また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
リュウとの因縁が発生しなかった春麗の別ルートです。
記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。
『ディレクターズカットIF』
『本編確定ログではありません』
『検証対象』
『第1話普通敗北ルート/後続再戦』
『前提』
『初戦:春麗敗北』
『重大な精神的損傷:なし』
『リュウへの特別な固着:なし』
『今回』
『双方成長後に再戦』
『初戦で始まらなかった因縁が、再戦後に発生する可能性を検証』
『検証開始』
最初の敗北は、綺麗に終わっていた。
リュウは強かった。
春麗は負けた。
悔しかったから帰って鍛えた。
少なくとも、春麗自身にとってはそれだけだった。
眠れない夜もなかった。仕事中にリュウの顔を思い出して困ることもない。
強い格闘家の一人。
次に戦う機会があれば、今度は勝つ。
だから再戦の日も、春麗は普段通りだった。
「リュウ」
「ああ」
二人は向かい合って構えた。
「今度は勝つわよ」
「俺もそのつもりだ」
「……そう」
それでいい。
前回の敗因は持ち帰った。
間合いを修正し、踏み込みを見直した。
攻撃を受ける角度も、反撃へ移る時の足の置き方も変えた。
今日は、その結果を出す。
普通に戦って、普通に勝つ。
それで前回の敗北は終わる。
春麗は本気でそう思っていた。
試合が始まるまでは。
最初の攻防で、春麗はすぐに気づいた。
変わったのは自分だけではない。
リュウの踏み込みは前より深い。それでいて戻りが速く、春麗が距離を外そうとする位置へ先に拳を置いてくる。
春麗は正拳を腕で流し、腰を落として脇腹へ蹴りを返した。
リュウが引く。
そこへ踏み込み、掌底。
防がれたが、その腕ごと押し込む。
「っ……」
リュウの身体がわずかに揺れた。
届いている。
前回より、確実に。
春麗がさらに距離を詰めると、リュウの視線が足元へ落ちた。
踏み込みを見る。
肩を見る。
前回より浅くなった間合いへの入り方を見る。
春麗が敗北から何を直してきたのか、一つずつ確かめるように。
その視線が、妙に胸へ引っかかった。
初戦では、こんなことはなかった。
負けた。
悔しい。
次は直す。
それだけだったのに。
今は、リュウが自分の変化を見ている。
負けたままで帰らず、今日ここへ何を持ってきたのかを見ようとしている。
「……見ていなさい」
気づけば口にしていた。
リュウの目がわずかに細くなる。
「ああ。見ている」
簡単に返された。
春麗は少しだけ腹が立った。
なんで、そんなに当然みたいに見るの。
なら、見せてやる。
前回負けた自分ではない。
今日の自分を。
春麗は地面を蹴った。
そこからは、大接戦になった。
春麗が押せばリュウが返す。
リュウが踏み込めば、春麗が半歩外して反撃する。
リュウの正拳が肩をかすめ、春麗の蹴りがリュウの脇腹へ入る。
互いに削り合い、呼吸が重くなっていく。
それでも春麗は離れなかった。
「波動拳!」
放たれた波動拳を見て、春麗は跳んだ。
