また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートの修行編後日談より先の未来時空のエピソードです。
記録板AIは、外部検証領域に新しい未来ログを表示した。
『本記録は、ディレクターズカットIFです』
『本編確定ログではありません』
『対象/第1話ギリギリ敗北ルート春麗』
『春麗とリュウ/相互好意確認済み』
『現在/通常武道服で一勝、黒い戦闘服で三勝。合計四連勝』
『今回/黒い戦闘服による第四回高負荷試験』
『リュウ/春麗を女性、好意対象、格闘家として同時に認識したまま戦闘』
『以下、検証を開始します』
試合の日。
春麗は、いつもより早く鏡の前へ座っていた。
机には化粧道具と櫛。傍らには黒と金の戦闘服、胸元につける赤い中国結び、白い手首の装飾、白と金のブーツが並んでいる。
三戦目までも準備はしていた。
けれど、今日は少し違う。
春麗自身が一番よく分かっていた。
前回、リュウに言った。
私を見なさい。
女としても。
好きな女としても。
格闘家としても。
全部。
そのうえで拳を鈍らせるな、と。
そしてリュウは、「次はもっと強くなる」と答えた。
「……なら、こっちもちゃんと準備しないと不公平よね」
鏡へ向かって言う。
理屈は通っている。
たぶん。
春麗は目元を整えた。普段より少しだけ輪郭をはっきりさせる。ただ派手にすればいいわけではない。近い距離で目が合った時、リュウの意識へ一度きちんと入ればそれでいい。
少し離れて確認する。
「……これくらいね」
次は髪。
初めて下ろした頃とは違う。
あの時は、長い髪を戦いながらどう扱えばいいのか春麗自身にも分かっていなかった。視界へ入り、動きを邪魔し、意識しすぎて踏み込みまで遅れた。
今は違う。
身体をどう動かせば髪がどう流れるのか、大体分かっている。
無理に見せる必要はない。
蹴れば流れる。
振り返れば追ってくる。
跳べば大きく舞う。
春麗自身が自然に戦えば、それだけでリュウの視界へ一つ情報が増える。
丁寧に髪を梳きながら、鏡を見る。
「今日は……」
口元が少し上がった。
「どうやってリュウを煽ろうかしら?」
言ったあと、春麗は鏡の中の自分を見返した。
「……」
数秒。
「私、ずいぶん楽しそうね」
今度は否定しなかった。
三戦目でもう認めている。
リュウに勝つのは楽しい。
前より強くなったリュウが、自分を全部見て、それでも本気で勝とうとする。
そのリュウに勝つ。
それが一番気持ちいいらしい。
自分で、そう言った。
だったら今さら、試合前の準備を楽しんでいることだけ否定しても仕方がない。
「まあ……私、かなり頑張ってるし」
メイク。
髪。
衣装。
姿勢。
試合中にどの距離へ入るか。
どんな言葉を、どの瞬間に置くか。
普通に戦うだけなら、ここまではしない。
いつもの武道服なら髪をまとめ、身体を温めて、修行場へ行けばいい。
今は違う。
リュウが自分をどう見るか。
そこから、もう戦いが始まっている。
「……これも修行なのは、本当よ」
口にしてから、少しだけ間を置いた。
誰に弁明しているのか、自分でもよく分からない。
そのことがおかしくなって、春麗は笑った。
「でも、せっかくだもの」
鏡の中の自分へ言う。
「できるだけ困ってもらいましょう」
黒い戦闘服へ袖を通す。
黒と金。
赤い中国結び。
白い手首の装飾。
白と金のブーツ。
鍛え上げた格闘家としての脚も、腰も、肩も隠さない。
同時に、女性としての身体の線も隠さない。
春麗は鏡の前へ立ち、身体をわずかに斜めへ向けた。
目だけを正面へ。
少し笑う。
「リュウ」
鏡の向こうにいるつもりで呼んでみる。
「今日は、全部見るんでしょう?」
