また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートの修行編後日談より先の未来時空のエピソードです。
記録板AIは、外部検証領域に新しい未来ログを表示した。
『ディレクターズカットIF』
『第1話ギリギリ敗北ルート後日談』
『リュウ側修行編』
『現在/通常武道服一勝、黒い戦闘服八勝、合計九連勝』
『以下、観測を開始します』
黒い戦闘服での九戦目ともなれば、試合前に確認することはほとんど残っていなかった。
黒と金の戦闘服。
長く下ろした髪。
戦う前から整えてきた化粧。
その姿で春麗が修行場へ入っても、リュウはもう大きく反応しない。
だからといって、見ていないわけでもなかった。
顔も衣装も見ている。女としての春麗も、好きな女としての春麗も認識したうえで、格闘家として肩や腰、重心まで拾っている。
そこまでが、もう普通になっていた。
「……本当に慣れたわね」
「慣れた」
「ちょっとくらい困ってくれてもいいのよ?」
「それでは修行にならない」
「そう言うと思った」
春麗は苦笑した。
以前なら、こうして話しかけること自体がほんのわずかな遅れを作った。
今はもう、それすらない。
黒い戦い方そのものは、ほとんど攻略されている。
それでも春麗は今日も黒を着ていた。もう理由を自分に言い訳する必要はない。この姿でリュウと戦うのが好きだから。
それで十分だった。
「今日は、前みたいに私に分かるほど考えないでよ」
「分かっている」
「制御はする。でも、どこへ当てるか、どう力を逃がすかを、いちいち頭の中で組み立てない」
「そのつもりだ」
「意識しなくてもできるところまで持ってきた?」
「試してみる」
春麗は少し目を細め、それから構えた。
「なら、見せてもらうわ」
口元が上がる。
「それでも今日も勝つのは私だけど」
「俺が勝つ」
「あら。九連敗中なのに?」
「だから、これ以上は増やさない」
「本当に懲りないわね」
「春麗もだろう」
「私は勝ってるもの。一緒にしないで」
楽しそうに笑って、春麗は一歩踏み込んだ。
修行という名の試合が始まった。
普通の攻防は、もう黒戦術の検証とは呼びにくいところまで来ていた。
春麗が目を見る。
リュウも見る。
そのまま正拳が飛んでくる。
春麗が距離を詰めれば、長い髪が視界を横切っても、リュウの視線は肩と腰へすぐ戻る。
「リュウ」
「何だ」
返事と同時に、くるぶしキックが来た。
「だから返事しながら蹴らないで!」
「試合中だ」
「知ってるわよ!」
春麗は下段を受け、そのまま上段蹴を返す。
リュウが腕で受け、すぐに正拳を返した。
春麗は肩を引いて外し、追突拳を差し込む。
だが、それもかわされる。
速い。
そして重い。
普通に強い。
春麗が女であることも、好きな女であることも、もうその拳を弱くする理由にはなっていない。
以前は「見たうえで遅れない」ことを、リュウ自身も多少は意識していた。
今はその意識すら薄くなっている。
見る。感じる。戦う。
その間に、ほとんど段差がない。
春麗がさらに距離を詰めた。
「近いわよ?」
「分かっている」
「私だって分かってる?」
「春麗だ」
「あなたが好きな女よ?」
「それも分かっている」
「それでも?」
返事の代わりに拳が飛んできた。
「もう!」
春麗は笑いながら横へ外す。
そこはもう問題ではない。
だからこそ、今日見るべきものは一つだけだった。
中盤、リュウが距離を取った。
両手を腰へ引き、気を集める。
「波動拳!」
青い気が真っ直ぐ走る。
春麗は迷わず跳んだ。
昔は、この先に何が来るか知っているだけで身体が止まった。
今は違う。波動拳を越えた空中から、真下のリュウを見る。
