また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートの修行編後日談より先の未来時空のエピソードです。
記録板AIは、黒い戦闘服第十一戦の終了後に残された補完ログを開いた。
『ディレクターズカットIF』
『第1話ギリギリ敗北ルート後日談』
『黒い戦闘服第十一戦終了後』
『結果/春麗勝利』
『以下、観測を開始します』
自室へ戻った春麗は、扉を閉めるとそのまま背中を預けた。
身体中が重い。
何度も打撃を受け、昇龍拳もまともに食らった。
最後には、本当にあと一度しか動けなかった。
それでも。
「……十勝」
口にした途端、口元が緩んだ。
もう一度、今度は少しだけはっきりと言う。
「黒い私で、十勝」
胸の奥へ、試合場で味わったものと同じ甘い熱が戻ってきた。
「……ふふ」
春麗はとうとう笑った。
「やったわね、私」
今夜くらいは遠慮しなくていい。
黒い戦闘服で、リュウに十回勝った。
一度は負けた。十連勝も止められた。
そのあとで、さらに強くなったリュウから取り返して十勝目を奪った。
「これは……かなり来るわね」
自分がどれだけ勝利を楽しんでいるかなど、もう十分分かっている。
だから今夜は分析するより先に、ちゃんと喜ぶことにした。
春麗は鏡の前へ歩いた。
試合を終えた黒い戦闘服には埃が残り、長い髪も乱れている。化粧も汗で少し崩れていた。
それでも、鏡の中の自分を見て満足そうに笑う。
「十回、ね」
もう一度だけ数字を確かめる。
これまでにも連勝を数えて、その響きを楽しんだことはある。
けれど今日の十勝目は少し違った。
「あなた、もう黒じゃほとんど困らないものね」
鏡ではなく、そこにいないリュウへ向けるように呟いた。
今日も春麗を見ていた。
黒い戦闘服も、長い髪も、女としての春麗も、好きな女としての春麗も。
全部見たまま拳を出してきた。
試合中に「綺麗?」と聞けば、平然と「綺麗だ」と答えて、そのまま殴りに来る。
「……そこまで慣れなくてもいいでしょうに」
少し眉を寄せる。
だが、すぐに笑った。
自分がそうなることを望んだのだから、文句を言うところではない。
そして何より、今日の勝利は、そのリュウを相手に取ったものだった。
黒い姿に大きく揺れたリュウから拾った勝利ではない。
黒をほとんど見切り、普通の攻防でも春麗と正面から競り合えるリュウ。
一度は、この姿の春麗へ勝った男。
そのリュウに、今日は春麗が勝った。
「……そりゃ、気持ちいいわよね」
胸を張って認める。
今日の勝利を、黒という道具だけの成果にする必要はない。
黒い戦闘服を着た春麗自身が、格闘家として競り勝った。
それが嬉しかった。
そして何より、最後の一回。
春麗は自分の右足へ目を落とした。
一度だけ踏み込めた。
右手を見る。
一撃だけ返せた。
それだけだった。
それを全部使った。
リュウが追撃へ入る瞬間に一歩だけ外し、そのまま最後の発勁を叩き込んだ。
先に膝をついたのはリュウだった。
「……私の勝ち」
思い出して呟く。
胸の奥が、また熱くなった。
「よく取ったわね、私」
自画自賛でも何でもいい。
本当に、よく取ったと思う。
あと一回しか動けない。
なら、その一回で勝つ。
今日の春麗は、それをやった。
「黒で十勝目」
今度は少し誇らしそうに言う。
「これは、自慢していいでしょう」
誰に自慢するのかは決まっている。
次にリュウへ会ったら、また十敗だと言ってやればいい。
きっと向こうは「一度勝った」と返す。
それを想像しただけで、春麗はまた笑った。
勝った後のことも、まだよく覚えている。
互いの身体を確認してから床へ座り、膝を軽く叩いた。
それだけでリュウは来た。
馴染んだ重さを膝へ乗せ、額へ敗者の印を残す。
今日、自分を何度も空へ打ち上げた右拳にも印を置いた。
前回の敗北では出来なかったことが、今日はまた出来た。
「……やっぱり好きなのよね」
春麗は自分の膝を軽く撫でた。
勝ったことを味わう時間。
悔しそうなリュウを見ること。
敗者の印を残すこと。
その全部が好きだ。
今さら否定する理由もない。
むしろ今日は黒で十勝目だったのだから、いつもより少しくらい長く味わってもよかった。
