また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートの修行編後日談より先の未来時空のエピソードです。
記録板AIは、最後の戦闘ログから少し時間を置いて、新しい記録を開いた。
『ディレクターズカットIF』
『黒い戦闘服・非戦闘運用』
『以下、観測を開始します』
春麗は鏡の前で、いつもより長く自分を見ていた。
黒と金の戦闘服。長く下ろした髪。整えた化粧。
何度もリュウの前へ立ってきた姿だ。服そのものは何も変わっていないのに、今日は妙に落ち着かない。
「……何なのよ」
試合の日なら、こんなことはなかった。
髪をどう見せるか。どの距離で目を合わせるか。どんな言葉を挟むか。準備の時間から勝負は始まっていて、その全部を考えることにもすっかり慣れていた。
けれど今日は、そのどれも必要ない。
視線で判断を遅らせる必要も、距離を測る必要もない。言葉で余計な処理を増やす必要もない。
そもそも戦わない。
今日、この姿を選んだ理由は一つしかなかった。
リュウが、この姿の春麗と戦わずに出かけたいと言ったから。
「……」
春麗は片手で顔を覆った。
「それが一番恥ずかしいじゃない」
誰も聞いていない。
それでも逃げる気はなかった。
手を下ろし、最後に髪を整える。
「いいわ」
鏡の中の自分へ、少しだけ笑う。
「行きましょうか」
今日は勝つためではない。
待ち合わせ場所へ着くと、リュウはすでにいた。
春麗を見つけたリュウの視線が、一瞬だけ止まる。
それを春麗は見逃さなかった。
「何?」
「いや」
「今、止まったでしょう」
「止まった」
「……あら」
春麗は少しだけ近づく。
「修行の成果、戻った?」
「違う」
「じゃあ何よ」
リュウはもう一度、春麗を見る。
黒い戦闘服も、長い髪も、整えた顔も、逃げずに全部見る。
でも今日は、そのあとに拳が飛んでこない。
「綺麗だと思った」
「……」
今度は春麗が止まった。
「何だ」
「……何でもない」
「そうか」
「何でもないから、そんなに見ないで」
「見るために、その服で来てもらった」
春麗は数秒黙った。
「あなた、試合じゃなくなった途端に強くなってない?」
「戦っていない」
「そういう意味じゃない!」
リュウが少し笑う。
春麗も、結局つられて笑った。
「まあ、いいわ。ちゃんと来たわよ。あなたが見たいって言った黒い私で」
「分かっている」
春麗は少しだけ腕を広げる。
「満足?」
「している」
迷いのない返事だった。
「……そう」
春麗はわずかに視線を外した。
「なら、いいわ」
試合で勝った時とはまったく違うのに、どうしてこんなに落ち着かないのか。
理由はもう分かっている。
好きな男と、好きな姿の自分で、戦わずに出かける。
それが嬉しいだけだった。
二人は街を歩いた。
最初のうち、春麗は少しだけ周囲の視線を気にしていた。黒い戦闘服は普段着としては目立つ。
リュウは、まるで気にしていない。
「ねえ。本当にこの格好でよかったの?」
「これがいい」
「もっと普通の服でもよかったでしょう?」
「今日は、その姿の春麗と出かけたかった」
春麗の足がわずかに遅れる。
「……今まで試合中に鍛えすぎたかしら」
「何をだ」
「そういうのを即答するところよ」
「思っていることを言っただけだ」
「それが困るって言ってるの」
そう言いながら、また隣を歩く。
ふと春麗は、以前ならこの距離にも意味を持たせていたことを思い出した。
半歩近づいて視線を取る。呼吸を見る。反応を測る。
今日は何もしない。
ただ隣を歩く。
(……悪くないわね)
いや。
(かなり好きかも)
気づいて、少し口元が緩んだ。
「何だ」
「何でもない」
「そうか」
「……そういう時は追及しないのね」
「聞いてほしいのか?」
「そういうことでもないわよ」
「難しいな」
春麗は思わず笑った。
「今さらでしょう?」
「それはそうだ」
「私、めんどくさい女なんだから」
「自分で言ったな」
「そこは否定しなさいよ」
「覚えている」
「ほんとに、余計なところまで全部覚えてるんだから」
でも、それも嫌ではなかった。
いろいろあったことを忘れたのではない。
全部覚えたまま、リュウは今ここにいる。
それでよかった。
食事は驚くほど普通だった。
この二人なので拳や試合の話も自然と出たが、今日はそれだけではない。
春麗は飲み物を置きながら、ふと思い出したように言った。
「最後の昇龍拳、本当によくあそこまで仕上げたわね」
「春麗が付き合ってくれた」
春麗の手が一瞬止まる。
「……そういうのはちゃんと言えるのね」
「事実だからな」
「なら、私もちゃんと言っておくわ。昔の恩を返せてよかった」
「十分返してもらった」
「そう」
春麗は少し柔らかく笑った。
「これで、修行は終わりね」
「ああ」
短い返事だった。
それでも、その一言で十分だった。
長く続いていたものが本当に終わった。