リュウも逃げなかった。身体を沈め、右拳を握る。
「昇龍拳!」
来た。
春麗の目が鋭くなる。
速い。前回より明らかに。
踏み込みも拳の立ち上がりも、軌道にも迷いがない。
そして春麗は、一瞬だけ驚いた。
(……ない)
前回まで見えていたものが、ほとんどない。
どこへ当てるか。
どの角度を選ぶか。
どちらへ力を逃がし、どう落とすか。
その判断を拳が上がってから組み立てている気配が消えている。
身体が、最初からその軌道を知っていた。
(来た)
胸が少し高鳴る。
かなり正解に近い。
拳が春麗を捉えた。
「っ!」
強い衝撃に身体が浮き、息が飛ぶ。
視界が揺れる。
痛い。
それでも、妙だった。
衝撃そのものは大きい。
拳も確かに春麗を捉えている。
だが、身体の一点を壊すような入り方ではなかった。
力は一点へ突き刺さらず、春麗の身体全体を押し上げるように伝わっている。
空中へ運ばれる軌道も荒れていない。
落下まである程度計算されている。
(……すごい)
春麗は素直にそう思った。
弱くしていない。
遅れていない。
怖がってもいない。
それでも、必要以上に壊しに来てはいない。
春麗は空中で身体を回し、両足で着地した。
一歩、もう一歩と衝撃を逃がして止まる。
着地した春麗は、肩、脇腹、呼吸、意識を確かめる。
かなり痛い。
それでも脚も腕も動く。
まだ戦える。
春麗はゆっくりと構えを戻した。
「……まだ」
リュウの目がわずかに変わる。
「春麗」
「今の、かなり良かったわよ」
春麗は一度息を整え、自分の身体を確かめた。
「弱くしてなかった。前みたいな遅れも、ほとんどなかった」
「そうか」
「当て方も前よりずっと上手い。私も必要以上には壊れてない」
そこで春麗の口元が、少しだけ勝者の笑みに変わった。
「でも、私、まだ戦えるわ」
リュウは黙った。春麗は構えたまま、その目を見る。
「だから、まだ足りないわ」
「何が足りない」
リュウは真っ直ぐ聞いた。
春麗はすぐには答えなかった。
自分でも、今の昇龍拳はかなり良かったと思っている。
以前のような手加減ではない。
制御を考え込む遅れもない。
必要以上に傷つけられてもいない。
なのに、自分は立っている。
構えられる。まだ勝負を続けられる。
「……そうね。前は、私を壊さないために拳を弱くしたでしょう」
「そうだった」
「それは手加減だった。その次は、弱くしないまま制御しようとした。でも、考えてる時間が私には見えた」
「そこを取られた」
「ええ。でも今日は、そこまでほとんど消えた」
リュウの目がわずかに鋭くなる。
「なら?」
「かなり正解よ。そこは間違えないで。今日のは本当にいい」
春麗は自分の構えを少し見せるように、腕を上げ直した。
脚も動く。視線も生きている。
「でも私は、まだこうして立ってる。試合を続けられる」
「……ああ」
「なら、安全に当てるだけじゃ足りないのよ」
リュウは黙る。
「私を必要以上に壊さない。それは必要。でも──」
春麗の目が、格闘家のものになる。
「勝負まで残したら駄目」
言った瞬間、自分の中でも何かがつながった。
身体を壊さない。けれど、試合は終わらせる。
「……そういうことね」
「何だ」
「今、分かった」
春麗は少し笑った。
「私を安全に落とすことが目的じゃないのよ。あなたの目的は、私に勝つこと」
「そうだ」
「だったら、私がもう勝負を続けられないところまでは、ちゃんと届かせないと」
リュウが春麗をじっと見る。
春麗はそこで、少しだけ口元を上げた。
「まあ、そこまで出来たら困るのは私なんだけど」
リュウの口元がほんの少し緩む。
「めんどくさい」
「また言ったわね」
「違わないだろう」
「でも否定しないわよ。私、そういう女だから」
春麗は構えを深くした。
