また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
リュウとの因縁が発生しなかった春麗の別ルートです。
記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。
『ディレクターズカットIF』
『対象:第1話普通敗北ルート/通算五戦目』
『検証開始』
春麗は鏡の前に立っていた。
今日は黒い戦闘服ではない。
長く身体に馴染んだ、いつもの青い武道服だった。
髪も戦いやすくまとめ、目元も普段通り。
黒い戦闘服で戦った時のように、リュウからどう見えるかを最初から組み立てるつもりもない。
今日は、この姿で行く。
帯を締め直し、鏡を見る。
見慣れた自分のはずなのに、以前とは少し違って見えた。
理由は分かっている。
『最初に戦った時も、春麗を魅力的だと思った』
『見ないようにしていた』
『それで拳を鈍らせたくなかった』
『春麗とは、格闘家として戦いたかった』
「……本当に、今さらすごいこと言ったわね」
初戦で春麗は普通に負けた。
リュウの拳に不自然な鈍りはなく、女性だからと手加減されたとも思わなかった。
一人の格闘家として正面から戦われて負け、それで一度は普通に終われた。
その事実は、今も変わらない。
ただ、春麗が知らなかったことがあった。
リュウは何も感じていなかったのではない。
春麗を魅力的だと思ったうえで、その意識を勝負から切り離した。
それを知った今、確かめたいことがある。
黒い戦闘服ではない。
髪も下ろしていない。
視線も言葉も、最初から相手を揺らすためには組み立てていない。
いつもの自分を、今のリュウはどう見るのか。
「確認しに行くだけ……じゃないわね」
春麗は鏡の中の自分へ苦笑した。
「試合をしに行くのよ。確認するのは、そのあと」
そこは間違えたくなかった。
会うための口実として試合を使うのではない。
リュウと戦いたい。
だから戦う。
そのうえで、終わったら本人へ聞く。
初戦のように、女性としての春麗を勝負から切り離したのか。
それとも今は、女性としても格闘家としても春麗を見たまま、それでも拳を鈍らせず戦えるのか。
「今日は揺らしに行くんじゃないわ」
春麗は鏡の中の自分を見据えた。
「勝ちに行くの」
そして少し笑う。
「そのあとで、ちゃんと聞いてやるわ」
リュウは、いつもの広場にいた。
春麗が山道から姿を見せると、こちらへ振り向く。
その視線が、春麗へ向いた。
顔。
まとめた髪。
青い武道服。
足元。
そして、もう一度顔へ戻る。
黒い戦闘服を見た時のような、一瞬の停滞はない。
だからといって、見ていないわけでもなかった。
今の春麗には、それが分かる。
「今日は黒い方じゃないんだな」
リュウが言った。
春麗は眉を上げる。
「期待してた?」
「そういう意味じゃない」
「本当に?」
「この前まで二回続けて、あの姿だったからだ」
「……そう」
あまりにも普通の回答で、少し拍子抜けする。
だがリュウは続けた。
「黒い戦闘服の春麗も強かった。今日は、いつもの春麗なんだなと思った」
胸の奥が小さく鳴った。
「いつもの、ね」
「そうだ」
春麗は一歩前へ出る。
「今日は試合がしたくて来たの」
「分かった」
「でも、終わったら聞きたいことがあるわ」
「何だ」
「試合が終わってから」
リュウはそれ以上聞こうとはしなかった。
「なら、終わってから聞く」
「……気にならないの?」
「今は戦うんだろう?」
「そうだけど」
正しい。
正しいのだが、少しくらい気にしてもいいではないか。
「ほんと、そういうところよね」
「何がだ」
「こっちの話」
でも今日は、それでいい。
春麗は構えた。
長い間使ってきた、いつもの構え。
見せるためではない。
相手へ届くための構えだ。
「いい?」
「来い」
リュウも構える。
春麗は口元を上げた。
「今日は、この姿であなたに勝つわ」
試合は静かに始まった。
春麗は地上から入る。
踏み込みから掌を差し込み、リュウが受ければすぐに蹴りへつなぐ。
返ってきた拳を半歩外し、また距離を詰めた。
数合で分かった。
今日は、リュウの視線が遅れていない。
黒い戦闘服の時のように、揺れる裾や長い髪へ意識を取られる時間がない。
それでもリュウは春麗を見ていた。
足を見る。
肩を見る。
踏み込みを見る。
