また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートの修行編後日談より先の未来時空のエピソードです。
記録板AIは、外部検証領域に一件の未来ログを表示した。
『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本編確定ログではありません』
『本ログは、第1話敗北ルート修行編完走後、春麗とリュウが相互好意を確認済みの未来時空です』
『黒い戦闘服による第二回高負荷試験』
『春麗、リュウともに初見ではありません』
『以下、検証ログを開始します』
二度目に黒い戦闘服へ袖を通した時、春麗は前回よりずっと落ち着いていた。
鏡の前で黒と金の中国風戦闘服を整える。胸元の赤い中国結びを確認し、白い手首の装飾を合わせる。足元の白と金のブーツも、一度実戦で使ったことで感覚が分かっている。
そして髪。
今日もいつものようにはまとめず、長い黒髪を肩から背中へそのまま落とした。
前回は、これが自分自身にもかなり厄介だった。大きく動けば髪が視界へ入り、裾の動きを意識しすぎれば踏み込みが遅れた。リュウへ言葉を入れた直後、その返答に自分が動揺して拳まで受けた。
「……今日は、同じ失敗はしないわよ」
鏡の中の自分へ言う。
一度やったのなら、直せる。
髪は無理に使わない。身体が動けば自然に流れる。それで十分だ。裾も、見せるために大きく動かす必要はない。自分が戦った結果として動くものを、相手が処理しなければならない情報の一つにすればいい。
言葉も同じだった。
多ければいいわけではない。リュウが最も判断したい瞬間へ、一言だけ置く。
前回は実戦の中で探りながら作った。
今日は違う。
もう少し上手く使える。
春麗は鏡の前で構えた。身体をわずかに斜めへ向け、視線を上げて半歩前へ出る。
「……これなら悪くないわね」
そこで、鏡の中の自分を見たまま少し止まった。
前回。
勝った。
この姿でリュウに。
初めて考えた戦い方を使い、最後に鈍った昇龍拳を見抜いて平掌打から押し切った。
その後、リュウを自分の膝へ乗せた。
額に敗者の印を刻んだ。最後に鈍った右拳にも。
長い髪を下ろしたまま、膝の上のリュウを覗き込んだ。
そして。
「綺麗だった」
「いつもの服より、女として見える」
「跳んだ時……かなり目のやり場に困る」
そこまで言われた。
「……」
春麗の頬が少し熱くなる。
「今、思い出す必要はないでしょう」
今日は修行だ。
リュウは前回より適応してくる。自分も前回より上手く使う。
その勝負。
それだけだ。
春麗は鏡から離れようとして、もう一度だけ自分を見た。
二度目の今日は。
リュウは、どう見るだろう。
「……それを確認するのも修行よ」
口にしてから、眉を寄せる。
「言い訳じゃないわ。本当に修行なんだから」
誰も聞いていない。
それでも念を押してから、春麗はほんの少しだけ楽しみにしながら修行場へ向かった。
リュウは前回と同じ姿で待っていた。
白い道着。
赤い鉢巻。
まだ構えは取っていない。
「待たせたわね」
春麗が姿を見せると、リュウの視線が真っ直ぐ向いた。
長い黒髪。
黒と金の戦闘服。
そして、春麗。
前回はここで完全に止まった。
今日は止まらない。
呼吸はほんの少しだけ変わった。それでも前回とは明らかに違う。
春麗はすぐに気づいた。
「あら」
「何だ」
「今日は『春麗?』って確認しないのね」
リュウは少し黙った。
「一度見た」
「そう」
春麗が一歩近づく。
黒い裾が揺れ、リュウの視線も動いた。しかし戻るまでが前回より早い。
「慣れた?」
「いや」
即答だった。
春麗の眉が上がる。
「慣れてないの?」
「まだな」
「でも、前回ほど驚いてはいないわね」
「一度経験した」
「じゃあ?」
リュウは春麗を見た。
「難しいことは分かっている」
春麗は少しだけ笑った。
「学習したのね」
「同じ失敗はしないつもりだ」
「今日は初見だったとは言わせないわ。髪も、この服も、距離も視線も言葉も。全部、一度経験してるわよ」