「だから、完成させなさい」
「そのつもりだ」
「そのうえで──」
春麗の目が鋭くなる。
「今日はまだ、私が勝つ」
試合は続き、春麗は前より明らかに苦しくなった。
通常の攻防では、もう黒でリュウを大きく崩せない。
昇龍拳も、今の段階でほとんど正しい。
春麗が飛ぶ。昇龍拳が来る。
以前なら、どこかに分かりやすい穴があった。
撃たない。遅れる。弱める。考える。
今日はそれがほとんどない。
二度目の昇龍拳も、春麗をきれいに捉えた。
「っ……!」
強い。だが、やはり身体を壊すようには入らない。
着地する。
立つ。
まだ動ける。
そこで春麗は、新しい穴に気づき始めた。
(そういうことなのね)
今のリュウは、過剰な損傷を避ける精度そのものはかなり高い。
ただ、その結果として安全側へほんの少し余白を残している。
必ず春麗に「まだ動ける」だけの余力が残る。
前回までのような反応遅延ではない。
もっと結果側の問題だった。
昇龍拳そのものはほとんど成功している。
それでも、勝負を終わらせるには少しだけ足りない。
(なら、そこを使う)
あと一回動ける。あと一歩踏み込める。あと一撃出せる。
そのわずかな余白が、今のリュウに残った最後の穴だった。
終盤、春麗の身体はかなり痛んでいた。
昇龍拳を何度もまともに受けている。
必要以上に壊されてはいないが、痛くないわけではない。
試合なのだから当然だった。
息も荒い。脚も重い。
リュウも春麗の打撃を何度も受けている。
互いに限界が近い。
今日もまた、紙一重だった。
それでも春麗は笑っていた。
「また笑っている」
リュウが言う。
「だって、今日のあなた、かなりいいもの」
「そうか」
「正直、ちょっと困ってる」
「春麗が言った」
「何を?」
「困らせろと」
「……そこまで言ったかしら」
「似たことは言った」
春麗は少しだけ笑い、構え直した。
「なら、もっと困らせてみなさい」
「望むところだ」
リュウが距離を取る。
春麗には、次が分かった。
「波動拳!」
青い気が走る。春麗は跳んだ。
今までなら、ここでリュウの昇龍拳のどこかに分かりやすい穴があった。
今日は違う。ほとんど完成している。
だから春麗も、真正面から受ける覚悟で飛んだ。
リュウが沈む。
「昇龍拳!」
速い。迷わない。弱くない。
制御も、もうほとんど意識の外へ落ちている。
拳が春麗を捉えた。
「っ……!」
強烈な衝撃で身体が高く持ち上がる。
息が消え、視界が一瞬白くなった。
それでも春麗には分かった。
壊れていない。
(……まだ)
しかも、自分は動ける。
リュウはあと少し、安全側へ余白を残した。
春麗の戦闘能力を完全には奪いきれていない。
空中で身体を整え、着地する。
膝が一瞬落ちそうになったが、耐えた。
「……っ」
リュウが春麗を見る。
一瞬、終わったと思ったのかもしれない。
でも春麗は立った。構えた。そして笑った。
「……まだ」
リュウの目が鋭くなる。
春麗は前へ出た。
「私、まだ戦えるわよ!」
一気に間合いへ入る。
追突拳をリュウが受け、返しの正拳を春麗が外す。
上段蹴を放つが受けられる。
さらに一歩踏み込む。脚は限界に近い。それでも動く。
残されたわずかな戦闘能力を、全部使う。
リュウの正拳が春麗の肩へ入った。
「っ!」
身体が揺れる。
それでも止まらない。
リュウも踏み込む。
春麗も行く。
互いに、あと一撃。
リュウの拳が伸びる。
春麗は腰を落とし、残った力を右拳へ乗せた。
開脚突拳。
ほとんど同時。
それでも春麗の拳が、ほんのわずかに先にリュウの胸を捉えた。
「っ……!」
リュウの身体が揺れ、一歩下がる。
踏みとどまろうとした脚から力が抜け、片膝が床へ落ちた。
春麗もその場で大きく息を吐く。
