また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートの修行編後日談より先の未来時空のエピソードです。
記録板AIは、外部検証領域に一件の未来ログを表示した。
『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本編確定ログではありません』
『本ログは、第1話敗北ルート修行編完走後、春麗とリュウが相互好意を確認済みの未来時空です』
『以下、検証ログを開始します』
リュウは、いつもの修行場で待っていた。
白い道着。
赤い鉢巻。
前回と変わらない姿。
春麗が「次は条件を厳しくする」と言ったことは覚えている。
何をするのかは聞いていない。
当日まで秘密。
春麗はそう言った。
だからリュウは待っていた。
そして、足音がした。
顔を上げる。
入口に春麗が立っていた。
「待たせたわね」
その瞬間、リュウは完全に止まった。
春麗にも分かった。
呼吸がわずかに変わった、という程度ではない。
目が開いた。
視線が春麗へ止まった。
言葉が出てこない。
春麗は、平静を装ってその反応を受け止めた。
黒と金の中国風戦闘服。
前面には赤い中国結び。
白い手首の装飾。
足元は白と金のブーツ。
いつもの武道服より、身体の輪郭ははっきりしている。
だが、戦うために鍛えてきた身体を隠してはいない。
そして何より、髪。
いつものようにまとめていない。
長い黒髪が、肩から背中へそのまま流れている。
春麗自身鏡で見た時に、かなり違うと思った。
当然、リュウにはもっと違って見える。
「……春麗?」
第一声がそれだった。
春麗の眉が動く。
「何よ、その確認」
「いや」
リュウは春麗を見る。
顔。
髪。
黒い戦闘服。
そして、もう一度顔へ戻る。
「春麗だな」
「当たり前でしょう」
「ああ。髪、下ろしたんだな」
春麗は少しだけ口元を上げた。
「気づいた?」
「ああ」
「服より先に?」
「両方見た」
「そう」
春麗は一歩近づいた。
黒い裾が揺れる。
リュウの目がほんの一瞬だけ動き、戻った。
春麗はそれを見逃さなかった。
「ねぇ、今どこを見たの?」
「……」
「修行前から黙るの?」
「いつもの春麗と、かなり違う」
「でしょうね」
「髪も服も見え方が違う」
春麗の胸が少しだけ熱くなった。
自分で狙った。
分かっていて着た。
それでも、リュウ本人から言われると効く。
「それで?」
春麗は、なるべく余裕のある声で聞いた。
「格闘家には見えなくなった?」
「いや」
即答だった。
「見える」
春麗の目が少し細くなる。
「本当に?」
「ああ」
「なら、何が違うの?」
リュウは考えた。
短い言葉しか使わない男が、珍しく、少し長く考えた。
「……女として…いつもより、強く見える」
春麗の精神へ試合開始前から大きな一撃が入った。
「……そう…それだけ?」
「綺麗だ」
追撃。
春麗は一瞬だけ目を閉じたくなった。
だが、耐えた。
今日は自分が修行相手だ。
ここで落ちてどうする。
「そういうことを……修行前に真顔で言うのは反則よ」
「聞かれたから答えた」
「…確かに私が聞いたけど」
春麗は小さく息を吐いた。
「まあ、いいわ」
そして、少しだけ笑う。
「その反応が見たかったのも事実だから」
リュウの目が動く。
「前回、あなたは私を見た」
「見たな」
「格闘家としても、女としても、好きな相手としても」
「ああ、全部見た」
「でも最後に拳を鈍らせた」
「そうだな」
「昨日、いつもの姿でやり直した時にはかなり直っていた」
「それで、もっと負荷を上げる気になったのか」
「ええ」
春麗は少しだけ笑う。
「だから思ったの」
春麗は長い髪を指先で少しだけ払った。
その動きにリュウの視線が、またわずかに引かれる。
「あなた……いつもの私には、もう慣れすぎているのよ」
「そうかもしれないな」
「だから」
春麗は黒い戦闘服の裾へ軽く触れた。
「今日は、見慣れていない私。それでも――」
リュウの目を見る。
「女としても、格闘家としても、どちらも消さずに見なさい」
「分かった」
「そのうえで」
春麗は構えた。
「拳を鈍らせない」
リュウも構える。
