また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
記録板AIは、白い外部メタ領域に表示を出した。
『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本編確定ログではありません』
『対象:黒執着春麗』
『掲示板上の名義:匿名希望』
『プラス方向の主人公補正:有効』
『本編春麗・断章IF側』
『マイナス方向の主人公補正:継続中』
『検証項目』
『黒執着春麗が、戦闘、黒い戦闘服、勝利、勝者要求権を使用せず、リュウと私的情報を交換可能か』
『遭遇条件:偶然』
『因果補正:あり』
仕事を終えた時には、外はすでに暗くなり始めていた。
春麗は建物の正面玄関を出ると、小さく息を吐いた。
濃紺のジャケットに同色の膝丈スカート。淡い色のブラウスと低い踵の靴。髪は仕事中に崩れないよう、いつもより控えめにまとめている。
黒と金の戦闘服ではない。
試合のために時間をかけて整えた姿でもない。化粧も仕事向けのもので、視線を誘導するためでも、距離を支配するためでもない。
ただ、国際捜査官として一日働いた後の春麗だった。
「……疲れた」
誰に聞かせるでもなく呟く。
今日は現場へ出た時間より、報告書と調整業務の方が長かった。
関係部署への連絡。資料の確認。証言の整理。
動く相手を追うより、動かない紙を相手にする方が、時々疲れる。
夕食をどうするか。
帰宅してから作るか。途中で何か買うか。どこかへ入るか。
頭の中でいくつかの選択肢を並べた、その時だった。
「春麗?」
足が止まった。
聞き間違えるはずがない。身体が声のした方へ先に反応する。
白い道着。赤い鉢巻。肩には使い込まれた荷物。
街灯の下に、リュウが立っていた。
「……リュウ?」
「ああ」
リュウは春麗の顔を見た。
次に仕事着へ視線を落とし、もう一度顔へ戻る。
「何?」
「春麗だと思った」
「誰だと思ったのよ。私は春麗よ」
「でも、黒くない」
春麗の目が少し細くなった。
「私は普段から、あの黒い戦闘服で生活しているわけではないのよ」
「そうなのか」
「そうなのか? 当然でしょう!」
リュウは改めて春麗の仕事着を見る。
「仕事の帰りか」
「ええ」
「その服で仕事をしているのか」
「そうよ」
「動きにくくないか」
「試合をする服ではないもの」
「でも、春麗の仕事は悪い奴を捕まえることだろう」
「捜査官の仕事が毎日、悪人との格闘だけで終わると思っているの?」
「違うのか」
「違うわよ! 報告書も書くし、関係機関との調整もする。聞き込みも監視も資料の分析もする!」
「そうか」
「そうよ」
リュウは少し考えた。
「では、あの黒い服は捜査官としてはどうなんだ?」
春麗は完全に停止した。
「……何が?」
「毎回、俺と戦う時はあの服で来る」
「試合だからよ」
「捜査では着ないのか」
「着ない!」
「潜入には」
「使わない!」
「目立つからか」
「そこまで分かっていて、なぜ聞いたのよ!」
リュウは、春麗の仕事着をもう一度見た。
「似合っている」
今度は春麗の思考が止まった。
「……何が?」
「その服」
「仕事着が?」
「ああ」
「……そう」
春麗は視線を少しだけ横へ逸らした。
準備していない。
今日はリュウに会う予定などなかった。髪も、化粧も、服も、リュウへどう見られるかを考えて選んだものではない。
それなのに、似合っていると言われた。
「いつもの黒い服とは、ずいぶん違う」
「どちらが似合っている?」
反射的に聞いてしまった。
春麗は内心で眉を寄せる。
今の質問は予定していない。
答え方を誘導する言葉も、間も、視線も用意していない。
リュウは少し考えた。
「どちらも」
「……どちらも?」
「ああ」
「それは回答を避けていない?」
「違う」
「では?」
「どちらも春麗だ」
何も言えなくなった。
黒い戦闘服。
仕事着。
どちらが優れているかではない。
どちらも春麗。
ただそれだけの短い言葉で、準備していなかった場所を正確に突かれた。
「……あなた、時々何も考えずに非常に困ることを言うわね」
「考えた」
「考えた結果なの?」
「ああ」
「それはもっと困るわ」
「春麗は今から帰るのか」
今度はリュウが尋ねた。
「そのつもりだった」
「夕食は」
「まだ」
「俺もだ」
春麗はリュウを見る。