次にどこから攻撃が来るのか、その全部を見たうえで拳を返してくる。
(……本当に揺れないのね)
そう考えた瞬間、拳が来た。
「っ!」
腕で受ける。
重い衝撃が肩まで響いた。
春麗は歯を食いしばる。
余計なことを考えている場合ではない。
今日は視線から半拍を奪うつもりはない。
間合いを測り、相手の動きを読み、その上で技を通す。
いつもの自分が積み重ねてきた戦い方で勝てばいい。
春麗は低い蹴りをリュウの前脚へ差し込み、引かせたところへ角度を変えて踏み込んだ。
掌を打ち込み、拳を返し、さらに蹴りへつなぐ。
リュウも受けるだけではなく、隙を見つければすぐに拳を返してくる。
春麗もそれを捌いて反撃する。
どちらかが一方的に攻め続けることはなく、攻守は目まぐるしく入れ替わった。
完全な互角だった。
春麗が脚で押せば、リュウは拳で押し返す。
リュウが正面から詰めれば、春麗は角度を外して反撃する。
リュウはずっと春麗を見ている。
青い武道服の春麗を。
その技を。
足を。
肩を。
次の動きを。
それが嬉しい。
なのに、少しだけ面白くない。
「……ほんと、困るわね」
「何がだ」
「こっちの話よ」
春麗は苦笑しながら踏み込み、鋭い蹴りを放った。リュウが腕で受け、そのまま拳を返してくる。
「余所見するな」
「してないわよ」
春麗はその拳を捌いて距離を取り直した。
見てほしかった。今はちゃんと見られている。それなのに、黒い戦闘服の時ほど揺れないことを少し物足りなく思っている。
我ながら、注文が多い。
春麗は小さく息を吐き、改めてリュウへ意識を戻した。
中盤。
二人の間に距離が開く。
リュウの両手へ気が集まった。
「波動拳!」
気弾が走る。
ガードしてやり過ごすこともできる。だが、春麗はそこで攻めを止めるつもりはなかった。
波動拳を引きつけて跳び越える。
狙うのはリュウへの飛び込みではない。
昇龍拳で迎え撃たれる距離へ入る前に着地し、そこから次の攻撃へつなぐ。
リュウの膝がわずかに沈んだ。
迎撃を考えたのが分かる。
だが春麗は、その間合いへ入らない。
昇龍拳が届く位置より手前へ着地する。
リュウの膝がわずかに沈んだ。
迎撃を考えたのが分かる。
だが春麗は、その間合いへ入らない。
読みが外れた一瞬に着地し、身体を低くした。
「はあっ!」
スピニングバードキック。
回転する脚がリュウへ迫る。
リュウはすぐに腕を固めた。
一撃目。
続けて二撃。
さらに三撃目。
まともには入らない。
それでも連続した蹴りが、守りの上からリュウを押していく。
リュウの足が土を削った。
(取った)
黒で作った半拍ではない。
視線でもない。
技の選択で、リュウの読みを外した。
いつもの姿でも取れる。
春麗の口元が少し上がる。
だが喜んだのは一瞬だった。
回転が終わる。
足が地面へ戻る。
そこをリュウは待っていた。
「っ──!」
踏み込んできた拳が、春麗の鳩尾へ深く入った。
「くっ……!」
息が消える。
身体が折れそうになるほど重い。
春麗の足が止まった。
リュウは止まらない。
さらに重心が沈む。
(来る)
「昇龍拳!」
痛む腹を押さえている暇はなかった。
それでも春麗は、鳩尾へ拳を受けた時からリュウの足と腰を見ていた。
次に来るならここ。
突き上げられる拳に合わせ、ぎりぎりで身体を外す。
拳が頬のすぐ横を通り抜けた。
風が肌を切る。
「……っ!」
あと少し遅ければ終わっていた。
だが、今度は完全に見えた。
昇龍拳で上昇したリュウが、頂点を越える。
春麗は地面を蹴った。
「逃がさないわ!」
落ちてくるリュウへ跳びつく。
腕を取り、空中で身体を絡め、そのまま重心を奪った。
「はっ!」
天地が入れ替わる。
リュウの身体が土へ叩きつけられた。
春麗も着地を崩し、片膝をつく。
呼吸が戻らない。
腹が痛い。
腕も脚も震えている。
それでも顔を上げる。
リュウは起き上がらなかった。
目は折れていない。
だが身体は、もう動かない。
春麗は痛む腹を押さえながら、ゆっくり笑った。
「……勝ったわ」
黒い戦闘服ではない。
視線から半拍を奪ってもいない。
それでも。
「この姿でも、私の勝ちね」
立ち上がるまで少し時間がかかった。
「……容赦ないわね」
鳩尾を押さえながら悪態をつき、それでも勝者として自分の足で立つ。
春麗はリュウのそばまで歩いた。
