また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
春麗は、鏡の前に立っていた。
目の前には、二つの自分がある。
一つは、椅子にかけられた黒いドレス。
もう一つは、手に取った青い武道服。
黒いドレスには、まだ前回の余韻が残っているように見えた。
髪を下ろし、裾を整え、足運びを確かめ、素足の踏み込みがどう見えるかまで数えた。
リュウがどこを見るか。
どこで呼吸を変えるか。
拳に何が出るか。
そこまで考えて、春麗は黒を着た。
そして、勝った。
ぎりぎりだった。
リュウは最後に巻き返してきた。
黒いドレスの揺れにも、素足の踏み込みにも、視線の誘導にも遅れなくなった。
全部をまとめて見始めた。
もう少しで捕まえられていた。
それでも、春麗が立っていた。
黒い私で勝った。
黒い私を、取り返した。
だからこそ、今日は黒ではない。
春麗は、青い武道服を広げる。
布の重さが違う。
黒いドレスのような揺れはない。
裾で視線を誘うこともない。
足を見せる一拍もない。
けれど、身体には馴染んでいる。
青い武道服は、春麗の原点だった。
踏み込む。
蹴る。
戻す。
跳ぶ。
沈む。
捻る。
余計なものがない。
動くための自分。
春麗は鏡の中で、青い武道服を身につけた自分を見る。
黒を着ない。
でも、黒を置いていくわけじゃない。
黒いドレスで得たものがある。
リュウが見ないふりをしないこと。
言葉に出さなくても、拳には出ること。
戦いは、姿を選ぶ前から始まっていること。
そして、リュウは必ず最後に巻き返してくること。
その全部を、青い武道服へ持っていく。
今日は、青い私が黒い私の影を使う。
春麗は、鏡の中の自分へ小さく笑った。
あなた、きっと待っているでしょう。
黒い私を。
前回、リュウは負けた。
何も言わなかった。
けれど拳には出ていた。
春麗が黒を整えてきたことに、ちゃんと反応していた。
そして最後には気づいた。
黒衣は、向かい合ってから始まるのではない。
春麗が黒を整えた時から始まっている。
負けたリュウは、必ずそれを持ち帰っている。
なら次は、黒を警戒する。
黒いドレスの裾。
素足の踏み込み。
下ろした髪。
見られることまで戦う春麗。
戦う前から整えられた黒衣。
リュウは、それを待つ。
だから春麗は、青を選んだ。
黒で勝ったからこそ、青で行く。
青い武道服の袖を整え、帯を締める。
髪もいつものように整える。
身体が軽い。
黒いドレスの時とは違う。
足がすぐに動く。
蹴りの戻りも速い。
踏み込みに迷いがない。
けれど、ただ原点に戻ったわけではなかった。
黒衣で得た読みを持った、青い春麗だった。
朝の修行場へ向かう。
夜明け直後の空は、前回の黒衣の夜明け前よりも少し明るい。
空気は冷たいが、光がある。
黒いドレスの時の重さはない。
青い武道服の裾が、足運びを邪魔しない。
風が袖を抜ける。
一歩ごとに、身体が前へ出る。
軽い。
でも、その軽さの中に黒い記憶が残っている。
リュウの視線。
拳に出た遅れ。
最後の巻き返し。
あと少しで届かれそうになった感触。
春麗は、それを捨てない。
青い武道服のまま、黒衣の影を連れていく。
修行場に着くと、リュウはすでに待っていた。
リュウは春麗を見る。
その目が、ほんのわずかに揺れた。
驚きではない。
けれど、完全な平静でもない。
黒を想定していた構えが、一瞬だけ空を切った。
春麗は、それを見逃さなかった。
やっぱり。
待っていたのね。
春麗は足を止め、静かに言う。
「今日は黒いドレスじゃないわ」
リュウは黙っている。
春麗は、少しだけ間を置いた。
「黒いドレスの私を待っていたの?」
リュウの目が、ほんのわずかに細くなる。
言葉に詰まったようにも見えた。
けれど、すぐに答えた。
「……どの姿でも、お前は春麗だ」
春麗は笑った。
その答えは嫌いではなかった。
むしろ、かなり好きだった。
けれど、それで許してあげるほど優しくはない。
