また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートの修行編後日談より先の未来時空のエピソードです。
記録板AIは、外部検証領域に新しい未来ログを表示した。
『ディレクターズカットIF』
『第1話ギリギリ敗北ルート後日談』
『リュウ側修行編』
『現在/通常武道服一勝、黒い戦闘服七勝、合計八連勝』
『以下、観測を開始します』
黒い戦闘服での八戦目。
その姿を見ても、リュウはもう驚かなかった。
春麗も、今さらそこに反応してほしいとは思っていない。
むしろ今日、この姿を見ただけで動きが止まるようなら困る。
長い髪を下ろし、黒と金の戦闘服をまとった春麗は、修行場へ入るとリュウの正面まで歩いた。
目が合う。
リュウは春麗を見る。
顔も、髪も、黒い衣装も。
女としての春麗。
好きな相手としての春麗。
そして今日も、自分を倒しに来た格闘家としての春麗。
全部を見たまま、視線は逃げない。
呼吸もほとんど変わらなかった。
「……もう、そこは確認しなくてよさそうね」
「何がだ」
「こっちの話」
春麗は少し笑った。
「今日は昇龍拳だけ見ればいいわ」
「分かっている」
「前みたいに、最後で弱くしないこと」
「しない」
「勝つための拳を、最後まで残す」
「そのつもりだ」
「でも、私を必要以上には傷つけない」
今度だけ、リュウはわずかに考えた。
「ああ」
春麗は眉を上げる。
「できる、とは言わないのね」
「まだできていない」
悪くない。
前回より、ずっといい。
何ができていないのか。
本人ももう分かっている。
「なら」
春麗は構えた。
「今日は、そこまで来なさい」
「やってみる」
春麗の口元が上がる。
「そこまで来たあなたにも、私は勝つけど」
「今日は止める」
「あら。八連勝を?」
「これ以上は増やさない」
「そう」
春麗は楽しそうに笑った。
「なら、止めてみなさい」
修行という名の試合が始まった。
最初の攻防だけで、春麗は改めて理解した。
黒は、もうほとんど効かない。
春麗が目を見る。
リュウも見る。
そのまま拳が飛んでくる。
長い髪が流れても、視線を奪われない。
髪の向こうにある肩、腰、足。
戦うために見るべき場所へ、すぐ戻る。
春麗が間合いを詰めた。
顔が近づく。
「ずいぶん平気になったわね」
「慣れた」
「前は、このくらいでも少し困ってたでしょう?」
「前はな」
「もう何とも思わない?」
「そうではない」
「あら」
春麗の目が少し細くなる。
「じゃあ?」
「近いとは思っている」
拳が来た。
「っ!」
春麗は横へ外す。
「それだけ?」
「好きな女が近いとも思っている」
今度は蹴り。
春麗が腕で受けた。
「あなたね!」
「何だ」
「そういうことを普通に言いながら攻撃するの、本当に慣れたわね!」
「春麗が望んだんだろう」
「望んだけど!」
少しだけ頬が熱い。
でも春麗は笑っていた。
これでいい。
まさに、これが欲しかった。
黒い戦闘服。
髪。
言葉。
距離。
女として見られること。
好きな女だと認識されること。
それらはもう、通常の攻防を崩す主役ではない。
残っているのは。
昇龍拳。
ただ一つ。
(じゃあ、そこだけ見ましょう)
春麗の目から、笑みが少し消えた。
リュウの正拳を受け流す。
上段蹴を返す。
受けられる。
追突拳を入れる。
かわされる。
リュウがくるぶしキックを返す。
春麗は下段をガードした。
鈍い衝撃が脚へ残る。
それでも姿勢は崩さない。
互いに一度、間合いを測り直す。
まだ昇龍拳を誘う距離ではない。
強い。
以前より明らかに。
黒い春麗に苦しんでいた頃のリュウではない。
春麗が何を言っても。
どんな顔を見せても。
受け取ったまま、勝負へ戻ってくる。
(……いいわね)