「今日は特別よ」
試合場でリュウにもそう言った。
その時は、黒で十勝目だからとだけ答えた。
もちろん、それは本当だ。
ただ、もう一つだけ理由がある。
今日のリュウに残った穴は、本当にわずかだった。
春麗へ残したのは、あと一回動けるだけの余力。
次にそこまで消えれば、今日のような逆転は出来ないかもしれない。
この勝利後の時間も、次は自分のものではないかもしれない。
だから今日は、今日の勝利を十分に味わった。
「……だからって、次に負けるつもりはないけど」
そこは当然だった。
春麗は黒い戦闘服を脱ぐ前に、もう一度だけ全身を鏡へ映した。
十勝。
この姿で十回、リュウに勝った。
それだけで十分大きな区切りだった。
最初にこの姿を選んだ時、こんな数字まで来るとは考えていなかった。
でも今、目の前にはその結果がある。
十勝一敗。
「……よくやったわね」
春麗は鏡の中の自分へ言った。
今日はそれでいい。
なぜ黒を選んだのか。
どう変わったのか。
リュウがどこまで適応したのか。
そんなことは、もう何度も考えた。
今夜くらいは、それを最初から整理し直さなくてもいい。
ただ、自分が十回勝ったことを喜べばいい。
「私、ちゃんと強かったもの」
黒が効いた時も勝った。
効かなくなってからも勝った。
一度負けた。
そのリュウから、また取り返した。
そして十勝目まで来た。
それは、誰かに説明して認めてもらわなくてもいい結果だった。
春麗自身が知っている。
「……うん」
満足そうに頷く。
「今日は、ちゃんと自分を褒めてあげましょう」
春麗は鏡の中の勝者へ笑いかけた。
装飾を外し、化粧を落とす。
髪を整え、ようやく黒い戦闘服へ手をかける。
試合の姿から、いつもの自分へ戻っていく。
それでも今日の十勝は消えない。
黒を脱いだからといって、そこで積み上げてきたものまでなくなるわけではない。
「……十勝」
最後にもう一度だけ口にした。
やはり響きがいい。
春麗は小さく笑った。
そして、ようやく次のことを考えた。
リュウはきっと、今日残した一回分を次までに埋めようとする。
必要以上に春麗を壊さない。
威力を落とさない。
迷わない。
そのうえで、昇龍拳だけで春麗の試合を終わらせる。
その答えが来れば、この修行は本当に終わるかもしれない。
胸の奥にわずかな緊張が入る。
けれど怖くはなかった。
「持ってきなさい」
春麗は静かに言った。
「ちゃんと完成したものを」
それを見たい。
ここまで来たのだから、最後まで見届けたい。
ただし、春麗の口元へまた勝負の笑みが戻った。
「そのあなたにも、私は勝つけど」
今日、黒で十勝目を決めた女として。
そこだけは、少しも譲るつもりがなかった。
寝る前、春麗はもう一度だけ今日の最後を思い出した。
一歩。
一撃。
残っていたのは、それだけ。
その全部を勝利へ変えた。
リュウが膝をついた。
「……私の勝ち」
今日、一番好きだった瞬間だ。
春麗は布団の中で、また少し笑った。
「いい勝ちだったわね」
今夜は、それで十分だった。
強いリュウに、本気で勝った。
黒で十勝目を取った。
誰かに証明するためでも、黒い自分を正当化するためでもない。
ただ、その勝利が嬉しい。
春麗は勝者として、今夜くらいは存分にそれを味わった。
記録板AIは、補完ログを保存した。
『幕間ログ終了』
『対象春麗/黒い戦闘服第十一戦勝利後』
『黒い戦闘服戦績/十勝一敗』
『黒十勝目への満足/極めて高』
『勝者としての自己評価/肯定』
『勝者酔い/完全受容』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、黒い戦闘服で十勝目を取った春麗が、その勝利を素直に祝う幕間でした。
リュウはもう黒そのものにはほとんど揺れず、昇龍拳も完成寸前。それでも春麗は、最後に残された一回分の余力を勝利へ変えました。
だからこそ今回は、修行や黒を選んだ理由を改めて考えるよりも、「強くなったリュウに自分が勝った」という結果をそのまま喜ばせています。
ここまで来た春麗なら、勝者として自分を褒めることにも、もう遠慮はいりません。
そして次は、いよいよ昇龍拳の最後の答えです。