自分で言った言葉に、さらに口元が上がった。
「……覚悟しなさい」
修行場には、今日もリュウが先に来ていた。
白い道着。
赤い鉢巻。
静かな目。
春麗が姿を見せる。
リュウは見る。
そこで春麗は、すぐに気づいた。
前回までとは違う。
止まらない。
目も逸らさない。
かといって、戦闘に必要な部分だけへ視線を絞ってもいない。
春麗の顔。
下ろした長い髪。
黒と金の戦闘服。
そして、もう一度顔へ戻る。
ほんの短い時間。
それでも、全部を見る。
春麗は満足した。
「今日は、ちゃんと見てるわね」
「見ている」
「前みたいに、必要なところだけじゃなくて?」
「全部だ」
「私が女なのも、あなたが好きな女なのも。そのうえで格闘家だってことも?」
「全部分かっている」
「……いいわ」
春麗は笑った。
「回答は合格よ」
「試合はこれからだ」
「あら」
眉が上がる。
「言うようになったじゃない」
「前にも負けたからな」
「じゃあ、今度こそ見せてもらおうかしら」
半歩近づく。
長い髪が肩から流れた。
リュウはそれも見る。
そして。
ほんのわずかだけ、呼吸が変わった。
止まってはいない。
硬直もしない。
拳を出せなくなるほどでもない。
本当に、わずか。
呼吸一つ。
それだけ。
でも、春麗には見えた。
(……今)
目を細める。
「始めましょうか」
「来い」
開始直後から、リュウは強かった。
前回より明らかに。
春麗が踏み込む。
拳が来る。
速い。
身体をずらしてかわし、中段蹴を返す。
リュウが受ける。
すぐ反撃。
春麗も腕で受けた。
重い。
「いいわね」
本心から出た。
前回の序盤とは違う。
自分を女として見ることを避けてはいない。
それでも拳が出る。
長い髪が動いても。
黒い衣装の輪郭が視界へ入っても。
目が合っても。
ちゃんと攻撃してくる。
三戦目で出した宿題を、少なくとも逃げずに持ってきた。
嬉しい。
だから春麗も、本気で困らせることにした。
リュウが前へ出る。
春麗は下がらない。
拳の届く距離。
そこで目を合わせた。
「リュウ」
名前だけ。
リュウは春麗を見る。
拳も出る。
ただ、春麗には見えた。
踏み込みの開始が、ほんの少しだけ遅い。
普通なら誤差。
だが、その誤差へ入れるだけの技量が春麗にはある。
半歩。
拳を外へ流し、懐へ潜り追突拳。
「っ」
胸へ浅く入った。
春麗はすぐに離れる。
「今、遅れたわね」
「分かっている」
「自分でも?」
「少しだけな」
「なら、次は?」
「見たまま遅れない」
春麗は笑った。
「そう。それを続けなさい」
次。
身体を回す。
長い髪が少し遅れて流れ、リュウの視界へ入った。
リュウの目は髪だけを追わない。
腰、肩、脚、顔、全部を見る。
だからこそ、判断が一つ増える。
蹴るか。
踏み込むか。
何か言うか。
春麗は、あえて何もしなかった。
リュウの判断が一つ空振りする。
「何か来ると思った?」
春麗は声だけを置いた。
リュウの目がそちらへ戻る。
その瞬間、春麗は反対側へ入り、低蹴打で足を払った。
リュウの重心がわずかに崩れる。
「……っ」
「今日は忙しいわね」
春麗は楽しそうに笑う。
リュウが構えを戻した。
「春麗が増やしている」
「何を?」
「見るものを」
春麗は少し目を丸くした。
そして笑った。
「分かってるじゃない」
嬉しかった。
まさに、それだ。
一つ一つは何でもない。
髪、視線、声、距離、衣装の動き。
春麗の顔。
女としての認識。
好きな相手だという意識。
その奥にいる、本気で蹴ってくる格闘家。
リュウは、それら全部を処理しながら戦わなければならない。
そして、そのすべてが春麗だからこそ意味を持つ。
(これ……)
攻防を続けながら、春麗は気づいた。
