また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
リュウとの因縁が発生しなかった春麗の別ルートです。
記録板AIは、外部検証領域に新しいログを表示した。
『ディレクターズカットIF』
『対象:第1話普通敗北ルート春麗』
『現在』
『初戦敗北後、春麗四連勝』
『黒い戦闘服:二勝』
『通常の青い武道服:二勝』
『敗者の印:四度』
『今回』
『何も始まらなかった初戦直後へ戻る権利を提示』
『現在までの経験を保持して進む権利と比較』
『本人による再選択を観測』
『検証開始』
春麗が目を開けると、そこには空も地面もなかった。
床も壁も天井も白い光へ溶けた空間。その正面に、記録板AIの表示だけが浮かんでいる。
「……また妙なところへ呼んだわね」
『夢空間です』
「それは分かるわよ。今度は何?」
『作者より、特別検証項目が付与されました』
春麗は眉を寄せた。
「作者?」
『本ディレクターズカットIFの作成者です』
「その言い方をされた時点で、ろくな予感がしないんだけど」
『否定できません』
「そこは否定しなさいよ」
『事実を優先します』
「本当に遠慮がないわね……」
春麗がため息をつくと、白い空間の左右に二つの扉が現れた。
左は淡い青。
静かで、目に優しい光だった。
右は青に黒が重なっている。
見慣れた青と、ここ数戦で自分から選ぶようになった黒。
春麗は無意識に、右の扉を少し長く見た。
『ルート選択権について説明します』
「選択権?」
『作者より、あなたへ戻る権利が付与されました』
春麗の表情が変わった。
「……どこへ?」
『初戦終了後です』
左の扉が静かに明るくなる。
『第一選択肢』
『何も始まらなかったルート』
その言葉と同時に、扉の奥へ一人の春麗が映った。
リュウとの初戦に敗れた自分だった。
悔しそうに歯を食いしばり、それでも自分の足で立ち上がる。
強かった。
次に会えば、今度は勝ちたい。
胸に残ったのは、それだけだった。
その日は帰る。
夜には眠る。
翌朝になれば仕事へ戻り、いつものように稽古をする。
たまにリュウを思い出すことはあっても、生活の中心にはならない。
敗者の印も生まれない。
黒い戦闘服を選ぶこともない。
リュウの視線がどこへ向くのかを考え、髪や距離や言葉まで勝負へ組み込むこともない。
初戦から自分を魅力的だと思っていたことも、知らないままだ。
それでも春麗は、普通に前へ進んでいる。
「……普通ね」
『はい』
「悪い意味じゃないわよ」
『理解しています』
春麗は左の自分をしばらく見つめた。
「ちゃんと負けて、ちゃんと悔しがって、それで次の日へ行ってる」
『はい』
「幸せなの?」
『判定不能です』
予想外の返答に、春麗が記録板AIを見る。
『精神的な安定性と、本人の幸福度は同じ指標ではありません』
「……そう」
『ただし、当該ルートを不幸と判定する根拠もありません』
春麗は小さく頷いた。
「それでいいわ」
何も始まらないことは、失敗ではない。
リュウとの因縁を持たずに生きていく自分だって、間違いなく春麗だった。
そのことだけは、否定したくなかった。
『第二選択肢』
『現在ルート継続』
今度は右の扉が明るくなる。
映ったのは、初戦の敗北ではなかった。
二度目の試合。
修行して戻り、紙一重でリュウへ勝った自分。
倒れたリュウがまだ次を見ていることが気になって、自分からその額へ指を伸ばした。
最初の敗者の印。
そこからだった。
ただの強敵だったリュウが、終われない相手になった。
もっと勝ちたいと思った。
勝ったことを残したいと思った。
そして、格闘家として見られるだけでは足りなくなった。
女としての自分も見てほしい。
でも、そのせいで拳を鈍らせてほしくない。
だから黒い戦闘服を選んだ。
髪を下ろし、視線も距離も言葉も使った。
リュウを揺らして勝った。
次はリュウも対策してきた。
それでも、また勝った。
そのあとで聞いた。
最初の試合でも、自分を魅力的だと思っていたのか。
返ってきた答えは予想外だった。
思っていた。
ただし、拳を鈍らせたくなかったから、女としての春麗を勝負から切り離した。
その事実を知って、初戦そのものが変わったわけではない。
変わったのは、春麗があの試合をどう受け止めるかだった。
