う。

 

 横線。

 

『次回の手合わせの日程について──』

 

「だから、今は違うでしょう」

 

 横線。

 

『リュウの現在の旅程を確認したく──』

 

「捜査ではないのよ」

 

 横線。

 

『連絡経路が正常に機能しているか確認するため──』

 

 春麗は、その一行をしばらく見つめた。

 

 今まで書いた中では最も使いやすい。

 最も事務的で、最も安全だった。

 

 これなら電話をかけられる。

 

 ケンへ名乗る。

 番号が正しいことを確認する。

 今後、リュウへの伝言を頼めるか尋ねる。

 必要なことだけ話して、電話を切る。

 

 何も間違っていない。

 春麗はその一行だけ、消さずに残した。

 だが紙の下へ、もう一つ短い言葉を書いた。

 

『本当の理由』

 

 その下で、ペン先が止まる。

 

 頭の中には、もう答えがある。

 

 新しく考える必要もない。

 春麗会議室へ接続する必要もない。

 記録板AIに発言信頼度を測ってもらう必要もない。

 

 本当は、リュウに会いたい。

 

 それだけ。

 

 春麗はゆっくりと書いた。

 

『リュウに会いたい』

 

 短い。

 説明も、補足も、根拠もない。

 それでも、他のどの用件より正確だった。

 


 

 春麗は紙を見つめた。

 

 机の引き出しを開ける。

 そこには以前、自分で書いた一文がある。

 

『会いたい時は、会いたいと伝える』

 

 連絡先を交換した夜。

 正式回答の記録とは別に、日常の決まりとして書いた言葉。

 

 青い小箱には入れなかった。

 

 これは正式回答についての決まりではない。

 日常の中で、リュウへ会うための決まりだからだ。

 

 春麗はその紙を、今日書いた紙の横へ置いた。

 

『会いたい時は、会いたいと伝える』

 

『本当の理由 リュウに会いたい』

 

 二つの紙が並ぶ。

 

 何をすればよいか、どちらにも書いてある。

 

「書くことと、伝えることは全然違うのよ」

 

 紙は何も答えない。

 

 書く時、相手はいない。

 

 何度でも消せる。

 言葉を変えられる。

 誰にも届かない。

 自分の中だけで確認できる。

 

 だが、電話は違う。

 

 一度言えば、相手が聞く。

 ケンが聞く。

 ケンからリュウへ届く。

 

 そしてリュウが、春麗は自分に会いたいのだと知る。

 紙に書いた言葉が、現実の相手へ渡る。

 そこには、大きな境界があった。

 


 

 春麗は時計を見た。

 

 米国側の時刻を計算する。

 

 電話をかけても非常識ではない時間だった。

 仕事中である可能性はある。

 不在なら、また改めればいい。

 

 春麗は電話番号を書いた紙を電話の横へ置き、受話器を見た。

 

「今日は、連絡方法の確認」

 

 言ってから目を閉じる。

 

「……それだけではない」

 

 すぐに訂正した。

 

「でも今日は、そこまででいい」

 

 本当の理由を、今日すべて言えなくてもいい。

 

 まず電話をかける。

 ケンへつなげる。

 名前を届ける。

 連絡経路が現実に存在することを確認する。

 

 それだけでも、昨日までとは違う。

 

 春麗は受話器へ手を伸ばした。

 

 指が触れる。

 止まる。

 

 手を戻したくなる。

 それでも春麗は、そのまま受話器を持ち上げた。

 


 

 発信音。

 春麗は番号を一つずつ押した。

 

 国際電話。

 遠い国へ、自分の意思を運ぶための数字。

 

 一桁。

 また一桁。

 

 押すたびに、引き返しにくくなる。

 最後の番号。

 春麗は一度、指を止めた。

 

 まだ切れる。

 まだ電話はつながっていない。

 

 最後の一桁を押さなければ、今日も何も起きない。

 

「……分かっているわよ」

 

 春麗は最後の番号を押した。

 

 呼び出し音。

 

 一回。

 二回。

 三回。

 

 春麗の心臓が、試合前とは違う速さで鳴る。

 

 四回目の途中で音が止まった。

 

『Hello?』

 

