また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートの修行編後日談より先の未来時空のエピソードです。
記録板AIは、外部検証領域に新しい未来ログを表示した。
『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本編確定ログではありません』
『対象/第1話ギリギリ敗北ルート春麗』
『春麗とリュウ/相互好意確認済み』
『現在/通常武道服で一勝、黒い戦闘服で二勝。合計三連勝』
『今回/黒い戦闘服による第三回高負荷試験』
『リュウのさらなる適応が、春麗の求める修行条件を満たすか検証します』
三度目に黒い戦闘服でリュウの前へ立った時、春麗は最初の数分で違和感を覚えた。
強い。
それ自体は喜ばしい。むしろ、そうなってもらうための修行だった。
春麗が踏み込む。身体の動きに合わせて黒い裾が流れ、下ろした長い髪が肩から背中へ遅れて追う。
それでも、リュウの拳はほとんど遅れなかった。
以前なら一瞬だけ髪へ引かれていた視線が、今日はすぐ肩と腰へ戻る。踏み込みも浅くならない。春麗が半歩近い距離へ入っても、拳は止まらなかった。
「いいじゃない」
春麗は笑い、上段蹴を放つ。
リュウが受け、間髪を入れず拳を返した。
春麗は上体をずらしてかわす。頬のすぐ横を拳が抜け、風が肌を切った。
速い。
鈍っていない。
「前より、ずっといいわね」
「ああ」
「そう。ちゃんと修行してきたのね」
「ああ」
春麗は素直に嬉しかった。
二戦目の最後、リュウは言った。
次はなくす。
最後に残った、わずかな拳の鈍りを。
そして本当に、かなり減らしてきた。
なら、自分もそれに応える。
春麗は距離を詰め、真っ直ぐ目を見る。
「リュウ」
「ああ」
拳が来る。
ほとんど遅れない。
春麗はそれをかわし、今度は身体を斜めへ向けて蹴りの起点を隠した。黒い裾が揺れる。
リュウは裾を追わない。
腰を見る。
そして中段蹴を受けた。
正しい。
春麗は少しだけ口元を上げた。
だが数合。
さらに数合。
攻防を重ねるうち、その笑みは少しずつ薄くなっていった。
何かが違う。
リュウは安定している。
黒い戦闘服にも、髪にも、近い距離にも、春麗の声にも、以前ほど反応しない。
それなのに、妙に腹が立つ。
「ねえ」
拳をかわしながら春麗が言った。
「今日、ずいぶん真面目ね」
「いつも真面目だ」
「そういう意味じゃないわよ」
懐へ入り、顎狙突拳を放つ。
リュウが受ける。
春麗は離れない。
いつもなら、ここまで入ればリュウの目が一度は春麗の顔を見る。
女として。
好きな相手として。
その認識を経て、格闘家としての判断へ戻る。
今日は、その目が来ない。
正確には、見ている。
ただし、拾っているのは必要な戦闘情報だけだった。
目、肩、腰、足、重心。
攻撃の予備動作。
それだけ。
次の拳を受け流した瞬間、春麗はようやく気づいた。
「……あ」
リュウの拳が止まる。
「何だ」
春麗は半歩離れ、じっとリュウを見た。
「そういうこと?」
「何がだ」
構えを崩さないまま、春麗は目を細める。
「あなた、私を見ないようにしてるでしょう」
リュウの眉がわずかに動いた。
「見ている」
「戦闘情報だけよね」
「……」
「図星ね」
春麗はため息をついた。
最初は嬉しいと思っていた。
リュウの拳が鈍らなくなってきた。
修行が進んでいる。
そう思った。
でも違う。
リュウは一段、賢くなったのだ。
黒い戦闘服へ必要以上に意識を置かない。長い髪も、女性らしい身体の輪郭も、春麗の声も、できるだけ戦闘判断から切り離す。
必要な情報だけを見る。
拳を鈍らせるものは、最初から深く拾わない。
格闘家として考えるなら合理的だ。
それは正しい。
でも。
「駄目」
「何がだ」
「それ、駄目よ」
「拳は前より鈍っていない」
「そうね」
「なら――」
「私を見ないことで鈍らなくなっても、修行になってないでしょう」
リュウが黙った。
春麗は一歩近づく。
「私はあなたに何て言った?」
「春麗を見ても、拳を鈍らせない」
「そう」
「見ている」
「だから、戦闘情報だけ拾ってるでしょう?」
さらに半歩。
リュウの間合い。
拳が届く危険な距離へ、それでも春麗は入った。
「私、女でしょう?」
「ああ」
「あなたが好きな女」
「ああ」
「そこ、今できるだけ考えないようにしてるでしょう?」
「……戦う時には必要ないと思った」
春麗の眉が跳ねた。
「必要ない?」
「春麗」
「今、かなり腹が立ったわ」
リュウが少しだけ目を見開く。
その反応を見た瞬間、春麗の中に昔の記憶が戻ってきた。
まだ波動拳と昇龍拳を越えるための修行をしていた頃。
春麗はリュウへ聞いた。
私って魅力ない?