倒れたリュウが、こちらを見る。
黒い戦闘服の時のような揺れはない。
でも、本当にそれでいいのか。
「ねえ、リュウ」
「何だ」
「聞いていい?」
「ああ」
試合が終わったら聞く。
そう決めていた。
「今日は揺れなかったわね」
「黒い戦闘服の時とは違ったな」
「そうね」
少しくらい残念そうにしてもいいのに。
だが聞きたいことは、そこではない。
「黒い戦闘服の時は、私を見て拳が遅れた」
「そうだな」
「今日は遅れなかった」
「そのつもりで戦った」
春麗は息を整えた。
ここからが本題だ。
「じゃあ、最初の試合みたいに──」
ゆっくりとリュウを見る。
「女としての私を、戦いから外したの?」
リュウは少しだけ考えた。
「違う」
胸が小さく跳ねる。
「……違う?」
「今日は、女としての春麗も見ていた」
今度は春麗が黙った。
「格闘家としても?」
「もちろんだ」
「二つとも?」
「そうだ」
春麗はリュウの拳を見る。
「それでも、拳は鈍らなかった」
「鈍らせるつもりはなかった」
静かな返事だった。
だからこそ深く入る。
女性としても見てほしい。
格闘家としても見てほしい。
それでも拳は止めないでほしい。
春麗が黒い戦闘服を使って、何度もリュウへ突きつけてきた要求。
今日は、何も仕掛けていないいつもの姿の春麗を相手に、リュウがそれをやった。
「……そう」
春麗は何とか勝者の顔を保った。
「じゃあ、もう一つ」
「何だ」
「黒い戦闘服の私は?」
「春麗だ」
「今日の私は?」
「春麗だ」
「答えが雑じゃない?」
リュウは少し考える。
「黒い戦闘服の春麗も、今日の春麗も春麗だ。どちらも強かった」
「……」
春麗は目を逸らしたくなった。
でも今は勝者だ。
逸らさない。
「強いて言うなら、今日一番きつかったのは?」
リュウは本気で考えた。
「スピニングバードキックだ」
「ガードしたじゃない」
「守っても押された」
「当然ね」
少しだけ胸を張る。
「それと、最後の投げだ」
春麗が瞬きをする。
「昇龍拳のあと?」
「ああ。あれは完全に読まれた」
胸の奥がまた温かくなる。
魅力的だ、ではない。
揺れた、でもない。
春麗の技を見ている。
判断を見ている。
鳩尾を打たれたあとも昇龍拳を読み、紙一重で外して、最後の投げまでつないだ。
今日の春麗がどう勝ったのかを、ちゃんと見ていた。
それが嬉しい。
なのに少しだけ物足りない自分もいる。
「……本当に面倒ね、私」
「何がだ」
「こっちの話よ」
春麗は苦笑した。
そして、また勝者の顔へ戻る。
「でも、今日の私がどう戦って勝ったのか、ちゃんと見てたのね」
「見ていた」
「そのうえで、負けた」
「今日は春麗の勝ちだ」
全部、正面から認める。
春麗の視線がリュウの額へ向いた。
当然、前回の印はもう消えている。
それでも今日も勝った。
なら今日の勝利も残しておきたい。
春麗はリュウのそばへ膝をつく。
リュウも、もう何をされるのか分かったらしい。
それでもリュウは避けなかった。
「これで四度目ね」
指先を額へ置き、汗と土の上を細くなぞる。
「敗者の印よ」
四度目。
最初は衝動だった。
今では、春麗自身が何をしているのか分かっている。
「今日も、あなたの負けよ」
「そうだな」
「初戦のあとから、これで私の四連勝よ」
「ああ」
「……少しくらい悔しそうにしたら?」
「だから、次は勝つ」
「そういうところよね」
春麗は呆れながらも、少し笑った。
「それなら覚えておきなさい。」
「何をだ」
「黒い戦闘服の私にも…いつもの私にも、あなたは負けたの」
リュウは静かに頷いた。
「覚えておく」
また胸が鳴る。
この男が「覚えておく」と言うと、本当に残る気がする。
「次も戦うわよ」
春麗は背を向けた。
「今度は、もう少し私を困らせてみなさい」
「次は俺が勝つ」
振り返らなかった。
今日は長い黒髪を流した背中ではない。
いつもの青い武道服。
いつもの髪。
その姿で春麗は、勝者として歩いて帰った。
自室へ戻った春麗は、青い武道服のまま鏡の前へ立った。
「……痛い」
鳩尾へ手を当てる。
あの一撃は本当に深かった。
スピニングバードキックで押した。
その終わりを取られた。
鳩尾へ拳をもらい、続く昇龍拳を紙一重で外し、最後の投げへつないだ。
あれを避けられなければ、今日の勝者はリュウだった。
「本当に、ぎりぎりだったわね」
それでも勝った。