(他の相手なら、ここまで効かないわね)
自分が同じ姿で戦っても。
同じように目を合わせても。
同じ言葉を使っても。
誰にでも、ここまで細かい遅れが生まれるとは思えない。
リュウだから。
春麗を知っている。
格闘家として。
女として。
好きな相手として。
その認識を一つも切らずに戦おうとしている。
だから、わずかに忙しくなる。
拳が、ほんのわずかに遅れる。
踏み込みが、ほんの少し浅くなる。
視線が、ほんの短い間だけ春麗の目に残る。
普通なら、そんなものは隙と呼ばない。
でも、春麗なら拾える。
「……なるほど」
「何だ」
「いいえ」
春麗は楽しそうに構え直した。
「かなりいいことに気づいただけ」
リュウが来る。
春麗も前へ出た。
中盤。
試合の差は、少しずつ。
しかし確実に広がっていった。
リュウが大きく止まる場面など一度もない。
春麗の顔を見て固まるわけでもない。
甘い言葉を一つ入れただけで構えを崩すわけでもない。
そんな単純な話ではなかった。
拳が、ほんのわずか遅い。
春麗が一歩入った時、受けに回る腕がほんの少し浅い。
視線を春麗から攻撃動作へ戻す時、一度だけ余計に目が動く。
それだけ。
しかし、春麗はその全部へ入れる。
拳が遅れれば、もう軌道の外へ出ている。
受けが浅ければ、二撃目を通す。
視線が一度増えれば、その間に距離を変える。
小さな差。
小さな差。
小さな差。
それが積み重なる。
リュウが踏み込む。
春麗はかわし、開脚突拳を返す。
リュウが受ける。
その受けが少しだけ浅い。
見逃さない。
二撃目。
中段蹴。
リュウが下がる。
「今日は本当に忙しそうね」
春麗は追いすぎず、少し距離を置いた。
「かなりな」
「私を見るの、大変?」
「見るものが多い」
春麗の胸が熱くなる。
「それでも、ちゃんと全部見てる?」
「見ている」
「女の私も、好きな相手としての私も?」
「全部だ」
「そのうえで?」
リュウの構えは崩れない。
「勝つ」
即答だった。
春麗の笑みが少し甘くなる。
「そう」
その答えが好きだ。
そして同時に、とても満たされる。
リュウはちゃんと見ている。
自分を女として。
好きな女として。
その認識を消さずに拳を出している。
昔、最初の試合で、女として見られたことでリュウの拳が鈍った時。
腹が立った。
屈辱だった。
格闘家として正面から見ろと思った。
でも今は違う。
女として見られているという事実そのものを。
春麗自身が、自分から戦いへ持ち込んでいる。
隠さない。
むしろ見せる。
自分の意思で。
勝つために使う。
そして実際に、リュウへ効いている。
(ちゃんと)
リュウの拳を外す。
(私を)
懐へ入る。
(女として見てる)
肘打。
胸へ入る。
リュウが後ろへ流れた。
春麗の中へ、甘い満足が入る。
勝っているからだけではない。
女として見てもらえている。
それが、自分の望んだ形で戦いの中に存在している。
しかも、自分の強さへ変わっている。
「……これは」
春麗は小さく笑った。
「何だ」
「あなたには教えてあげない」
「そうか」
「そこはもう少し気にしなさいよ」
リュウが踏み込む。
春麗はかわし、振り返った。
それだけで長い髪が流れる。
リュウの視線が、ほんの一瞬だけそこへ向いた。
「気になった?」
春麗が笑う。
ほんのわずか、リュウの踏み込みが遅れた。
「見てたでしょう?」
「見ている」
「ええ。それでいいわ」
春麗はさらに一歩近づいた。
「私と戦ってるんだから」
リュウの拳が来る。
でも、ほんの少し遅い。
春麗の顎狙突拳が先に届いた。
「っ……!」
リュウの身体が流れる。
今度は追わない。
少しずつ、余裕が生まれている。
そのことに春麗自身が気づいた。