今考えても、よくそんなことを聞けたと思う。
だが、リュウは逃げなかった。
最初の試合では春麗を格闘家としてだけでなく、女としても見た。
だから拳が鈍った。
あれは未熟だった。
今は一人の格闘家として見るよう意識している。
そう答えた。
あの時、春麗は嬉しかった。
女として何とも思われていなかったわけではない。
かなり嬉しかった。
なのに同時に思った。
格闘家として見てほしい。
女だからと拳を鈍らせられるのは嫌。
でも、女として何とも思われていないように扱われるのも嫌。
自分でも何を要求しているのかと思った。
そしてリュウから。
春麗は難しいな。
と言われた。
「……そういうこと」
春麗は思わず笑った。
「何だ」
「昔から私、同じこと言ってるのね」
「何がだ」
「格闘家として見なさい。でも、女の私は消すなって」
リュウは少し考えた。
「難しいな」
春麗は思い切り睨んだ。
「今さらでしょう!」
「ああ」
「そこは少しくらい否定しなさい!」
「だが、同じだ」
「分かってるわよ!」
一度、大きく息を吐く。
怒っている。
でも、少しおかしかった。
自分はずっと同じなのだ。
黒い戦闘服を着る、ずっと前から。
女として見てほしい。
でも、それを理由に弱く扱われるのは嫌。
格闘家として本気で来てほしい。
でも、女の自分を消されるのも嫌。
今はさらに好きな女としてまで見ろ。
そのうえで拳を鈍らせるな。
と要求している。
「……本当に面倒ね、私」
小さく呟く。
リュウは答えなかった。
「そこは答えなくていいのよ」
「ああ」
春麗は構え直した。
「でも」
目が変わる。
「あなたのやり方は不合格よ」
リュウも構えた。
「どうすればいい」
「簡単よ」
今度は春麗の方から、真っ直ぐリュウの目を見る。
「私を見なさい」
一拍。
「全部」
そこから、春麗の戦い方が変わった。
新しい何かを突然使い始めたわけではない。
距離、視線、言葉、髪、姿勢。
すべて、すでに試してきた。
ただ、目的が変わった。
リュウを揺らすためだけではない。
戦闘情報だけを拾って逃げるなら、それを許さない。
見なければ戦えない距離まで入る。
春麗が踏み込む。
近い。
リュウの拳が来る。
身体を斜めへずらしてかわす。
しかし離れない。
むしろ、さらに近づいた。
長い黒髪がリュウの視界へ入る。
リュウは肩を見る。
「こっちよ」
春麗が少し甘く言った。
リュウの視線が顔へ戻る。
そこへ追突拳。
「っ」
胸へ入った。
春麗は笑う。
「今、見たでしょう?」
「ああ」
「そう。それでいいの」
リュウが拳を返す。
春麗は腕で受けた。
強い。
それでも、もう一度近づく。
「今日は逃がさないわよ」
「逃げていない」
「女の私から逃げてるでしょう」
「……」
「ほら」
返事が遅れた。
春麗の中段蹴が脇腹へ入る。
リュウが下がる。
春麗は追った。
今までなら、ここまで近くはしなかった。
戦術としては危険だ。
だが今日は必要だった。
リュウ自身に、春麗という人間を丸ごと処理させるために。
「リュウ」
「何だ」
「私を見なさい」
リュウの視線が春麗へ向く。
「顔も、髪も、この服も。私が女なのも、あなたが好きなのも」
「全部を見る」
その返答の直後、リュウの動きがほんの少し遅れた。
春麗の目が細くなる。
「今、遅れたわね」
「分かっている」
「でも――」
春麗はその一瞬を取らなかった。
あえて距離を離す。
リュウが少し意外そうに見る。
「今のは取らないわ」
「なぜだ」
「修行だからよ」
春麗は笑った。
「あなたが私を見た瞬間に全部殴ってたら、『見ない方が正解』になるでしょう?」
リュウは少し考える。
「それじゃ意味がないな」
「そういうこと」