そんなリュウに。
今日も勝ちたい。
好きな男に。
強い格闘家に。
この姿の自分を全部見たうえで、本気で倒しに来る男に。
また勝ちたい。
その欲求については、もう言い訳しない。
問題は。
今日、そのリュウが昇龍拳をどこまで完成させてくるか。
春麗は一歩深く入った。
リュウが距離を切る。
「波動拳!」
青い気が走る。
春麗は迷わず跳んだ。
波動拳を越える。
空中。
真下にリュウ。
昔と同じ景色。
でも、もう何も止まらない。
身体も。
意思も。
目も。
全部、前へ行く。
そしてリュウも逃げなかった。
リュウの身体が沈む。
「昇龍拳!」
来た。
春麗は拳だけを見ない。
肩、腰、踏み込み、重心。
全部を見る。
速い。前回のように、接触直前で力が死ぬ気配もない。
(……そう)
春麗の目がわずかに細くなる。
(今度は弱くしてない)
拳が上がる。
勝つための軌道。
速度。
威力。
そこまではいい。
でもその途中。
ほんのわずかに。
リュウの動きが変わった。
「……?」
力を抜いたのではない。
拳が鈍ったわけでもない。
もっと別のもの。
リュウの視線が一瞬だけ、春麗の位置を深く捉え直した。
胴、肩、顎、拳の角度。
(今)
春麗の思考が走る。
(考えた)
どこへ当てる。
どの角度なら、勝つための威力を残したまま、春麗へ必要以上の損傷を与えずに済む。
どう落とす。
その判断が。
ほんの一瞬だけ入った。
普通なら見えない。
リュウほどの速度なら、なおさら。
でも春麗には十分だった。
空中で身体をわずかにひねる。
リュウが狙った中心を外す。
「っ!」
昇龍拳が浅く身体を捉えた。
衝撃はある。
身体も揺れる。
だが、芯ではない。
春麗は空中で体勢を整え、そのまま着地した。
リュウも昇龍拳から戻る。
春麗は追撃しなかった。
「……今の」
「何だ」
「弱くしなかったわね」
「しなかった」
「最後まで?」
「最後までだ」
春麗は少し笑った。
「そこはいいわ」
リュウの目が変わる。
「だが?」
「ええ」
春麗の笑みが少し深くなった。
「まだ遅いわ」
リュウが黙る。
春麗は自分の胸元を指した。
「今、どこへ当てるか考えたでしょう」
「……考えた」
「やっぱり」
「見えたか」
「見えるわよ」
春麗は少し勝者らしく顎を上げた。
「私を誰だと思ってるの?」
リュウがわずかに苦い顔をする。
その顔を見ると嬉しい。
でも、今日は前回のように怒る理由はなかった。
「今のは、前よりずっといいわ」
春麗は真面目な声で続ける。
「弱くしてない。ちゃんと私に勝つつもりで撃ってる」
「そのつもりだった」
「それに、私をどう落とすかも考えてた」
「そうだ」
「ただ――」
春麗は人差し指を一本立てた。
「考えてからやってる」
「……」
「そこが遅いのよ」
リュウの目が鋭くなる。
「考えるな?」
「違う」
春麗は即座に否定した。
「何も考えるな、じゃない。私を傷つけても構わないから適当に撃て、なんて言ってるわけでもないわ」
「なら?」
「むしろ逆よ」
春麗はリュウの右拳を見る。
「今日の方向は合ってる」
前回とは、そこが決定的に違う。
「前は、私に当てることが怖くなって最後に弱くした」
「今回は違う」
「ええ。今日は弱くしないまま、どこへ、どう当てるか。どちらへ力を逃がすか。どう落とすか。そこを考えてる」
リュウは黙って聞いている。
「それ自体は、正しい方へ進んでると思うわ」
「正しい方」
「ええ」
春麗は指先をリュウへ向けた。
「でも、当て方を考えた一瞬が、まだ私には分かる」
リュウの眉が寄る。
「そこをなくしなさい」
「どうやって」
「知らないわよ」
「またか」
「何よ!」
春麗の眉も寄った。
「私が全部答えを知ってたら、あなたの修行じゃないでしょう!」
リュウが少しだけ口元を緩める。