「やってみる」
リュウも構える。
だが、春麗にはもう分かっていた。
今日のリュウはかなりきつい。
いつもの武道服でさえ、両想いになった直後には最後の拳が鈍った。
今日は髪も違う。
衣装も違う。
見える輪郭も違う。
距離も視線も春麗自身が意図的に変える。
リュウにとっては昨日までの修行より明らかに情報が多い。
「難しい?」
春麗は聞いた。
リュウは正直だった。
「そうだな」
春麗は、思わず笑った。
「でしょうね…でも、必要でしょう?」
「ああ」
「なら」
春麗の目が鋭くなる。
「始めましょう」
最初の攻防で春麗自身が驚いた。
効いている。それも想像以上に。
リュウが遅い。
弱くなったわけではない。
身体能力も拳の速度も反応も何も落ちていない。
問題は判断だった。
春麗が踏み込む。
いつものように真っ直ぐ入らない。
わずかに身体を斜めへ向ける。
黒い裾が流れる。
長い髪が遅れて動く。
リュウの目が脚、腰、髪、春麗の顔へ一瞬で戻ろうとする。
だが、見るものが多い。
春麗はその間に中段蹴を放つ。
「っ」
リュウが受ける。
ガードが間に合う、しかし浅い。
春麗の足が腕を押し込む。
すぐ離れる。
「……本当に効くのね」
思わず漏れた。
「何がだ」
「何でもないわ」
春麗は、自分でもまだ完全には分かっていない。
昨日、一人で考えた。
服、髪、視線、距離、言葉、間。
それを組み合わせれば、リュウが判断しなければならないものを増やせる。
理屈ではそう考えた。
鏡の前でも試した。
だが、人間を相手にするのは初めてだ。
まして、相手はリュウ。
自分を好きだと言った男。
そのリュウが、こんなにも分かりやすく負荷を受けるとは思わなかった。
「もう一度」
春麗が踏み込む。
今度は、攻撃を少し遅らせた。
先に視線を合わせる。
リュウが春麗を見る。
「ねえ」
言葉を入れる。
「今、何を見ているの?」
リュウの拳が遅れた。
春麗は顎狙突拳を入れる。
「……っ」
入った。
春麗自身、少し驚くここまで効くとは。
「リュウ」
「ああ」
「今の」
「分かっている」
「何が入った?」
「言葉」
「それだけ?」
「春麗を見た」
「どこを?」
「全部だ」
春麗の胸が跳ねる。
その瞬間、リュウの拳が来た。
「っ!」
今度は春麗が遅れた。
肩へ入る。
重い。
春麗が一歩下がる。
「……痛いわね」
「修行だ」
「知っているわよ」
春麗は肩を回す。
そして少し笑った。
「なるほど」
自分が相手を揺らすことばかり考えて返答に自分が揺れた。
この方法、使えば勝手に有利になるわけではない。
春麗自身もリュウの反応を見れば反応してしまう。
初めて使う。
初めて見る。
双方とも、まだ慣れていない。
「面白いじゃない」
春麗は構え直した。
試合は最初から、いつもとは違った。
春麗は試しながら戦った。
長い髪を大きく使いすぎれば。
自分の視界にも入る。
「っ」
リュウの拳が頬をかすめた。
「髪、邪魔じゃないのか」
「今、それを言う?」
「見えた」
「私もよ!」
次、裾の動きを意識しすぎる。
踏み込みが一瞬遅れる。
リュウに読まれる。
拳が腹へ来る。
春麗は腕で受けた。
重い。
「……これは失敗」
「何がだ」
「こっちの話」
まだ完成していない。
当然だった。
昨日思いついたばかりだ。
服の動きを見せる。
髪を使う。
相手へ視線を合わせる。
距離をずらす。
言葉を置く。
間を変える。
それらを実戦の速度で全部適切に扱う。
簡単なはずがない。
だが、春麗は格闘家だった。
失敗する。
修正する。
次へ使う。
黒い裾を大きく振る必要はない。
ほんの少しでいい。
髪もわざと動かす必要はない。
踏み込みと一緒に流れるだけで。
リュウの目には入る。
言葉も多すぎれば、自分の呼吸が乱れる。
一言でいい。
相手が一番判断したい瞬間に置けばいい。
春麗が少しずつこの姿での戦い方を作っていく。
リュウも少しずつ慣れてくる。
最初は春麗が近づくだけで呼吸が変わった。
今は変わっても拳が出る。
長い髪を見る。
黒い衣装を見る。
女性としての春麗を見る。
それでも拳を返す。
「……さすがね」
春麗は本気で思った。
きついはずだ。
自分から見ても分かる。