春麗は再び構えた。
「だから、慣れなさい。女の私に。好きな女の私に。その状態で戦っている私に」
「春麗を見たまま戦う」
春麗の声が、ほんの少しだけ甘くなる。
「その全部を見ても、私に勝とうとしなさい」
「そのつもりだ」
今度はリュウの目が逃げずに春麗へ向いた。
その目を、春麗はとても気に入った。
「そう。それ」
拳が来る。
速い。
春麗はかわした。
「いいじゃない」
中段蹴を放つ。
リュウが受ける。
そして反撃の正拳。
春麗も受ける。
二人の攻防は、再び激しくなった。
中盤。
リュウは明らかに苦しくなっていた。
先ほどまでの安定が消えている。
春麗が突然強くなったわけではない。
同じ春麗。
同じ黒い戦闘服。
同じ長い髪。
違うのは、リュウがもう切り捨てていないことだった。
春麗を見る。
衣装を見る。
髪を見る。
顔を見る。
女性として認識する。
自分が好意を持っている相手であることも消さない。
そのうえで戦闘判断を続ける。
一つ一つの遅れは小さい。
普通なら、ほとんど分からない程度だ。
だが春麗には分かる。
拳がほんの少し遅い。
受けがわずかに浅い。
視線が一瞬だけ顔に残る。
それだけで攻撃機会になる。
リュウの拳を外し、顎狙突拳。
入る。
中段蹴。
受けられる。
それでも押し込む。
少しずつ、春麗が試合を支配していった。
「苦しい?」
「かなりな」
即答だった。
春麗は笑う。
「でしょうね。でも、今の方がずっといいわ」
「俺もそう思う」
「ちゃんと私を見ているから」
「見たまま戦えている」
その返事が胸へ甘く入る。
分かっている。
これは修行だ。
リュウの拳を完成させるため。
なのに、嬉しい。
女として見られている。
好きな女として。
その認識を捨てずに、リュウが拳を出している。
そして、そのリュウに今、自分が勝っている。
かなりいい。
「……春麗」
「何?」
「楽しそうだ」
春麗の口元がさらに上がった。
「そう見える?」
「見える」
以前なら少し誤魔化したかもしれない。
だが今日は、もう否定しなかった。
「なら、たぶん楽しいのよ」
拳をかわす。
さらに近づく。
リュウの目を見る。
「あなたがちゃんと私を見て、それでも必死に勝とうとして」
踏み込む。
「それでも今、私の方が上にいる」
リュウの拳を外す。
開脚突拳が胸へ入った。
「かなり気分がいいわ」
リュウの身体が後ろへ流れる。
悔しそうな目。
それを見て、春麗はますます楽しくなった。
ただし、自分へ釘を刺すことも忘れない。
今の遅れを、ずっと残してほしいわけではない。
むしろ、なくしてほしい。
それでも、その過程で自分が勝つ。
それくらいは楽しんでもいい。
たぶん。
「もっと慣れなさい」
「そのつもりだ」
「私をちゃんと見て。それでも一瞬も遅れないところまで来なさい」
「行くぞ」
リュウが踏み込む。
その答え。
やっぱり好きだ。
「いいわ」
春麗は笑った。
「そのあなたに、今日も私が勝つわ」
終盤。
リュウは、かなり戻してきていた。
さすがだった。
春麗を見ている。
もう逃げていない。
それでも拳は、序盤より安定している。
春麗は、それが嬉しかった。
そして、少し悔しかった。
「本当に、覚えるのが早いわね」
「ああ」
「そこは謙遜しないの?」
「修行だからな」
「……まあ、いいわ」
春麗にも、もう大きな余裕はない。
三戦目。
リュウも黒い春麗との戦い方を着実に覚えている。
だが最後に、まだ残っていた。
リュウの掌へ気が集まる。
青い光。
「波動拳!」
放たれた気弾を、春麗は低く鋭く跳び越えた。
黒い裾が流れる。
長い髪が舞う。
いつもの春麗とは違う姿。
春麗。
女。
好きな相手。
格闘家。