 男性の声。

 春麗は一瞬、呼吸を忘れた。

 

 だが、すぐに切り替える。

 国際電話である。

 会話は英語だ。

 

 春麗は英語で名乗った。

 

「春麗です」

 

 受話器の向こうで短い間があった。

 

「春麗?」

 

「はい」

 

「……ああ。リュウが話していた格闘家か」

 

 春麗の精神HPが、目に見えないところで削れた。

 

「……どのように」

 

 聞きかけて、止める。

 以前、リュウから聞いている。

 

 強い格闘家がいる。

 春麗という。

 

 それだけ。

 正式回答も、宿題も、青も、黒も、話してはいない。

 分かっている。

 それでもケンの口から「リュウが話していた」と聞くと、重さが違った。

 

「聞いているよ。リュウから」

 

「……そうですか」

 

「強い相手だって」

 

「それだけですか」

 

 反射的に聞いてしまった。

 受話器の向こうで、ケンが少しだけ笑った気配がした。

 

「それ以上も聞きたいのか?」

 

「いえ。必要ありません」

 

 即答した。

 

「そうか」

 

 ケンは追及しなかった。

 

 何を聞いているのか。

 リュウが春麗をどう思っているのか。

 

 勝手に説明しようともしない。

 

 ただ用件を待っている。

 

 その沈黙が、リュウとは違う意味で春麗へ次の言葉を求めた。

 

「それで、リュウへの伝言か?」

 

 来た。

 春麗は机の上の紙を見た。

 

『連絡経路が正常に機能しているか確認するため』

 

『本当の理由 リュウに会いたい』

 

『会いたい時は、会いたいと伝える』

 

 三つの言葉。

 どれを使うかは、春麗自身が選ばなければならない。

 

「次に、リュウから連絡があったら──」

 

 そこまで言って、止まった。

 ケンは待った。

 

 急かさない。

 先を予測して言葉を補わない。

 春麗が何を伝えたいのか、代わりに決めようとしない。

 

「次に連絡があったら?」

 

 確認するように、同じ言葉だけを返した。

 

 春麗は受話器を握った。

 

 何を伝えてほしいのか。

 

 この街へ戻る予定を聞きたい。

 次にどこへ行くのか知りたい。

 春麗へ電話するよう伝えてほしい。

 会う日を決めたい。

 

 会いたい。

 

 どれも嘘ではない。

 だが、最後の一つだけが本当の理由だった。

 

「次に連絡があったら、私へ電話をするように──」

 

 言えそうだった。

 それなら、「会いたい」とまでは言わなくて済む。

 リュウから電話してもらう。

 その後で話せばいい。

 しかし、なぜ電話をしてほしいのか。

 ケンに聞かれたら、何と答える。

 

 リュウに伝わった時、リュウは何のための電話か考える。

 

 正式回答の話か。

 何か急用か。

 試合か。

 

 春麗はまた、本当の理由を隠すことになる。

 

「──」

 

 声が出ない。

 

 ケンは待っている。

 

「春麗?」

 

「……はい」

 

「聞いている」

 

「……」

 

「伝えたい言葉があるなら、そのまま言ってくれれば、そのまま伝える」

 

 ケンの言葉は、それだけだった。

 

 何を言うべきかは教えない。

 リュウが待っているとも、リュウも会いたがっているとも言わない。

 春麗とリュウの関係へ、勝手に意味を足さない。

 

 春麗が選んだ言葉を、そのままリュウへ運ぶ。

 

 中継者として、それだけを引き受ける。

 

 だから春麗は逃げられなかった。

 

 ケンの言葉を借りることも。

 ケンに本心を推測してもらうことも。

 ケンからリュウへ、都合よく言い換えてもらうこともできない。

 最後の言葉は、春麗自身が選ばなければならない。

 

 会いたい。

 

 その言葉が喉の奥まで来た。

 しかし、声にはならなかった。

 


 

「……いえ」

 

 春麗はゆっくりと言った。

 

「今日は、連絡先が正しいか確認しただけです」

 

 言った。

 言ってしまった。

 机の上には、

 

『連絡経路が正常に機能しているか確認するため』

 