春麗は鏡を見る。
青い武道服。
今日は黒い戦闘服のように、見られ方を準備していない。
髪も下ろしていない。
視線も言葉も、入場の仕方も組み立てていない。
それでも勝った。
「……ちゃんと勝った」
かなり嬉しい。
そして、知りたかったことも聞けた。
『今日は、女としての春麗も見ていた』
『鈍らせるつもりはなかった』
「……それ」
春麗は鏡の中の自分を見る。
「私が欲しがってたやつじゃない」
女として見てほしい。
格闘家としても見てほしい。
でも拳は止めないでほしい。
黒い戦闘服で何度も突きつけてきた要求を、今日は青い武道服の春麗を相手にリュウがやった。
そして春麗を、あと一歩まで追い詰めた。
「それでも私が勝ったけど」
そこだけは絶対に譲らない。
さらに、もう一つ。
『黒い戦闘服の春麗も、今日の春麗も春麗だ』
『どちらも強かった』
春麗は鏡を見る。
黒い戦闘服を着て、視線も距離も言葉も使う自分。
いつもの青い武道服で、技と判断を正面からぶつける自分。
どちらも春麗。
「……そう」
少しだけ肩の力が抜けた。
黒い戦闘服でリュウを揺らして勝つ。
あれは甘い。
気持ちいい。
それを春麗の技だと認められたことも嬉しい。
でも今日。
いつもの自分で、全部見られたまま、拳を鈍らせないリュウへ技で勝った。
これも嬉しい。
しかも、かなり。
「……何よ」
春麗は眉を寄せた。
「どっちでも嬉しいじゃない」
困る。
黒い戦闘服がないと駄目、ではない。
逆に、黒なんて必要なかった、でもない。
黒い戦闘服で戦う自分も。
いつもの自分も。
どちらも使える。
どちらでもリュウと戦える。
どちらでも勝ちたい。
そこでようやく、春麗は気づいた。
自分がハマったものは、黒い戦闘服そのものではない。
「リュウに」
鏡の中の自分を見る。
「見られて」
少し笑う。
「そのうえで勝つこと」
黒い戦闘服なら、揺らしたうえで勝ちたい。
青い武道服なら、全部見られたまま技で勝ちたい。
形は違う。
でも相手は同じだ。
「……やっぱり」
春麗は額へ手を当てた。
「私、黒にハマったんじゃなくて、リュウにハマってるのね」
前にも認めたはずのことが、今日はもう少し具体的になった。
勝ちたいだけではない。
見てほしいだけでもない。
見られたうえで、勝ちたい。
「……本当に面倒ね」
苦笑する。それでも今日の勝利は、かなり好きだった。
「また戦うんでしょうね、私」
鏡の中の青い春麗へ向かって、小さく言う。
答えなど考えるまでもなかった。
ふと、黒い戦闘服を着た自分を思い浮かべる。
「次は……どっちで勝ってあげようかしら」
口にした瞬間、自分で顔が熱くなる。
「何を言ってるのよ、私は」
それでも、その言葉は取り消さなかった。
記録板AIは、観測を終えたログを保存した。
『検証ログ終了』
『第1話普通敗北ルート/通算五戦目』
『今回衣装:通常の青い武道服』
『結果:春麗ギリギリ勝利/初戦敗北後四連勝』
『敗者の印:四度目』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、黒い戦闘服で二度勝った春麗が、あえていつもの青い武道服へ戻る話です。
ただし、黒を否定するためではありません。
春麗が確かめたかったのは、黒い戦闘服を着ていない自分を、今のリュウがどう見るのかということでした。
初戦のリュウは、春麗を魅力的だと思いながらも、その意識を勝負から切り離していました。
しかし今回は違います。
青い武道服の春麗を、女性としても、格闘家としても見たまま、それでも拳を鈍らせない。
春麗が黒を使いながらずっと要求してきたことを、リュウが通常の春麗を相手に成立させています。
そして試合そのものも重要です。
今回は黒による半拍を勝因にせず、間合い、読み、技の選択、昇龍拳への対応、最後の投げで春麗が勝っています。
その結果、春麗は「黒がなければ勝てない」わけでも、「黒など必要なかった」わけでもないと分かりました。
黒でリュウを揺らして勝つのも嬉しい。
青で全部見られたまま、技で勝つのも嬉しい。
そこで春麗自身も、ようやくもう一段深いところへ辿り着きます。
ハマっていたのは黒そのものではない。
リュウに見られて、そのうえで勝つことだった。
黒と青のどちらかを選ぶ話ではなく、どちらも春麗として成立し始めた回です。