全部を、リュウが見る。
今度は見ないふりをしない。
春麗には分かった。
リュウが全部を受け取った。
そのまま踏み込む。
「昇龍拳!」
拳が上がる。
速い。
前回より、さらにいい。
春麗は一瞬嬉しくなった。
そう。
それでいい。
だが最後。
リュウの目が春麗の顔を見た。
その瞬間。
本当にわずかだけ。
拳が遅れた。
春麗はそれを見逃さない。
「……まだね」
身体をひねる。
昇龍拳の軌道は、ほんのわずか完全ではない。
そこへ滑り込む。
近距離。
平掌打。
一撃。
リュウが受ける。
右。
左。
連続して掌をリュウの頬に打ち込む。
リュウも拳を返した。
春麗は肩で受ける。
痛い。
でも止まらない。
「ちゃんと――」
平掌打。
「私を――」
もう一撃。
「見なさい!」
最後。
胸へ放った手突が先に届いた。
リュウの身体が大きく揺れ、片膝が床へ落ちる。
春麗は数歩下がって踏みとどまった。
呼吸は荒い。
身体も痛い。
前回より少し余裕はある。
それでも、まだ楽勝ではなかった。
そのことも嬉しかった。
リュウはちゃんと強くなっている。
そのリュウにまた勝った。
「……私の勝ちね」
「俺の負けだ」
リュウは悔しそうに息を吐いた。
その顔を見ても、もう前回ほど自分の感情に驚かない。
甘い。
やっぱり甘い。
勝った。
自分を全部見たリュウに。
今日も。
そして今、そのリュウが自分の前で膝をついている。
「これで」
春麗は少しだけ勝者らしく顎を上げた。
「四連勝よ」
「数えていたのか」
「当然でしょう。最初の武道服で一回。この姿で三回」
リュウの眉がわずかに寄る。
「よく覚えている」
「勝った方は覚えているものよ」
春麗は少しだけ笑う。
「かなりいい数字になってきたわね」
「俺にはよくない」
即答だった。
春麗は、その悔しそうな顔を見て満足そうに笑った。
「その顔なら安心したわ」
春麗はまず、リュウの状態を確認した。
呼吸。
意識。
打撃を入れた場所。
問題はない。少し休めば動ける。
それを確認してから、春麗は迷わず床へ座った。
黒い裾を整え、膝を軽く叩く。
「リュウ」
春麗が膝を軽く叩く。
リュウはそれだけで意味を理解した。
何も聞かず、悔しそうな顔のまま春麗の隣へ来る。
「今日はずいぶん素直ね」
「勝った日は、いつもこうだろう」
春麗の眉が少し上がった。
「……そうね」
思わず口元が緩む。
「でも今日は、四連勝目よ」
「そこは嬉しくない」
「私は嬉しいわ」
「だろうな」
「だって今日も、あなたが敗者でしょう?」
「それは認める」
「なら、こっちに来なさい」
もう一度膝を示す必要もなかった。
リュウはすでに流れを知っている。
春麗が頭を支え、黒い戦闘服越しの膝へ乗せる。
リュウの頭の重みが膝へ伝わる。
もう何度も知っている重さ。
勝った日に繰り返してきた距離。
春麗も、リュウも、この流れにはとっくに慣れている。
だから今回は、膝枕をするかどうかなど考えもしなかった。
勝った。
なら、いつものように膝へ乗せる。
その自然さに気づいて、春麗は少しだけ目を細めた。
「……本当に慣れたわね」
「何がだ」
「こっちの話」
長い黒髪が肩から前へ落ちる。
リュウが下から春麗を見る。
「今日、かなり悔しいでしょう?」
「かなりな」
「最初は上手くいってたものね。私を必要以上に見ない。それで拳を安定させた」
「だが、それじゃ駄目だった」
春麗はリュウの額へ指を置く。
「そう。不正解」
「分かっている」
「本当に?」
「あのままじゃ修行にならない」
春麗の口元が少し上がった。
「じゃあ次は?」
リュウは膝の上から春麗を見る。
今度は意識して。
逃げずに。
「春麗を見る」
「女としても?」