いつもの武道服で戦う時とは、リュウの目の忙しさが違う。
それでも、崩れきらない。
春麗の蹴りを受ける。
返す。
波動拳で距離を作る。
春麗が越える。
迎撃する。
その拳は序盤より確実に戻ってきていた。
「慣れてきた?」
「ああ」
「早いわね」
「春麗だからな」
「……どういう意味?」
「見れば分かる」
「何が?」
「春麗がどう動くか…服も髪も違うが戦っているのは春麗だ」
今度は春麗の拳が遅れかけた。
「……あなたね」
「何だ」
「そういうところ、本当に強いわね」
「そうか?」
「ええ」
春麗は笑った。
嬉しかった。
少しだけ、悔しくもあった。
自分が用意した高負荷条件を。
リュウは春麗だからという理由で少しずつ越えようとしている。
なら、もっと試す。
どこまで自分を見たまま拳を保てるのか。
中盤。
春麗はこの戦い方の使い方を少しずつ理解し始めていた。
見せる。
しかし、見せすぎない。
近づく。
しかし、近づいた瞬間には打たない。
視線を合わせる。
リュウがこちらを見る。
その時あえて何もしない。
リュウが攻撃へ意識を戻した瞬間入る。
リュウの拳が春麗の顔の横を抜ける。
春麗は身体を落とした。
腰へ蹴り。
リュウが受ける。
春麗は近い。
いつもの距離より。
半歩だけ近い。
「リュウ…苦しい?」
リュウの呼吸が。
ほんの少しだけ乱れる。
「かなりな…」
春麗は笑った。
「正直でよろしい」
顎狙突拳。
リュウが受ける。
返しの拳が来る。
春麗は避ける。
髪が流れる。
リュウの視線がついてくる。
だが、もう序盤ほど止まらない。
「私を見ないようにしないのね」
「ああ」
「どうして?」
「見ない方が遅れる」
春麗は少し驚いた。
「そう…だったら?」
「見て、そのまま戦う」
春麗の胸に静かな満足が入った。
それだ。
それをやってほしい。
見ないふりでは意味がない。
女としての春麗を消して、格闘家だけを見るのでもない。
見て。
意識して。
そのまま本気の拳を出す。
「そうよ」
春麗は笑った。
「それが修行」
そして、次の瞬間容赦なく金的蹴を放つ。
「だからって、簡単に慣れさせるつもりはないけど!」
リュウが受ける。
重い音。
反撃。
春麗も受ける。
二人の距離が離れる。
互いに息が乱れている。
春麗は自分が少し楽しくなっていることに気づいていた。
新しい戦い方。
自分が考えた。
まだ失敗も多い。
それでもリュウに効いている。
しかもリュウは逃げない。
春麗を女として見ている。
そのことを隠さない。
格闘家としても見ている。
そして本気で勝ちに来ている。
「……悪くないわね」
「何がだ」
「何でもない」
春麗はまだそれ以上考えなかった。
終盤。
互いに余力はほとんど残っていなかった。
春麗の肩は痛い。
脇腹にも一撃もらっている。
初めて試した方法のせいで、自分から崩した場面もいくつかあった。
リュウも消耗している。
しかし序盤とは別人だった。
もう春麗が少し近づいた程度では止まらない。
長い髪を見る。
黒と金の戦闘服を見る。
脚を見る。
身体の線を見る。
春麗自身を見る。
そのまま拳を出す。
春麗はそれが本当に嬉しかった。
「リュウ」
「何だ」
「最初より、ずっといいわ」
「慣れてきた」
「ちゃんと私を見てる?」
「見ている」
「この姿も、女の私も、格闘家の私も?」
リュウは迷わなかった。
「全部だ」
春麗の頬が少しだけ熱くなる。
だが、今度は崩れない。
「好きな相手としても?」
「それも含めてだ」
春麗は構えた。
「それでも、私を倒す?」
「そのつもりだ」
春麗の笑みが深くなる。
「いい答えね」
春麗も構え直す。
「なら、来なさい」
リュウの掌に気が集まる。
青い光。
波動拳。
春麗は見る。
何度も越えてきた技。
かつてはその向こうにある拳が怖かった。
今は違う。
「波動拳!」
青い気弾が放たれる。
春麗は跳んだ。
低く。
鋭く。
いつもの跳躍。
ただし見え方はまるで違う。
黒い裾が空気を切る。
白と金のブーツが上がる。
長い黒髪が大きく流れる。
鍛えられた脚。
黒と金。
赤い結び。
戦う女。
好きな女。
春麗。
全部が。
リュウの視界へ飛び込む。
リュウは見る。