「……っ、は……」
危なかった。
もう余力はほとんど残っていない。
それでも、立っているのは春麗だった。
しばらく片膝をついたリュウを見てから、春麗は笑った。
「……私の勝ちよ」
「最後を取られた」
悔しさを隠さない声だった。
春麗の胸へ、甘い熱が強く入る。
「この姿で九勝目。通常の服まで入れたら──十連勝ね」
「そこまで増えたか」
「増やしたのは私よ」
とうとう耐えきれず、春麗は声を出して笑った。
「ふふ……!」
「嬉しそうだ」
「当たり前でしょう?」
春麗は完全に開き直った勝者の顔で言った。
「今日のあなた、今までで一番良かったのよ。黒もほとんど効かない。昇龍拳もかなり出来てた」
「それでも負けた」
「そう。それでも──」
春麗の笑みが甘くなる。
「私が勝った」
リュウの眉が寄る。
その顔を見て、春麗はさらに満足そうに笑った。
「……最高ね」
まず、互いに深刻な怪我がないことを確かめた。
リュウは呼吸も意識もしっかりしている。
春麗自身もかなり疲労し、身体のあちこちが痛むが、深刻な損傷はない。
今日の昇龍拳は、その点について本当によく出来ていた。
そこまで確かめてから、春麗は床へ座った。
黒い裾を整え、自分の膝を軽く叩く。
「ほら」
それだけで十分だった。
リュウは何も聞かず、春麗のところへ来る。
「今日は素直ね」
「勝った日は、いつもこうだろう」
「そうね。そこは偉いわ」
「次は勝つ」
「はいはい」
かなり機嫌よく、春麗はリュウの頭を支えて自分の膝へ乗せた。
もう何度も知っている重さ。
勝った日に繰り返してきた距離。
今日も勝者の位置だった。
春麗はその甘さを、もう隠さず味わう。
黒の支度の名残がわずかに残った指先をリュウの額へ置き、眉間の少し上を短く横へ滑らせた。汗に滲んだ薄い紅色の線が残る。
今日も春麗がリュウに残す、敗者の印だった。
「今日も敗者はあなたよ、リュウ」
「分かっている」
「黒い私に九敗。合わせて十連敗」
「……増えたな」
「悔しい?」
「かなりな」
春麗は満足そうに頷いた。
「いいわね」
「楽しんでいるな」
「ものすごくね」
即答だった。
今日の勝ちは、特に気持ちいい。
黒がほとんど効かなくなり、昇龍拳までかなり正解へ近づいたリュウに、紙一重でまた勝った。
「私、今日の勝ち、かなり好きよ」
「そうか」
「あなた、ほとんど出来てたのよ? そのあなたに勝ったの」
「分かっている」
「もっと悔しそうな顔して」
「十分悔しい」
「……いいわね」
春麗は本当に楽しそうだった。
十分に勝利を味わってから、春麗はリュウの右手を取った。
今日、何度も春麗を空へ運んだ昇龍拳の拳。
その甲へ指先を滑らせ、薄い紅の線を短く残す。
「でも、今日はかなり正解に近いわ」
リュウの目がわずかに変わる。
「前回みたいに考えてるのは、ほとんど見えなかった。弱くもしてない。私を必要以上に壊してもいない。制御もかなり意識しなくて済むようになってる」
「そこまでは出来た」
「ええ。そこまで来たことは、ちゃんと認めるわ」
春麗の指が、リュウの右拳へもう一度触れる。
「でも、まだ足りない」
「春麗が立った」
「そう。そこ」
春麗はすぐに頷いた。
「私を壊さなかった。それはいい。でも、私が勝負を続けられないところまでは届かなかった」
リュウが黙る。
「今日のあなたは、必要以上に傷つけずに当てるところまでは、かなり出来てる。でも、それだけじゃ試合には勝てない。私、立ったもの」
少しだけ勝者の笑みが戻る。
「そのあと、あなたに勝った」
「そこを取られた」
「だから次は──」
春麗はリュウの右拳を軽く握った。
「私を壊さないまま、私がもう勝負を続けられないところまで、ちゃんと届かせなさい」
リュウの目が鋭くなる。