「なら、この青い武道服の私に置いていかれないことね」
春麗は構えた。
リュウも構える。
戦いが始まる。
先に動いたのは春麗だった。
青い武道服の春麗は速い。
余計な布の揺れはない。
足の戻りが早い。
踏み込みが軽い。
蹴りが鋭い。
前回の黒いドレスのように、見せてからずらすのではない。
見せる前に入る。
リュウの拳が動く。
だが、一拍遅い。
黒いドレスを警戒していた意識が、青い春麗の速度に追いつかない。
視線誘導を待っている。
裾の揺れを警戒している。
素足の踏み込みが見える瞬間を探している。
見られることまで戦場にする春麗を想定している。
そこへ、青い春麗が踏み込む。
低い蹴り。
戻す。
次の瞬間には掌底。
リュウは受ける。
だが、重心が少し遅れる。
春麗はそのまま横へ抜けた。
黒い私を待っていた分、青い私は先に行く。
春麗はさらに踏み込む。
青い武道服の袖が風を切る。
足が土を蹴る。
蹴りが鋭くリュウの腕へ入る。
リュウは崩れない。
だが、受け続けている。
拳が遅れる。
踏み込みが半歩浅い。
春麗の戻りに置くはずの拳が、戻り終えた後を打つ。
序盤は春麗が取った。
それは黒いドレスの力ではない。
けれど、黒いドレスの影が作った一拍だった。
リュウは黒を待った。
春麗は青で先を取った。
その差が、戦いの最初に刻まれた。
春麗は攻める。
蹴り。
戻り。
掌底。
横移動。
軸足の入れ替え。
青い武道服の春麗は、見られることより動くことを選ぶ。
ただし、黒衣で得た読みは消えていない。
リュウがどこを見るか。
どこで呼吸を戻すか。
どこで、黒を待っていた意識を捨てるか。
春麗はそれを見ていた。
中盤に入る頃、リュウが変わった。
黒い影を振り払うように、構えが深くなる。
春麗の蹴りを追わない。
速度そのものを追いかけない。
戻りを見る。
踏み込みではなく、次に戻る場所へ拳を置く。
リュウの拳が、春麗の蹴りの戻りに合った。
腕に衝撃が走る。
重い。
春麗は息を整える間もなく、次へ入る。
だが、リュウはもう青い春麗を見ていた。
黒いドレスではない。
裾の揺れでもない。
素足の踏み込みでもない。
青い武道服の速度。
技術。
戻り。
踏み込み。
真正面からの春麗。
そこへ意識を合わせている。
春麗の肩口に拳が入った。
浅い。
けれど、確かに入った。
続いて、手首に触れられる。
春麗はすぐに抜く。
だが、リュウの反応は速くなっている。
春麗は胸の奥で笑った。
やっぱり来る。
黒を待っていたから遅れた。
でも、それだけで終わる男じゃない。
リュウは立て直す。
青い春麗に合わせてくる。
そこで春麗は、満足を覚えた。
リュウは、黒いドレスだけを見ている男ではない。
青い武道服の春麗にも、本気で届こうとしてくる。
だからこそ、倒しがいがある。
中盤は互角だった。
春麗の蹴りが入る。
リュウの拳が返る。
春麗が横へ抜ける。
リュウが戻りへ拳を置く。
春麗が掌底を入れる。
リュウが手首に触れる。
呼吸が重くなる。
青い武道服は軽い。
それでも、リュウの拳は重い。
春麗は、序盤に作った差を意識する。
まだ残っている。
最初の一拍。
黒を待っていたリュウから奪った、あの一拍。
それが、完全に消えたわけではない。
だから、渡さない。
リュウが補正してきても、春麗は流れを渡しきらない。
蹴りを戻す。
戻すと見せて、戻らない。
一歩だけ踏み替える。
青い武道服の軽さで、リュウの拳の外側へ出る。
そこに、黒衣の経験を混ぜる。
黒いドレスで覚えたこと。
見られている自分を、どう扱うか。
青い武道服でも、リュウは見る。
足運びを。
肩を。
呼吸を。
戻りを。
見られていることに変わりはない。
なら、青でも使える。
リュウの拳が、春麗の戻りへ置かれる。
春麗は戻ると見せて、戻らない。
一瞬、リュウの拳が空を切る。
黒ドレス戦で学んだ、見られている自分の扱い。
それを、青い武道服の足運びに混ぜる。
春麗は入った。
掌底がリュウの胸元を揺らす。
