また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートの修行編後日談より先の未来時空のエピソードです。
記録板AIは、外部検証領域に一件の未来ログを表示した。
『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本編確定ログではありません』
『本ログは、第1話敗北ルート修行編完走後、春麗とリュウが相互好意を確認済みの未来時空です』
『以下、検証を開始します』
翌朝。
春麗は、いつもの武道服を畳んでいた。
長い間着続けてきた、青い武道服。
リュウと何度も戦い、何度も負け、ようやく勝ち、波動拳と昇龍拳への恐怖を克服する修行でも着続けてきた服だった。
昨日も、これを着ていた。
そして、リュウに勝利した。
春麗は袖を折りながら、リュウの言葉を思い出した。
好きな相手で、戦いたい相手で、目の前に来る格闘家だった。
その全部を見た。
「……全部、ね」
口にすると、昨日と同じように少しだけ胸が熱くなる。
勝者としてリュウを膝へ乗せ、額と右手へ敗者の印まで刻んだ後で言われた。
かなり効いた。
今思い返しても効く。
だが。
修行相手として考えるなら、そこで満足している場合ではない。
その「全部を見た」結果。
最後に拳が鈍った。
本当に、ごくわずかだった。
普通の相手なら気づかなかったかもしれない。
けれど春麗には分かった。
何度もリュウの拳を見てきた。
昇龍拳に撃ち落とされ、その拳を恐れ、それでも飛び込めるようになるまで、何度も付き合ってもらった。
本当に撃ち抜く拳。
寸前で止める拳。
迷った拳。
違いを身体で覚えている。
だから昨日も、その一瞬を取れた。
勝者としては。
とても気分がよかった。
好きな男が、自分を女性として見た。
そのために生じた一瞬の甘さを、格闘家として見抜いて勝った。
悪い気分のはずがない。
「……だからって」
春麗は畳んだ武道服を軽く押さえた。
「そこを喜んで終わったら、修行にならないでしょう」
昨日、自分から言った。
今度はリュウの番だと。
以前は自分が修行に付き合ってもらった。
なら今度は、自分が付き合う。
問題は。
「どうやって直すか、よね」
春麗は腕を組んだ。
ただ試合を繰り返して、また最後に拳が鈍った。
それでは、同じことを確認するだけだ。
リュウに必要なのは。
春麗が女性であることを意識したまま。
好きな相手であることも知ったまま。
それでも、試合の最後まで拳を保つこと。
「まあ」
春麗は畳んだ武道服を持ち上げた。
「まずは、いつも通りやってみましょうか」
その日の午後。
二人は、試合場ではなく小さな修行場にいた。
正式な勝負ではない。
勝敗もつけない。
春麗は、いつもの青い武道服だった。
「跳ぶわよ」
「来い」
「ちゃんと、本気で迎撃しなさい」
「そのつもりだ」
「昨日みたいに最後だけ止めたら、その時点で失敗よ」
「分かった」
リュウの掌に気が集まる。
春麗は構えた。
「波動拳!」
青い気弾が走る。
春麗は低く跳んだ。
以前なら、身体が止まった。
波動拳の向こうから来る昇龍拳。
撃ち落とされた記憶。
怖かった。
今も、何も感じないわけではない。
けれど。
春麗の足は止まらない。
リュウが踏み込む。
拳が上がる。
昇龍拳。
春麗はその軌道を見る。
拳は深いところまで来た。
鈍らない。
春麗は空中で身体をひねり、ぎりぎりで軌道の外へ逃れた。
着地する。
「今のはどうだ?」
「止めていないわね」
春麗にも分かった。
「もう一回」
「来い」
二度目。
三度目。
そして五度目。
春麗は跳び込む。
リュウは迎撃する。
昨日より明らかに安定していた。
春麗は少し満足した。
「次、近距離よ」
「分かった」
今度は春麗が距離を詰める。
リュウの目を見る。
「私を見て」
「見ている」
「格闘家としてだけじゃなくて」
春麗はもう半歩だけ近づいた。
「女としても。あなたの好きな女が、これだけ近くにいるって分かったまま」
自分から言って、少しだけ恥ずかしい。
だが、そこを避けていては修行にならない。
「意識している?」
「している」
「それでも?」
春麗が毒蛇突を出す。
リュウは受ける。
返しの拳が来る。
春麗の肩へ。
止まらない。