「格闘家としても、好きな女としても。全部だ」
春麗の胸が少しだけ跳ねた。
「そのうえで?」
「拳を鈍らせない」
春麗は数秒、リュウを見下ろした。
そして満足そうに笑う。
「合格」
「今日は俺の負けだ」
「回答だけよ。試合は不合格」
「それは分かっている」
春麗は額へ指を滑らせる。
「だから、今日も敗者の印」
リュウはもう何も聞かなかった。
勝った日の、この流れにはとっくに慣れている。
春麗はゆっくりと今日の敗北を刻んだ。
「この姿であなたに勝つのも、これで三回目ね」
「増えたな」
自分で数えた途端、春麗の口元が少し緩んだ。
「……本当に増えてきたわね」
「春麗」
「何?」
「楽しそうだ」
今度は春麗も、すぐには否定しなかった。
「そうね」
少しだけ間を置く。
「楽しいわ」
自分ではっきり言った。
前回は「二回目も悪くない」。
そこまでだった。
今日は、もう少し先へ行く。
「あなたに勝つの、楽しいわ」
リュウは黙っている。
春麗は続けた。
「特に、前より強くなったあなたに、ちゃんと私を見てもらって」
少しだけ声が甘くなる。
「それでも最後は私が勝つの。かなり好きかも」
リュウの眉が寄った。
その悔しそうな顔を見て、また好きだと思った。
「でも、だからって」
春麗はリュウの右手を取る。
その動きだけで、リュウには次が分かった。
今日も最後に遅れた拳だ。
「このままでいて、とは思ってないわよ」
「分かっている」
「今日の最初みたいに、私を見ないのも駄目。最後みたいに、見て遅れるのも駄目」
「どっちも直す」
春麗は右手へ、今日の敗北を刻む。
「そう。次は見て、それでも遅れない」
「やってみる」
「そこまで来なさい」
「ああ」
印を刻み終えても、春麗は少しだけ右手を握ったまま膝の上のリュウを見下ろした。
勝者の笑み。
少しだけ甘い。
「それで、そのあなたをまた倒してあげる」
リュウの目が少し鋭くなる。
「やってみろ」
春麗は一瞬だけ目を見開き、それから楽しそうに笑った。
「……言うようになったじゃない」
「春麗が望んだんだろう」
「ええ」
春麗は笑みを深くした。
「楽しみにしてるわ」
その夜。
春麗は黒い戦闘服を畳みながら、昼間のことを思い出していた。
リュウはかなり良くなった。
それ自体は嬉しい。
ただ、今日の最初のやり方は違った。
自分を見ないことで拳を鈍らせない。
昔なら、それでもいいと思っただろうか。
「……思わないわね」
一人で答える。
以前、リュウが自分を一人の格闘家として見るよう意識していると聞いた時も、嬉しかった。
でも、女として何とも思われていないように扱われるのは嫌だった。
その頃から、ずっと変わっていない。
「格闘家として見なさい」
畳んだ黒い戦闘服へ手を置く。
「でも、女の私を消すな」
今なら、さらに続く。
「好きな女だって分かって。それでも本気で私を倒しなさい」
自分で言って、春麗は少し笑った。
「……難しいわね」
今度はリュウに言われなくても分かる。
かなり難しい。
でも、それでいい。
簡単な答えなど、最初から欲しくなかった。
そして、もう一つ。
今日、自分は、はっきり言った。
リュウに勝つのが楽しい。
そこも、もう否定しなかった。
春麗は自分の右掌を見る。
黒い戦闘服で三戦。
三勝。
その前に、いつもの武道服でも一勝。
「……四連勝」
小さく呟く。
今日もリュウを自分の膝へ乗せた。
額と右手に敗者の印を刻んだ。
悔しそうなリュウの顔を堪能した。
その全部が甘い。
かなり。
「でも」
春麗は畳んだ黒い戦闘服を見る。
「見ないことで鈍らなくなるのは、嫌」
そこだけは、はっきりしている。
「鈍っているから勝てるままなのも、嫌」
全部見て。