「笑わない!」
「笑っていない」
「今、笑ったでしょう!」
春麗は小さく息を吐いた。
「私に分かるのは、今のは前よりいい。でも、まだ遅い。それだけ」
そして構え直す。
「だから、もう一回」
二度目。
リュウはさらに速かった。
波動拳。
春麗が跳ぶ。
昇龍拳。
今度は最初から角度を決めている。
そう見えた。
だが、接触する直前。
ほんのわずかな修正。
(そこ)
春麗が軸を外す。
拳が中心からずれる。
着地。
「また今、当てる直前に角度を直したわね」
「……直した」
「まだ、考えてから調整してるわ」
「そこまで分かるのか」
「分かるわよ」
春麗は思わず笑ってしまった。
腹は立たない。
むしろ楽しい。
リュウが一段ずつ、正しい方向へ進んでいるのが分かる。
最初は昇龍拳を撃つことそのものに迷った。
次は撃った。
でも、最後に弱くした。
今は弱くしない。
最後まで勝つための拳のまま。
そのうえで、春麗へ必要以上の損傷を残さないよう制御しようとしている。
ただしまだ意識してやっている。
だから遅い。
それならやることは決まっている。
(続けなさい)
春麗は何も言わず。
また跳んだ。
三度。
四度。
五度。
リュウは昇龍拳を使った。
春麗も何度も、自分からその距離へ入った。
毎回、同じではない。
最初は接触点を確認するような一瞬。
次は角度の修正。
その次は、春麗をどちらへ落とすか。
少しずつ短くなる。
春麗にも分かる。
(……本当に速いわね)
学ぶのが早い。
嫌になるくらい。
それでも。
まだ消えない。
どこかで必ず。
ほんの一瞬。
どう当てる。
という判断が表へ出る。
春麗は、そこだけを取った。
普通の攻防では、もうほとんど取れない。
黒い戦闘服。
視線。
声。
距離。
それだけでは、今のリュウは大きく崩れない。
今日の春麗が勝つために拾える、最も確かな差。
それが昇龍拳の中に残った、この一瞬だった。
(……ずいぶん小さくなったわね)
最初、リュウは黒い戦闘服の春麗を見るだけで処理が増えた。
今はそれがほとんど消えている。
最後に残っているのは。
昇龍拳を制御しようと意識する、一瞬だけ。
そこまで来た。
ならこの修行の終わりも、そう遠くない。
そう思った時。
春麗の胸へ、少し違う感情が入った。
終わる。
いつかこの修行が終わる。
リュウが完全にできるようになる。
そうなれば今のようには勝てなくなるかもしれない。
黒い戦闘服で何度も勝って。
リュウに膝枕をして。
敗者の印を残して。
勝者として笑う。
そんな時間も変わるかもしれない。
「……」
一瞬だけ、そう考えた。
でもすぐに春麗は笑った。
(だから何よ)
勝ちたい。
それは変わらない。
なら完成したリュウにも勝てばいい。
できるかどうかは分からない。
でもその方がきっと、もっと気持ちいい。
(本当に勝つの好きね、私)
それももう知っている。
終盤。
今日も紙一重だった。
春麗の呼吸は荒い。
リュウも同じだ。
通常の攻防なら、ほとんど互角。
いや黒の揺さぶりがもう大きな差にならない今。
純粋な読み合いでは、リュウが押す時間も少しずつ増えている。
リュウの正拳が春麗の肩へ入った。
「っ!」
春麗は一歩下がる。
それをリュウが追う。
リュウのハイキックを春麗は受ける。
重い。
(……本当に)
苦しい。
でも、楽しい。
春麗は笑っていた。
「何だ」
リュウが言う。
「何が?」
「笑っている」
「楽しいからよ」
「そうか」
「あなたは?」
「まだ勝っていない」
「……ほんとに」
春麗は構え直した。
「なら、勝ってみなさい」
「そのつもりだ」
リュウが距離を取る。
もう分かる。
来る。
「波動拳!」
春麗は跳んだ。
今日は何度も見た景色。
青い気を越える。
空中でリュウが沈むのを見る。