三戦目まで。
勝った。
でも、どれも最後まで紙一重だった。
今日は違う。
自分の方が試合を動かしている。
黒い戦闘服で考え始めたものが、ようやく一つの戦い方としてまとまり始めている。
「ねえ、リュウ」
「何だ」
「悔しい?」
「かなりな」
「まだ試合中よ?」
「分かっている」
「もう負けるつもり?」
「負けるつもりはない」
春麗は嬉しそうに笑った。
「そう言うと思った」
そして、もう一つ。
甘く刺す。
「だったら、もっとちゃんと私を見なさい」
リュウの目が鋭くなる。
逃げない。
逸らさない。
春麗を見る。
ただの女性としてではない。
ただの格闘家としてでもない。
全部を見てそのまま倒しに来る目。
「そう」
春麗の声が少し甘くなる。
「私あなたのその顔、好きよ」
リュウの動きが、本当にほんの一瞬だけ遅れた。
春麗はすぐに笑う。
「ほら。また遅れた」
踏み込み、顎狙突拳。
深く入る。
「……春麗」
「何?」
「試合中だ」
「知ってるわよ」
「今のは――」
「好きって言っただけ」
春麗は悪びれない。
「何か問題ある?」
「……」
「返事を考えてる暇ある?」
ない。
中段蹴。
リュウが受ける。
間に合った。
しかし押される。
「甘い言葉に弱いわね」
「春麗が言うからだ」
今度は春麗の方が一瞬止まりかけた。
「……っ」
拳が来る。
ぎりぎりでかわす。
頬を風がかすめた。
「あなた……!」
「何だ」
「敗者候補のくせに、試合中に反撃してくるんじゃないわよ」
「まだ負けていない」
「知ってるわよ!」
頬は少し赤い。
それでも笑みは消えない。
むしろ、さらに楽しくなった。
リュウも返してくる。
だからいい。
自分だけが安全なところから揺さぶっているわけではない。
好きと言えば。
春麗が好きだからだと返される。
こちらにも、ちゃんと効く。
そのうえで戦う。
だから、この試合は楽しい。
終盤。
差は、もうはっきりしていた。
リュウは動ける。
拳も強い。
それでも春麗の呼吸には、まだ余裕がある。
脚も動く。
視界も広い。
何より、試合の流れを春麗が握っていた。
一つ一つは、本当に大した差ではない。
リュウが春麗を見て、判断がほんのわずかに増える。
それだけ。
しかし春麗を相手に、何十回もそのわずかな遅れが起きれば結果は大きい。
もう分かっていた。
この戦い方はリュウによく効く。
たぶん。
特別に。
他の相手へ同じことをしても、ここまでは効かない。
リュウだから。
春麗を知っている。
女として見ている。
好きな女だと思っている。
そのうえで格闘家として勝とうとしている。
その全部が、微かな遅れを生む。
そして、その微かな遅れを、春麗が全部拾う。
(……リュウにとっては相性が悪いわね)
少しだけ申し訳ないと思った。
本当に少しだけ。
でもそれ以上に嬉しかった。
自分がリュウにとって、それだけ特別な相手だということが、戦いの中ではっきり分かる。
しかも、その特別さを自分は勝つために使っている。
(まあ)
春麗は口元を上げた。
(頑張って準備したんだし)
少しくらい。
勝者が楽しんでもいい。
リュウが踏み込む。
春麗は、あえて近づいた。
リュウの正拳が届く距離。
普通なら危険。
今日は春麗の方が先に動きを読める。
リュウの目を見る。
「ねえ、リュウ」
「……何だ」
「今日」
ほんの少し間を置く。
「私、綺麗?」
リュウの呼吸が変わった。
大きくではない。
本当に一呼吸。
それでも、春麗にははっきり見えた。
拳は出る。
止まらない。
だが、開始がわずかに遅い。
春麗は身体を外へ流し、拳をかわして懐へ入った。
「答えは?」
リュウは逃げなかった。
「綺麗だ」
春麗の胸が強く満たされた。