見ないふりをしない。
春麗の軌道を捉える。
迎撃するため踏み込む。
拳が上がる。
昇龍拳。
来る。
春麗には分かった。
今度はほとんど完璧だった。
拳は速い。
深く迷いがない。
春麗はほんの一瞬負けると思った。
それでもリュウは最後に春麗の顔を見た。
長い髪の奥。
試合の熱で頬を赤くして。
それでも自分へ飛び込んでくる春麗を。
女として。
好きな相手として。
格闘家として。
その全部を見た。
そして最後の一瞬。
拳が鈍った。
いつもの武道服で鈍った時よりわずかに深い。
それが春麗には分かった。
「……やっぱり」
空中で春麗は笑った。
「まだ駄目ね」
リュウの目が動く。
だが、もう遅い。
昇龍拳の軌道がほんの少しだけ浅くなる。
春麗はその隙へ身体を滑り込ませた。
近距離。
リュウの懐。
春麗の右掌が走る。
乾いた音。
平掌打。
右。
左。
リュウが防ぐ。
春麗はリズムを変える。
半拍。
今度は服でもない。
髪でもない。
リュウ自身が作った一瞬を使う。
もう一度、頬へ右の平掌打。
防御がずれる。
リュウは立て直そうとする。
春麗は離さない。
近い。
今日、何度も試した距離。
さらに一撃。
掌。
音が響く。
リュウの重心が崩れる。
だが、まだ倒れない。
拳が返ってくる。
春麗も受けた。
「っ……!」
身体が流れる。
足が震える。
危ない。
本当にギリギリ。
春麗は踏みとどまる。
リュウももう一度前へ出る。
「リュウ!」
「春麗!」
最後。
春麗の顎狙突拳が先に届いた。
リュウの身体が崩れる。
膝はそのまま床へ。
春麗は荒い呼吸のまま立っていた。
黒い戦闘服が乱れている。
長い髪もかなり崩れている。
余裕などない。
それでも勝った。
初めて実戦で着た黒い戦闘服で。
初めて考えた戦い方。
その全部を使って。
リュウにギリギリ勝利した。
「……私の勝ちね」
リュウは悔しそうに息を吐いた。
「俺の負けだ」
春麗の胸が熱くなる。
「最後の昇龍拳」
「分かっている」
「また鈍ったでしょう?」
「最後だけな」
「しかも」
春麗は、少しだけ勝ち誇る。
「昨日より鈍りが大きかったわ」
リュウは一度、自分の拳を見る。
「その姿に慣れていない分、遅れた」
春麗の口元が上がる。
「この姿……かなり効いた?」
リュウは床へ片手をついたまま、正直に答えた。
「かなりな」
春麗は満足そうに笑った。
「そう……なら」
勝者の声になる。
「修行としては、大成功ね」
春麗はリュウの横へ座った。
リュウが春麗を見る。
「春麗」
「何?」
「今日はもう終わりじゃないのか」
「試合はね」
春麗は、自分の膝を軽く叩いた。
リュウはそれを見て、意味を理解したように息を吐く。
「分かった」
「よろしい」
春麗は少しだけ甘く笑った。
「それに今日は、少し特別なの」
「何がだ?」
「この姿で勝った、最初の日でしょう?」
春麗はリュウの頭へ手を伸ばす。
「だから今日は、いつもより少しくらい勝者の気分に浸らせなさい」
春麗はリュウの頭を支えた。
自分の膝へ乗せる。
黒い戦闘服越しの膝。
前回とは違う。
いつもの武道服とも違う。
そして、長い黒髪の春麗が真上からリュウを覗き込んでいる。
リュウの目が今度こそ少し困った。
春麗はその変化を見逃さない。
「何?」
「近い」
「膝枕なんだから当たり前でしょう?」
「そうだな」
「それとも」
春麗は少しだけ身を乗り出した。
長い髪が肩から前へ流れる。
「この姿だと、前より困る?」
リュウは数秒黙った。
「……困る」
春麗の胸へ甘い熱が入る。
「そう」
勝者の顔を保つ。
「でも、目は逸らさないのね」
「修行だからな」
「それだけ?」
リュウは春麗を見る。
「春麗だからだ」
春麗の精神へ、敗者から反撃が入った。
「……あなた」
「何だ」
「今、勝者は私よ」
「分かっている」
「なら、勝者の精神を削るような発言は禁止」
春麗は少しだけ乱暴に、リュウの額へ指を置いた。
「まずは、ここよ」
春麗が額へ指を伸ばす。
リュウはもう何も聞かなかった。
勝った日の、この流れにはとっくに慣れている。
「今日は少し特別よ」
「その姿で勝ったからか」
「分かってるじゃない」