その瞬間、リュウの膝が沈む。
来る。
「昇龍拳!」
下から突き上げられた拳が、空中の春麗を捉えた。
「くっ……!」
身体が大きく浮き、そのまま地面へ叩き落とされる。
肩から土へ落ちた衝撃に、一瞬呼吸が止まった。
だが、リュウはそこで止まらない。
春麗がまだ起き上がれないと見て、追撃のために距離を詰めてくる。
足音が近づく。
(来る)
春麗は倒れたまま、その踏み込みを待った。
あと一歩。
リュウが攻撃を届かせるために間合いへ入った瞬間、春麗は低い姿勢から脚を放つ。
「はっ!」
元伝暗殺蹴。
蹴りが踏み込んできたリュウの下半身を捉え、軸が崩れた。
「っ……!」
今度はリュウが土の上へ倒れる。
その隙に春麗は身体を起こし、一気に立ち上がった。
先に起きたのは春麗。
リュウもすぐに身を起こそうとする。
春麗はその立ち上がりを待たない。
リュウが構えを戻す瞬間へ合わせ、間合いの外から拳を伸ばした。
開脚突拳。
だが、これは読まれた。
リュウは立ち上がりざまに腕を固め、春麗の拳を正面から受け止める。
重い衝撃が腕越しに伝わった。
開脚突拳は届いた。
しかし、通らない。
二人はそのまま間合いを切り、もう一度構え直した。
肩が痛い。
息も苦しい。
それでも春麗の口元はわずかに緩んだ。
昇龍拳には撃ち落とされた。
けれど、そこで終わらなかった。
追撃へ来るリュウを見て、元伝暗殺蹴で切り返し、先に立って起き上がりへ攻め込んだ。
今の攻防は、前回にはできなかった。
そしてリュウも、それを分かっている。
こちらを見ている目が、まだ生きていた。
もう二人とも余裕はない。
ただ前回の黒星を消すための再戦だったはずなのに、春麗の中で少しずつ意味が変わっていた。
この男に勝ちたい。
ただ一敗を返したいからではない。
自分が前へ進んだことを、こいつに分からせたい。
今日の自分を、リュウの中に残したい。
初戦では生まれなかった感情が、遅れて春麗の中へ入り込んでいた。
決着は、ほんの一瞬だった。
リュウが踏み込む。
春麗は引かず、正面から拳を受けた。
重い。
腕が痺れる。
それでも春麗は、リュウが拳を戻す瞬間だけを見ていた。
半歩、前へ。
前回の敗北から、何度も直した半歩だった。
踏み込みすぎず、遠すぎない。
相手の拳の戻りへ身体ごと巻き込まれず、自分の拳だけを届かせる距離。
「はあっ!」
開脚突拳がリュウの胸元へ入る。
「っ……!」
リュウの身体が揺れる。
入った。
春麗は止まらない。
すぐに身体を低くし、追撃の元伝暗殺蹴を放つ。
だが、今度はリュウも間に合った。
低い蹴りを腕で受け止める。
春麗の追撃は通らない。
二人の間に、ほんのわずかな間ができた。
リュウが先に動く。
「竜巻旋風脚!」
身体を回転させながら、連続した蹴りで春麗を押し返しにかかった。
ここで距離を作り直すつもりだ。
春麗は反射的に前へ出るのをやめ、腰を落とした。
頭上を、リュウの蹴りが通過する。
一回。
さらにもう一回。
春麗はしゃがんだまま、その回転をやり過ごした。
そして、竜巻旋風脚が終わる。
リュウの足が地面へ戻る。
まだ次の構えへ移りきっていない。
(今!)
