また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
その日の夜。
春麗は自宅へ戻ると、玄関の扉を閉めたところでしばらく動かなかった。
「……疲れた」
口にした途端、全身から力が抜ける。
試合で酷使した腕も、波動拳を受けた時の痺れも、昇龍拳がかすめた脇腹も、最後まで踏ん張った脚も、時間が経った今になって存在を主張し始めていた。
「明日、絶対痛いわね……」
分かっている。
それでも口元は緩んだ。
「……私、勝ったのよね」
誰もいない部屋で確認する。
リュウは波動拳も昇龍拳も使った。
最後までどちらが勝つか分からなかった。
その最後の一手を、春麗が夏塩蹴で取った。
「ええ、私の勝ちよ」
もう一度だけ言って、春麗は満足そうに笑った。
着替えを済ませ、温かい飲み物を用意して机へ向かう。
食事はリュウと済ませてきた。今日はもう、料理をする気力など残っていない。
机の上には、いつもの紙とペンがある。
以前なら、こういう夜には何枚も必要だった。
何が起きたのか。
どういう意味なのか。
次はあるのか。
自分は何をしたいのか。
一つずつ書いて、分けて、また考える。
でも今日は、すぐにはペンを取らなかった。
椅子へ身体を預けて、最初に思い出したのは試合ではなく、三週間前のことだった。
リュウが街を出た日。
春麗は見送りには行かなかった。
それでも数日後には連絡が来た。
春麗の仕事とリュウの旅程を合わせて、会う日を決めた。
場所を決め、試合をすること、そしてそのあと一緒に食事へ行くことも決めた。
「……普通ね」
春麗は小さく呟いた。
約束して、会う。
たったそれだけだ。
けれど以前の春麗にとっては、その「普通」がずいぶん遠かった。
会いたいと思っても直接言えず、別の理由を探し、偶然いつもの場所へ現れてくれることを期待したこともある。
会えること自体を、まるで特別な出来事のように扱っていた。
しかし今回の三週間は違った。
しかも。
「……会議室も開かなかったのよね」
リュウが街を出てから、春麗は何度か春麗会議室へ入ろうとした。
眠る前に円卓を思い浮かべた夜もあった。
白い壁。
他の春麗たち。
記録板AI。
それでも、春麗会議室の扉は一度も開かなかった。
目を開けば、そこは自分の寝室だった。
理由は分からない。
記録板AIへ聞こうにも、その記録板AIがいる場所へ入れないのだから確かめようもない。
ただ一つ、確かなことがある。
この三週間。
春麗は会議室へ相談しないまま過ごした。
誰かに背中を押してもらわなくても。
何をすればいいのか確認してもらわなくても。
リュウから連絡が来た。
春麗も返事を返した。
予定を合わせた。
約束した場所へ行った。
そしてリュウは約束通りに現れた。
「……問題なく、会えたのよね」
声に出してみても、不思議なくらい怖くならない。
物語の都合みたいな偶然は必要なかった。
いつもの場所へ行けば奇跡的にリュウが立っている、なんて展開も必要なかった。
ただ連絡を取り、約束した。そして会った。
春麗はようやくペンを取った。
紙の一番上へ書く。
『三週間後』
その下へ。
『再会』
『偶然ではない』
『約束して会った』
春麗は最後の一行をしばらく見た。
「……うん」
今日の試合とは別に、これはちゃんと残しておきたかった。
以前なら奇跡に見えた「次」を、自分たちで普通に作れた。
春麗はもう一枚、紙を出した。
『試合』
そこまで書いて、少し笑う。
詳しく書こうと思えば、いくらでも書ける。
波動拳を見て驚いたこと。
一度跳び込んで昇龍拳を受けたこと。
最後は同じ形を警戒して跳ばず、先に跳んだリュウを夏塩蹴で撃ち落としたこと。
けれど、それを今ここでもう一度最初から書き直す必要はなかった。
春麗が残したのは、ほんの数行だけだった。
『リュウ/波動拳・昇龍拳使用』
『決着/夏塩蹴』
『春麗勝利』
そして少し考え、もう一行。
『次回/対策歓迎』
「その上で、また勝てばいいもの」
今日通じた手が、次にも通じるとは限らない。
リュウはもう夏塩蹴を警戒すると言った。
それでいい。
対策されたら、その次を考える。
次のリュウに勝てばいい。
そのことについても、もう難しく考える必要はなかった。
春麗は次に、
『拳の残響?』
と書いた。食事中、リュウは不思議そうに言った。
春麗へ以前から何度も波動拳を撃ったような気がする。
昇龍拳も使った気がする、と。
春麗には心当たりがある。
別の可能性で交わされた拳の感触が、具体的な記憶ではないまま残る。
春麗会議室で観測されてきた、拳の残響。
「……かなり残ってるじゃない」
思わず苦笑する。
けれど、それはそれだ。
今日の春麗には、今日の戦闘経験しかなかった。
実際に波動拳へ跳び、一度昇龍拳を受けた。
そこで学んだ。
最後は跳ばなかった。
リュウが先に跳んだ。
それを見て、春麗が夏塩蹴を選んだ。
今日勝ったのは、今日の自分だ。
そのことまで残響へ譲るつもりはなかった。
三枚目の紙へ、
『食事』
と書く。
こちらはもっと短かった。
『試合前から約束済み』
『予定通り実施』
『勝敗とは別』
それで十分だった。
今日、春麗は勝った。
リュウは負けた。
それでも二人は最初から決めていた通り、食事へ行った。
もし勝敗が逆でも同じだった。
「……本当に、分けられるようになったのね」
勝負は勝負。
食事は食事。
リュウと次に会えるかどうかも、今日勝ったご褒美ではない。