春麗は満足そうに笑い、ゆっくりと額へ今日の敗北を刻む。
「今日は最初からかなり動揺してたわね。見たことのない髪を下ろした格好の私を見て」
リュウは黙って聞いている。
「途中ではかなり慣れたわね。最後には、ほとんど拳も鈍らなかったわ」
「最後までは無理だった」
春麗は笑った。
「そう。最後の最後だけ、また私を見て鈍った」
「見逃さなかったな」
「当然でしょう?」
額へ刻んだ印を、指先で軽くなぞる。
「だから私に負けたのよ」
「そうだな」
「今日のことは覚えておきなさい。この姿で戦った最初の日。そして、あなたがこの姿の私に負けた最初の日よ」
「忘れない」
「よろしい」
次に春麗が右手へ視線を落とす。
それだけで、リュウには次が分かった。
右手を差し出す。
春麗は少しだけ目を細めた。
「ずいぶん素直ね」
「最後に鈍った拳だろう」
「正解」
春麗は差し出された右手を、自分の手の中へ収めた。
「前回も最後に鈍ったわ。でも、いつもの私を相手にした反復ではかなり直っていた」
「今日は鈍りが戻ったな」
「ええ。それも、前より少し大きく」
春麗は黒い戦闘服と、肩から落ちる長い髪を見せるように少しだけ身体を起こした。
「私がこうして出てきたら、また駄目だったわね」
「まだ慣れていない」
「それを言い訳にしない」
「ああ」
春麗はリュウの右手へ敗者の印を刻む。
「反省しなさい」
「反省はしている」
「かなり?」
「ああ」
春麗は満足そうに微笑んだ。
「いい顔ね」
「……悔しい」
「知ってるわ」
春麗は近い距離からその顔を見る。
「もっと見せて」
「春麗」
「何?」
「楽しんでいないか」
春麗の動きが止まった。
「……これは修行よ」
「そうか」
「そうよ」
「だが、楽しそうだ」
「……」
春麗は一瞬だけ言葉に詰まった。
楽しくないかと聞かれれば嘘はつけない。
初めての戦い方。
初めての姿。
リュウは想像以上に困った。
それでも最後まで戦った。
そして自分が勝った。
悪い気分ではない。
「……少しくらい…勝者の私が楽しんでもいいでしょう?」
「ああ」
「よろしい」
春麗はすぐに勝者の位置へ戻った。
しばらくして春麗はどうしても聞いておきたいことを思い出した。
「ねえ、リュウ」
「何だ?」
「一つ確認。今日の私」
少しだけ声が小さくなる。
「どうだった?」
リュウは春麗を見る。
膝の上から。
長い黒髪。
黒と金の戦闘服。
赤い中国結び。
試合後で少し崩れた姿。
勝者の春麗。
女としての春麗。
格闘家としての春麗。
全部を見る。
「強かった」
「それは聞いた」
「初めての戦い方だった」
「ええ」
「かなりやりにくかった」
春麗の口元が少し上がる。
「それも分かっている」
そして本題。
「見た目」
リュウの呼吸が、またほんの少しだけ変わった。
春麗はそれを見て、勝者として少し嬉しくなる。
「答えなさいよ」
「……」
「修行の一部よ」
「そうなのか」
「そういうことにするの」
リュウは少しだけ考えた。
そして逃げなかった。
「綺麗だった」
春麗の胸が跳ねる。
「それは試合前にも聞いたわ」
「そうだったな」
「他には?」
「いつもの服より、女として強く見える」
春麗の顔が熱くなる。
自分で狙った。
それを狙って選んだ。
それでも本人から言われると、かなり効く。
「……それで?」
「髪も違う」
「どう違うの?」
「下ろしている方が、動くと目に入る」
「なるほどね」
春麗は平静を装って頷いた。
「服もだ」
「服も?」
リュウは少しだけ言葉を探した。
「跳んだ時……かなり目のやり場に困る」
春麗は完全に被弾した。
「……あなた」
「何だ」
「それ、膝枕されながら真顔で言う内容じゃないでしょう」
「春麗に感想を聞かれた」
「聞いたけど!」
「本当のことだ」
「本当のことなら何でも言っていいわけじゃないの!」
リュウは少し考える。
「難しいな」
「ええ!」
一瞬だけ間が空いた。
「私は難しいの!」
春麗は顔を逸らしかけた。
しかし止めた。
今日はこの姿をリュウへ見せると決めた。
どう見えるのかも確認すると決めた。
なら、受け取る。
「……でも、分かったわ」
「何がだ」
「かなり効いたのね。服も、髪も、距離も、言葉も」