「……そう」
自分でも分かるほど声が甘くなる。
「ありがとう」
春麗は発勁を放ち、リュウの胸へ入る。
リュウは崩れそうになるが、倒れない。
春麗はもう一撃、平掌打を打ち込んだ。
リュウの重心が落ちる。
それでもリュウは拳を返そうとする。
春麗は半歩だけ引いた。
正拳は届かない。
拳が空を切る。
「でも」
春麗はもう、勝者になる前から勝者のように笑っていた。
「試合中に正直すぎるのよ」
踏み込む。
止めの開脚突拳。
リュウの身体が揺れ、片膝が床へ落ちる。
春麗は追わない。
必要がない。
そのまま立っていた。
呼吸は荒い。
身体にも打撃は受けている。
それでも、まだ動ける。
まだ戦える。
明確に余力が残っていた。
初めてだった。
黒い戦闘服でリュウへ、ここまで余裕を残して勝ったのは。
「……」
春麗は一度、自分の掌を見る。
それから片膝をつくリュウへ視線を移した。
「私の勝ちね」
「俺の負けだ」
悔しそうな返事が、今日も春麗の中へ甘く入った。
「これで五連勝よ」
リュウの眉が少し寄る。
「もう五連敗か」
「ええ。いつもの武道服で一回」
春麗は、黒い戦闘服へ視線を落とす。
「この姿で――四回」
「増えたな」
「でしょう?」
春麗は少しだけ笑みを深くした。
「……すごいわね、私」
「…次は勝つ」
即答だった。
春麗は笑う。
「それも、もう何回聞いたかしら」
「何度でも言う」
「あら」
「勝つまで言う」
春麗は一瞬黙った。
それから。
嬉しそうに笑った。
「……そういうところ、本当に好きよ」
春麗はまず、リュウの状態を確認した。
意識は明瞭。
呼吸も戻り始めている。
打撃を入れた場所にも問題はない。
今日は春麗の方に余裕がある。
だからこそ、勝者として楽しむ前にそこだけは確認した。
「大丈夫ね」
「ああ」
「なら」
春麗は床へ座り、黒い裾を整えた。
勝った日の、この流れにはとっくに慣れている。
自分の膝を軽く叩く。
「リュウ、こっちに来なさい」
リュウは悔しそうな顔のまま、それでも何も聞かず春麗の隣へ来た。
「もう分かっている」
春麗の眉が少し上がる。
「何よ。今さらでしょう?」
「そうだな」
春麗は少しだけ勝ち誇るように笑う。
「それに今日は、五連勝目よ」
リュウの眉がわずかに寄った。
「その数字は嬉しくないな」
「私はかなり嬉しいわ」
「だろうな」
勝者の笑みが深くなる。
「私、連勝中なのよ」
「いつまでも続けさせるつもりはない」
「なら、止めてみなさい」
春麗はリュウの頭を支え、そのまま黒い戦闘服越しの膝へ乗せた。
リュウの頭の重みが、膝へ伝わる。
もう何度も知っている感覚だった。
長い髪が肩から前へ落ちる。
リュウが下から見る。
春麗は上から見る。
今日は、その構図にもいつも以上の余裕があった。
身体を起こしていられる。
息も、もうかなり整っている。
だからゆっくり、リュウの悔しそうな顔を眺められる。
「……」
「何だ」
「今日は、本当にいい顔してると思って」
「細かい遅れを、かなり拾われた」
春麗は少しだけ目を細めた。
「分かってるのね」
「少しずつ遅れた」
「ええ」
春麗の笑みが深くなる。
「今日は、その全部を拾ったわ」
春麗はリュウの額へ指を置いた。
ゆっくり、敗者の印を刻む。
「この姿で四回目。しかも今日は余裕も残ったわ」
「そこまで余裕を残された」
「悔しい?」
「かなりな」
「……そう」
胸の奥へ、また甘いものが入る。
今日はもう否定しない。
嬉しい。
楽しい。
気持ちいい。
リュウが本気で勝とうとして。
前より強くなって。
自分を全部見て。
それでも今日は春麗の方が上だった。
しかも、その差を作ったものの一つは。
春麗自身が、女である自分を自分から戦いへ持ち込んだことだった。