「分かっている」
春麗はリュウの前へ立つ。
前回より、ほんの少しだけ近く。
「それでも、拳を鈍らせない?」
「鈍らせない」
「いい返事ね」
春麗は構えた。
「私も、前回みたいな失敗はしないわ」
リュウも拳を握る。
「春麗も修行か」
「……そうね。私も、この戦い方はまだ二回目なんだから」
「なら、お互い同じだな」
春麗は笑った。
「そういうこと。今日はお互い言い訳なしよ。あなたは初見じゃない。私は初挑戦じゃない」
「望むところだ」
春麗の目が鋭くなる。
「その状態で、本気で来なさい」
「行くぞ」
最初の攻防で、前回との違いはすぐに現れた。
春麗が踏み込む。
黒い裾が流れ、長い髪が少し遅れて追う。
リュウはそれを見る。
だが、視線を奪われすぎない。
腰、肩、足、重心。
戦うために必要な情報へ、すぐ戻ってくる。
拳が頬の横を抜けた。
「……いいわね」
春麗は笑いながら身をかわす。
返しも速い。
前回なら、春麗が姿勢を変えるだけで一瞬判断が遅れた。
今日は違う。
この姿の春麗も、そこから普通に攻撃が来ることも、見た目へ意識を引かれている間に打ち込まれることも、リュウはすでに知っている。
春麗は中段蹴を放つ。
受けられた。
すぐに距離を離す。
前回は、ここで髪を意識しすぎた。
今日は何もしない。
身体が動けば、髪も自然に流れる。それだけでリュウの視界へ入る。
「リュウ」
名前を呼ぶ。
だが、すぐには攻撃しない。
リュウが春麗を見る。
春麗も見る。
何も起こらない。
先にリュウが踏み込んだ。
春麗はそれを待っていた。身体を落として懐へ潜り、顎狙突拳を打ち込む。
リュウが受けた。
「今、何に引っかかった?」
春麗が問いかける。
「……間か?」
「正解よ」
春麗は満足そうに距離を取った。
使える。前回より、明らかに。
髪も、衣装も、視線も、言葉も、無理に目立たせる必要はない。
そこに存在しているだけで、リュウはそれを認識しなければならない。
春麗が必要な瞬間だけ、そこへ一つ足せばいい。
「……なるほど」
前回より、ずっと自然だ。
しかし当然、リュウも強くなっている。
春麗が視線を合わせる。
前回なら呼吸が止まった距離。
今日はわずかに揺れるだけで、すぐ拳が来た。
「っ」
重い拳を受ける。
「今日は、容赦ないわね」
「鈍らせない修行だ」
「そうだったわね」
春麗は笑った。
嬉しい。
本当に。
前回より、リュウはいい。
この姿を見ている。
春麗を女として意識し見ている。
それでも拳が出る。
「それでいいわ」
春麗が再び踏み込む。
そして次は。
そのリュウに勝つ。
中盤。
春麗は、自分が前回よりもこの戦い方に馴染んでいることを感じていた。
同時に、リュウも前回よりはるかに戦えている。
だからこそ試合そのものは、前回以上に厳しかった。
春麗の運用が洗練された分、リュウの対処も速い。
視線を誘っても必要以上には追わない。長い髪が動いても、そこだけを見ない。黒い裾が流れれば、その奥にある身体の重心へ意識を戻す。
春麗が距離を詰める。
リュウは見る。
女性としての春麗を認識したまま。
拳を出す。
肩へ入った。
「っ……!」
春麗が一歩下がる。
「かなり良くなったじゃない」
「前よりはな」
「自分で言うの?」
「前よりは戦えている」
「そうね」
そこは春麗も素直に認めた。
「前よりずっといいわ」
リュウの構えは変わらない。
春麗は少し口元を上げた。
「でも、まだ終わっていないわよ」
「分かっている」
さらに距離を詰める。
いつもの武道服で戦う時より近い。
前回の試合で見つけた距離だ。
今日は、もう迷わない。
「ねえ、リュウ。今日は私を見ても前より平気?」
リュウの拳が来る。
春麗は避けた。
「答えないの?」
「戦っている」
「前回は答えたでしょう?」
「答えたら殴られたからな」
春麗の動きが一瞬止まりかけた。
そして、思わず笑う。
「学習してるじゃない」
「同じ手には乗らない」
「でも――正解よ」
身体を沈め、金的蹴を放つ。
リュウが受ける。
「それくらいじゃないと修行にならないもの」