リュウは少し考えてから答えた。
「全部だ」
春麗はゆっくり息を吐いた。
「……そう」
昨日、一人で考えた。
それぞれ別々だったものを全部使えば、リュウへもっと負荷を掛けられるのではないか。
そして今日、実際に試した。
失敗もした。
自分も殴られた。
髪が邪魔だった。
裾を意識しすぎて踏み込みを遅らせた。
言葉を使って逆に自分が被弾した。
それでも最後には使えた。
リュウを追い詰め勝利した。
「……これ、もう少し練習したら使えそうね」
「続けるのか」
「当然でしょう」
「その服で?」
「ええ」
春麗は少しだけ笑った。
「今日一回で終わったら、修行にならないもの。あなたが私をこういう姿で見ても、髪を下ろしていても、女として強く意識しても――最後まで拳を鈍らせない」
春麗は、右手へ刻んだ印を指で軽くなぞる。
「そこまでやるわよ」
「分かった」
「逃げない?」
「逃げない」
「本当に?」
リュウは迷わず春麗を見上げた。
「ああ」
春麗は少しだけ目を細める。
「なら……この姿で戦うのは、あなただけにする」
リュウの目が静かに春麗を見る。
今度は、言った春麗の方が被弾した。
「……何よ」
「嬉しいと思った」
短い。
ただ、それだけ。
それなのに、春麗には十分すぎた。
「短いわね」
「伝わっただろう」
「……あなた、そういう返しをするようになったのね」
春麗は顔を少し赤くしたまま、勝者の笑みを戻した。
「まあ、今日は許してあげる。でも――」
右手の印を指で押す。
「嬉しいと思っても、綺麗だと思っても、女として意識しても。目のやり場に困っても」
春麗はリュウの拳を見る。
「それでも拳は?」
「鈍らせない」
「今日も最後に鈍ったでしょう」
「最後だけな」
「その最後で負けたのよ」
春麗はリュウの拳を握った。
「だったら次こそ、最後まで鈍らせないこと」
「分かった。次は鈍らせない」
「よろしい」
春麗はようやく満足した。
「じゃあ、次も付き合ってあげるわ」
「望むところだ」
「今度はもっと上手く使うわよ」
「何を」
「今日考えた全部よ。服も、髪も、視線も、距離も、言葉も、間も」
春麗は甘く笑う。
「全部使って、あなたの拳を試してあげる」
「厳しいな」
「今さら?」
「今さらだな」
「分かってるじゃない」
春麗は、リュウの悔しそうな顔をもう一度覗き込んだ。
「それでも今日は私の勝ちよ。初めてこの姿で戦って、初めて試した戦い方で、途中では何度も失敗して――」
少しだけ笑みを深くする。
「最後にあなたの拳が鈍ったところを取って、私が勝った」
「覚えている」
「忘れないでね」
春麗は額へ刻んだ印に触れ、それから握ったままの右手へ目を落とした。
「この額も、この右手も、今日あなたが私に負けた印なんだから」
「忘れない」
その答えに、春麗は満足そうに笑った。
そして、少しだけ声を甘くする。
「次に、この姿の私が跳び込んできた時……あなたの拳がどうなるか」
リュウは悔しさを残したまま、それでも真っ直ぐ春麗を見上げた。
「次は、鈍らせない」
春麗は微笑んだ。
「期待しているわ」
黒い戦闘服を着た勝者の膝の上で、敗者の右手はまだ春麗の手の中にあった。
記録板AIは、そこでログを停止した。
『検証ログ終了』
『本ログにおける重要点』
『黒い戦闘服および複合的な揺さぶりは、完成済み戦術として投入されたものではありません』
『対象春麗が考案し』
『本ログにおいて初めて実戦投入し』
『失敗と修正を繰り返しながら成立させたものです』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して
A:
今回のエピソードは、春麗が初めて黒い戦闘服を実戦投入し、そこで考案した戦い方を実際のリュウ相手に試す回でした。
この時点の春麗にとって、黒い戦闘服はまだ特別な象徴ではありません。
これまで春麗は、ずっと青い武道服でリュウと戦ってきました。
負けた時も。
勝った時も。
波動拳や昇龍拳への恐怖を克服する修行をした時も。
そして両想いになった後も。
リュウが知っている春麗の戦う姿は、基本的にずっとその姿でした。
だから今回、リュウの前へ長い黒髪を下ろし、黒と金の中国風戦闘服を着た春麗が現れること自体が、かなり大きな出来事になっています。