 と書かれた紙がある。

 消さずに残した、最も安全な用件。

 春麗はそこへ逃げた。

 

 受話器の向こうで、ケンは少しだけ間を置いた。

 

 だが笑わなかった。

 問い詰めなかった。

 

「分かった。この番号で合っている」

 

「はい」

 

「リュウから連絡があれば、伝言は預かれる」

 

「……はい」

 

「その時は、春麗が言った通りに伝える」

 

 春麗は目を閉じた。

 

「分かりました」

 

「言葉が決まったら、また電話してくれ」

 

 それだけ。

 ケンは春麗の代わりに答えを作らなかった。

 

 今日の電話から、会いたいのだろうと察したとしても、それをリュウへ伝えるとは言わなかった。

 

 春麗が連絡先を確認した。

 今日、確実に言えたのはそれだけ。

 ケンは、その言葉だけを事実として扱った。

 

「ありがとうございます」

 

「どういたしまして。じゃあな、春麗」

 

「はい」

 

 春麗は電話を切った。

 


 

 受話器を置く。

 

 部屋が静かになる。

 

 電話をかける前と同じ部屋。

 同じ机。

 同じ青い小箱。

 同じ紙。

 

 それでも、何かが違っていた。

 

 春麗は椅子へ座ったまま、しばらく動かなかった。

 

「言えなかった」

 

 会いたいと。

 言えなかった。

 

 リュウへ電話してほしいとも。

 戻る予定を教えてほしいとも。

 何も伝えられなかった。

 ケンの番号が正しいことを確認しただけ。

 表面だけを見れば、本当の目的を果たせなかった電話だった。

 

 春麗は紙を見た。

 

『本当の理由 リュウに会いたい』

 

 その言葉はまだ机の上にある。

 

 ケンには届かなかった。

 リュウには、当然届いていない。

 

「……失敗」

 

 言いかけて、春麗はその評価を止めた。

 

 昨日まで、受話器へ触れることもできなかった。

 

 今日は持ち上げた。

 番号を押した。

 国際電話をつないだ。

 ケン本人と話した。

 春麗ですと名乗った。

 

 ケンの側へ、春麗という人間が現実の声として届いた。

 

 連絡先が、紙の上の可能性ではなく、本当に機能する道だと確認した。

 リュウへの伝言を、そのまま預かってもらえることも確認した。

 言葉さえ決まれば、次はそれを届けられる。

 

 境界は一つ越えた。

 そして、次に越える境界もはっきりした。

 

 電話をかけることではない。

 名乗ることでもない。

 ケンと話すことでもない。

 

 本当の理由を、相手へ届く言葉にすること。

 

「……後退ではない」

 

 春麗は自分へ言った。

 

「言えなかった。でも、電話はした」

 

 事実を二つに分ける。

 

 できなかったこと。

 できたこと。

 

 どちらも、なかったことにはしない。

 


 

 春麗は台詞を書いた紙を見た。

 

 横線。

 塗りつぶし。

 消された用件。

 

 次の試合。

 連絡方法の確認。

 ケンへの挨拶。

 正式回答の補足。

 リュウの旅程。

 道場からの伝言。

 

 どれも完全な嘘ではなかった。

 

 だが、本当の理由を代わりに背負うことはできなかった。

 

 最後に残った言葉。

 

『リュウに会いたい』

 

 春麗は、その下へ新しく一行を書いた。

 

『今日は言えなかった』

 

 ペン先を止める。

 そして、もう一行。

 

『ただし、電話はかけた』

 

 春麗は二つの記録を見た。

 どちらかだけではない。

 

 会いたいと言えなかった自分も。

 それでもケンへ電話した自分も。

 

 どちらも、今の春麗だった。

 


 

 青い小箱は机の端にある。

 

 正式回答。

 まだ持てない。

 

 電話をかけたことで、持てるようになったわけではない。

 リュウとの関係を正式に選んだわけでもない。

 好意を本人へ正式に渡したわけでもない。

 

 それでも春麗は、青い小箱から逃げずに電話をかけた。

 

 正式回答を持てない自分のまま、リュウへつながる相手へ初めて自分から連絡した。

 

 春麗は小箱へ手を置いた。

 