春麗は一気に距離を詰めた。
「はあっ!」
腕を取り、身体を潜り込ませる。
虎襲倒。
リュウの身体が浮いた。
次の瞬間、その背中が土の上へ叩きつけられる。
「っ……!」
春麗もそこで力を使い切り、投げ終えた姿勢から片膝をついた。
審判はいない。
勝負ありと告げる声もない。
けれど、分かった。
リュウはすぐには起き上がれない。
春麗も立ってはいられない。
それでも最後に残ったのは、自分だった。
「……勝った」
声が少し震えた。
全身が痛い。
呼吸も乱れている。
なのに、胸の奥が熱い。
勝った。
前回、自分を倒したリュウに。
今度は自分が勝った。
春麗は倒れたリュウを見る。
リュウもこちらを見ていた。
苦しそうで、悔しそうで。
それでも目は折れていない。
身体は動かないのに、もう次を見ているような目だった。
春麗の胸の奥がざわつく。
今日、勝ったのは私よ。
負けたのはあなたでしょう。
なのに、どうしてそんな顔をしているの。
このままでは、今日の勝利がそのまま流れていってしまうような気がした。
リュウは負けても折れない。
なら、残しておきたい。
今日負けたのはリュウで、勝ったのは自分だと。
この男に、ちゃんと覚えていてほしい。
ほとんど衝動だった。
春麗は片膝に手をつき、痛む身体を起こした。
まだ脚に力は戻りきっていない。それでも数歩進み、倒れているリュウのそばまで歩く。
リュウは起き上がれないまま、近づいてきた春麗を見ていた。
春麗はその前でしゃがみ込む。
「……今日の敗者は、あなたよ」
そう言って手を伸ばし、リュウの額へ指先を置いた。
汗と土の混じった額を、指先でゆっくりとなぞる。
薄く残った土が線になった。
顔を洗えば、すぐに消えてしまう程度の跡だった。
春麗はその線を見て、口にした。
「これはその敗者の印」
言った直後、自分で固まった。
何をしているの、私は。
何を言っているの。
普通に負けて。
普通に鍛えて。
普通に勝っただけでしょう。
それなのに、額へ触れている指先が妙に熱い。
リュウの目が近い。
負けても逸らさない。
その奥には、もう次がある。
春麗はそこで初めて、今自分が倒した男を強く意識した。
「……強かった」
リュウが言った。
春麗の呼吸が止まる。
その言葉なら、初戦のあとにも聞いた。
あの時は、強い相手から格闘家として評価されたことが普通に嬉しかった。
それだけだった。
なのに今日は違う。
敗者になったリュウが、自分につけられた印を額へ残したまま、折れない目で春麗を見ている。
「強かった」
同じ言葉なのに、胸が跳ねた。
「……当然よ」
少しだけ声が上ずる。
「私が勝ったんだから」
「ああ」
「今日負けたのは、あなたよ」
「分かっている」
リュウが認めるたびに、勝った実感が妙に深くなっていく。
そして春麗は、さらに余計なことを言った。
「その印、消さないで」
口にした直後、今度こそ後悔した。
リュウが少し目を細める。
「いつまでだ」
「……帰るまで」
そう答えれば終われた。
けれど、春麗は唇を噛んだ。
「違う」
指先を額から離す。
「次に私と戦うまで」
リュウが春麗を見る。
「次も戦うのか」
春麗は答えられなかった。
今、自分で「次」と言った。
今日は勝った。
前回の敗北は返した。
本来なら、ここで終われる。
それなのに、もう次を前提にしている。
春麗は自分がつけた薄い印を見た。
そんなもの、本当に次まで残るはずがない。
それでも、消えてほしくないと思った。
春麗が残してほしかったのは、土の線そのものではない。
今日、自分が勝ったことだった。
「……戦うわ」
今度ははっきり言う。
「あなたが、その目をしている限り。私はまた戦う」
リュウは小さく頷いた。
「なら、次は返す」
その一言が春麗の胸へ深く刺さった。
返す。
今日の敗北を。
春麗につけられた敗者の印を。
今日の勝利を。
「……そう」
背筋を何かが走った。
怖いのではない。
悔しいのでもない。
もっと厄介だった。
見たい。
次のリュウを。
見せたい。
次の自分を。
そして今日、自分が勝ったことを、この男に忘れさせたくない。
春麗は立ち上がろうとした。
脚が震える。
リュウが反射的に手を伸ばしかける。
春麗はその手を睨んだ。