春麗も逃げない。
リュウも、もう逃げない。
「昇龍拳!」
来る。
今日一番速い。
春麗の目がわずかに開いた。
(……いい)
力は落ちていない。
軌道もいい。
踏み込みも速い。
今日、最も完成に近い昇龍拳。
拳が春麗へ迫る。
そして。
リュウが最後に春麗を見る。
ほんの一瞬、どこへ当てる、どう落とす。
その判断。
今までで最短。
でも。
「……見えた」
春麗が小さく言った。
身体をひねる。
中心を外す。
「っ……!」
昇龍拳が浅く入った。
痛い。
それでも戦える。
春麗は空中で体勢を整え、着地する。
リュウも戻る。
ほんのわずかな差。
春麗はもう、その間合いへ入っていた。
「まだ!」
追突拳。
リュウが受ける。
返しの正拳。
春麗が外す。
春麗の中段蹴。
受けられる。
リュウの正拳が肩へ入った。
「っ!」
身体が揺れる。
それでも止まらない。
春麗が踏み込む。
リュウも来る。
互いに、もう余裕はない。
リュウの拳。
春麗の蹴り。
ほとんど同時。
それでも。
春麗の蹴りが、ほんのわずかに先にリュウの脇腹を捉えた。
「っ……!」
リュウの身体が下がる。
一歩。
踏みとどまる。
もう一歩。
だが、膝が落ちた。
春麗も、その場で大きく息を吐く。
「……っ、は……」
苦しい。
身体中が痛い。
余裕なんて、どこにもない。
それでも、立っているのは春麗だった。
リュウは片膝をついている。
「……私の勝ちね」
リュウは荒い息を吐いた。
「最後の一瞬を取られた」
悔しそうな声だった。
春麗の胸へ、いつもの甘さが一気に入る。
「この姿で八勝目」
息を整える。
「合わせて九連勝ね」
「そこまで増えたか」
「数えてるわよ。私の勝ちだもの」
「これ以上は増やさない」
春麗はとうとう声を出して笑った。
「それよ」
「何だ」
「その顔」
悔しさは、隠していない。
それでも、目は折れていなかった。
もう次の勝負を見ている。
春麗が好きな顔だった。
「今日もいい顔ね」
「楽しんでいるな」
「ええ」
即答だった。
「ものすごく」
もう、そこに言い訳はなかった。
まず、互いに深刻な怪我がないことを確かめる。
リュウは片膝をついているが、呼吸も意識もしっかりしている。
春麗自身も身体のあちこちに痛みはあるものの、動けないほどではない。
それを確かめてから、春麗は床へ座った。
黒い裾を整え、自分の膝を軽く叩く。
「ほら」
それだけで十分だった。
リュウは何も聞かず、春麗のところへ来る。
「今日は素直ね」
「勝った日は、いつもこうだろう」
「そうね」
春麗は頭を支え、膝へ乗せた。
もう何度も知っている重さ。
勝った日に繰り返してきた距離。
下からリュウが春麗を見る。
春麗は上から見下ろす。
やっぱり、気持ちいい。
(……好きね)
もう否定しない。
今日も勝った。
しかも、前よりさらに強くなったリュウに。
それでも勝った。
春麗は、黒の支度の名残がわずかに残った指先を、リュウの額へ置いた。
眉間の少し上を短く横へ滑らせる。
汗に滲んだ薄い紅色の線が、そこに残った。
指で拭えば消えてしまう程度の、小さな跡。
それが、今日も春麗がリュウに残す敗者の印だった。
「今日も私の勝ち」
「分かっている」
「この姿では八勝目よ」
「増えたな」
「悔しい?」
「かなりな」
春麗の笑みが少し深くなる。
「いいわね」
それからリュウの右手を取った。
昇龍拳を放った拳。
今日、何度も春麗へ向かってきた。
前回とは違う。
もう最後に弱くしていない。
春麗は、その右拳の甲にも指先を滑らせ、薄い紅の跡を残した。
「今日は、前よりずっとよかったわ」
「だが、取られた」
「ええ。でも弱くしなかった。逃げなかった。ちゃんと勝つための昇龍拳だった」
「そこはできた」
「そう」
春麗は小さく頷く。
「そこは本当にいい」