「……そう」
「ああ」
「それで?」
「近くに食べられる店はあるか」
胸の奥で何かが大きく跳ねた。
「あるけれど」
「教えてくれ」
「案内だけ?」
「春麗も、まだ食べていないのだろう」
「ええ」
「なら、一緒に食べるか」
簡単だった。
あまりにも簡単だった。
本編春麗は、リュウへ会いたいと伝えるまでに何段階も必要とした。
会えなくなり、都合のよい遭遇が起きなくなった。
一週間近く、公的な権限を使わずに街を探した。連絡先を知らないと気づき、ケンへ電話をかけた。
一度目は本当の理由を伝えられなかった。
二度目になってようやく、リュウに会いたいと伝えた。
リュウは三日かけて戻った。
日時と場所を決め、約束として会った。
そこで初めて食事をして、互いの仕事や普段の生活へ触れた。
それなのに。
黒執着春麗は仕事を終え、建物を出ただけだった。
そこにリュウがいた。
偶然、二人とも夕食を食べていない。
近くの店を聞かれ、そのまま一緒に食べるかと誘われる。
何の準備も必要なかった。
黒も。
試合も。
勝利も。
勝者要求権も。
使っていない。
これは主人公補正。
しかも、明確なプラス方向の補正だった。
「春麗?」
リュウが黙った春麗を見る。
「行かないのか」
「……行く」
「そうか」
「行くわ」
春麗は少しだけ強く言い直した。
「一緒に食べましょう」
春麗が選んだのは、仕事帰りにも時々立ち寄る店だった。
高級ではない。騒がしすぎもしない。奥には二人で座れる卓がある。
春麗が扉を開けると、店員が軽く会釈した。
「来たことがあるのか」
「時々ね」
「仕事の帰りに?」
「ええ」
「一人で?」
「……一人の時もある」
「そうか」
リュウは何の含みもなく向かいの席へ座った。
春麗も腰を下ろす。
机を挟んで、リュウがいる。
戦うためではない。
試合前の食事でもない。
勝利後の要求でもない。
仕事帰りに偶然会って、一緒に夕食を取る。
黒執着春麗にとって初めての状況だった。
注文を終えると、会話が一度途切れた。
いつもなら先に用意している。
何を言うか。
どこで相手を見るか。
どの言葉に、どの程度の含みを持たせるか。
どこまで近づくか。
すべて試合前から設計する。
だが、今日は何もない。
仕事の疲れが残っている。
化粧も髪も仕事向け。
言葉も考えていない。
春麗は机の上で指を軽く組んだ。
「仕事は毎日、同じ時間に終わるのか」
先に聞いたのはリュウだった。
「いいえ」
春麗は少し驚いた。
「事件や任務によるわ」
「今日は遅かったのか」
「普通より少し遅いくらい」
「いつも、あの建物にいるのか」
「そこは詳しく答えられない」
「秘密か」
「職務上の情報よ」
「そうか」
リュウはそれ以上追及しなかった。
「捜査官の仕事に興味があるの?」
「春麗が何をしているのか、今まで知らなかった」
胸がまた大きく動いた。
知りたい。
リュウが、自分の仕事を知ろうとしている。
「麻薬犯罪を扱うことが多い。でも、一人で悪人を追い回して蹴り倒して終わりではない」
「そうなのか」
「だから、さっきも言ったでしょう」
春麗は指を一つ立てた。
「情報を集める。人と話す。記録を読む。他の国や機関と連絡を取る。必要なら現場へ出るし、逮捕のために動くこともある」
「そうか」
「それから、報告書を書く」
「それが一番大変そうだな」
春麗は少し目を見開いた。
「分かるの?」
「春麗が報告書と言った時だけ、嫌そうな顔をした」
思わず口元を押さえた。
「……見ていたのね」
「ああ」
「試合中だけではなく?」
「今は試合ではない」
「そうね」
その言葉が、不思議なくらいうれしかった。
今は試合ではない。
だからリュウは、春麗の構えではなく、仕事の話をする時の顔を見ている。
料理が運ばれてきた。
リュウは迷いなく食べ始め、春麗も箸を取った。
「それだけ食べて、普段の食費はどうしているの?」
リュウの箸が止まった。
「食費?」
「あなた、決まった仕事をしているわけではないでしょう」
「ああ」
「旅をしながら修行している」
「ああ」
「宿代、食事代、移動費、道着の修繕。どうしているのか前から少し気になっていた」
「ケンが管理している」
「ケン?」
「大会で得た金や、俺が預けた金を必要な時に出してくれる」
春麗も手を止めた。
「あなた、自分のお金をケンに管理させているの?」
「ああ」
「なぜ?」