「壊さずに、終わらせる」
「そう」
春麗は少しだけ苦笑した。
「まためんどくさいこと言ってるのは分かってるわよ」
「違わないな」
「そこは否定しなさい」
「無理だ」
「……ほんとに腹立つわね」
そう言いながらも、春麗は笑っていた。
「私も、まだ全部の答えが分かってるわけじゃない。でも今の私が立ってるなら、試合はまだ終わってないでしょう」
「そうだな」
「だったら、そこが次」
リュウはしばらく春麗を見上げていた。
「次は終わらせる」
春麗の目が少し大きくなり、すぐに楽しそうな笑みに変わった。
「……そう。それでいいわ」
一度、リュウの髪を撫でる。
「私を壊さない。でも、試合は終わらせる。その答えを持ってきなさい」
「持ってくる」
春麗の笑みが少し深くなる。
「まあ、持ってきても次も私が勝つけど」
「次は俺が勝つ」
「ふふ」
その返事を聞いて、春麗はとても満足そうに笑った。
「楽しみにしてる」
リュウを膝へ乗せたまま、春麗は今日の昇龍拳をもう一度思い返した。
怖くて撃てなかった拳ではない。
最後に弱くした拳でもない。
制御を考えて遅れた拳でもない。
速かった。強かった。迷わなかった。
そして春麗を必要以上には壊さなかった。
そこまで来た。それでも春麗は立った。
その事実だけが、今は最後の課題として残っている。
(あと少しね)
リュウが自分を女として見ても、好きな女として見ても、格闘家として見ても、拳はもうほとんど止まらない。
黒もほとんど効かない。
昇龍拳の制御まで、かなり自然になっている。
なら、修行に残された課題は本当に残り少ない。
そして、その完成した拳を自分が受けることになる。
負けるかもしれない。
今よりずっと、負ける可能性は高くなる。
それでも春麗は笑った。
「いいわよ」
「何がだ」
「何でもない」
心の中では、はっきり思っている。
(完成させなさい)
そのうえで──
(私が勝つから)
最後まで欲張りで、めんどくさい。
それでいいと、今の春麗はもう分かっていた。
記録板AIは、そこでログを停止した。
『検証ログ終了』
『黒い戦闘服第九戦』
『結果/春麗勝利』
『現在/通常武道服一勝、黒い戦闘服九勝、合計十連勝』
『新規課題/必要以上に壊さず、試合を終わらせる』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回のエピソードは、黒い戦闘服での第九戦。
前回までの流れを受けて、リュウの昇龍拳がかなり「正解」に近づいた回です。
第七戦では、
「昇龍拳は撃つ。でも春麗へ当たる直前に威力を落とす」
という答えでした。
これは春麗から、
「それは制御じゃない」
「ただの手加減よ」
と否定されました。
第八戦ではそこから一歩進んで、
威力は落とさない。
勝つ意志も落とさない。
昇龍拳も最後まで通す。
そのうえで、
どこへ当てるか。
どういう角度で入れるか。
どちらへ力を逃がすか。
春麗をどう落とすか。
そこを調整し始めました。
方向としては正しい。
ただし、その制御をまだ頭で考えていた。
だから春麗には、
「……まだ考えてる」
という一瞬が見えてしまった。
そして今回。
その「考えている時間」が、かなり消えています。
リュウはもう、昇龍拳を撃ちながら、
「ここへ当てよう」
「この角度なら大丈夫だ」
「こちらへ力を逃がそう」
と一つずつ組み立ててはいません。
かなり身体へ入っている。
だから。
速い。
迷わない。
弱くしていない。
勝つための昇龍拳として成立している。
しかも春麗を必要以上には壊さない。
ここまで来ました。
かなり大きな進歩です。
今回、春麗自身もそこは明確に評価しています。
「今の、かなり良かったわよ」