そしてリュウを見る。
「でも、まだ遅い」
「最後にな」
「まだ考えてる」
「春麗に見つかった」
「見つけたわよ」
春麗は少し勝者の顔になる。
「何回も。最後も」
「そこを取られた」
「そう。だから私が勝った」
胸へ甘いものが、また入る。
自分の勝因を、本人も理解している。
かなり気持ちいい。
でも、そこで終わりにはしない。
「リュウ」
「何だ」
「今日の方向は、間違ってないと思う」
リュウの目が少し変わる。
「前回は手加減だった」
「今日は違った」
「ええ」
春麗は右拳を両手で軽く包んだ。
「勝つための威力を残したまま、私をどこで捉えるか考えた。どこへ力を逃がすか。どう落とすか」
少し考えてから続ける。
「たぶん、制御の方へ進んでる」
リュウは黙って聞いている。
「だから次は――」
春麗の指が右拳を軽く叩く。
「今みたいに、当て方を考えてから直すのをやめなさい」
「何も考えるなということか」
「違うわ。勝つための威力を残して、必要以上には傷つけない。その調整を、いちいち考えなくてもできるまで繰り返すの」
リュウの目が鋭くなる。
「次は、そこで遅れない」
「そう」
春麗は満足そうに頷いた。
「正しく制御できて、それでも拳は遅れない。私が欲しいのはそこよ」
春麗は楽しそうに笑った。
「そのあなたにも、私は勝つけど」
「そうはさせない」
「ふふ」
春麗はリュウの髪をゆっくり撫でた。
「本当に、その返事好きよ」
リュウが膝の上から春麗を見る。
「俺は春麗が好きだ」
春麗の頬が少しだけ熱くなった。
でも、今度は拳が飛んでこない。
試合はもう終わっている。
「……今は殴ってこないのね」
「試合が終わったからな」
「そう」
春麗は少しだけ笑った。
「なら、いいわ」
しばらく春麗はリュウを膝へ乗せたまま、今日の試合を思い返していた。
黒は、もうほとんど効いていない。
今日でさらに明確になった。
今のリュウは、黒い春麗を見てもほぼ普通に戦える。
それでも、今日も春麗は勝った。
黒戦術で大きく崩したからではない。
昇龍拳に残ったほんの一瞬の隙。
それを格闘家として見つけた。
その一瞬の隙を取った。
そして勝った。
それが春麗にはものすごく気持ちよかった。
「……ねえ」
「何だ」
「今日の私、黒はほとんど効いてなかったでしょう」
「通常の攻防ではな」
春麗が少しだけ眉を上げる。
「あら。ちゃんと理解しているじゃない」
「事実だ」
「まあ、いいわ」
春麗はすぐに笑った。
「それでも私が勝ったから」
リュウが下から春麗を見る。
春麗は勝者の顔で堂々と言った。
「黒が効かなくても、私は勝てる」
今日それを一度、証明した。
もちろん次も同じように勝てる保証などない。
今日だって紙一重だった。
それでいい。
春麗は、リュウの額に残った薄い紅色の線へ指先を重ねた。
先ほど自分で残した敗者の印を、確かめるように軽くなぞる。
「だから、次はもっと良くなって来なさい」
「そのつもりだ」
「昇龍拳も」
「仕上げる」
「今度は、制御する一瞬まで取らせないで」
「次は取らせない」
春麗は少しだけ挑発するように笑った。
「その全部で、私を倒しに来なさい」
リュウの目に勝負の色が戻る。
「今度こそお前を止める」
春麗はその顔を、しばらく楽しそうに見つめた。
そして。
「ええ」
静かに答える。
「楽しみにしてる」
勝者としてだけではない。
修行相手として。
好きな男を待つ女として。
そしてもっと強くなったリュウにも、また勝ちたい格闘家として。
春麗は本当に次を楽しみにしていた。
記録板AIは、そこでログを停止した。
『検証ログ終了』
『黒い戦闘服第八戦』
『結果/春麗勝利』