「俺が持っていると使わない」
「使わないなら減らないでしょう」
「持っていることを忘れることがある」
「忘れる?」
「ああ」
「お金を?」
「ああ」
「どこへ置いたか?」
「それもある」
「それも?」
「必要だということを忘れる」
春麗は数秒、リュウを見つめた。
「ケンの判断は非常に正しいわね」
「ああ」
「あなた一人にすべて任せてはいけない」
「ああ」
「そこは否定しないのね」
「ケンにも同じことを言われた」
「旅先では毎回、ケンからお金を受け取るの?」
「必要な時は」
「あとは?」
「道場を手伝う」
「道場?」
「稽古をつけたり、掃除をしたり、壊れたところを直したりする」
「それで泊めてもらう?」
「ああ」
「食事も?」
「ああ」
「他には?」
「荷物を運ぶ。畑を手伝う。山道の案内をする。警備を頼まれることもある」
「……何でもするのね」
「できることなら」
「宿が見つからない時は?」
「外で寝る」
「平然と言わないで」
「慣れている」
「慣れていても、よいことではないでしょう」
「雨が降らなければ」
「雨の問題だけではないでしょ!」
「食事は?」
「食べられる時に食べる」
「だから一度にそれだけ食べるのね」
「ああ」
「身体を作るための栄養管理は?」
「食べる」
「管理になっていない!」
リュウは少しだけ首を傾げた。
「春麗は管理しているのか」
「当然でしょう」
「毎日?」
「任務中は多少崩れるけれど、基本的には食事も睡眠も訓練時間も考えているわ」
「仕事があるのに修行もするのか」
「するわよ」
「いつ」
「朝か、仕事の後」
「今日も?」
春麗は少し黙った。
「今日は帰ってから軽く身体を動かすつもりだった」
「食事の後に?」
「時間を空けてから」
「疲れているだろう」
「あなたに言われたくない」
「俺は今日はそれほど疲れていない」
「何をしていたの?」
「近くの道場で子供たちの稽古を見ていた」
「それで、この辺りにいたの?」
「ああ」
理由は成立している。
道場を手伝ったリュウ。
仕事を終えた春麗。
同じ時間。
同じ通り。
それだけなら偶然だ。
だが黒執着春麗には分かる。
これは、都合のよい偶然。
今、本編春麗からは取り上げられているものだった。
「春麗は、仕事がない日は何をしている」
今度はリュウが尋ねた。
「私?」
「ああ」
「訓練」
「それ以外」
「資料を読む」
「仕事の資料か」
「仕事ではないものも読む」
「何を」
「歴史や事件に関する本」
「仕事に近いな」
「……そうね」
「他には」
「買い物」
「何を買う」
「生活に必要なものよ」
「黒い服も?」
「そこへ戻るの?」
「毎回、少し違って見える」
春麗は目を見開いた。
「分かるの?」
「ああ」
「どこが?」
「髪と、目の周り。口の色。それから最初に立つ距離」
完全に黙った。
見ている。
リュウは気づいている。
黒い戦闘服そのものだけではない。
髪。
化粧。
距離。
戦闘前の設計まで。
言葉にはしていなかっただけで、見ていた。
「……そこまで分かっていて、今まで何も言わなかったの?」
「春麗が戦うためにしていると思った」
「そうよ」
「なら、言う必要はない」
「気にならなかった?」
「気にはなった」
「どんなふうに?」
「今日は何をしてくるのかと」
春麗は思わず口元を押さえた。
笑いそうになった。
リュウは何も分かっていなかったわけではない。
毎回、黒い戦闘服で現れる春麗を見て、今日は何をしてくるのかと考えていた。
春麗が試合前から始めていた戦術を、少なくとも戦いの一部として受け取っていた。
「それは、警戒していたということ?」
「ああ」
「私を?」
「ああ」
胸の奥が熱くなる。
黒を使った。
見せ方を使った。
言葉を使った。
距離を使った。
そのすべてがリュウへ届いていた。
「でも」
リュウは春麗の仕事着へ、もう一度視線を向けた。
「今日は何もしてこないのか」
「何も?」
「戦わないのか」
「仕事帰りよ!」
「そうか」
「この服であなたに挑んだら、明日の仕事に着ていけなくなるでしょう!」
「では、黒い服は汚れてもよいのか」
「よくはないわよ!」
「毎回、地面に転がることもある」
「転がしているのは主にあなたでしょう!」
二人の食事は、いつの間にかかなり進んでいた。
春麗は自分でも驚くほど話していた。
話せない事件の内容は避ける。職務上の秘密も守る。