全部分かって。
それでも一瞬も遅れないリュウ。
その姿を想像する。
今日より、もっと強くなっているリュウ。
当然、自分が負ける可能性も上がる。
それなのに春麗の口元が、少しだけ上がった。
「そのあなたに勝てたら」
今度は、途中で止めなかった。
「……もっと気持ちいいでしょうね」
言ってしまった。
しばらく黙ってから、春麗は自分でも呆れたように笑った。
「これは、本当に少し危ないかも」
それでも黒い戦闘服をしまう手は、どこか楽しそうだった。
記録板AIは、そこでログを停止した。
『検証ログ終了』
『現在/春麗の四連勝。通常武道服一勝、黒い戦闘服三勝』
『勝利欲求とリュウの成長要求/現時点で両立』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回のエピソードは、黒い戦闘服での第三戦。
リュウが「拳を鈍らせない」という課題に対して、一度はかなり有効そうに見える答えを出しながら、春麗から「それでは駄目」と突き返される回でした。
今回のリュウは、明らかに成長しています。
黒い戦闘服も見慣れてきた。
長い髪にも以前ほど視線を取られない。
春麗が近づいても、甘い言葉を入れても、必要以上に反応しない。
結果として拳もかなり安定しています。
一見すると、順調に修行が進んでいるように見えます。
しかし春麗は途中で違和感に気づきます。
リュウは「春麗を全部見たうえで拳を鈍らせなくなった」のではありません。
拳を鈍らせそうな情報を、できるだけ戦闘判断から外していた。
髪。
衣装。
女性としての春麗。
好きな相手としての春麗。
そうしたものを深く拾わず、肩、腰、足、呼吸、攻撃予備動作といった格闘家として必要な情報だけを見る。
格闘技の対処として考えれば、かなり合理的です。
でも春麗がリュウへ出している課題としては不正解です。
春麗が求めているのは、
「女の私を見なければ拳を鈍らせずに済む」
ではありません。
「女の私も見なさい」
「好きな女だということも分かっていなさい」
「格闘家としても見なさい」
「全部そのまま抱えて、それでも拳を鈍らせるな」
です。
相変わらず、かなり無茶な要求です。
そして今回、春麗自身がここで少し面白いことに気づきます。
「昔から私、同じこと言ってるのね」
というところです。
黒い戦闘服を着るようになったから、春麗が突然こういうことを言い始めたわけではありません。
以前、リュウの昇龍拳への恐怖を克服する修行をしていた頃にも、春麗はすでに同じ矛盾を抱えていました。
女だからと拳を鈍らせられるのは嫌。
格闘家として見てほしい。
でも、女として何とも思われていないように扱われるのも嫌。
当時から、かなり面倒です。
だから黒い戦闘服での修行は、春麗が別人になった話ではありません。
むしろ、
「昔から春麗の中にあった要求を、今度は意図的に戦闘条件として突きつけている」
と考える方が近いです。
今回はその連続性を春麗本人が少し自覚する回でもありました。
そして後半。
春麗はリュウの「見ない」という逃げ道を塞ぎます。
近づく。
目を見る。
声を入れる。
髪も衣装も視界へ入る。
女としての春麗も。
好きな相手としての春麗も。
見なければ戦えないところまで距離を詰める。
ただし、ここで大事なのは、春麗が単純にリュウの動揺を利用して勝とうとしているだけではないことです。
一度、リュウが春麗をきちんと意識して遅れた時。
春麗は、あえてその隙を取っていません。
「今のは取らないわ」
「あなたが私を見た瞬間に全部殴ってたら、見ない方が正解になるでしょう?」
ここは今回かなり重要なところです。
春麗は勝ちたい。
ものすごく勝ちたい。
