また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートの修行編後日談より先の未来時空のエピソードです。
部屋へ戻った春麗は、扉を閉めてからしばらくそのまま立っていた。
今日は試合のあとではない。
身体は痛くない。息も上がっていない。膝に誰かの重みが残っているわけでもなければ、指先に敗者の印をつけた感触もない。
それでも春麗は、黒と金の戦闘服を着ている。髪も下ろしたままで、化粧もまだ落としていない。
この姿で、一度も戦わずに一日を過ごした。
「……ほんとにデートしたのよね」
誰もいない部屋でもう一度口にすると、少しだけおかしくなって笑った。
最初にこの服を選んだ頃とは、まるで違う。
あの頃は、鏡を見る時にも必ずリュウのことを考えていた。どう見せれば意識を向けられるか。どの距離なら反応が変わるか。どんな言葉なら一瞬だけ判断を増やせるか。
使えるものは全部使った。
それで何度も勝った。
勝つこと自体も、そのあとの時間も、春麗はずいぶん好きになった。
そこを否定する気は、もうない。
「今でも好きよ」
黒で勝つことも。
いつもの武道服で勝つことも。
もっと強くなったリュウに、それでも勝つことも。
全部、今でもやりたい。
けれど今日、この黒を着てやったことはまるで違った。
歩いた。
食事をした。
話した。
並んで座った。
それだけだ。
視線も距離も言葉も、何一つ武器にはしなかった。
それなのに楽しかった。
「……そういうことなのね」
春麗は鏡台の前へ座った。
黒だから戦うわけではない。
青だから普段の自分に戻るわけでもない。
戦っている自分と、好きな男と出かけている自分を、わざわざ別々にする必要もなかった。
「どっちも私なのよね」
口にしてみると、驚くほど簡単だった。
春麗は鏡に映る自分を見ながら、ゆっくり装飾を外していった。
今日の帰り際、リュウは言った。
『また行きたい』
そして春麗は、
『次は私から誘ってあげる』
と答えた。
「……私から誘うのよね」
改めて考えると、少し恥ずかしい。
それでも、言わなければよかったとは思わない。
昔なら、ここからいろいろ考え始めたかもしれない。
どこへ行くのか。
どういう服で行くのか。
どこからがデートなのか。
自分から誘うのはどうなのか。
けれど今は、そこまで難しくする気にならなかった。
行きたいなら誘えばいい。
リュウと戦いたい時に、自分から勝負を求めるのと同じだった。
「拳でも、こういうことでも……必要なら自分から行けばいいのよ」
そう言ってから、春麗は少し笑った。
「まあ、拳の方がずっと楽だけど」
そこはまだ変わらないらしい。
化粧を落とす。
髪をいつものように整える。
最後に、黒い戦闘服へ手をかけた。
以前なら、この服を脱ぐと、その日の「黒い春麗」が終わるような感覚が少しだけあった。
今日は違った。
一枚ずつ脱いでいっても、何もなくならない。
勝つのが好きな自分。
リュウに強くなってほしい自分。
その強くなったリュウにも勝ちたい自分。
負ければ本気で悔しい自分。
綺麗だと言われれば嬉しい自分。
頼られれば嬉しい自分。
デートが楽しかった自分。
全部、そのまま残っている。
「……ああ」
春麗は鏡の中の自分を見て、ようやく納得した。
「黒を脱いだからって、黒い私がいなくなるわけじゃないのね」
当たり前のことだった。
けれど、その当たり前のところへ来るまで、随分いろいろあった。
黒を着れば勝ちたくなる。
それでいい。
戦わずに着たければ、そうすればいい。
いつもの武道服を選ぶ日があってもいい。
どれが本当の春麗なのか、一つに決める必要など最初からなかった。
「全部、私だもの」
それだけでよかった。
着替えを終えた春麗は、ベッドへ腰を下ろした。
しばらく自分の膝を見る。
また勝ったら、きっとリュウをここへ乗せたくなる。
敗者の印も残したくなる。
悔しいかと聞いて、次は勝つと言わせたくなる。
「……またやりたいわね」
自然に出た言葉に、自分で笑った。
「当然でしょう」
修行は終わった。
でも、二人の勝負が終わったわけではない。
恋人だから戦わなくなるわけでもない。
デートしたから勝敗がどうでもよくなるわけでもない。
「次は勝つ」
そこは譲らない。
少しして、表情が柔らかくなる。
「それで、次のデートにも行く」
こちらも本気だ。
どちらか一方を選ぶ必要はない。
「……ほんと、めんどくさい女」
春麗は呆れたように笑った。
以前なら、その言葉からまた何か考え込んだかもしれない。
今は違う。
「知ってるわよ」
それで終わった。
少し静かな時間が流れた。
春麗はベッドへ身体を預ける。
今日一日、黒い戦闘服を着ていた。
けれど誰とも戦わなかった。
勝ちもしなかった。
負けもしなかった。
ただ好きな男と一緒に過ごした。
それが楽しかった。
次は自分から誘う。
そして、また別の日には本気で戦う。
勝てば思い切り喜ぶ。
負ければ思い切り悔しがる。
どれも捨てる必要はない。
「……よし」
春麗は小さく言った。
「次もちゃんと勝って」
一度、笑う。
「ちゃんとデートしましょう」
どちらも同じくらい本気だった。
黒を脱いでも、今日まで積み上げてきたものは全部、自分の中に残っている。
勝者の自分も。
敗者の自分も。
格闘家の自分も。
リュウを好きな自分も。
もう、どこかへ分けて置いておく必要はない。
春麗は目を閉じた。
全部、自分のものだった。
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回の最終話は、修行編そのものの総括ではなく、修行が終わったあとに春麗自身の中で何が残ったのかを描く話にしました。
今回は、リュウ側修行編後日談の締めとして、春麗が黒い戦闘服を脱いだあと、自分の中に残ったものを確かめるエピソードでした。
黒はもともと、リュウへ負荷をかけるために選んだ姿でした。
そこから勝つための戦術になり、勝利の楽しさとも結びつき、最後には戦わないデートにも着ていく姿になりました。
でも、服を脱いだからといって、その時に感じたことまで消えるわけではありません。
勝つのが好きな春麗。
負ければ悔しい春麗。
もっと強くなったリュウにも勝ちたい春麗。
そして、好きな相手と出かけることを素直に楽しめる春麗。
どれか一つが本当なのではなく、全部が春麗です。
だから修行が終わっても、二人の勝負は終わりません。
また戦って、勝ちたい。
そして、またデートにも行きたい。
最後は、その両方を何の矛盾もなく自分のものとして選べる春麗で締めました。
長く続いたリュウ側修行編後日談は、これで完結です。