春麗は少しだけ息を吐く。
「……長かったわね」
「そうだな」
「黒い私に十回も負けたものね」
「二回勝った」
「そこはやっぱり言うのね」
「忘れない」
「でも十敗」
「それも忘れていない」
「ふふ。いい記録だわ」
春麗は満足そうに笑った。
するとリュウが、静かに言う。
「次は勝つ」
春麗の目が細くなった。
「……次?」
「次に戦う時だ」
「ああ、そういう意味ね。今日デート中なのに、もう再戦を始めるのかと思ったわ」
「今日は戦わない」
「そうだったわね」
少し安心してから、春麗も笑う。
「もちろん、次に戦う時は私が勝つわよ」
「そうはさせない」
「黒でやるかは、まだ決めてないけど」
「どちらでもいい」
春麗は少し考えた。
「……そうね。私もどっちでもいいわ」
口にしてから、自分でも少し意外だった。
以前は黒そのものに特別な意味があった。
今は、青でも黒でも春麗だ。
戦いたい時に、自分で選べばいい。
リュウも、そのどちらを選んだ春麗でも見る。
「どうした」
「何でもない。ちょっと分かっただけ」
食事を終え、二人はまた歩いた。
いつの間にか春麗も、黒い戦闘服を着ていること自体をほとんど意識しなくなっていた。
最初は、この格好で戦わずにいることが妙に落ち着かなかった。
今は普通に歩ける。
リュウが隣にいる。
時々こちらを見る。
でも、その視線はもう試合中に読むべき情報ではない。
春麗も、それを利用する必要はない。
やがて二人は少し休むことにした。
並んで腰を下ろす。
拳も構えも勝敗もない。
しばらく、どちらも話さなかった。
試合中の沈黙とはまったく違う。
次の動きを読む必要もない。相手が何を狙っているのか考えなくてもいい。
ただ隣にいる。
その静けさを、春麗は思っていた以上に心地よく感じていた。
「……リュウ」
「何だ」
「今日、楽しい?」
「楽しい」
春麗は少し前を向いた。
「……そう」
少し間を置いてから続ける。
「私も」
それだけ言えた。
今日は、それで十分だった。
帰る頃になって、春麗は一つ気づいた。
朝からずっと黒い戦闘服を着ていた。
それなのに一度も、どうすればリュウを揺らせるか考えていない。
視線も、距離も、言葉も、今日は武器にしなかった。
それでも何も困らなかった。
むしろ、楽しかった。
「……そっか」
「何だ」
「何でもない」
春麗は自分の黒い戦闘服を見下ろし、少しだけ笑った。
今日はただ、この姿で好きな男と歩いて、食べて、話した。
それで十分だった。
「リュウ」
「何だ」
「一つ、ちゃんと言っておくわ」
リュウが待つ。
春麗は少しだけ視線を外した。
まだ、こういうことを口にするのは少し恥ずかしい。
けれど、逃げるつもりはない。
「今日のこれ」
「何だ」
春麗は頬にわずかな熱を感じながら、それでも笑った。
「……デートよ」
「ああ」
いつもの短い返事だった。
春麗は少し眉を寄せる。
「もう少し何かないの?」
「楽しかった」
春麗が黙る。
リュウは続けた。
「また行きたい」
「……」
今度こそ、春麗はすぐに言葉を返せなかった。
数秒して、ようやく笑う。
「そう」
一歩だけリュウへ近づいた。
今日は、その距離に何の戦術的な意味もない。
「じゃあ、次は私から誘ってあげる」
「楽しみにしている」
「ただし、試合は別だからね」
「望むところだ」
春麗の目へ、ほんの少しだけ勝負の色が戻る。
「その時は、今度こそ私が勝つわよ」
「俺が勝つ」
春麗は笑った。
「……そう言うと思った」
そして二人は、また並んで歩き出した。
黒い春麗は、もう勝つためだけにそこにいるのではない。
戦う日は戦う。
戦わない日は、好きな男とただ一緒に歩く。
今は、それでよかった。
記録板AIは、最終ログを保存した。
『エピローグ終了』
『黒い戦闘服/非戦闘運用・完了』
『双方、再外出希望あり』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、完成した昇龍拳でリュウ側の修行が終わった後、初めて「戦わない黒い春麗」を描くエピローグでした。
これまで黒い戦闘服は、リュウへ負荷をかけるために始まり、勝つための戦術になり、やがて春麗自身が好んで選ぶ姿へ変わっていきました。
ですが今回は、視線も距離も言葉も戦術には使いません。
ただその姿で、好きな相手と歩いて、食事をして、話す。
春麗自身も最初は落ち着きませんが、一日を過ごすうちに「黒を着ているから何かをしなければならない」わけではないことに気づいていきます。
個人的に今回大事にしたかったのは、リュウが黒を攻略したから終わるのではなく、その姿の春麗を戦いの外でも見たいと思ったことです。
そして春麗も最後には、今日の外出を自分の言葉で「デート」と認めました。
修行が終わっても、勝負も関係も終わりません。
次回で、このリュウ側修行編の後日談も完結となります。