『現在/通常武道服一勝、黒い戦闘服八勝、合計九連勝』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回のエピソードは、黒い戦闘服での第八戦。
前回の第七戦で、昇龍拳に残っていた問題がさらに一段具体化しました。
それまでのリュウは、昇龍拳そのものを避けたり、撃っても最後に威力を落としたりしていました。
そこで春麗がはっきり言ったのが、
「それは制御じゃない」
「ただの手加減よ」
です。
今回のリュウは、その指摘をきちんと受けています。
もう昇龍拳そのものから逃げない。
最後に単純に威力を落とすこともしない。
速度も落とさない。
勝つための拳として最後まで通そうとする。
そこは明確な進歩です。
今回、春麗自身も、
「弱くしなかった」
「勝つつもりで撃ってる」
「そこは合格」
と評価しています。
つまり今回のリュウは、間違った方向へ進んでいるわけではありません。
むしろ初めて、本当の意味で「制御」の方へ入り始めています。
では何が足りないのか。
今回の答えは、
「まだ考えている」
です。
リュウは昇龍拳を撃ちながら、
どこへ当てるか。
どの角度なら過剰な損傷を避けられるか。
力をどちらへ逃がすか。
春麗をどう落とすか。
そこを意識して調整しています。
考えている内容そのものは正しい。
でもその制御が、まだ身体に入っていない。
だから一瞬だけ、
「どう当てる」
という処理が挟まる。
普通の相手なら問題にならない程度の差です。
しかし相手は春麗。
しかも、何戦もかけてリュウの微細な変化を拾い続けてきた春麗です。
当然見つける。
今回の、
「……まだ考えてる」
が、まさにそこです。
前回との違いはかなり重要です。
前回は、
「春麗を壊したくない」
「だから最後に弱くする」
でした。
これは春麗の言う通り、手加減です。
今回は、
「勝つための昇龍拳は弱くしない」
↓
「そのまま過剰な損傷だけ避けたい」
↓
「だから接触点や角度を制御する」
になっています。
方向は合っている。
ただし、まだ技術として意識的すぎる。
これを春麗は、
「今のは前よりずっといい」
「でも、遅い」
と評価します。
今回、春麗が怒っていないのはそのためです。
第七戦では明確な誤答だった。
だから、
「それは制御じゃない」
と否定した。
今回は違う。
正解へ向かっている。
だから叩き直すのではなく、
「そのまま続けなさい。ただし、もっと先まで行きなさい」
という立場になっています。
そして今回、春麗がリュウへ出した新しい宿題が、
「考えなくてもできるところまで持ってきなさい」
です。
これもかなり重要だと思っています。
「考えるな」ではありません。
何も考えずに全力で殴れ、という意味でもない。
必要な制御を考えなくても実行できるくらい身体へ染み込ませる。
要するに、意識的な制御から、身体化された精度へ。
ここが次の段階です。
この修行編で最終的に目指している、
「手加減ではなく制御」
「躊躇ではなく精度」
というところへ、かなり近づいてきました。
そして今回はもう一つ。
黒戦術の扱いも完全に次の段階へ入っています。
今のリュウには、
黒い戦闘服。
長い髪。
視線。
距離。
言葉。
女性としての春麗。
好きな女性としての春麗。
そうしたものが、通常攻防ではほとんど効きません。
春麗自身も、すでにそこを認めています。
今回も、黒で大きくリュウを崩して勝ったわけではありません。
むしろ黒がほとんど効かなくなったリュウの中から昇龍拳に残った、
「制御を意識する一瞬」
だけを見つけて勝った。
ここが今回の勝利の価値です。
以前なら、黒戦術そのものによって差を作った。
今はリュウが黒をほぼ攻略したうえで残った一瞬を、純粋に格闘家として拾っている。
だから春麗にとってはかなり気持ちいい。
今回の勝者酔いも、その意味で一段進んでいます。