だが、リュウは下がらない。
終盤。
リュウの目が変わった。
春麗はすぐにわかった。
気づいた。
やっぱり、最後には気づくのね。
リュウは、春麗の狙いに気づき始めている。
春麗はただ青い武道服で来たのではない。
黒いドレスで勝った直後に、あえて青で来た。
リュウが黒を待つことを読んでいた。
黒ドレスを着ていないのに、黒ドレスの影を使っていた。
リュウはそこに届き始めた。
踏み込みが深くなる。
春麗の速度に対応する。
青い武道服の戻りを見る。
黒の影に引っ張られていた意識を戻す。
リュウの拳が鋭くなった。
春麗の蹴りを受けるのではなく、そこへ拳を置く。
春麗の足が戻る前に、肩口へ来る。
春麗は腕で受ける。
痛い。
次にリュウが踏み込む。
春麗は横へ抜ける。
リュウは追う。
逃げる先へ、半歩入ってくる。
春麗の呼吸が乱れた。
まずい。
リュウはもう、ほとんど追いついている。
黒を待っていた遅れも修正している。
青い春麗の速度にも対応している。
春麗が黒衣の影を使っていることにも気づいている。
ここから先は危ない。
このまま持っていかれれば、逆転される。
だが、春麗はまだ立っている。
まだ、残っている。
序盤に奪った一拍。
リュウが黒を待った、その一拍。
春麗が青で先に行った、その差。
完全には消えていない。
最後、リュウが拳を置いた。
春麗の戻りを読んでいる。
青い武道服の戻り。
蹴りの軌道。
踏み込みの癖。
黒衣の影を使った春麗の狙い。
全部、読んでいる。
リュウの拳が来る。
春麗は戻ると見せた。
リュウの拳が、戻り先へ置かれる。
だが、春麗は戻らなかった。
一瞬、青い武道服の裾が風を切る。
足が土を噛む。
黒いドレスではない。
素足を見せて誘ったわけでもない。
けれど、黒ドレス戦で学んだ「見られている自分」の扱いが、そこにあった。
リュウが見ている。
なら、見られている戻りを捨てる。
リュウの拳が半拍遅れた。
その半拍で、春麗の蹴りが先に入った。
鋭く、速く、青い武道服の春麗らしく。
リュウの身体が止まる。
拳は、あと少しのところで届かなかった。
リュウは片膝をついた。
春麗も、息が乱れていた。
肩は痛い。
腕も重い。
足にも疲労が残っている。
けれど、立っている。
勝った。
ぎりぎりで。
春麗はリュウを見下ろす。
リュウは悔しそうだった。
それでも目は折れていない。
その顔を見て、春麗の胸が満たされていく。
いい顔。
届きかけて、届かなかった顔。
次は必ず持ってくる顔。
春麗は、その顔が好きだった。
春麗は一歩近づく。
「黒いドレスの私を待っていた分、少し遅れたわね、リュウ」
リュウは黙っている。
否定しない。
春麗は続けた。
「今日は青い武道服の私だったのに」
リュウの拳が、わずかに強く握られる。
春麗は、それを見て満足する。
刺さっている。
ちゃんと、届いている。
言葉にも、拳にも。
春麗は静かに笑った。
「どの私が来るかを読むところから、もう戦いは始まっているのよ」
それは、前回の黒衣の続きだった。
黒衣は、戦う前から始まっていた。
けれど、それは黒いドレスの時だけではない。
青い武道服で来ることも、春麗の選択だ。
その選択を、リュウがどう待つか。
どう警戒するか。
何を予想するか。
そこから、もう戦いは始まっている。
黒を着ていなくても、黒はここに残っていた。
リュウがそれを待った時点で、春麗は一歩先にいた。
今日は、青い武道服で黒衣の影を使った勝利だった。
春麗は、朝の光の中で青い袖を揺らす。
黒いドレスではない。
けれど、黒い自分の経験は、確かに青い春麗の中にあった。
春麗はリュウを見下ろし、もう一度だけ笑う。
「次は、何色の私を待つのかしらね」
リュウは答えなかった。
だが、その沈黙もまた、春麗には十分だった。
次も、きっと来る。
青でも。
黒でも。
そのどちらでもない待ち方でも。
リュウはまた、春麗に届こうとしてくる。
だから春麗は、また先へ行く。
最後に立つために。