春麗はぎりぎりで外した。
「……いいわね」
「何がだ」
「あなたの拳」
春麗は、もう一度距離を詰める。
視線を合わせた。
「近いわよ」
「分かっている」
「好きな女よ」
「それも分かっている」
「昨日、あなたが綺麗だと言った女」
リュウの呼吸がほんの少しだけ変わった。
「……覚えている」
今度も拳が来る。
少しだけ呼吸は変わった。
それでも拳は止まらない。
春麗は受け流して下がった。
「いったん休憩にしましょ」
「そうしよう」
二人とも構えを解く。
春麗は水を飲みながら、リュウを見る。
悪くない。
昨日より明らかにいい。
自分を女性として意識している。
それでも拳を出せている。
では。
これを繰り返せばいいのか。
「……」
春麗は、自分の袖を見た。
そして、ふと気づいた。
リュウはこの姿を、見慣れている。
当然だった。
何度戦ったか分からない。
この青い武道服で。
蹴った。
殴った。
負けた。
勝った。
撃ち落とされた。
立ち上がった。
修行した。
告白した。
両想いになった後も戦った。
春麗という格闘家と。
春麗という女と。
その両方を。
リュウは、この姿で長い時間をかけて覚えている。
「春麗?」
「……ねえ」
「何だ」
「私を見て、今どう思う?」
リュウは少し考えた。
「春麗だ」
「それは知っているわよ」
「格闘家だ」
「ええ」
「好きな相手だ」
春麗の精神へ余計な一撃が入る。
「……そこは修行中なんだから、もう少し言い方を考えなさい」
「違ったか」
「違わないから困っているの」
春麗はため息をついた。
しかし。
今の答えで、余計にはっきりした。
リュウの中では。
もう自然に同居している。
この姿の春麗を見て。
格闘家。
女。
好きな相手。
それを無理なく同時に扱えている。
だから昨日一度失敗しただけで、今日の反復ではかなり早く適応した。
「……これ、少し甘いかもしれないわね」
「甘い?」
「修行として」
リュウが春麗を見る。
「あなた、この姿の私には慣れすぎているのよ」
「ああ」
「即答するのね」
「長く見てきた」
春麗は一瞬だけ黙った。
「……そういう言い方も反則だから」
「すまない」
「謝らないで」
春麗は腕を組んだ。
「でも、分かったわ」
「何がだ」
「次は、少し条件を変えるわ」
「どうする」
「それを考えるのは私よ」
「そうか」
「あなたは修行する側なんだから、私に任せなさい」
「ああ」
あまりにも素直に任されて。
春麗の方が少し困った。
「本当に何も聞かないの?」
「春麗が考えるんだろう」
「そうだけど」
「なら、受ける」
春麗は、数秒リュウを見る。
それから少しだけ笑った。
「その余裕、次も続くといいわね」
その夜。
春麗は一人で考えていた。
どうすれば、もっとリュウへの負荷を上げられるのか。
今日やった方法。
距離を詰める。
目を見る。
好きな女だと自覚させる。
そのうえで拳を出させる。
効果はあった。
でも、リュウはすぐ適応した。
「私を見慣れすぎているのよね……」
長い付き合いなのだから当然だ。
だったら、慣れていない条件へ持っていけばいい。
春麗は考える。
いつもと違う距離。
いつもと違う間。
いつもと違う見え方。
ただし、格闘家としての自分を隠してはいけない。
リュウに求めているのは、
「私を女として見るな」
ではない。
逆だ。
見なければ意味がない。
女性である春麗を意識する。
それでも、格闘家として本気で拳を出す。
「……かなり無茶を言っているわね、私」
春麗は苦笑した。
見る。
意識する。
それでも鈍らせない。
なら見る側に、もっと意識させればいい。
「もっと意識させる……?」
自分で口にして。
春麗は考え込んだ。
どうやって。
いつもの自分よりもっと女性としての自分を意識させる。
それでも拳を出させる。
春麗の視線が、部屋の奥へ動いた。
そこに黒い戦闘服があった。
黒と金を基調にした、中国風の戦闘服。
前面には赤い中国結び。
白い手首装飾。
白と金のブーツ。
いつもの武道服より、身体の輪郭がはっきり出る。
春麗は、それを見た。
「……いや」
すぐに首を振った。
「そこまでする?」
修行だ。
ただの修行。
リュウの拳が、両想いになったことで少し鈍った。
それを直す。
そのために、わざわざこれを着る?