すぐに拳が返り、春麗も受けた。
二人の距離が開く。
荒くなった呼吸を整えながら、春麗は思う。
前回より難しい。
当然だ。
リュウは学んでいる。
この姿に。
この距離に。
この戦い方に。
それが嬉しい。
なのに、胸の奥にはもう一つ妙な感覚があった。
前回、最後にリュウの拳は鈍った。
そこを取って、自分は勝った。
そして、その後。
春麗の視線が、リュウの右手へ一瞬だけ落ちた。
前回、敗者の印を刻んだ手。
もちろん今は何もない。目に見える印など残っていない。
それでも覚えている。
額も。
右手も。
膝の上のリュウも。
「……」
何を考えたのか気づいてしまった。
「いけないわね」
「何がだ」
「何でもないわ」
まだ勝っていない。
それなのに、勝った後を思い出した。
春麗は少しだけ自分へ腹を立てる。
これは修行だ。
リュウの拳を鈍らせなくするための。
自分が勝者になるためだけのものではない。
「来なさい、リュウ」
「ああ」
余計な思考を切り、春麗は意識を試合へ戻した。
終盤。
二人とも、もうほとんど余裕は残っていなかった。
春麗の左腕は重く、脇腹にも一撃をもらっている。リュウも肩で息をしていた。
それでも、リュウの拳は前回よりずっと鈍らない。
春麗には分かる。
たった一戦で、この姿の春麗へかなり適応してきた。
長い黒髪。
黒と金の戦闘服。
女性として強く見える身体の輪郭。
近い距離。
視線。
言葉。
間。
全部を認識している。
その上で拳を出している。
春麗は、それが嬉しかった。
「リュウ」
「何だ」
「今日はかなりいいわ。この姿を見ても、私を女として意識しても、ほとんど拳を鈍らせていない」
「自分でも分かる」
春麗は構える。
「もう少しね。次こそ、本当に鈍らなくなるかもしれない」
「そのつもりだ」
その返事を聞いた時、胸に確かな喜びがあった。
それが修行の目的だ。
自分が望んでいることだ。
なのに同時に、ほんの少しだけ別の感情が混ざった。
次は、鈍らないかもしれない。
なら、今日が最後かもしれない。
何が最後?
考えかけたところで、リュウが構えた。
「行くぞ」
「来なさい」
リュウの掌に気が集まる。
「波動拳!」
青い気弾が放たれた。
春麗は低く、鋭く跳ぶ。
前回より余計な動きはない。
黒い裾は身体の動きに従って流れ、長い髪も自然に後ろへなびく。
見せようとしない。
隠しもしない。
ただ、春麗が飛び込む。
リュウはそれを見る。
女として。
格闘家として。
好きな相手として。
そして、倒すべき相手として。
全部を同時に見たまま踏み込む。
「昇龍拳!」
拳が跳ね上がった。
速い。
深い。
前回より完成している。
このままなら、今度こそ撃ち落とされる。
春麗の身体の奥へ、昔の恐怖がごく小さく蘇った。
それでも止まらない。
それはもう、自分が終えた修行だ。
春麗は正面からリュウの拳を見る。
拳が上がる。
最後まで上がる。
──鈍らない。
そう思った瞬間。
リュウの視線が春麗の顔へ戻った。
乱れた長い髪。
荒い呼吸。
試合の熱で赤くなった頬。
それでも自分へ届こうとしている春麗を。
リュウは見た。
見ないふりをしなかった。
そして。
本当に、ほんのわずかだけ。
拳が鈍った。
前回よりはるかに小さい。
半拍にも満たない。
普通なら隙とは呼べない。
だが。
春麗には分かった。
「……見つけた」
身体が動いた。
わずかに変わった昇龍拳の軌道へ潜り込む。
拳が頬をかすめた。
痛い。
だが直撃ではない。
春麗の顎狙突拳が先にリュウの胸へ入った。
身体が揺れる。
離さない。
右。
左。
平掌打。
前回のような余計な揺さぶりは、もういらない。
ここからは、ただ勝つために打つ。
リュウの拳も返ってきた。
「っ!」
肩へ入り、春麗の身体が流れる。
それでも止まらない。
最後。
リュウの拳。
春麗の拳。
ほとんど同時。
けれどほんの少しだけ、春麗が速かった。
最後の顎狙突拳がリュウの胸へ届く。
リュウの拳は、春麗の頬を浅くかすめるだけで終わった。
リュウの膝が落ちる。
春麗も倒れそうになる。
それでも踏みとどまった。