「今日の敗者が、勝者を支えようとしないで」
リュウの手が止まる。
「そうか」
「そうよ」
春麗は意地で立ち上がった。
全身が痛い。
足元も危ない。
それでも今だけは、勝者としてリュウを見下ろしたかった。
間違いなく、自分が勝った。
なのに勝ったからこそ。
リュウが、ただの強敵ではなくなり始めていた。
その夜。
春麗はなかなか眠れなかった。
身体が痛むからでも、勝利の興奮だけでもない。
右手の指先に、まだリュウの額へ触れた感覚が残っている気がする。
「敗者の印……」
暗い部屋で呟く。
「何なのよ、それ」
今日、その場で自分が勝手に考えた。
敗者の額へ指を置き、「今日の敗者はあなた」と言った。
しかも、
「次に私と戦うまで消さないで」
とまで要求した。
春麗は枕へ顔を押しつける。
意味が分からない。
実際には汗で消える。
顔を洗えば、もっと簡単に消える。
そんなものを次まで残せと言ってどうする。
でも、春麗が本当に残してほしかったのは印そのものではなかった。
今日、リュウが負けた。
自分が勝った。
前回の敗北を持ち帰り、鍛えて、もう一度挑んで、最後に届いた。
その事実を、リュウに覚えていてほしかった。
「……面倒ね」
誰に言うでもなく呟く。
初戦なら、こんなことはなかった。
負けた。
悔しかった。
でも終われた。
リュウは強敵の一人だった。
今日は勝った。
それなのに終われない。
倒れたリュウの目が浮かぶ。
悔しそうで、苦しそうで、それでも折れていなかった目。
『強かった』
『次は返す』
「……何なのよ」
また同じ言葉が漏れる。
でも、嫌ではなかった。
むしろ胸の奥がまた熱くなる。
次は返す。
なら、返しに来なさい。
そして、それをまた私が取り返せばいい。
そこまで考えて、春麗は目を開いた。
「……待ちなさい」
今、自分は何を考えた。
次にリュウが勝つ可能性だけではない。
そのさらに次まで考えた。
また取り返す。
また戦う。
もう自分の中では、続いている。
「本当に……何をやってるのよ、私は」
呆れる。
少し恥ずかしい。
それでも、今日のことをなかったことにはしたくなかった。
初戦で物語は始まらなかった。
その事実は変わらない。
あの時の春麗は、本当に普通に帰れた。
でも再戦した。
勝った。
その相手が、負けても折れなかった。
だから春麗は自分から印をつけた。
次まで消すなと言った。
そして「次は返す」と言われた。
それだけで、強敵の一人だった男が、終われない相手になってしまった。
春麗は布団の中で小さく息を吐く。
「……次も勝つわよ」
少しだけ笑った。
同じ言葉でも。
初戦のあととは、もう意味が違っていた。
記録板AIは、外部検証領域のログを閉じた。
『検証ログ終了』
『第1話普通敗北ルート』
『再戦』
『結果:春麗ギリギリ勝利』
『新規変化』
『春麗、自らの成長をリュウに見られることを強く意識』
『勝利後、折れないリュウへ衝動的に「敗者の印」を付与』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回のエピソードは、「第1話では本当に何も始まらなかった春麗が、再戦で勝ったことによって初めてリュウとの因縁を作ってしまう」回です。
このルートで大切なのは、最初の敗北を後から特別なものにしないことでした。
初戦の春麗にとって、リュウは「自分を倒した強い格闘家の一人」です。負けて悔しかったから修行する。それだけで一度きちんと終わっています。
しかし再戦では、春麗だけでなくリュウも成長していました。
春麗は初戦から修正してきた間合いや踏み込みを使い、大接戦の末に勝利します。ところが、倒れたリュウの目は折れていません。もう次を見ている。
そこで春麗は、「今日勝ったのは自分だ」という事実をリュウへ残したくなります。
その衝動から生まれたのが「敗者の印」です。
初戦では負けても終われた。
再戦では勝ったのに終われない。
この春麗は敗北によってリュウへ固着したのではなく、勝利した相手が折れなかったことで、自分から次の因縁を作ってしまいました。
何も始まらなかった二人の物語が、二戦目で春麗自身の手によって始まってしまう。
その最初の一歩が、今回の「敗者の印」です。