春麗は少し考え。
自分で反論した。
「でも……」
今回の課題は女性としての自分を見せないことではない。
見せる。
意識させる。
その状態でも拳を止めない。
だったら条件を厳しくするなら。
これほど分かりやすいものはない。
「……」
春麗は、黒い戦闘服へ近づいた。
手を伸ばす。
触れる。
まだ着ない。
ただ、初めて修行用の道具として眺めた。
形を見る。
裾。
腰の位置。
脚の見え方。
肩。
身体の線。
「これを着て、いつも通り戦ったら……」
春麗は少し考えた。
いつものように髪をまとめる。
いつものように構える。
それでも、かなり印象は違う。
ならさらに視線を意識させるには。
春麗は、その場で軽く一歩動いた。
黒い布を手に持ったまま。
布が遅れて揺れる。
「……」
春麗の目が少し細くなる。
もう一度身体を回す。
布が追う。
実際の身体の動きと布の流れにわずかな差がある。
「これ」
春麗は考えた。
リュウが蹴りを読む時。
脚を見る。
腰を見る。
重心を見る。
そこへ。
この布の動きが一緒に入ったら。
「少し判断が増えるわね」
格闘家としての思考だった。
ならそれを意図的に使えばいい。
春麗は黒い戦闘服を持ったまま鏡の前へ移動した。
「……待って」
自分で止まる。
「私、修行方法を考えているのよね?」
当然だ。
リュウへ負荷を掛けるための方法を考えている。
なら服の動きを利用するのは間違っていない。
「そうよ」
春麗は納得した。
「見えるものが増えれば、その分だけ判断が難しくなる」
そこへさらに思考を進める。
服だけでなければ?
髪。
いつもはまとめている。
下ろしたら。
動く。
視界へ入る。
顔の印象も変わる。
春麗は、自分の髪へ触れた。
「……髪も?」
少し迷う。
だが負荷を掛けるなら。
使えるものは使えばいい。
次。
姿勢。
いつものように真正面から入るのではなく。
少し角度を変える。
視線。
相手の目を見る時間を少し長くする。
距離。
いつもの一歩より、半歩だけ近いところへ入る。
タイミング。
攻撃する直前に、ほんのわずか間を置く。
言葉。
拳を出そうとしている瞬間に声を掛ければ。
意識が一つ増える。
春麗の頭の中で点だったものが少しずつ繋がっていく。
服。
髪。
姿勢。
視線。
距離。
間。
言葉。
それぞれは特別な技ではない。
だが全部を意図的に組み合わせれば。
リュウは春麗を見るたび判断しなければならなくなる。
格闘家として。
女として。
好きな相手として。
そして攻撃してくる相手として。
「……なるほど」
春麗は、黒い戦闘服を見下ろした。
まだ名前などない。
ただの発想だ。
だが修行方法としてはかなり厳しい。
「これなら…少しは困るでしょうね」
春麗の口元が。
ほんの少しだけ上がった。
翌日。
春麗は、誰もいない部屋で黒い戦闘服へ袖を通した。
実際に動かなければ分からない。
修行で使えるかどうか確認するためだった。
黒い布が身体へ沿う。
金の装飾。
胸元の赤い中国結び。
白い手首装飾。
白と金のブーツ。
いつもの武道服とは、かなり違う。
春麗は鏡を見る。
まず髪。
いつもの形にはまとめなかった。
長い黒髪を下ろす。
肩から背中へ落ちる。
鏡の中の印象が、さらに変わった。
「……違うわね」
当然だ。
自分なのに。
見え方がかなり違う。
女性らしい輪郭が、いつもの武道服より強く出る。
ただし格闘家として鍛えてきた身体が消えるわけではない。
脚、腰、肩、全部。
戦うために鍛えた身体だ。
「これなら」
春麗は構えた。
「女として見ることから、逃げにくい」
同時に格闘家として見ることも避けられない。
その両方をリュウに要求できる。
春麗は一歩踏み出した。
中段蹴、上段蹴。
黒い裾が遅れて流れる。
髪も揺れる。