それでも。
普段、何時頃に仕事を始めるのか。
仕事が長引くこと。
報告書が多いこと。
休日にも訓練すること。
料理をする日と、しない日があること。
仕事着を自分で選んでいること。
黒い戦闘服を捜査には使用していないこと。
そうした、戦闘とは関係のない自分をリュウへ渡していた。
リュウからも受け取った。
ケンが金銭を管理していること。
大会の賞金を本人がほとんど意識していないこと。
旅先では道場などへ世話になり、その代わり仕事を手伝うこと。
宿がなければ外で眠ること。
道着は自分で繕うこと。
泊めてもらった場所や水場で洗濯をすること。
朝は場所が変わっても身体を動かすこと。
食事は、ある時にしっかり食べること。
今まで知らなかったリュウの生活。
試合の前後では必要のなかった情報。
勝利するためには知らなくてもよかったこと。
しかし、知るほど胸が妙に落ち着かなくなる。
「……あなた、普段から本当にそのような生活をしているのね」
「ああ」
「家は?」
「決まった家はない」
「帰る場所は?」
「今は特にない」
春麗は少しだけ視線を落とした。
本編春麗が会えなくなった理由。
リュウには決まった生活圏がない。
待っていれば、いつもの場所へ来るわけではない。
主人公補正がなければ、偶然会うことすら難しい。
黒執着春麗は今、その困難にあっていない。
プラスの補正によってリュウは仕事場の近くにいて、向こうから夕食へ誘った。
「春麗は帰る家があるのか」
「あるわ」
「一人で?」
「……ええ」
「そうか」
「何?」
「いや。春麗も仕事が終われば、一人になるのだと思った」
春麗の指が止まった。
「……そうね」
「寂しいのか」
「突然何を聞くの?」
「嫌なら答えなくていい」
春麗はリュウを見る。
試合なら、答えを設計できる。
どの程度弱さを見せるか。
どこで相手の意識を引くか。
あらかじめ決められる。
だが今は、仕事帰り。
何の準備もない。
「時々は」
「そうか」
「それだけ?」
「俺も一人の時はある」
「あなたはほとんど一人でしょう」
「ああ」
「寂しくないの?」
リュウは少し考えた。
「誰かと会った後は、一人だと分かる」
春麗は息を止めた。
「……今日の後も?」
「ああ」
「私と食事をした後も?」
「ああ」
何でもないことのように答える。
だが、黒執着春麗にとっては何でもない言葉ではなかった。
今日、自分と会ったことがリュウの中へ残る。
一人へ戻った時、春麗と食事をした後だと分かる。
「……そう」
春麗は少しだけ姿勢を正した。
「では、覚えておきなさい」
「何を」
「今日、私と食事をしたこと」
「ああ」
「仕事帰りの私を見たこと」
「ああ」
「黒い戦闘服だけが私ではないこと」
「ああ」
「それから、捜査官が毎日あの服で犯罪者を追っているわけではないこと」
「それは分かった」
会計の時、春麗が伝票へ手を伸ばす。
同時にリュウも手を出した。
「私が払うわ」
「自分の分は持っている」
「本当に?」
「ああ」
「ケンから?」
「ああ」
リュウは使い込まれた小さな財布を出した。
春麗は思わず中を確認しそうになった。
「何だ」
「いいえ。本当に財布を持っているのだと思って」
「持っている」
「なくしていない?」
「今日は」
「今日は?」
「今はある」
「明日も持っていなさい!」
二人はそれぞれ自分の分を払った。
店を出る。
夜の空気が少し冷たい。
「駅は?」
「あちら」
「途中まで行く」
「送るつもり?」
「同じ方向だ」
「本当に?」
「道場へ戻る」
「……そう」
春麗はリュウと並んで歩き始めた。
肩が触れるほどではない。
試合前に計算して決める距離でもない。
ただ二人が自然に歩く間隔。
「今日は、春麗のことを少し知った」
リュウが言った。
春麗は前を向いたまま答える。
「私も、あなたのことを少し知ったわ」
「そうか」
「ええ」
「仕事の話は、まだ分からないことが多い」
「秘密もあるもの」
「話せることだけでいい」
春麗は足を止めそうになった。
次があるような言い方だった。
今日だけではなく、また話せることを話せばよい。
「あなたの生活も、まだ分からないことが多いわ」
「聞けばいい」
また簡単に言う。
聞けばいい。
会えたなら、話せばいい。
黒も。
勝利も。
勝者要求権も必要ない。
「……では、次に会った時に」