これは本心です。
これまでのように、
「また逃げた」
「また弱くした」
「まだ考えてる」
と欠点を見つけて怒っているわけではありません。
むしろ一瞬、
「出来た」
と思っています。
ここが今回の重要なところです。
昇龍拳が春麗へきちんと入る。
強い。
春麗の身体が浮く。
でも一点を必要以上に破壊するような入り方ではない。
力の流れも、落とし方も、かなり制御されている。
そして春麗は着地する。
大きな損傷もない。
ここまでなら。
リュウが春麗から要求されていた、
「弱くしない」
「でも壊さない」
は、かなり達成しています。
ところが春麗が立つ。構える。
そして、
「……まだ」
と言う。
ここで今回の新しい問題が出てきます。
春麗は壊れていない。
これは成功。
でもまだ戦える。
これは失敗。
つまり今回のリュウは、
「春麗の肉体を必要以上に壊さない昇龍拳」
にはかなり到達しました。
しかし、
「春麗との試合を終わらせる昇龍拳」
には、まだ届いていません。
今回の修行編では、ここをかなり大事にしています。
「壊さない」と「倒さない」は同じではありません。
ここまでのリュウは、どうしても安全側へ少し余白を残しています。
昔、自分の昇龍拳をきっかけに春麗が止まった。
その記憶がある。
だから春麗を壊さないようにする。
そこまでは正しい。
でも今度は安全に寄せすぎて、
春麗がまだ戦えるところを残してしまった。
今回の春麗の、
「安全に当てるだけじゃ、足りないのよ」
は、その違いを初めて言語化した台詞です。
そして、
「私を壊さない」
「でも、試合は終わらせる」
ここで最終回答の輪郭がかなりはっきりしました。
このリュウ修行編で最終的に欲しいのは春麗を無傷にする拳でもありません。
逆に全力だから仕方がないと必要以上の損傷を与える拳でもない。
勝つために必要な性能は最後まで残す。
春麗の身体には過剰な損傷を残さない。
それでもその一撃を受けた春麗が、
「まだ戦える」
とはならない。
肉体そのものを壊すのではなく。
試合に必要な戦闘能力だけを、きちんと削り切る。
ここへ向かっています。
作中ではまだ「戦闘HP」という言葉を直接出していませんが、構造としてはまさにそれです。
肉体HPを壊すのではない。
戦闘HPだけをゼロにする。
そして今回そこまで行けなかったから。
春麗に、「まだ」
が残った。
その「まだ」を使って。
春麗は勝っています。
ここも重要です。
今回の勝因は、以前までとはかなり変わっています。
黒い戦闘服そのものは、もうほとんど効いていません。
視線、言葉、距離、長い髪。
女性としての春麗。
好きな女性としての春麗。
リュウは全部見ています。
それでも普通に戦える。
春麗自身もそのことを認めています。
そして昇龍拳にあった、
撃たない。
弱くする。
考えて遅れる。
という分かりやすい穴も、ほとんど消えた。
今回春麗が使ったのは、
「昇龍拳を受けても、まだ自分に残されている戦闘能力」
です。
つまりリュウの失敗を避けて勝ったのではなく。
リュウのかなり完成度の高い昇龍拳を実際に受けたうえで。
それでも残った最後の余力を使って勝った。
これは、黒でのこれまでの勝利の中でもかなり価値の高い一勝です。
だから春麗が大満足なのは当然です。
黒九勝。
通常の武道服での一勝まで入れれば十連勝。
しかも今回のリュウは、今までで一番完成に近い。
黒もほとんど効かない。
通常攻防も強い。
昇龍拳までかなり出来ている。
そのリュウに。
また紙一重で勝った。
春麗からすれば、
「最高ね」
になります。
今回の勝者酔いは、もう完全に開き直っています。
リュウから、
「嬉しそうだ」
と言われて。
「当たり前でしょう?」