ブーツの白と金が動く。
春麗は鏡越しに、それを見る。
「……ここ」
もう一度、中段蹴、上段蹴。
今度はわざと少しだけ踏み込みを遅らせる。
裾を先に動かす。
リュウならどこを見る。
足か、布か、腰か。
春麗は自分で考えながら動く。
次、近距離。
鏡へ近づく。
相手の目を見るつもりで視線を上げる。
少しだけ間を置く。
そこから顎狙突拳。
「……使える」
春麗は小さく呟いた。
今度は声も入れてみる。
「ねぇ、どこを見ているの?」
言ってからすぐに肘打を出す。
春麗自身が、一瞬止まった。
「……これ、かなり嫌ね」
相手からすればかなり面倒だ。
だからこそ修行になる。
春麗はもう一度、鏡の中の自分へ言ってみる。
「リュウ、私を見て」
半歩近づく。
「女としても」
視線を合わせる。
「格闘家としても」
構える。
「それでも」
拳を前へ出す。
「止まらないで」
春麗は、自分で少し笑った。
「……本当に無茶を言っているわ」
だが、これなら。
リュウの課題を、かなり厳しくできる。
服だけではない。
髪も姿勢も視線も距離も言葉も間も全部。
春麗自身が意図的に使う。
リュウへ。
女性としての春麗を。
格闘家としての春麗を。
同時に送り込む。
その状態で拳を鈍らせない。
「……決まりね」
春麗は鏡の前で、ようやく頷いた。
その瞬間、別の考えがほんの少しだけ浮かんだ。
リュウはこれを見たらどんな顔をするだろう。
「……」
春麗の頬が少し熱くなる。
「違う」
すぐ否定した。
「そこを確認するのも修行の一部でしょう」
自分へ言い聞かせる。
間違ってはいない。
リュウがどう反応するか。
それを測るのが今回の修行なのだから。
ただ、胸の奥には修行とは少しだけ違う感情もあった。
楽しみ。
ほんの少し、見てみたい。
いつもの姿しか知らないリュウが。
この姿を見た時どう反応するのか。
春麗は鏡の中の自分へ目を細めた。
「……まあ…それくらいは、ご褒美にしてもいいでしょう?」
誰へのご褒美なのかは考えないことにした。
次の修行日。
春麗は、まだいつもの青い武道服で現れた。
「条件を厳しくすると言っていた」
「覚えていたのね」
「ああ」
「今日は説明だけよ」
「説明」
「次の修行から、少し変えるわ」
「何を変えるんだ?」
「全部ではないけれど」
春麗は少し考えてから答えた。
「あなたが私を見る条件を」
リュウは静かに聞いている。
「今より、もう少し難しくする」
「どうするんだ?」
春麗は笑った。
「それは秘密」
「当日までか?」
「ええ」
「分かった」
簡単に受け入れられて。
春麗は少しだけ不満そうに目を細めた。
「怖くないの?」
「春麗との修行だ」
「答えになっていないわ」
「必要なんだろう」
「……ええ」
「なら、望むところだ」
春麗は数秒何も言わなかった。
それから少しだけ意地悪そうに笑う。
「その余裕…当日にも残っているといいわね」
「そんなに違うのか?」
「どうかしら」
春麗は背を向ける。
「見てからのお楽しみよ」
その夜。
春麗は、いつもの青い武道服の隣に置いた黒い戦闘服を見ていた。
長い間、春麗はこの青い武道服で戦ってきた。
リュウともずっとこの服で戦ってきた。
だから、今回、別の戦闘服を選ぶのは青い武道服で駄目だったからではない。
今までの自分を変えたいからでもない。
ただ、リュウの修行条件を厳しくするため。
見慣れている自分ではなく。
見慣れていない自分を見せる。
女性として意識しやすい姿。
それでも、格闘家であることは何一つ隠さない姿。
そこへ今日考えたものを全部加える。
髪、姿勢、視線、言葉、距離、間、布の動き。
相手が見るものを増やす。
考えることを増やす。
それでも拳を出させる。
「あなたが」
春麗は黒い戦闘服へ手を伸ばした。