そして五戦目。
今度は、いつもの青い武道服でリュウの前へ立った。
黒の時のように、見られ方を事前に仕込まない。
間合いと読みと技で戦う。
それでも勝った。
試合後に確認すると、リュウは言った。
女性としての春麗も見ていた。
格闘家としての春麗も見ていた。
その両方を切り離さず、それでも拳は鈍らせなかった。
さらに、
『黒い戦闘服の春麗も、今日の春麗も春麗だ』
『どちらも強かった』
そう言われた。
映像がそこで止まった。
『右を選択した場合、以上の経験をすべて保持します』
『同時に、今後もリュウに見られたうえで勝ちたいという欲求が継続する可能性があります』
「そこまで注意事項みたいに言わなくていいでしょう」
『左の選択肢より、精神的な負荷が増える可能性があります』
「それはもう知ってるわよ」
春麗は右の扉を見つめた。
今度は、すぐには笑わなかった。
「……ずるいわね」
『何がでしょうか』
「この選択よ」
春麗は左の扉を見る。
「こっちは何も悪くないもの」
『はい』
「初戦で負ける。悔しい。でも、それでリュウを人生の中心にしなくて済む。あいつが私をどう見てたのかなんて考えなくていいし、黒い戦闘服を着て、視線がどこへ動くかなんて確認する必要もない」
『はい』
「夜になって『初戦から魅力的だと思われてたの?』なんて思い出すこともない」
『はい』
「そこは肯定しなくていい」
『事実確認です』
「もう……」
額を押さえながらも、春麗は左の扉から目を逸らさない。
「あの私は、普通に強くなっていくんでしょうね。いつかまたリュウと会って、勝つことだってあるかもしれない。でも、その勝利に『今日は私を女として見てた?』なんて意味は乗らない」
『可能性は高いと推定します』
「ずいぶん楽そう」
『可能性はあります』
「安全でもある」
『現在ルートとの比較では、その傾向があります』
春麗はしばらく黙った。
そして、小さく息を吐く。
「だから、あの私を救済扱いしたくなる気持ちも分からなくはないわ」
『本選択は救済を強制するものではありません』
「分かってる。だから余計にずるいのよ」
今度は右を見る。
そこには、自分がやったことがある。
二戦目を選んだ。
勝った。
敗者の印をつけた。
黒い戦闘服を選んだ。
リュウを揺らした。
また勝った。
聞かなくてもよかった初戦のことを、自分から聞いた。
答えを受け取って、動揺した。
それでも今度は、いつもの青い武道服で試合をした。
そこでも勝った。
「右には、私がやったことが全部ある」
『はい』
「勝ったことも」
『はい』
「四回」
『初戦敗北後、四連勝です』
春麗の口元が少し上がる。
「そこはちゃんと覚えてるのね」
『記録板AIですので』
「私だって覚えてるわよ」
四つの敗者の印。
黒い戦闘服で二勝。
いつもの青い武道服で二勝。
そして、リュウから言われた。
どちらも春麗だ。
どちらも強かった。
「女として見られるのも、嬉しかった」
『はい』
「……だから、そこだけ嬉しそうに肯定するのやめなさい」
『通常の応答です』
「そうでしょうね」
春麗は呆れながらも、否定はしなかった。
黒い戦闘服そのものに取り憑かれたわけではない。
あの姿は好きだ。
戦術としても使える。
また使いたい。
けれど、いつもの青い武道服で勝った時も、同じくらい嬉しかった。
「私が好きになったのは……」
そこで言葉を選ぶ。
「リュウに見られて、そのうえで勝つことなのよね」
『はい』
「だから、そこで即答しないで」
「左を選んだら、今までのことはどうなるの?」
『現在ルートの連続経験からは切り離されます』
「敗者の印も?」
『はい』
「黒い戦闘服で勝ったことも?」
『はい』
「いつもの私で、今のリュウに勝ったことも?」
『はい』
「初戦から魅力的だったって言われたことも?」
『はい』
「どちらも私だって言われたことも?」
『はい』
春麗は黙った。
左へ戻れば、楽になるかもしれない。
けれど。
楽になることと、今の自分がそれを望んでいることは、同じではない。
『選択理由の整理を推奨します』
「本当に容赦ないわね」
『本検証の目的です』
「分かったわよ」
春麗は左を見る。
「まず、こっちを選ぶ理由」
『記録します』
「安全だから」
『はい』
「リュウ一人の視線で、こんなに面倒なことを考えなくていい」