「あなたは、まだ持てない」

 

 次に電話を見る。

 

「でも、連絡することは少しできた」

 

 今日、リュウには届かなかった。

 だが、リュウへ続く道の途中まで、春麗自身の声が進んだ。

 紙の上の電話番号は、現実のケンへつながった。

 次に同じ番号へ電話した時、必要なのは連絡先の確認ではない。

 

 言葉。

 春麗自身が選んだ、リュウへ届ける言葉だった。

 


 

 その夜。

 

 春麗は春麗会議室へ接続しようとした。

 

 円卓を思い浮かべる。

 

 自覚前春麗。

 通常救済版春麗。

 行き遅れに恐怖する春麗。

 記録板AI。

 

 報告する内容はある。

 

 電話をかけた。

 ケンと話した。

 しかし、リュウへの伝言は残せなかった。

 

 春麗は目を閉じ、眠りへ落ちた。

 そして目を開ける。

 自室の天井。

 春麗会議室は、まだ開かなかった。

 

 春麗は驚かなかった。

 

「……そう。まだなのね」

 

 会議室へ接続するために電話をかけたわけではない。

 

 だが、物語が現実行動の完了を求めているのなら、今日の電話だけではまだ終わっていない。

 

 連絡経路は確認した。

 

 しかし、本当に届けるべきものは届けていない。

 

「分かっているわよ。電話をかけることが課題ではなかった」

 

 今回は一歩進んだ。

 だから、次の課題が見えた。

 

「本当の理由を言えというのでしょう」

 

 誰も答えない。

 春麗は布団の中で額へ手を当てた。

 

「……言い方くらい、考えさせなさいよ」

 


 

 翌朝。

 

 春麗は机の上の紙を、引き出しへ戻さなかった。

 

『会いたい時は、会いたいと伝える』

 

『本当の理由 リュウに会いたい』

 

『今日は言えなかった』

 

『ただし、電話はかけた』

 

 すべて机の上へ残した。

 ケンは、春麗の代わりに言葉を作らない。

 言葉が決まったら、そのまま伝える。

 だから最後の一歩は、今も春麗のものだった。

 

 電話はもう、触れられないものではない。

 番号も、押せない数字ではない。

 ケンも、紙の上だけの名前ではない。

 

 次に必要なのは、受話器を取る勇気ではなかった。

 本当の理由を、自分の声で言うこと。

 

 リュウに会いたい。

 

 その一言を、自分の内側から、ケンを通り、リュウへ届く言葉へ変えること。

 今回、春麗はそこまではできなかった。

 だが、できなかった場所まで自分の足で進んだ。

 電話をかけたからこそ、自分がどこで止まるのかを知った。

 次に越えるべき境界は、もう見えている。

 

 ただ、その境界の向こうには、自分が会いたいと知ったリュウがいる。

 それが春麗には、今も何より重かった。




Q:今回の断章IFについて解説して?

A:

今回の断章IFは、本編春麗が初めてケンへ電話をかけるものの、リュウに会いたいという本当の理由までは伝えられなかった話です。
前回までの春麗は、何をすればよいのか分からなかったわけではありません。