リュウの最初の反応を、
「春麗?」
としたのも、そのためです。
別人だと思ったわけではありません。
ただ、あまりにも普段と印象が違った。
髪型も違う。
服も違う。
身体の輪郭の見え方も違う。
そして何より、普段より女性としての春麗が強く前へ出ている。
それでも、リュウが続けて、
「春麗だ」
と認識するところは大事にしました。
今回の修行の目的は、女性としての春麗を消すことではありません。
むしろ逆です。
女性として見る。
好きな相手としても見る。
それでも、格闘家として本気の拳を出す。
この難しい条件を成立させるための修行です。
だから春麗自身も、
「女として見なさい」
「格闘家としても見なさい」
「どちらも消さない」
「そのうえで拳を鈍らせない」
と要求しています。
かなり無茶な注文です。
ですが、この無茶さこそ、両想いになった後の二人に必要な修行なのだと思います。
前回、リュウの拳が鈍った原因は、春麗を女性として見たことそのものではありません。
好きな女性であり、同時に本気で戦いたい格闘家でもある春麗を前にして、その二つを最後まで処理し切れなかった。
その結果、ほんの一瞬だけ拳が甘くなった。
そして春麗は、そのわずかな鈍りを取れるだけの格闘家です。
つまりリュウにとっては、本当にわずかな甘さでも敗因になります。
今回の黒い戦闘服は、その問題をさらに厳しい条件で試すために春麗自身が用意したものです。
ただし重要なのは、春麗が最初から完成された戦術を使えているわけではないことです。
今回の春麗は、この戦い方も初めてです。
衣装の動き。
長い髪。
視線。
距離。
言葉。
攻撃前の間。
それらを組み合わせればリュウへ負荷を掛けられる、と前もって考えてはいました。
しかし、実戦で本当に機能するかは分かりません。
そのため序盤では、春麗自身も失敗しています。
長い髪が自分の視界へ入る。
裾の動きを意識しすぎて踏み込みが遅れる。
リュウへ言葉を投げた直後、その返事に自分の方が動揺して殴られる。
これはかなり重要な部分です。
黒い戦闘服を着いた瞬間に、春麗が突然別の完成された格闘家になるわけではありません。
あくまで春麗本人です。
だから、試す。
失敗する。
修正する。
また使う。
格闘家として、その場で学習していく。
その積み重ねによって、戦闘の中盤から少しずつ戦い方が形になっていきます。
そして同時に、リュウも適応していきます。
今回のリュウはかなり厳しい状況です。
いつもの春麗ですら、両想いになった後には拳が鈍った。
そこへ突然、
長い黒髪おろした女性らしい輪郭を強く見せる黒い戦闘服。
今までとは違う距離。
視線。
言葉。
間。
全部が同時に来る。
序盤でリュウの判断が大きく遅れるのは、むしろ当然です。
しかし、リュウは途中から一つの答えへ辿り着きます。
「見ない方が遅れる」
「見る」
「そのまま戦う」
ここは今回、かなり大事な台詞です。
春麗を女性として意識しないようにする。
それは解決ではありません。
黒い戦闘服を見ないようにする。
それも違う。
女性としての春麗も。
格闘家としての春麗も。
好きな相手としての春麗も。
全部見る。
それでも拳を出す。
リュウは、逃げるのではなく、全部を処理する方向へ進み始めます。
そして春麗も、その姿を見て嬉しくなります。
この感情も重要です。
春麗は、リュウの拳を鈍らせたいわけではありません。
自分が勝ちやすくなるから、ずっと動揺していてほしいわけでもない。
むしろ、リュウが適応していくことを本気で喜んでいます。
自分を女性として見て。
それでも格闘家として拳を出してくれる。
春麗が本当に欲しいのは、そんなリュウです。
だから終盤。
リュウがほとんど完璧な昇龍拳を出しかけた時、春麗は一瞬、
負ける。
と感じています。
それくらいまでリュウは修行中に適応した。
しかし。
最後の最後。
リュウは春麗を見る。
黒い戦闘服だけではありません。
長い髪だけでもありません。
自分へ飛び込んでくる春麗。
女。
好きな相手。
格闘家。
その全部。
そこでもう一度、拳がわずかに鈍る。