そこまで考えたところで、春麗は別れ際の会話を思い出した。
『次、いつ会える?』
自分で言った言葉だ。
「……」
少しだけ頬が熱くなる。
でも今日、一番驚いたのは、聞いた内容ではなかった。
聞くまでにほとんど時間がかからなかったことだ。
以前なら、きっといくつも理由を並べた。
次に会いたいと言うのは重くないか。
旅をしているリュウの予定へ踏み込んでいいのか。
また試合を理由にした方が自然ではないか。
今日会えただけで満足するべきではないか。
そんなことを考えているうちに、聞けなくなっていたかもしれない。
今日は違った。
『ねえ、リュウ』
から、
『次、いつ会える?』
まで普通に続いた。
リュウも普通に、『また連絡する』と答えた。
春麗も、『分かった』で終われた。
いつなのか。
どこなのか。
今すぐ全部を決めなくてもいい。
連絡が来る。
自分から連絡してもいい。
また予定を合わせればいい。
春麗は紙へ書いた。
『次、いつ会える?』
『また連絡する』
少し考えてから、最後に一行。
『それで十分』
「……すごいじゃない、私」
思わず自分で言った。
誰も褒めてくれないので、もう一度言う。
「これは、かなりすごいわよ」
以前なら大事件だった一言を、今は普通に言えた。
そのことが、今日の勝利とは別のところで嬉しかった。
春麗は三枚の紙を机へ並べた。
一枚目。
『三週間後』
『再会』
『偶然ではない』
『約束して会った』
二枚目。
『試合』
『リュウ/波動拳・昇龍拳使用』
『決着/夏塩蹴』
『春麗勝利』
『拳の残響?』
三枚目。
『食事/勝敗とは別』
『次、いつ会える?』
『また連絡する』
『それで十分』
しばらく眺めてから、春麗は椅子へ深く座り直した。
正式回答は、今も変わらない。
九十九点。百点ではない。
けれど春麗にとって、あれは「一点足りない答え」ではなかった。
百点にして答えを閉じてしまうより、その先も聞ける余地を残した九十九点。
事実上の満点。
そして今も、その全部を春麗自身が持てるわけではない。
そこは今日勝ったから変わるものでもなかった。
正式回答は正式回答。
今日の勝利は今日の勝利。
今日、自分で作った「次」もまた別のものだ。
「……うん」
春麗は小さく頷いた。
「今日は、これでいい」
勝った。
嬉しかった。
また会える。
また戦いたい。
それだけで、もう十分に分かっている。
春麗は三枚の紙を揃え、机の引き出しから青い小箱を取り出した。
蓋を開く。そこには、これまで自分が持ち帰ってきたものが収められている。
正式回答を置いている特別な区画もある。
今日は、そこには触れなかった。
「これは、こっちね」
三枚の紙を通常側へ入れる。
誰かから借りた答えではない。
春麗会議室で相談して決めたものでもない。
三週間。
会議室が開かなかった間も含めて。
自分で連絡を取り。
自分で約束し。
自分で会い。
自分で戦い。
自分で勝った。
そして、自分から次のことを聞いた。
今日の春麗が、自分で持ち帰った記録だった。
「よし」
紙を整え、小箱の蓋を閉じる。
それで今日のことは、ちゃんと自分の手元へ戻った。
小箱を机へ戻したところで、春麗の手が止まった。
「……あ」
一つ、まだやっていないことがある。
三週間。春麗会議室は一度も開かなかった。
だから、自覚前春麗も、通常救済版春麗も、行き遅れに恐怖する春麗も。
今日、春麗がリュウと再会して、戦って、勝ったことを知らない。
記録板AIも、次に接続した時に初めてこの三週間を受け取ることになる。
「……情報量、多いわね」
少しだけ嫌な予感がする。
でも今回は、何をすればいいのか聞きに行くのではない。
三週間、会議室へ入れないまま。
現実側でやることを全部やった。
連絡した。
約束した。
会った。
戦った。
勝った。
一緒に食事をした。
次のことまで聞いた。
相談することより、報告することの方が多い。
「……勝ったって」
春麗の声が弾む。
「言わないとね」
もう夜だ。
身体も疲れている。
今夜も会議室が開く保証などない。
それでも今日は、少しだけ開く気がした。
春麗は寝室へ向かう。
灯りを消す前、最後に小さく笑った。
「三週間分、まとめて報告ね」
そして、誰もいない部屋ではっきりと言う。
「本編春麗、ちゃんと勝ったわよ、って」
Q:今回の断章IFについて解説して?
A:
今回は、前話までの再戦や食事そのものではなく、その日の夜に春麗が「今回の三週間で何が変わったのか」を一人で確かめる回でした。
大きいのは、リュウと再会できたことを、もう奇跡のような出来事として扱わなくなったことです。
春麗会議室が開かなくても、誰かに背中を押してもらわなくても、連絡を取り、予定を合わせ、約束して会うことができました。
試合では勝ち、食事にも行き、最後には「次、いつ会える?」と自然に聞けています。
以前なら、その一言にもいくつもの意味を考え、かなり遠回りしていた春麗です。
でも今は、今すぐすべてを決めなくても「また連絡する」で十分だと思える。
今回のタイトルにある「奇跡ではない次」は、そうした普通の関係を自分たちで作れるようになったことを指しています。
また、リュウの拳に別の可能性の残響らしきものが見えましたが、それとは別に、今日の勝利は今日の春麗自身が掴んだものです。
今回は、勝利よりもむしろ「次が普通に続いていくこと」を春麗が自分の手元へ持ち帰るエピソードでした。