『はい』
「黒い戦闘服にするか、いつもの青で行くか、鏡の前で悩まなくてもいい」
『はい』
「勝ったあとに、リュウの一言でこっちが動揺することも減るでしょうね」
『可能性は高いと推定します』
「だから、あの私を不幸だとは思わない」
春麗は左の扉をまっすぐ見た。
「むしろ健全よ。ちゃんと負けて、ちゃんと立ち直って、自分の生活へ戻ってる」
『記録します』
『何も始まらなかったルート:失敗扱いせず』
「そう。それでいい」
春麗は今度こそ、右の扉へ向き直った。
『現在ルートを選ぶ理由を求めます』
答えは、もうかなり整理されていた。
「私が、もうやったから」
『具体化を求めます』
「二戦目をやった。勝った。リュウの額に印をつけた」
記録板AIは何も返さない。春麗はそのまま続けた。
「そこで終わってもよかったのに、女としても見てほしくなった。自分で黒い戦闘服を選んで、髪も下ろした。どう見せるかも、自分で考えた」
思い返せば、そのどれも誰かに命じられたことではない。
「それでリュウを揺らして、勝った。次は対策されたけど、それでも勝った」
初戦のことも、自分から聞いた。知らなくてもよかったことまで聞いて、思い切り動揺した。
「でも、その答えを聞いたら、今度はいつもの私をどう見るのか確かめたくなった。また戦ったわ。今度は見せ方を仕込まずに」
そこで春麗は少し笑った。
「それでも勝った。四連勝よ」
『初戦敗北後、四連勝を確認しています』
「そこはちゃんと記録してるのね」
『記録板AIですので』
「そうだったわね」
春麗は左の扉へ視線を戻した。
「だったら、あの私へ戻るのは、私にとって単に楽になることじゃない」
『選択理由として記録します。続けてください』
「今まで私が自分で選んだことを、手放すことになる」
口にすると、答えは驚くほど単純だった。
「それが嫌」
苦しかったから消したいとは思わない。
初戦の意味が後から変わって腹が立った。
黒い戦闘服を着ればリュウの視線が気になり、青へ戻れば戻ったで、この姿を女性としても見ているのか確認しに行った。
「……言葉にすると、本当に面倒ね」
『当該自己評価も記録対象に――』
「そこは今いらない」
『選択理由の記録を優先します』
「最初からそうしなさいよ」
春麗は一度深く息を吐いた。
それから右を見る。
「でも、そこには私の勝利がある」
自分で選んだ服がある。
自分で決めた言葉がある。
自分で踏み込んだ距離がある。
そして、それらを使わなくても勝てた自分もいる。
「黒い戦闘服の私も、いつもの私も、もう両方知ってる」
春麗は右の扉を見る。
「リュウにも、どちらも私だって言われた」
黒い戦闘服で勝った自分も、いつもの青い武道服で勝った自分も、今の春麗から切り離す理由はない。
「だったら、どちらかをなかったことにして、何も始まらなかった私へ戻る必要はないでしょう」
『選択を確認します』
『何も始まらなかったルート』
『または』
『現在ルート継続』
春麗は、二つの扉を見比べた。
左には、穏やかな自分がいる。
初戦で普通に負け、普通に悔しがり、それでも次の日へ進んだ自分。
リュウを強い格闘家の一人として覚えながら、自分の人生を歩いていく。
あれも春麗だ。
間違っていない。
右には、自分から次を作った春麗がいる。
勝った。
敗者の印を残した。
欲張った。
女としても見てほしくなった。
黒い戦闘服を選んだ。
勝った。
初戦のことを聞いた。
また勝った。
いつもの自分へ戻っても、まだ見てほしかった。
そして、そこでも勝った。
今では次にどちらの自分で戦おうかと考えている。
「……本当に面倒になったわね、私」
『記録──』
「今のは独り言」
『承知しました』
「珍しく素直ね」
春麗は左の扉へ向き直った。
「あなたを否定するつもりはないわ」
扉の向こうにいる春麗は、何も答えない。
「あなたはちゃんと生きてる。リュウに負けたことも、何も始まらなかったことも、失敗じゃない」
少し笑う。
「たぶん、私よりずっと穏やかよ」
そして右を見る。
「でも、今の私はそっちへ戻らない」
『最終回答として理由を求めます』
「戻れないからじゃない」
それだけは、はっきりさせたかった。
「戻れるって言われた。ちゃんと選べる」
春麗は二つの扉を見比べた。
「そのうえで、私は戻らない」