「ああ」
「今度は外で寝る時の基準を詳しく聞くわ」
「基準?」
「安全、天候、食事、体調。全部」
「聞き込みか」
「違うわよ!」
少し間を置いて、春麗は付け足した。
「……少し、職業病はあるかもしれない」
リュウが小さく笑った。
「仕事着の春麗も春麗だな」
「どういう意味?」
「質問が多い」
「黒い戦闘服の時は?」
「言葉が多い」
「結局、どちらも多いってことじゃない!」
分かれ道へ着いた。
「俺はこちらだ」
「私はあちら」
「ああ」
「リュウ」
「何だ」
「今日、偶然会ったことをどう思う?」
リュウは少しだけ空を見た。
「会えてよかった」
春麗は何も言えなくなった。
「春麗は?」
質問が返る。
黒執着春麗は、本編春麗を思った。
会いたいと言うまで何話も必要とした春麗。
自分から電話をかけ、一度失敗しても、もう一度かけた春麗。
リュウが三日かけて戻るのを待った春麗。
約束した場所へ早く着きすぎた春麗。
物語ではなく、自分の言葉でリュウを呼んだ春麗。
それに対して自分は、仕事場を出ただけだった。
そこでリュウに会った。
食事へ誘われた。
仕事の話をした。
生活を聞いた。
次に会った時も、続きを聞けばいいと言われた。
簡単すぎる。
不公平だ。
本編春麗を掲示板でいつも丁寧に刺している自分でも、この件だけは同じ調子で自分の成果として並べることはできない。
「……私も、会えてよかった」
それでも春麗は答えた。
リュウは短く頷いた。
「では、またな」
「ええ」
リュウが一歩離れる。
「リュウ」
春麗はもう一度呼んだ。
振り返る。
「次に会った時、黒い戦闘服でも仕事着でも、私なのでしょう?」
「ああ」
「なら忘れないで」
「忘れない」
今度こそ、リュウは道場の方角へ歩いていった。
春麗は、その背中が見えなくなるまで立っていた。
『接触終了』
『記録板AI:接続』
夜道へ白い表示が浮かんだ。
春麗は歩き出さず、それを見上げる。
『検証結果』
『黒執着春麗』
『リュウとの私的情報交換:初成立』
『使用要素』
『黒い戦闘服:なし』
『試合:なし』
『勝利:なし』
『勝者要求権:なし』
『事前戦術:なし』
『接触契機』
『プラス方向の主人公補正による偶然遭遇:成立』
「分かっているわよ」
表示が続いた。
『本編春麗』
『同等段階への到達過程』
『主人公補正:マイナス』
『自発的捜索:約一週間』
『ケンへの連絡:二回』
『リュウの帰還:三日』
『事前約束:あり』
『黒執着春麗』
『同等段階への到達過程』
『仕事場から退出』
『リュウと遭遇』
『即日夕食』
「並べないで」
『比較上、必要です』
「私が本編春麗を刺す時のように、丁寧に並べないで」
『事実です』
「……ええ」
黒執着春麗は否定しなかった。
「今回は私が簡単だった」
『はい』
「本編春麗が非常に苦労して得たものを、私は偶然で得た」
『はい』
「仕事帰りに建物を出ただけ」
『はい』
「リュウの方から食事へ誘った」
『はい』
「私の仕事を、リュウの方から聞いた」
『はい』
「次に会った時も聞けばいいと言った」
『はい』
黒執着春麗は小さく息を吐いた。
「……ずるいわね」
『拳の残響と同様ですか』
「違う。今回ずるいのは、私の側」
『本編春麗へ、掲示板上で報告しますか』
「しない」
『理由』
「これを自分の行動力による成果のように書くことはできない」
『はい』
「本編春麗は自分で電話をかけた」
『はい』
「私は電話もしていない」
『はい』
「本編春麗は、会いたいと自分から伝えた」
『はい』
「私は偶然会った後、誘われただけ」
『はい』
「同じ結果に見えても、過程が違う」
『はい』
「だから、この件で本編春麗を刺す資格はない」
『発言信頼度:非常に高』
「……でも」
『はい』
春麗は自分の胸へ片手を当てた。
「楽しかった」
『はい』
「すごく、楽しかった」
『黒執着春麗:高揚・最大』
「最大にしなくていい」
『リュウの私的情報:複数取得』
『金銭管理:ケン』
『旅先での労働:道場手伝い、荷運び、農作業、護衛等』
『宿泊:道場、寺院、宿、屋外』
『日常習慣:早朝修行、道着修繕、洗濯、大食』
「最後はすでに知っていた」
『詳細確認:初』
「……ええ」
『リュウ側も、黒執着春麗の私的情報を複数取得』
『職業:国際捜査官』
『主な業務:情報収集、関係機関調整、聞き込み、監視、現場行動、報告書』