勝者は。
また、春麗だった。
「……」
しばらく何も言えなかった。
苦しい。
身体中が痛い。
前回以上に、ギリギリだった。
それでも勝った。
「……私の」
一度息を整える。
「私の勝ちね」
リュウは片膝をついたまま、悔しそうに息を吐いた。
「ああ」
その返事が、春麗の中へ甘く入った。
二度目。
この姿で、二度目の勝利。
「前回より、ずっとよかったわ」
「それでも俺の負けだ」
春麗は少しだけ笑った。
「ええ。でも、最初からほとんど止まらなかったわ。この姿も見た。私を女としても見た。それでも拳を出した」
「最後まではな」
「そうね。最後まで、ほとんど鈍らなかった」
春麗は少しだけ笑みを深くする。
「でも、最後だけ。ほんの少しだけ」
「そこを取られた」
春麗は自分の右掌を見る。
「私には十分だったわ」
リュウも悔しそうに自分の拳を見た。
「次は、なくす」
「そうしなさい」
春麗は本心から言った。
「本当に。次は最後まで鈍らせないで」
「次こそな」
その答えに、春麗は満足した。
これでいい。
修行は進んでいる。
リュウは確実に、自分を女として見たまま本気の拳を出せるようになっている。
そして今日。
そのリュウに、自分が勝った。
春麗は悔しそうなリュウの顔を見る。
前回も見た顔。
知っている。
そして、知っているからこそ。
次に自分が何をしたいのかも分かってしまった。
「……」
一瞬だけ止まる。
前回は、この姿で初めて勝った日だった。
特別だった。
だから膝へ乗せた。
敗者の印を刻んだ。
そういう説明もできなくはなかった。
今日は違う。
二回目だ。
初めてではない。
それでも春麗は、その場へ腰を下ろした。
自分の膝を軽く叩く。
「リュウ」
「何だ」
「こっち」
リュウは春麗の膝を見る。
それだけで意味は分かったらしい。
「分かった」
あまりにもいつも通りの返事に、春麗の胸がほんの少しだけ跳ねた。
そう。
膝枕そのものは、いつも通りだ。
勝った日の、この流れには二人とももう慣れている。
違うのは、春麗がこの姿で勝った後の甘さを、すでに知っていることだった。
「今日は素直ね」
「いつものことだろう」
「……そうね」
春麗は少しだけ甘く笑った。
「今日は私が勝ったんだから、いつも通りでいいのよ」
「そうだな」
「なら早くこっちに来なさい」
黒い戦闘服越しの膝へ、リュウの頭を乗せた。
リュウの頭の重みが膝へ伝わる。
勝った日の、この重さにはもう慣れている。
この距離も、何度も知っている。
ただ今日は、少しだけ違った。
長い黒髪が肩から前へ流れ、リュウが下から春麗を見る。
膝枕そのものは、いつもと同じ。
違うのは、この姿で勝った後の甘さを、春麗がもう知っていることだった。
前回は知らなかった。
黒い戦闘服で戦い、自分をいつも以上に女として意識したリュウに勝って、そのまま膝の上から悔しそうな顔を見下ろす。
それがどれだけ甘いのか。
今日は知っている。
知ったうえで、また勝った。
そして今、いつものようにリュウを膝へ乗せている。
だからこそ、胸に広がる甘さは前回より少しだけ危なかった。
「……いい顔ね」
春麗は笑い、リュウの額へ指を伸ばした。
「まず、ここ」
春麗が額へ指を伸ばすと、リュウは特に驚きもせず目を閉じた。
「今日は額からか」
「ええ。黒い戦闘服での二つ目よ」
「二敗目だな」
「そう。この姿の私に負けた、二回目の印」
春麗は額へゆっくり指を滑らせる。
「今日の敗者も、あなたよ。リュウ」
「分かっている」
「前回より強かったわ」
「それでも負けた」
「ええ。今日も私にね」
春麗は少しだけ意地悪く笑った。
次は右手。
春麗が手を差し出すと、リュウはもう分かっているように右拳を預けた。
「そして、次はこっちよ」
「最後に鈍った拳だな」
「その通り」
春麗はその拳を自分の手の中へ収める。
「でも今日は褒めてあげる。前回よりずっと鈍らなかった。本当にあと少しだった」
「…あと少しで負けずに済んだな」
「そこは素直に褒められなさい」
春麗は少し笑った。
「だから今日は――よくできました」