「ねえ、今日かなり効いたでしょう?」
「ああ」
「何が一番?」
リュウは少し考えた。
「一つではない」
春麗の眉が上がる。
「どういうこと?」
「髪を見た時に、次の動きが来る」
「そうね」
「顔を見た時にも、距離が変わる」
春麗の口元が少し上がった。
「続けて」
「言葉を聞いた時にも、攻撃が来る」
「……ちゃんと分かってるじゃない」
「全部が重なっている」
春麗は静かに笑った。
「正解」
嬉しい。
ちゃんと分かっている。
今日のリュウは、春麗を見ないことで逃げてはいない。
全部見た。
全部分かった。
そのうえで負けた。
「私ね」
春麗は少しだけ得意そうに言った。
「かなり頑張って準備したのよ」
「準備?」
「メイクも髪もこの服も」
「全部、準備してきたんだな」
「今日、どうやってあなたを煽ろうか考えるのも」
リュウが春麗を見る目を、ほんの少し変えた。
そこでようやく、春麗も少し恥ずかしくなる。
「……何よ」
「そこまで考えていたのか」
「考えるわよ」
頬が少し熱い。
それでも引かない。
「あなたを強くする修行なんだから」
「分かっている」
「できるだけ難しくしないと意味ないでしょう?」
「そうだな」
「それに」
声が少しだけ甘くなる。
「あなたが困るの、最近かなり好きだし」
リュウの眉が寄った。
その顔を見て、春麗は笑う。
「ほら」
「何だ」
「そういう顔」
心底楽しそうだった。
「かなり好き」
「春麗」
「何?」
「楽しそうだな」
「ええ」
即答だった。
前なら。
修行だから。
勝者だから。
いくつか理由を並べたかもしれない。
もう、それだけではないと春麗自身が分かっている。
「楽しんでるわ」
そして、すぐ続ける。
「でも」
リュウの右手を取った。
今日、何度も春麗へ届こうとした拳。
「あなたが弱いままでいてほしいわけじゃない」
「分かっている」
「今日みたいな遅れも、次は減らしなさい」
「そうする」
「もっと私を見て、慣れて。この姿も、女の私も」
リュウは春麗を見上げた。
「全部を見る」
「ええ。そのうえで、遅れないところまで来なさい」
「ああ」
「それで」
春麗の笑みが甘くなる。
「そのあなたに、また私が勝つ」
「簡単には勝たせない」
春麗は満足そうに小さく笑った。
「楽しみにしてるわ」
右手を離す。
それから、もう一度膝の上の顔を見る。
悔しそう。
何度負けても、その目はまだ次を見ている。
その顔を眺めながら、春麗はふと別のものを思い出した。
今、黒い戦闘服を着た自分がリュウを膝へ乗せている。
五連勝。そのうち、この姿で四連勝。
しかも今日は余裕まで残した。
でも、最初は違った。
膝をついていたのは、自分だった。
見上げていたのも、自分。
何度もリュウに負けた。
強かったと言われた。
その言葉が悔しくて。
それでも捨てられなくて。
また戦った。
春麗の目が、少しだけ遠くなる。
「……ねえ、リュウ」
「何だ」
膝の上のリュウを見下ろしたまま、ゆっくり口を開いた。
「最初に会った日のこと、覚えてる?」
記録板AIは、そこでログを停止した。
『検証ログ終了』
『春麗/黒い戦闘服で四勝目。合計五連勝』
『黒い戦闘服戦では初めて、明確な余力を残して勝利』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回のエピソードは、黒い戦闘服での第四戦。
これまでの三戦では、春麗とリュウの双方が「この姿でどう戦うか」を探してきましたが、今回はそこから一段進み、春麗の側が自分の新しい戦い方をかなり明確に使いこなし始める回になっています。
前回、リュウは一度、
「春麗を必要以上に見なければ、拳は鈍らない」