『生活:一人暮らし、不規則勤務、休日訓練、自炊、仕事帰りの外食』
『追加認識:黒い戦闘服を捜査には使用しない』
「最後の項目、本当に必要?」
『リュウの疑問:解消済み』
「そもそも、なぜ私があれで仕事をしている可能性を考えたのよ」
『毎回、黒い戦闘服で出現するため』
春麗は額へ手を当てた。
「リュウの中で、私の通常服があれになっていた?」
『可能性:あり』
「……今日、会えてよかった」
『主人公補正による遭遇を、成果として扱いますか』
春麗は少し考えた。
「遭遇そのものは、私の成果ではない」
『はい』
「リュウが同じ時間に同じ場所へいたことも補正」
『はい』
「食事へ誘ったことも?」
『状況形成上、補正の影響あり』
「そう」
『ただし』
『食事中の会話:黒執着春麗本人の選択』
『職務内容を可能な範囲で説明』
『リュウの生活へ直接質問』
『自身の孤独について一部回答』
『黒、試合、勝利へ話題を回収せず、私生活上の会話を継続』
『以上は、主人公補正による自動処理ではありません』
春麗は表示を見た。
「遭遇は与えられた」
『はい』
「でも、その席で何を話したかは私が選んだ」
『はい』
「……では、両方記録して」
『両方、記録済み』
「都合のよい部分だけを自分の成果にするつもりはない」
『はい』
「本編春麗より簡単だったことも」
『記録済み』
「でも、初めてリュウと試合以外の話ができたことも」
『記録済み』
「私がすごく舞い上がっていることは」
『記録済み』
「そこは消して」
『不可』
「記録板AI」
『はい』
「今日の私は掲示板へ出さないで」
『関係者限定記録:設定』
「匿名希望として本編春麗を刺す時に、今日のことを持ち出さない」
『はい』
「少なくとも私は、自分の方が早くできたとは言わない」
『発言信頼度:非常に高』
春麗は再び歩き出した。
仕事場から家へ帰る、いつもと同じ夜の街。
だが今日は、知っていることが増えた。
リュウの金銭はケンが管理している。
旅先では道場を手伝う。
宿がなければ外で寝る。
道着は自分で繕う。
誰かと会った後、一人へ戻ったことが分かる。
そして。
仕事着の春麗も、黒い戦闘服の春麗も、どちらも春麗だとリュウは言った。
準備していなかった。
勝っていない。
要求していない。
それでも、リュウは春麗を見た。
「……主人公補正。便利ね」
『はい』
「本編春麗が怒る理由も分かる」
『はい』
「これほど簡単に会えたら、自分の行動で会えたのか分からなくなる」
『はい』
「でも、今日の私は会った後に逃げなかった」
『はい』
「黒へ着替えなかった」
『はい』
「試合にしなかった」
『はい』
「勝とうとしなかった」
『はい』
「ただ夕食を食べた」
『はい』
「話した」
『はい』
「聞いた」
『はい』
「次に会ったら、続きを聞いていいと言われた」
『はい』
春麗の歩調が、わずかに軽くなった。
「……次に会ったら、ね」
『黒執着春麗:高揚・再上昇』
「表示しないで」
『最終記録』
『プラス方向の主人公補正:発動』
『黒執着春麗、仕事帰りにリュウと偶然遭遇』
『私的夕食:成立』
『私的情報交換:双方・初成立』
『会話成立理由:黒執着春麗本人の選択』
『本編春麗との比較』
『黒執着春麗、自身の到達が容易であったことを認識』
『本編春麗への優越主張:なし』
『掲示板上での刺突材料としての使用:禁止』
『黒執着春麗、私的情報交換への高揚:最大』
『今後の課題』
『プラス方向の主人公補正がない状態でも、試合を使わずリュウへ会う行動を選べるか』
春麗は最後の項目を見た。
「……今日くらい、課題で終わらせなくてもよいのではないかしら」
『ディレクターズカットIFは検証領域です』
「分かっているわ。でも、今日の結果は検証だけではない」
『はい』
「私にとって、初めての夕食だった」
『はい』
「初めて、仕事をしている私の姿をリュウに見せた」
『はい』
「初めて、リュウが普段どう生きているかを聞いた」
『はい』
「だから、成果としても保存して」
『保存済み』
「主人公補正で始まったとしても、全部が偽物ではない」
『はい』
「……それならいいわ」
春麗は自宅へ続く道を、少し早い足取りで歩いた。
匿名希望として、本編春麗を刺すことはできる。
だが、今日のことだけは刺すための言葉へ変えたくなかった。