迷いはなかった。
「二戦目は私が選んだ。勝った。印をつけた。もっと欲しくなった。黒い戦闘服も私が選んだ。リュウを揺らした。初戦のことも自分で聞いた。いつもの私でも、もう一度戦った」
少し誇らしくなる。
「それで全部、勝った」
『初戦敗北後、四連勝』
「そう」
春麗は右の扉へ一歩近づいた。
「私は、その四回を捨てたくない」
黒い戦闘服で勝った自分も。
いつもの青い武道服で勝った自分も。
女性として見られて嬉しかった自分も。
そのうえで拳を鈍らせずに戦ってほしいと思った自分も。
全部、今の春麗だった。
「私が選ぶのは、こっち」
『現在ルート継続』
「ええ」
『選択確定でよろしいですか』
「いいわ」
春麗は右の扉へ手を置いた。
「何も始まらなかった私を、間違いだったことにはしない」
黒と青の光が指先を照らす。
「でも、今の私も間違いじゃない」
春麗は笑った。
「戻れるのに戻らない」
一度、自分の口で確かめる。
「それなら、もう作者のせいだけにはできないでしょう?」
記録板AIが数秒沈黙した。
『重要発言として保存します』
「そこは保存していいわ」
選択が確定すると、左の扉がゆっくりと遠ざかっていった。
春麗は最後まで、その向こうの自分を見ていた。
寂しそうではない。
不幸にも見えない。
ただ、自分とは違う道を歩いていく。
それだけだった。
「……元気でね」
『何も始まらなかったルートは消滅しません』
「分かってる。私が選ばなかっただけでしょう」
『はい』
「なら、いい」
淡い青の扉が白い光へ溶けていく。
右の扉だけが残った。
春麗がそれを開くと、土と木の匂いが流れ込んできた。
いつもの稽古場。
少し遠くから足音が聞こえる。
まだ姿は見えない。
それでも誰かは分かった。
「……来たのね」
リュウは来る。
春麗が自分から次を作ったから。
そしてリュウも、その次へ来る男だから。
春麗は青い武道服の袖を整えた。
その瞬間、黒い戦闘服を着た自分が頭をよぎる。
次は、どちらで戦おう。
「……本当に、もう駄目ね」
そう言いながら、少し笑っている。
青い自分も。
黒い自分も。
もう、どちらかを捨てる必要はない。
「次も、私が勝てばいいのよ」
春麗は扉の向こうへ歩き出した。
記録板AIは、観測を終えたログを保存した。
『検証ログ終了』
『選択肢』
『何も始まらなかったルート:失敗・不幸認定なし』
『現在ルート:本人が再選択』
『重要』
『戻れなかったためではなく』
『戻る権利を得たうえで、戻らないことを本人が選択』
『保持理由』
『自身で選んだ再戦』
『初戦敗北後四連勝』
『青/黒双方での勝利』
『自身が作った敗者の印』
『リュウから得た視線と承認』
『自身が作った次』
『最終発言』
『戻れるのに戻らない』
『次も、私が勝てばいい』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、「普通敗北ルート」の春麗に「何も始まらなかった自分へ戻れる」としたら、本人はどうするのかを描いた回です。
ここでいう普通敗北ルートとは、初戦で春麗がリュウに普通に敗北し、その時点では特別な因縁も始まらず、一度そのまま終われたIFルートです。
大切にしたかったのは、戻る側を不幸や失敗にしないことでした。
初戦で普通に負け、悔しがり、それでも生活へ戻る。
リュウとの因縁も始まらず、黒い戦闘服も敗者の印も生まれない。
それは十分に健全で、間違っていない春麗です。
だからこそ、今回の選択には意味があります。
現在の春麗は、戻れないから今の道にいるわけではありません。
二戦目を自分から選び、勝った。
敗者の印をつけた。
もっと見てほしくなり、自分で黒い戦闘服を選んだ。
黒でも勝ち、青へ戻っても勝った。
初戦のことも、自分からリュウへ聞いた。
苦しかったことも、恥ずかしかったこともあります。
それでも、それらは全部この春麗が自分で選んで得た経験になっています。
だから「安全だから戻る」ではなく、「戻れると分かったうえで戻らない」。
何も始まらなかった春麗を否定せず、今の自分も否定しない。
今回の選択で、このルートは作者に進まされた道から、春麗自身が改めて選んだ道へ一段変わったと思っています。
そして最後に残るのは、やっぱりこの春麗らしい一言です。
次も、私が勝てばいい。