右手へ、黒い戦闘服での二敗目の印を刻む。
リュウの眉が寄った。
「それは子ども扱いだろう」
「違うわ」
春麗は笑った。
「敗者扱いよ」
「そっちの方が悔しいな」
「でしょうね」
さらに悔しそうになったその顔を見て、春麗の胸へまた甘いものが入った。
「……その顔、悪くないわ」
「春麗」
「勝者なんだから、これくらい言わせなさい」
印はもう刻んだ。
本当なら、右手を離していい。
それなのに、もう少しだけ持っていたかった。
そう思っていることに、自分で気づく。
「……」
「春麗?」
「何でもないわ」
そう答えながら、リュウの右手はまだ春麗の手の中にあった。
「ねえ、リュウ」
「何だ」
「今日の私、前回より上手かったでしょう?」
「上手くなっていた」
即答だった。
「どこが?」
「全部だ」
「全部では分からないわ」
リュウは少し考えた。
「髪を気にしなくなった」
「……見ていたのね」
「前は、自分でも邪魔そうだった」
「余計なところまで覚えてるわね」
「服も」
「ええ」
「前は、動かそうとしていた。今日は違った。春麗が動いた後に、服が動いていた」
春麗は少し黙った。
そこまで見られていた。
「言葉も前より少なかった」
「必要なところだけにしたの」
「その方が嫌だった」
春麗の口元が上がる。
「それは褒め言葉?」
「褒めている」
「なら、受け取っておくわ」
リュウが膝の上から春麗を見る。
「春麗も、前回より慣れていた」
「ええ。あなたもね」
「前よりはな」
春麗は、まだ握っていた右手へ少しだけ力を込めた。
「だから今日は、前回よりずっといい試合だったわ」
「そうだな」
「そして、前回より強いあなたに――また私が勝った」
リュウは少しだけ眉を寄せた。
「そこは悔しい」
その返事が、たまらなく気持ちよかった。
春麗は今度こそ、自分の中に生まれている感情をはっきり認識した。
嬉しい。
勝ったのだから当然だ。
でも、それだけではない。
リュウは前回より強くなった。
この姿への対処も覚えた。
最後までほとんど拳を鈍らせなかった。
そのリュウが、自分の前で最後にほんの少しだけ鈍った。
自分は、その一瞬を見つけた。
勝った。
そして今、その敗者が自分の膝の上にいる。
額にも、右手にも、自分が刻んだ印がある。
前回も気持ちよかった。
膝枕も、敗者の印も、今さら初めてではない。
でも、この姿で勝ったのは前回が初めてだった。
いつも以上に自分を女として意識したリュウが、それでも戦って、最後にほんの少しだけ拳を鈍らせる。
そこを見抜いて勝ち、そのまま黒い戦闘服でリュウを膝へ乗せる。
その甘さを、前回の春麗はまだ知らなかった。
今日は違う。
知っていた。
知っていて。
また、自分から選んだ。
「……」
春麗は、少しだけ自分が怖くなった。
「どうした」
「ただ……前回より、今日の方が勝った実感が強いと思っただけ」
「そうか」
「ええ」
春麗はリュウの乱れた髪へ触れ、指で軽く直す。
「あなたも前回より強かったでしょう?」
「前よりはな」
「私も前回より上手く戦えた」
「そうだな」
「そのあなたに、また勝った」
リュウの眉が寄った。
「嬉しそうだな」
「勝者なんだから当然でしょう?」
「それだけか?」
「……何よ」
「いや」
春麗は少しだけ目を細めた。
「なら、黙って負けていなさい」
「次は勝つ」
「そう言うと思ったわ」
その言葉を聞いて、春麗は胸の奥で少し安心した。
それでいい。
リュウは負けるために来るのではない。
膝枕されるためでも、印を刻まれるためでもない。
次は勝つ。
本気で春麗を倒すために来る。
「そう。その答えならいいわ」
「次は勝つ」
「ええ。次は本当に最後まで鈍らせないで。この姿を見ても、私を女として意識しても、好きな女だと思っても」
「全部見たまま戦う」
「それでも私を倒しにきなさい」
「そのつもりだ」
春麗は勝者の笑みを深くした。
「そして、そのあなたに――私が勝つわ」
リュウの目が鋭くなる。
「そうはさせない」
「そう言うと思った」
二人とも笑わなかった。
ただ、その目だけはもう次の試合を見ていた。