「私を女として見て」
布を持ち上げる。
「それでも、格闘家として戦って…最後まで拳を鈍らせないために」
春麗は、黒と金の戦闘服を胸の前へ持った。
決めた。
「次は、これで行くわ」
ほんの少し口元が上がる。
リュウが最初にどこを見るのか。
少しだけ楽しみだった。
「覚悟しなさい、リュウ」
その時の春麗はまだ知らない。
自分が思いついたその戦い方が衣装だけではなく髪、視線、姿勢、言葉、距離、間、 相手にどう見られるかという準備まで含めて、一つの戦術として深く育っていく可能性を。
今の春麗にとってはただリュウの拳へ、もう一段厳しい修行を課すために考えた方法だった。
記録板AIは、そこでログを停止した。
『検証ログ終了』
『重要;これは既存戦術の参照ではありません』
『対象春麗がリュウを女性として自分へ意識させたまま拳を鈍らせない修行を成立させるため独自に組み立てた戦術です』
『第1話敗北ルート後続検証』
『リュウ修行編』
『春麗は黒い戦闘服へ初接続』
『複合的視線誘導戦術の自発的考案』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回のエピソードは、両想いになったことで生まれた「リュウの拳がわずかに鈍る」という問題に対して、今度は春麗が修行相手になる回です。
以前は春麗自身が、リュウの波動拳や昇龍拳を前にして身体が止まってしまう問題を抱えていました。
その時はリュウが何度も修行に付き合い、春麗が拳への恐怖を越えるまで相手をしてくれた。
だから今回は逆です。
両想いになったことで、今度はリュウの側に「好きな春麗を最後まで本気で撃ち抜けない」というわずかな鈍りが生まれた。
普通の相手なら問題にならないほど小さな変化でも、春麗ほどの格闘家なら見抜いて勝利へ変えられる。
ならば今度は自分が付き合う。
この発想自体が、二人の関係がかなり進んだことを示していると思います。
そして今回、最初から春麗が黒い戦闘服を選ばなかったことも重要です。
春麗はまず、これまでずっと着てきた青い武道服のまま修行を始めました。
リュウへ近づく。
目を見る。
自分を女性として意識させる。
その状態で拳を出させる。
ところが、リュウは予想以上に早く対応します。
理由は単純で、この姿の春麗をリュウはあまりにも長く見てきたからです。
格闘家としての春麗。
女性としての春麗。
好きな相手としての春麗。
これらが、いつもの武道服姿ではすでにリュウの中でかなり自然に同居している。
これは青い武道服では負荷が弱い、という否定的な意味ではありません。
むしろ逆です。
この姿であまりにも多くの時間を積み重ねた結果、リュウが春麗を丸ごと見ることに慣れてきた。
二人の関係が安定してきた証拠でもあります。
そこで春麗は、修行の条件をもう一段厳しくしようと考えます。
ここで初めて、黒い戦闘服が候補に入りました。
この時点の春麗にとって、黒い戦闘服には特別なルート上の意味はありません。
これまでずっと青い武道服で戦ってきた春麗です。
黒い戦闘服を使った戦術体系を知っているわけでもありません。
ただ、
「いつもの私に慣れているなら、見慣れていない私を見せればいい」
という、かなり単純なところから始まっています。
そして実際に黒い戦闘服を手に取り、動いてみることで、春麗自身が少しずつ気づいていきます。
布の動きが身体より少し遅れる。
脚や腰の見え方が変わる。
いつものように髪をまとめず、長い黒髪を下ろせば、動いた時に視界へ入る情報が増える。
真正面から立つのではなく、少し角度を変えれば印象も変わる。
視線を合わせる時間を変える。
いつもより半歩近くへ入る。
攻撃前に少しだけ間を置く。
そこへ言葉を入れる。
一つ一つは特別な必殺技ではありません。