という方向へ進みました。
これは格闘技として考えれば、かなり合理的な対応です。
髪や衣装、女性としての春麗、好きな相手としての春麗といった余計な情報を切り離し、肩、腰、足、呼吸、攻撃予備動作だけを拾う。
そうすれば拳は安定する。
しかし春麗は、それを不正解にしました。
自分を女として見なくなることで拳を鈍らせなくするのでは意味がない。
女としても。
好きな相手としても。
格闘家としても。
全部見たうえで、それでも拳を鈍らせるな。
かなり無茶な要求ですが、今回のリュウはその宿題から逃げません。
最初から春麗を全部見ています。
ここが今回の大前提です。
リュウはもう、黒い戦闘服を見ただけで固まる段階ではありません。
長い髪も知っている。
衣装も知っている。
春麗が視線や言葉を使ってくることも分かっている。
そして何より、春麗自身から、
「全部見なさい」
と言われています。
だから見る。
それでも拳を出す。
この時点でリュウは、かなり進歩しています。
ただし。
「全部見たまま、完全に遅れない」
ところまではまだ届いていません。
今回描きたかったのは、この差です。
リュウが大きく硬直するわけではありません。
拳が出なくなるわけでもない。
春麗に見惚れて棒立ちになるようなこともない。
変化は本当に小さい。
呼吸が一つ変わる。
視線が戻るまでにわずかな時間がかかる。
踏み込みの開始がほんの少し遅れる。
受けがほんの少し浅くなる。
普通なら、それを「隙」と呼ぶことすら難しい程度です。
しかし、相手は春麗です。
そのわずかな差へ入れる。
一回なら誤差でも、試合中に何度も積み重なれば大きな差になる。
今回初めて春麗が余裕を残して勝てたのは、リュウが以前より弱くなったからではありません。
むしろリュウは強くなっています。
それ以上に、春麗が、
「リュウに生じる微細な遅れをどう勝利へ変換するか」
を覚え始めた。
その結果です。
そして今回、春麗自身も重要なことに気づいています。
この戦い方は、誰にでも同じように効くわけではない。
かなりリュウとの相性がいい。
リュウは春麗を格闘家としてよく知っています。
同時に女性として見ている。
そして今では、好きな女性としても見ている。
それでも本気で春麗を倒そうとしている。
その複雑な認識を全部抱えた状態で戦うから、ほんの少し処理が増える。
春麗はそこへ入る。
だから今回の黒い戦い方は、
「女性的な格好をすれば相手が弱くなる」
という単純なものではありません。
リュウが春麗を特別な相手として認識しているからこそ成立する、かなりリュウ特攻の戦い方になっています。
ここは春麗にとって、格闘家とは別の意味でもかなり効いています。
最初にリュウと戦った時。
春麗は、女として見られたことで拳を鈍らせられました。
それが非常に悔しかった。
女だから手加減するな。
格闘家として正面から見ろ。
そこから始まった関係です。
ところが今、春麗自身が
「女として見られている自分」
を自分の意思で戦いへ持ち込んでいます。
隠すのではなく見せる。
受け身で見られるのではなく自分から「どう見られるか」を設計する。
しかも、それを格闘家としての勝利へ変換する。
これはかなり大きな変化です。
だから試合中、春麗が、
「ちゃんと私を女として見ている」
と感じて満たされるのも重要でした。
格闘家として勝ちたい。
女としても見てほしい。
以前はその二つが少し矛盾していました。
今の春麗は、その両方を一つの試合の中へ入れてしまっています。
かなり春麗らしい解決方法だと思います。
そして今回は、試合前からその変化が出ています。
メイク。
髪。
衣装。
姿勢。
試合中に何を言うか。