その夜。
春麗は自室で、黒い戦闘服を丁寧に畳んでいた。
前回とは少し違う。
一度使った。
そして今日、二度使った。
もう全く知らない服ではない。
長い髪を下ろして戦う感覚も、裾がどう動くのかも、近距離でどんな姿勢が自然なのかも少しずつ分かってきた。
春麗は畳んだ黒い戦闘服へ手を置く。
「……二回目」
一回目なら、初めてだったからと説明できた。
初めてこの姿で戦った。
初めてこの戦い方を試した。
初めて勝った。
だから勝者として少し浮かれて、リュウを膝へ乗せて、敗者の印を刻んだ。
そう言えなくもない。
でも今日は二回目だった。
春麗は知っていた。
勝った後、どんな気持ちになるのか。
リュウを膝へ乗せた時の距離を知っていた。
悔しそうな顔も知っていた。
額へ触れる感覚も。
右手へ印を刻む感覚も。
全部知っていて。
また自分からやった。
「……これは、少し危ないわね」
何が、とは言わない。
言いたくない。
ただ、分かる。
勝つのが嬉しい。
リュウに勝つのは、特別に嬉しい。
自分を女として見たリュウの拳が最後にほんの少しだけ鈍る。
それを見抜いて勝つ。
さらに、そのリュウが悔しそうな顔で自分の膝にいる。
かなり甘い。
春麗は自分の右掌を見る。
今日、リュウへ届いた掌。
勝利を取った掌。
その後、額にも右手にも敗者の印を刻んだ指。
「……だからって、鈍ってほしいわけじゃない」
そこだけは、はっきりしている。
リュウに弱くなってほしいわけではない。
自分を見ないでほしいわけでもない。
逆だ。
もっと見てほしい。
もっと慣れてほしい。
それでも本気で拳を出して。
いつか本当に、最後まで一瞬も鈍らなくなる。
そのリュウと戦いたい。
そして、勝ちたい。
「……そうよ」
春麗は少しだけ安心した。
「私は、鈍らないリュウに勝ちたいの」
それなら、まだ大丈夫。
ただ、その後。
もし、そのリュウにまた自分が勝てたなら。
膝の上のリュウが、一瞬だけ頭に浮かんだ。
「……」
春麗はすぐに黒い戦闘服を畳み終えた。
「そこは、勝ってから考えることよ」
前にも似たようなことを言った気がした。
春麗は、気づかないことにした。
記録板AIは、そこでログを停止した。
『検証ログ終了』
『黒い戦闘服による第二回高負荷試験』
『リュウ、前回より大幅に適応』
『春麗も複合的な揺さぶりの運用精度を向上』
『リュウの拳の鈍化/前回より大幅減少』
『春麗/微小な鈍化を見抜き、ギリギリ勝利』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回のエピソードは、黒い戦闘服での二度目の実戦と、その勝利を通して春麗が「勝者酔いの入口」に立つ回でした。
前回は、春麗にとってもリュウにとっても初めてでした。
春麗は初めて黒い戦闘服を実戦投入し、長い髪、衣装の動き、視線、距離、言葉、間といったものをどう戦いへ組み込めるのか、実戦の中で試しています。
当然、失敗もしました。
髪が自分の視界に入る。
衣装を意識しすぎて踏み込みが遅れる。
リュウを動揺させようとして、逆に自分がリュウの言葉で動揺する。
それでも春麗は試合の中で修正し、最後にはリュウの拳が鈍った一瞬を取ってギリギリで勝ちました。
一方のリュウも、初めて見る春麗の姿にかなり強く動揺しています。
いつもの武道服とは大きく違う黒と金の戦闘服。
普段はまとめている長い黒髪を下ろした姿。
より女性としての輪郭が強く見える春麗。
もともと両想いになったことで、いつもの春麗を相手にしても拳がわずかに鈍っていたリュウです。
そこへさらに大量の情報が追加されたのですから、初戦が非常に厳しかったのは当然でした。
しかし今回。
二人とも、もう初見ではありません。
ここが一番大きな違いです。
春麗は前回の失敗を持ち帰っています。
髪を無理に使わない。
衣装を大きく見せようとしない。
言葉を増やしすぎない。
相手が判断を必要とする瞬間にだけ、一つ余計な情報を置く。
前回は「思いついたものを試していた」段階でしたが、今回は少しずつ「使う」段階へ進んでいます。