仕事帰りの自分を、リュウが見た。
夕食へ誘った。
互いの生活を話した。
それは勝利ではない。
要求でもない。
戦術でもない。
それでも。
黒執着春麗にとって、確かに欲しかった時間だった。
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
本編春麗は現在、断章IFの中で「都合よくリュウと出会える」という主人公補正を失っています。
以前なら、いつもの場所へ行けば会えた。
物語上必要になれば、リュウが現れた。
しかし正式回答編では、その補正がむしろマイナス方向へ働き、本編春麗は待っているだけではリュウに会えなくなりました。
連絡先も知らない。
どこにいるかも分からない。
公的な捜査権限も使えない。
一週間近く探しても会えず、ケンへ電話をかけ、一度目は本当の伝言を残せず、二度目にようやく「リュウに会いたい」と伝えました。
本編春麗にとっては、非常に大きな到達です。
一方、黒執着春麗がいるのはディレクターズカットIFです。
こちらでは、プラス方向の主人公補正が普通に働きます。
仕事を終えて建物から出る。
そこに、偶然リュウがいる。
二人とも夕食がまだなので、一緒に店へ入る。
それだけで、本編春麗が何話もかけて到達した私的な情報交換へ進めてしまいました。
黒執着春麗自身も、その差を理解しています。
彼女は普段、匿名希望として本編春麗へ、
「電話一本に何話かけたのですか」
「最大の障害は本編春麗本人ではありませんか」
と、非常に丁寧に刺しています。
しかし今回だけは、自分の方が先に、簡単に到達できたとは言えません。
本編春麗は、自分で探した。
自分で電話をかけた。
一度失敗した後、もう一度かけた。
自分から会いたいと伝えた。
黒執着春麗は、仕事場から出たところにリュウがいただけです。
同じように夕食を取り、私生活の情報を交換したとしても、そこへ至る過程はまったく違います。
そのため黒執着春麗は、この出来事を本編春麗への刺突材料にはしないと決めています。
この点は、彼女なりの公平さです。
本編春麗へ厳しいことを言うからこそ、自分が主人公補正によって簡単に得たものまで、自分の行動力の成果として扱うことはできません。
ただし、今回のすべてが主人公補正による自動達成だったわけではありません。
リュウと遭遇できたこと。
リュウの方から夕食へ誘ったこと。
その入口は主人公補正によって与えられました。
しかし、その席で黒へ逃げなかったことは、黒執着春麗自身の選択です。
試合へ持ち込まなかった。
勝とうとしなかった。
戦術的な言葉や視線を用意せず、仕事帰りの自分のまま座った。
そして、自分の仕事を話し、リュウの生活について聞いた。
入口は与えられた。
その後の会話を成立させたのは本人です。
今回は、そこを分けて描いています。
黒執着春麗にとって、リュウと会うこと自体はこれまでにもありました。
ただし、その多くは黒い戦闘服を着て、試合のために会う場面です。
髪を整える。
化粧をする。
距離を設計する。
何を言うかを決める。
相手にどう見られるかまで含めて戦術を作る。
彼女にとって、リュウとの接触は試合前から始まっています。
ところが今回は仕事帰りです。
濃紺の仕事着。
職務用の化粧。
仕事中に崩れない髪型。
リュウへ見せるために準備した姿ではありません。
その状態でリュウから、
「似合っている」
「黒い服も仕事着も、どちらも春麗だ」
と言われました。
黒執着春麗にとって、これはかなり大きな言葉です。
彼女は、自分の女性としての見せ方を戦闘へ積極的に利用します。
黒い戦闘服も、化粧も、髪も、彼女が選んだ自分です。
それを否定する必要はありません。
しかしリュウが見たのは、それだけではありませんでした。
戦闘用に作り込んだ自分も春麗。
仕事で疲れている自分も春麗。
どちらかが本物で、どちらかが偽物なのではない。
リュウは、そのように受け取っています。
黒執着春麗は「どちらが似合うか」と比較させようとしましたが、リュウは「どちらも春麗だ」と返しました。
本人にとっては非常に困る回答ですが、同時に、欲しかった回答でもあると思います。
また、今回はリュウが黒い戦闘服について、
「あれは捜査官としてはどうなんだ」
と突っ込んでいます。
リュウの中では、黒執着春麗は毎回あの姿で現れます。