ケンへ電話する。
リュウへの伝言を預ける。
次に連絡があった時、自分へ電話してほしいと伝えてもらう。

連絡先もあります。
電話もあります。
適切な時間帯も調べられます。
英語で会話することにも問題はありません。

必要な情報も手段も、すでにすべてそろっています。
それでも受話器を取れない。
そこで今回の春麗は、まず「電話をかけるための用件」を作ろうとします。

次の試合について。
連絡方法が正しく機能するかの確認。
ケンへの挨拶。
正式回答についての補足。
リュウの旅程確認。
道場から伝言がなかったかの確認。

どの理由も、完全な嘘ではありません。

リュウとはいつかまた戦いたい。
連絡経路が本当に使えるかは確認したい。
今後伝言を預けるケンへ挨拶することにも意味はある。
リュウがいつ戻るのかも知りたい。

ただ、どれも今回電話をかけたい本当の理由ではありません。
本当の理由は一つだけです。

リュウに会いたい。

春麗はその答えを、もう知っています。
以前であれば、試合という理由の後ろへ会いたい気持ちを隠すことができました。

リュウと戦いたい。
技を確かめたい。
次の勝負をしたい。

そう言って会いに行けば、春麗自身も「会いたかったから来た」と認めずに済みました。

しかし今の春麗は、試合を口実にすることが、自分の気持ちを再び勝負の中へ逃がす行為だと理解しています。

そのため、最も自然だったはずの「次の試合について」という用件を、自分で消しています。

この場面は、本編春麗が格闘家であることをやめたという意味ではありません。

リュウと戦いたくなくなったわけでもありません。

試合を望む気持ちと、会いたい気持ちを、以前のように同じものとして扱わなくなったということです。

試合は試合。
会いたいは会いたい。

二つを分けて考えられるようになったからこそ、試合を安全な口実として使えなくなりました。

また、今回の春麗は、電話で話す台詞まで事前に作ろうとしています。
これは捜査官としての春麗らしい行動です。

仕事の電話であれば、確認事項や伝達事項を整理し、相手へ何を求めるのかを明確にできます。

用件がある。
目的がある。
必要性がある。
手順がある。

その形にできれば、春麗は迷いなく電話をかけられます。

しかし、リュウに会いたいという気持ちには、仕事上の必要性がありません。

事件ではない。
緊急でもない。
誰かに命じられたことでもない。

ただ、自分が会いたい。

春麗にとって、この「ただ自分が望んでいるから」という理由だけで行動することが非常に難しいのだと思います。

春麗は他人のためなら動けます。
仕事のためなら動けます。
事件を解決するためなら、危険な場所にも迷わず踏み込めます。

けれど、自分の私的な望みのために、相手の日常へ一歩入ることには強い抵抗があります。

今回の電話は、春麗にとって国際電話だから難しいのではありません。
自分の望みを、自分の責任で相手へ届ける電話だから難しいのです。
紙の上へ、
『リュウに会いたい』
と書くところまではできました。

しかし、紙に書くことと、電話で伝えることはまったく違います。
紙に書いた言葉は、まだ春麗の内側にあります。

何度でも消せる。
書き直せる。
誰にも聞かれない。
自分の中だけで確認できる。

けれど電話で言えば、ケンが聞きます。
ケンからリュウへ届きます。
そしてリュウが、春麗は自分に会いたがっているのだと知ります。

内面の言葉が、現実の相手へ渡る。
今回の春麗が越えられなかったのは、その境界でした。
それでも、春麗は受話器を取ります。

ここは今回の最も大きな進展です。

最後の番号を押す前なら、まだ電話を切ることができます。
何も起こらなかったことにできます。
明日に延期できます。

しかし春麗は最後の一桁を押し、実際にケンへつなげました。
昨日まで紙の上にしか存在しなかった連絡経路が、現実の相手へつながった瞬間です。
そして、ここで初めてケン本人が登場します。
今回のケンは、春麗とリュウの関係へ勝手に意味を付けない立場として描きました。

リュウから春麗について聞いている。
強い格闘家だと聞いている。

しかし、それ以上のことを春麗へ教えようとはしません。

春麗が何を聞きたがっているのか察しても、リュウの気持ちを代弁しません。
春麗が何を伝えたいのか察しても、勝手に言葉を補いません。
「伝えたい言葉があるなら、そのまま言ってくれれば、そのまま伝える」
ケンが引き受けるのは、中継者としての役割だけです。

春麗が選んだ言葉を、そのままリュウへ運ぶ。
それ以上でも、それ以下でもありません。
これは春麗にとって、かなり厳しい対応です。

ケンが気を利かせて、
「リュウに会いたいんだろう」
と言ってくれれば、春麗は肯定するだけで済みます。

ケンがリュウへ、
「春麗がおまえに会いたがっていた」
と伝えてくれれば、春麗自身が言葉にする必要はありません。

けれどケンは、春麗の代わりに答えを作りません。
春麗とリュウの間にあるものを、第三者の解釈で埋めない。
そのため、最後の一言だけは春麗自身が選ばなければなりません。