しかも最近は、リュウに勝つことがかなり楽しくなっています。
それでも、目先の一勝のためにリュウへ間違った学習をさせることはしない。
ちゃんと見ろ。
その状態に慣れろ。
それでも拳を出せ。
そこまで来てから、自分が勝つ。
これが春麗の望んでいる勝利です。
後半になると、リュウは実際にそれを始めます。
春麗を見る。
女性としても認識する。
好きな相手としても認識する。
格闘家としても見る。
全部捨てずに戦う。
すると当然、序盤より苦しくなる。
ほんのわずかに拳が遅れる。
受けが浅くなる。
視線が一瞬だけ残る。
普通なら誤差で済む程度です。
しかし相手は春麗です。
その小さな遅れを拾える。
そこから試合の主導権が春麗へ戻っていきます。
そして今回は、春麗側にも一つ進展があります。
リュウから、
「楽しそうだ」
と指摘されて。
春麗はもう、
「修行だから」
だけでは逃げません。
「たぶん、楽しいのよ」
と認めています。
さらに試合後には、
「あなたに勝つの、楽しい」
と、かなりはっきり認めるところまで進みました。
ここはこの後日談のもう一つのテーマでもあります。
春麗は黒い戦闘服で勝つことに、明らかに味を占め始めています。
自分を女として見てくれる。
好きな女として意識してくれる。
それでも本気で拳を出してくる。
そのリュウを自分が倒す。
そして勝った後。
悔しそうなリュウを膝へ乗せる。
額と右手へ敗者の印を刻む。
当然、かなり甘い。
今回は四連勝。
通常の武道服で一勝。
黒い戦闘服で三連勝。
膝枕も、もう「今日は特別だから」と理由をつける段階を過ぎています。
リュウが、
「またか」
と聞いて。
春麗が、
「四回目よ。そろそろ慣れなさい」
と返す。
ここまで来ると、かなり習慣化しています。
そして春麗自身も、それを楽しんでいることを否定しなくなりました。
ただしまだ大事な一線は守っています。
春麗は、
「鈍ったままのリュウに勝ち続けたい」
とは思っていません。
今回も、
「見ないことで鈍らなくなるのは嫌」
「見て遅れるのも駄目」
と、両方を否定しています。
欲しいのは、
自分を全部見る。
好きな女としても見る。
それでも一瞬も遅れない。
そこまで完成したリュウです。
そして、そのリュウに勝ちたい。
だから今回の春麗が最後に気づいた、
「前より強くなったあなたに、ちゃんと私を見てもらって、それでも私が勝った時が一番気持ちいいみたい」
という感覚が重要になります。
勝者酔いは進んでいます。
かなり進んでいます。
でも、相手が弱いから気持ちいいのではない。
むしろ逆。
リュウが強くなるほど。
自分への対策を覚えるほど。
それでも最後に自分が勝った時の満足が大きくなる。
そしてリュウも、それを聞いて、
「なら、次はもっと強くなる」
と返す。
これも、この二人らしい答えだと思います。
春麗が勝者として酔えば酔うほど。
リュウは、その勝者を引きずり下ろすために強くなる。
リュウが強くなるほど。
春麗は、そのリュウへ勝つことをさらに楽しみにする。
かなり危険な循環です。
でも今のところは、とても健全な格闘家同士の循環でもあります。
今回の三戦目は、リュウが単純にまた負けた回ではありません。
「見なければ鈍らない」という一見正しそうな答えを捨てて、
「全部見たまま戦う」
方向へ戻された回です。
そして春麗にとっては、
「私はリュウに勝つのが楽しい」
という黒の勝者酔いを、少しずつ自分の言葉で認め始めた回でもありました。
リュウ側の修行は、まだ続きます。
そして同時に。
春麗がこの甘い連勝と、どう付き合っていくのか。
こちらの修行も、いつの間にか始まっているのだと思います。