と返す。
さらに、
「今日の勝ち、かなり好き」
とまで言っています。
もう。
修行だから。
介抱だから。
勝者要求権だから。
そんな言い訳は必要ありません。
好きな男に勝つのが好き。
しかも強くなった好きな男に勝つのは、もっと好き。
それを本人が普通に認めています。
この春麗は、かなり勝者酔いしています。
でも今回も、そこに飲まれてはいません。
もし勝利だけを守りたいなら。
今日の昇龍拳で十分です。
春麗はまだ立てる。
そこから反撃できる。
今回も実際、それで勝った。
だったら。
「もうこれでいいじゃない」
と言えばいい。
でも春麗は言わない。
むしろ。
「まだ足りない」
と言う。
自分が勝つために利用した穴を。
勝った直後に。
自分からリュウへ教えてしまう。
「私を壊さないまま」
「私がもう戦えないところまで」
「ちゃんと届かせなさい」
かなり無茶です。
リュウからすればようやく弱くせずに当てられた。
制御も身体へ入った。
春麗も壊さなかった。
それなのに。
今度は、
「でも私が立ったから駄目」
と言われる。
当然めんどくさい。
今回も春麗自身、
「まためんどくさいこと言ってるのは分かってるわよ」
と認めています。
そしてリュウも否定しない。
ただこの「めんどくささ」が、今の修行を最後まで進める力にもなっています。
春麗は要求を簡単にしません。
好きな女だからと弱めるな。
でも壊すな。
それができるようになったら。
今度は戦闘を終わらせろ。
しかも完成したあなたにも私は勝つつもり。
本当に相当めんどくさい女です。
でももう本人も完全に分かっています。
そしてリュウも付き合っています。
今回もう一つ大きいのが。
リュウ自身から「次は終わらせる」という言葉が出たところです。
これまでは春麗が、撃ちなさい。
弱くするな。
制御しなさい。
身体へ入れなさい。
と引っ張ってきました。
今回は春麗が、
「私が立った」
「まだ試合が続いた」
と指摘したあと。
リュウ自身が、
「次は終わらせる」
と言った。
これはかなり大きな変化です。
リュウ自身も、
「春麗を壊さないこと」
だけを目標にする段階から。
「春麗を壊さず、勝負を終わらせること」
へ目的を更新した。
ここでようやく二人が同じ最終回答を見始めています。
そして過去との対比もかなり進んできました。
昔。
春麗は昇龍拳を見ただけで身体が止まった。
リュウの拳の前で。
戦闘HP以前に。
自分の身体が前へ行けなかった。
今は。
昇龍拳を何度も真正面から受けて。
落とされても立つ。
まだ戦う。
「……まだ」
と言う。
かなり遠くまで来ています。
そして今度は逆に。
リュウ側がその春麗を、
「壊すのではなく、きちんと試合だけ終わらせる」
ところまで来なければならない。
最終的には、春麗の身体も止まらない。
リュウの拳も止まらない。
それでも春麗は壊れない。
ただし試合だけは終わる。
そこがこの修行編の答えになります。
今回の第九戦はその最終回答の一つ手前まで。
かなりはっきり見えるようになった回でした。
リュウはもう昇龍拳を撃てます。
弱めません。
制御もかなり身体へ入っています。
春麗も壊しません。
残った課題はあと一つ。
安全に当てるのではなく。
必要以上に壊さないまま、勝負を終わらせること。
そこまで来ました。
そして春麗はそんなリュウに今回も勝って。
黒九勝。
通算十連勝。
膝枕。
敗者の印。
勝者酔い。
全部ものすごく楽しんでいます。
それでも次はもっと強くなって来いと言う。
今の春麗にとって。
勝利が甘ければ甘いほど。
完成したリュウに勝ちたいという欲まで。
一緒に大きくなっています。
本当に最後までめんどくさい女です。