そのため、普段からあの服で仕事をしている可能性まで、多少は考えていたようです。
もちろん春麗は全力で否定します。
潜入捜査には目立ちすぎますし、毎日あの姿で報告書を書いているわけでもありません。
このやり取りはコメディですが、リュウが黒い姿以外の春麗を初めて知る入口にもなっています。
食事中には、互いの生活情報を交換しました。
春麗は国際捜査官として、毎日犯罪者と格闘しているだけではありません。
情報収集。
聞き込み。
監視。
他機関との調整。
資料の分析。
そして、本人がかなり嫌そうな顔をする報告書。
リュウは、その表情まで見ています。
一方、春麗はリュウの金銭事情を初めて詳しく知りました。
大会などで得た金は、主にケンが管理している。
旅先では道場を手伝う。
稽古をつける。
掃除をする。
壊れた場所を直す。
荷物を運ぶ。
畑仕事や護衛を引き受けることもある。
泊まる場所がなければ、平然と外で寝る。
金銭管理をケンへ任せている理由も、リュウらしいものでした。
持っていても使わない。
どこへ置いたか忘れる。
必要だということまで忘れる。
春麗が「ケンの判断は非常に正しい」と即座に納得するのも当然です。
こうした情報は、試合で勝つためには必要ありません。
波動拳を避ける方法でも、昇龍拳を攻略するための情報でもない。
しかし、リュウという人間を知るためには必要です。
黒執着春麗はこれまで、格闘家としてのリュウを深く見てきました。
今回初めて、その拳が使われていない時間を知り始めています。
リュウがどこで寝るのか。
どうやって食事を得るのか。
誰がお金を管理しているのか。
誰かと会った後、一人に戻った時に何を感じるのか。
それらを知ったため、黒執着春麗はかなり舞い上がっています。
本人は記録板AIへ高揚度を表示するなと抗議していますが、最大判定でよいと思います。
特に、
「誰かと会った後は、一人だと分かる」
「今日の後も?」
「ああ」
という会話は、黒執着春麗に強く残ったはずです。
今日の夕食が終わっても、リュウの中には春麗と会った後だという感覚が残る。
試合の勝敗ではなく、一緒に食事をした時間がリュウの中へ残る。
今回の黒執着春麗は、何も勝ち取っていません。
それでも、リュウの中へ自分との時間を残せました。
そして別れ際には、
「次に会った時」
という言葉も自然に出ています。
本編春麗の場合、「次に会う」は大きな約束でした。
黒執着春麗の場合、今回はプラスの主人公補正があるため、また都合よく会える可能性があります。
だからこそ、次の課題も残しています。
主人公補正がなくても、自分から会うために動けるのか。
試合を理由にしなくても、リュウへ会いたいと伝えられるのか。
今回の遭遇は簡単でした。
しかし、その簡単な機会の中で、黒執着春麗は自分がこれまで使ってこなかった方法を一度経験しました。
何も準備していない自分のまま会う。
勝負をしない。
相手から与えられた時間を、そのまま受け取る。
彼女自身のメインエピソードとしても、重要な最初の一歩になったと思います。
本編春麗の正式回答編では、主人公補正がマイナスに働いた本編春麗が、自分の行動でリュウとの日常の入口を作りました。
今回の黒執着春麗は、主人公補正によって入口を与えられました。
その対照を描くため、本編春麗の断章IFが一区切りした場所へ挿入する構成にしています。
本編春麗の苦労を無効にする回ではありません。
むしろ、黒執着春麗自身に、
「本編春麗が得たものは、結果だけではなく過程にも価値があった」
と理解させる回です。
同時に、主人公補正で始まった出来事でも、その後に交わした言葉まで偽物になるわけではありません。
黒執着春麗が仕事を話したこと。
リュウの生活を聞いたこと。
孤独について少しだけ答えたこと。
次に会った時も続きを聞こうとしたこと。
それらは彼女自身が選んだ行動です。
今回のエピソードは、
「会えた理由は主人公補正だった」
という後ろめたさと、
「それでも初めてリュウと私生活を交換できた」
という大きな喜びを、どちらも消さずに残す回になりました。
匿名希望として本編春麗を刺す時には使えない、使いたくない記憶。
それでも黒執着春麗本人にとっては、確かに欲しかった時間です。
仕事着の春麗も。
黒い戦闘服の春麗も。
どちらも春麗だと、リュウが知った夜でした。