会いたい。
その言葉は喉の奥まで来ます。
しかし、声にはなりませんでした。

春麗が実際に伝えたのは、
「今日は、連絡先が正しいか確認しただけです」
という、最も安全な用件でした。

本当の理由を言えなかった。
その意味では、今回の電話は目的を完全には達成していません。

リュウへの伝言も残していない。
春麗へ電話してほしいとも言えていない。
会いたいとも言えていない。

けれど、これは単純な失敗ではありません。

春麗は初めて自分から受話器を取りました。
番号を押しました。
国際電話をつなぎました。
ケンへ名乗りました。
ケンと実際に話しました。

春麗という人間の声が、リュウへ続く道の途中まで進みました。
連絡先はもう、紙の上にあるだけの可能性ではありません。

本当にケンへつながる。
リュウへの伝言を預かってもらえる。
春麗が言葉を選べば、そのままリュウへ届けてもらえる。

そこまでを現実のものにしました。

今回、春麗は、
「言えなかった。でも、電話はした」
と二つの事実を分けています。

ここは非常に重要です。

言えなかったことだけを見れば、失敗です。
電話をかけたことだけを見れば、成功です。

しかし、どちらか一方だけが今回の春麗ではありません。

本当の理由は言えなかった。
それでも電話はかけた。

できなかったことも、できたことも、両方とも今の春麗です。
精神HPや記録板AIの分類に慣れてきた春麗が、今回は自分自身で進展を分類しています。

失敗したから全部無意味だったとはしない。
電話できたから十分だったともごまかさない。

越えられた境界と、越えられなかった境界を正確に分ける。
この自己評価ができたことも、本編春麗の成長だと思います。
また、電話をかけた後も正式回答は持てないままです。

今回の行動によって、九十九点の残り一点が埋まったわけではありません。
リュウとの関係を正式に選んだわけでもありません。
好意を本人へ告白したわけでもありません。

それでも、正式回答を持てない自分のまま、リュウへつながる相手へ連絡することはできました。

ここでも春麗は、
「正式回答を持つこと」と、
「持てないままリュウへ近づくこと」
を分けています。

全部を持てるようになるまで、何もしてはいけないわけではありません。

まだ答えを持てなくても、声を届けることはできる。
まだ関係を決められなくても、次に会いたいと思うことはできる。
まだ好意を直接渡せなくても、リュウへ続く道を歩き始めることはできる。

今回の電話は、その最初の実行でした。
しかし春麗会議室は、電話をかけた後も開きません。
これは、春麗が何も進めなかったからではありません。
一つ進んだことで、次の課題が明確になったからです。

今回の課題は、受話器を取ることだけではありませんでした。
本当の理由を、相手へ届く言葉にすること。
春麗は電話をかけたことで、自分がどこで止まるのかを初めて知りました。

受話器には触れられる。
番号も押せる。
ケンとも話せる。
英語にも困らない。

止まるのは、
「リュウに会いたい」
と、相手へ届く形で言うところです。

電話をかけなければ、この境界がどこにあるのかさえ分かりませんでした。

だから今回の春麗は、目的地には着いていませんが、次に越えるべき場所まで自分の足で進んでいます。

最後に机の上へ残された、
『会いたい時は、会いたいと伝える』
『本当の理由 リュウに会いたい』
『今日は言えなかった』
『ただし、電話はかけた』
という四つの言葉が、今回のすべてです。

望んでいること。
守ると決めたこと。
できなかったこと。
それでもできたこと。

春麗は、どの紙も引き出しへ戻しません。

言えなかった事実を隠さない。
電話した事実だけで自分を慰めすぎない。
会いたいという本当の理由も消さない。

次にもう一度電話する時、自分が何を言わなければならないのかを、見える場所へ残しています。

今回の本編春麗は、リュウに会いたいとは伝えられませんでした。
けれど、伝えられなかった場所まで自分で進みました。
電話をかける前よりも、リュウとの距離は確実に縮まっています。
ただし、その次の一歩はさらに重い。
なぜなら、今度こそ言葉がリュウへ届くからです。
春麗が会いたいと知ったリュウが、その境界の向こうで待っている。

今回の話は、本編春麗が電話をかけられた話であると同時に、電話をかけることよりも難しいものを初めて具体的に知った話でもあります。
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