しかし、全部を意図的に組み合わせれば、リュウは春麗を見るたびに複数の判断を要求されます。
服を見る。
動きを見る。
髪を見る。
重心を見る。
言葉を聞く。
女性として春麗を意識する。
同時に格闘家として攻撃へ対応する。
そして拳を鈍らせない。
ここで、後に大きな意味を持つ戦い方の原型が、春麗自身の発想から生まれています。
大事なのは、この春麗が既存の「黒い戦い方」を知っていて採用したわけではないことです。
この時点では、名前すらありません。
リュウへもっと厳しい修行をさせるにはどうすればよいか。
それを真面目に考えた結果、
衣装だけではなく、髪、姿勢、視線、言葉、距離、タイミングまで含めて相手へ負荷を掛ける、
という方法へ自力で辿り着きました。
つまりこのルートにおける黒い戦闘服の出発点は、執着でも逃避でもありません。
リュウへの修行です。
しかも、以前自分の修行に付き合ってもらったことへのお返しでもあります。
かなり健全な理由から始まっています。
だからこそ、この先が面白くなります。
春麗は、この時点では本当にリュウを強くするために黒い戦闘服を選んでいます。
拳を鈍らせてほしいわけではありません。
むしろ最後まで鈍らせないでほしい。
自分を女性として見ても。
好きな女として意識しても。
それでも格闘家として本気で倒しに来てほしい。
そのために条件を厳しくする。
ここまでは、かなり真っ当な修行論です。
ただし、春麗の中には、小さな別の感情も生まれています。
「リュウは、この姿を見たらどういう顔をするだろう」
という興味です。
これはまだ、勝利酔いでも執着でもありません。
単純に、今まで見せたことのない自分を好きな相手へ見せることへの、少しの期待です。
春麗自身も、
「それも修行の一部」
と理由をつけています。
完全な嘘ではありません。
実際、リュウがどう反応するかを見ることは修行の目的そのものです。
ただ、純粋に修行だけが目的なら、鏡の前で少し楽しそうにする必要はない。
そこに、ごく小さな個人的な楽しみが混ざり始めています。
この小ささが今回ちょうどよいと思います。
まだ黒い戦闘服で勝っていない。
まだリュウをその姿で膝へ乗せてもいない。
敗者の印も刻んでいない。
黒い自分を「魅力的だった」と言われてもいない。
だから、この段階で春麗が黒い勝利の甘さを知っている必要はありません。
今あるのは、
「これなら、リュウにはかなり厳しい修行になりそう」
という格闘家としての期待と、
「この姿を見たリュウがどう反応するのか、少し見てみたい」
という女性としての期待だけです。
この二つが同時に存在した状態で、春麗は最後に黒い戦闘服を選びます。
青い武道服を捨てたわけではありません。
青い武道服では駄目だったわけでもない。
むしろ、その姿でリュウとの関係を十分に築けたからこそ、次の修行では別の条件を用意できる。
その意味で今回の黒い戦闘服は、青から逃げるためのものではなく、青で築いた関係の上に追加された新しい選択肢です。
そして最後の、
「次は、これで行くわ」
「覚悟しなさい、リュウ」
という言葉には、まだ勝者酔いはありません。
あるのは、修行相手としての自信と。
少しだけ好きな男を驚かせることを楽しみにしている春麗です。
ここから実際にリュウがその姿を見て。
呼吸を変え。
それでも拳を出そうとして。
最後の最後で鈍り。
春麗がその一瞬を取って勝つ。
そこで初めて、この春麗は「黒い戦闘服でリュウに勝つ」という経験を手に入れることになります。
今回のエピソードは、その一歩手前。
まだ何も酔っていない春麗が、純粋にリュウの修行を考えた結果、後にかなり危険な甘さへつながっていく扉を、自分の手で静かに開いた回でした。