そしてリュウも、当然学習しています。
前回のように春麗が姿を見せただけで完全に止まることはない。
長い髪も知っている。
黒い戦闘服も知っている。
春麗が近い距離で視線や言葉を使ってくることも知っている。
しかも、
「前回、答えたら殴られた」
というところまで覚えている。
この辺りはかなり好きなところです。
格闘家同士なので、恋愛的な動揺まできちんと次の試合の学習材料になっています。
その結果、今回のリュウは前回より遥かに強いです。
春麗を女として見る。
黒い戦闘服姿も見る。
好きな相手だということも認識する。
しかし、それを消そうとはしない。
全部見たまま拳を出す。
春麗が本当に望んでいた方向へ、かなり近づいています。
終盤の昇龍拳も、前回とは違います。
ほとんど完璧です。
春麗自身が、
このままなら撃ち落とされる。
と思うほどです。
それでも最後の最後。
本当にごくわずかだけ、拳が鈍った。
普通なら隙とは呼べない程度。
しかし春麗には分かる。
以前、自分自身がその昇龍拳を越えるために何度も修行したからこそ、リュウの拳のわずかな違いを身体で覚えている。
だから、その一瞬を拾える。
今回の勝利は、前回以上に春麗らしい勝利になっています。
そして、今回もっとも重要なのは試合後です。
前回の膝枕や敗者の印は、
「黒い戦闘服で初めて勝った日」
という特別な状況でした。
初めてだったから。
勝者として少し浮かれたから。
特別だったから。
そう説明することもできました。
でも今回は違います。
二回目です。
春麗はもう知っています。
リュウを自分の膝へ乗せた時の距離を。
悔しそうな顔を近くで見る気持ちを。
額へ敗者の印を刻む感覚を。
最後に鈍った右手を自分の手に取る感覚を。
全部知っています。
それでも。
リュウに、
「またか」
と聞かれて。
春麗は、
「……またよ」
と答える。
一度目は、黒い戦闘服で勝ってから知った甘さでした。
二度目は、その甘さを知ったうえで、春麗自身がもう一度選んでいます。
だから「勝者酔いの入口」なのです。
まだ完全に酔ってはいません。
むしろ春麗自身も危険性には気づいています。
リュウの拳が鈍らないことを、春麗は本心から望んでいる。
リュウが弱くなってほしいわけではない。
自分に負けるために来てほしいわけでもない。
膝枕されるために負けてほしいわけでもない。
春麗が本当に望んでいるのは、
自分を女として見て。
格闘家として見て。
好きな相手としても見て。
その全部を抱えたまま、一切拳を鈍らせず本気で自分を倒しに来るリュウです。
そして、そのリュウに自分が勝ちたい。
ここが崩れていないので、まだ危険な勝利依存にはなっていません。
むしろ、
「次は本当に最後まで鈍らせないで」
と春麗自身が言っています。
これは非常に重要です。
鈍ったリュウに勝つ甘さを知ってしまった。
でも、最終的に欲しいのは鈍らないリュウ。
その両方が、今の春麗の中に同時にあります。
だからこそ面倒です。
そして、かなり春麗らしい。
今回もう一つ面白いのは、リュウだけが修行しているわけではなくなってきたことです。
リュウは、
春麗を全部見たまま拳を鈍らせない修行。
春麗は、
リュウを揺さぶる新しい戦い方を身につけながら、その勝利の甘さに自分自身が飲まれないための修行。
二人とも、相手によって新しい課題を与えられています。
その意味では、恋愛と格闘がかなりきれいに同じ場所へ入り始めた回でもあります。
最後に春麗が自室で、
「私は、鈍らないリュウに勝ちたいの」
と確認できていることも大切です。
ここがあるから、まだ大丈夫。
ただし、その直後。
もし、その鈍らないリュウにまた勝てたなら。
というところから、また膝の上のリュウを想像してしまう。
そして、
「そこは、勝ってから考えることよ」
で止める。
この時点の春麗は、まだ入口に立っているだけです。
入ってはいない。
でも入口の向こうに何があるのか。
もう少しだけ、知ってしまった。
そんな二度目の黒い勝利でした。