しかも、いつもの武道服で戦った時より少し大きく。
春麗はそれを見逃しません。
ここで春麗が勝つことも大切です。
リュウの拳が鈍ったから自動的に勝ったのではありません。
鈍ったことを認識する。
その一瞬へ入る。
近距離へ持ち込む。
平掌打を重ねる。
リズムをずらす。
最後まで攻め切る。
鈍りを勝利へ変換したのは春麗自身です。
だから今回の勝利は、春麗にとってかなり満足度の高いものになっています。
しかも。
初めて着た戦闘服。
初めて試した戦い方。
実戦中に何度も失敗した。
それでも修正して。
最終的にはリュウにギリギリで勝った。
格闘家としても、かなり嬉しい勝利です。
そして試合後。
春麗は当然のように、またリュウを膝へ乗せます。
ここで黒い戦闘服が、別の意味を持ち始めます。
試合中は、リュウへ負荷を掛けるための修行用の服でした。
ところが勝った後。
そのままの姿でリュウを膝へ乗せる。
長い黒髪を下ろした春麗が、敗者となったリュウを上から覗き込む。
いつもの膝枕とは、かなり印象が変わります。
春麗自身もそれを分かっています。
だから、
「この姿だと、前より困る?」
と聞いてしまう。
この辺りから、修行だけではない小さな楽しみが混ざり始めています。
ただ、まだ本格的な勝者酔いではありません。
現時点では、
自分が考えた方法が効いた。
リュウが本気で適応しようとした。
それでも自分が勝った。
その上で、黒い戦闘服姿の自分をリュウがどう見ていたのか知りたい。
その程度です。
しかし。
リュウから、
「綺麗だった」
「いつもの服より女として見える」
「跳んだ時、かなり目のやり場に困る」
と、想定していた以上に率直な回答が返ってきます。
春麗にとっては、かなり危険な報酬です。
もともとの目的は、
女性として自分を見ても拳を鈍らせないための修行。
だったはずです。
その結果として。
女性として強く見られた。
格闘家として本気で戦われた。
リュウをギリギリで倒した。
敗者を膝へ乗せた。
額と右手へ敗者の印を刻んだ。
さらに、黒い戦闘服姿を綺麗だと言われた。
全部が一度に成立しています。
この経験が、この先かなり危険な甘さへつながっていく可能性があります。
ただし今回の段階では、まだ春麗自身はそこまで認識していません。
むしろ、
「もっと上手く使える」
「次はもっと厳しい修行にできる」
と格闘家として考えています。
これも春麗らしいところです。
初実戦で成功したから満足して終わるのではなく、
髪はどう使うか。
衣装の動きをどう扱うか。
視線をどこで合わせるか。
どの距離で言葉を入れるか。
まだ改善できる。
そう考えている。
つまり今回の黒い戦闘服は、ただ女性らしい衣装を着ただけではありません。
春麗自身が考案し、実戦で試し、失敗し、修正し、勝利まで持っていった新しい戦い方の始まりでもあります。
そして最後に春麗は、
「この姿で戦うのはリュウだけにする」
と言います。
これはかなり大きな言葉です。
最初は修行用の高負荷条件でした。
ですが、この言葉によって。
黒い戦闘服姿の春麗は、
リュウの修行相手としてだけ見せる特別な春麗、
という意味を持ち始めます。
リュウが返したのは、
「嬉しいと思った」
だけです。
短い。
いつものリュウです。
でも、その短さで春麗には十分効く。
この二人らしい場面になったと思います。
今回のエピソードは、
黒い戦闘服を初めて着た回。
新しい戦い方を初めて実戦で試した回。
リュウがその初見負荷に真正面から挑んだ回。
そして春麗が、その姿で初めてリュウに勝った回です。
出発点は、あくまでリュウへの修行のお返しでした。
自分がかつて昇龍拳への恐怖を克服するために付き合ってもらった。
だから今度は、自分がリュウの鈍った拳を直す。
その善意と格闘家としての義理から始まったものが。
今回の初勝利によって。
少しだけ。
別の甘さまで持ち始めました。
まだ入口です。
春麗本人も、そこまでは分かっていません。
ただ黒い戦闘服姿でリュウに勝つという経験が、思っていたよりずっと気持ちのいいものだった。
その事実だけは。
今回、確実に春麗の中へ残ったのだと思います。