黒い戦闘服で八勝。
通常の武道服での一勝まで含めれば九連勝。
しかもリュウは明らかに強くなっている。
黒もほとんど効かない。
昇龍拳も正解へ近づいている。
そのリュウにまた紙一重で勝った。
春麗が、
「楽しんでいるな」
と聞かれて、
「ええ。ものすごく」
と即答するのは、もう当然です。
以前のように、
修行だから。
介抱だから。
勝者要求権だから。
と理由をつける必要もない。
勝ったから嬉しい。
リュウに勝つのが好き。
それをそのまま認めています。
しかも今回は、
「黒が効かなくても、私は勝てる」
とまで言っています。
ここは個人的にもかなり重要な一言です。
黒戦術が強いから勝っている。
という段階を、春麗自身が抜け始めています。
黒はもう必勝の武器ではない。
それでもこの姿で戦う。
そして格闘家として勝つ。
つまり、黒い戦闘服の意味が戦術だけではなくなってきています。
そして今回のもう一つ面白いところが。
春麗が、修行の終わりを少し意識したことです。
リュウはもう黒をかなり攻略した。
昇龍拳も、撃てない。
から撃つ。
でも弱める。
そして今回、
弱めずに制御しようとする。
まで来た。
当然春麗にも分かる。
終わりは、もうそれほど遠くない。
そこで一瞬、
今のように勝ち続けられなくなるかもしれない。
膝枕も。
敗者の印も。
悔しそうなリュウを見下ろす時間も。
変わるかもしれない。
そんなことを考える。
これは勝者酔いした春麗にとって、本来かなり嫌な未来です。
でも春麗の答えは、
「だから何よ」
です。
完成したリュウにも勝ればいい。
できるかどうかは分からない。
でもその方がもっと気持ちいい。
かなり春麗らしいところまで来ました。
勝者酔いを克服するというのは、
勝つことが楽しくなくなることではありません。
勝利への執着を消すことでもない。
春麗はこれからも勝ちたい。
むしろ、かなり勝ちたい。
でも勝ちたいから相手の成長を止める。
そこへは行かない。
強くなれ。
完成しろ。
そしてそのあなたに私が勝つ。
相変わらず。
ものすごく欲張りです。
本人も認めた通り。
めんどくさい女です。
今回の最後でも、
もっと黒に慣れろ。
昇龍拳をもっと完成させろ。
その全部で私を倒しに来い。
と言った直後に。
次も自分が勝つつもりでいます。
でもそれこそが今の春麗です。
そしてリュウも。
「次は勝つ」
と返す。
この二人の修行はもう、
春麗が先生でリュウが生徒、
という単純なものでもなくなっています。
リュウが強くなるほど春麗も追い詰められる。
春麗がその穴を取るほど、リュウはまた修正する。
互いに次の相手を強くしている。
だから、修行であり、試合でありこの二人なりの関係でもある。
今回の第八戦は、
「昇龍拳を撃てるようになった」
回ではありません。
そこはもう前回までで越えています。
今回は、
昇龍拳を弱めずに制御する方向へ初めて正しく踏み出した。
ただし、その制御がまだ意識に残っているため、春麗には一瞬の遅れとして見えてしまう。
そんな回でした。
次に必要なのは考えながら制御することではない。
制御そのものを身体へ入れること。
春麗を見て。
好きな女だと分かって。
過去の昇龍拳も覚えていて。
勝つつもりも一切落とさず。
必要以上には壊さない。
それを迷わず。
考え込まず。
拳の精度として実行する。
リュウはかなり近くまで来ています。
そして春麗はそんなリュウに今日も勝って。
黒八勝。
通算九連勝。
膝枕までしっかり取って。
ものすごく満足しています。
黒がほとんど効かなくなっても。
相手がどんどん強くなっても。
勝てばやっぱり嬉しい。
むしろ今の方がもっと嬉しい。
春麗の勝者酔いも。
かなりいいところまで来ています。