以前なら「こんなことまでしている」と少し戸惑っていたところを、今では、
「今日はどうやってリュウを煽ろうかしら?」
と考えている。
しかも、
「私、かなり頑張ってるし」
と自分でも分かっている。
ここまで来ると、黒い戦い方は単なる修行メニューではなくなり始めています。
準備そのものが楽しい。
リュウがどんな顔をするのか想像するのも楽しい。
それでも建前だけではなく、本当に修行でもある。
この二つが完全に混ざり始めています。
それが、この後日談の裏で進んでいる「勝者酔い」の面白いところです。
春麗はもう、
「勝つのが楽しい」
こと自体を否定していません。
前回の時点で、
「前より強くなったあなたに、それでも私が勝った時が一番気持ちいいみたい」
と自覚しています。
だから今回は、その先です。
勝つための準備まで楽しむ。
試合中に甘く煽る。
自分が女としてリュウへ効いていることに満足する。
連勝している事実も気持ちいい。
そしてかなり余裕を残して勝つ。
順調に勝利に酔っています。
特に、
「私、綺麗?」
は今回の象徴的な場面でした。
これを聞くこと自体が、もうかなり大胆です。
しかもリュウは逃げずに、
「綺麗だ」
と答える。
春麗にとっては、ものすごく嬉しい答えです。
女として満たされる。
その一方でリュウの呼吸がほんの少し変わったことも見逃さない。
そして、その差を取って勝つ。
つまり春麗は、
女として欲しい答えをもらいながら、格闘家としてその反応を勝利に利用している
わけです。
かなり欲張りです。
そして今の春麗は、それを楽しみ始めています。
ただし今回も一番大事なのは、
「このまま遅れていて」
とは絶対に言わないことです。
むしろ試合後。
もっと見ろ。
もっと慣れろ。
この姿にも。
女の私にも。
好きな女の私にも。
全部慣れて、それでも遅れないところまで来い。
と要求しています。
ここは今後も崩したくないところです。
春麗は黒い勝利にかなり酔っている。
リュウの悔しそうな顔も好き。
膝枕も、もう完全に恒例化している。
今回とうとう、
通常の武道服で一勝。
黒い戦闘服で四勝。
合計五連勝です。
しかも初めて明確な余裕勝ち。
これで気持ちよくならない方がおかしい。
でも、その気持ちよさを維持するために、リュウへ未完成のままでいてほしいとは思わない。
ここが、この春麗の勝者酔いとの付き合い方になると思っています。
「もっと強くなりなさい」
「そのうえで、また私が勝つ」
です。
非常に欲張りです。
でも、格闘家としては非常に健全でもあります。
そして今回のラストは、その勝者酔いが一番強くなった瞬間から、次の追想へつなげています。
黒い戦闘服で四連勝。
今日は余裕まで残した。
リュウは悔しそうに、自分の膝の上にいる。
春麗が上から見下ろしている。
そこでふと。
最初は逆だったことを思い出す。
最初に膝をついたのは春麗。
見上げていたのも春麗。
何度も負けて。
それでも「強かった」と言われて。
また戦った。
その春麗が今。
女性であることまで自分の戦術へ組み込み。
好きな男へ連勝し。
その敗者を膝の上から見下ろしている。
かなり来るものがあるはずです。
だから最後の、
「最初に会った日のこと、覚えてる?」
から。
次は一度、勝負そのものから少し離れて。
この二人が最初の敗北からどれだけ遠くまで来たのか。
春麗自身に振り返ってもらうことになります。
今回の黒いドレスでの第四戦は、
黒い戦い方が初めて「完成形らしい強さ」を見せた回。
そして同時に、
春麗が黒い勝利を楽しむことにも、かなり本気になってきた回。
その二つを、初めての余裕勝ちという形で重ねたエピソードでした。