また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
リュウとの因縁が発生しなかった春麗の別ルートです。
記録板AIは、外部検証領域に新しいログを開いた。
『ディレクターズカットIF』
『対象:第1話普通敗北ルート/未来時空』
『勝利・敗北・引き分け、複数回経験済み』
『検証開始』
勝った。
春麗は荒い息を整えながら、床に倒れたリュウを見下ろした。
黒い戦闘服の裾は乱れ、長い髪も試合前の形をほとんど残していない。
腕も脚も痛む。最後の攻防があと少し違っていれば、床に倒れていたのは自分だっただろう。
今日のリュウも強かった。
波動拳も、昇龍拳も、間合いの詰め方も、以前より鋭くなっている。
この未来までに、二人は何度も戦った。
春麗が勝った日もある。
リュウが勝った日もある。
最後の一撃が重なり、どちらも立てなくなったことさえあった。
そのたびに悔しがり、次を決め、また戦った。
だから春麗はもう知っている。
リュウは簡単には倒れてくれない。
今日勝っても、次には違う答えを持ってくる。
だからこそいい。
その強いリュウを、今日も最後まで倒し切った。
それが、たまらなく嬉しい。
「……リュウ」
春麗はそばへ歩き、膝をついた。
仰向けになったリュウがこちらを見る。
まだすぐには起き上がれないほど消耗しているのに、目はもう次を見ていた。
負けたことが悔しい。
次はどうする。
そんな色が、はっきり残っている。
春麗はその顔を見るだけで、胸の奥が少しずつ満たされていくのを感じた。
「悔しい?」
「ああ」
「どのくらい?」
「かなりだ」
「そう」
春麗は満足して笑った。
「ちゃんと悔しがってるなら、それでいいわ」
このやり取りも、もう何度目になるだろう。
勝った日は確認する。
自分が勝ったことをリュウがどう受け止めたのか。その口から聞く。
以前は、それだけでも十分だった。
今はもう一つある。
春麗は床へ座り直し、乱れた黒い裾を整えた。
それから自分の膝を軽く叩く。
「リュウ」
「何だ?」
「今日のあなた、かなり頑張ったわね」
「負けたがな」
「ええ。あなたの負けよ」
そこは絶対に譲らない。
「でも、本当に私を追い詰めた。それは認めてあげる」
「そうか」
「だから、ご褒美」
春麗はもう一度、自分の膝を叩いた。
「ここへ頭を乗せなさい」
リュウの視線が春麗の膝へ移る。
「膝枕か」
「……もう驚きもしないのね」
「前にもあったからな」
「それがちょっと腹立つわ」
初めて要求した時は、もう少し戸惑っていた。
今ではリュウも、春麗が勝ったあと何を言い出すのか、かなり分かっている。
それが少し悔しい。
同時に、かなり嬉しい。
「でも今日は私が勝ったの」
「分かっている」
「だったら、勝者の要求くらい聞きなさい」
リュウは少しだけ身体を動かした。
まだ一人で起き上がるのは辛そうだったので、春麗も腕を貸す。
やがてリュウの頭が、春麗の膝へ乗った。
黒い布越しに重みが伝わる。
何度経験しても近い。
悔しさの残る目も、荒い呼吸も、眉間に残った力も、真上から見える。
春麗は小さく息を吐いた。
やっぱり、いい。
最初は覚えるつもりなどなかった。
だが、もう遅い。
とっくに、この甘さを知ってしまった。
本気で自分を倒しに来た強いリュウへ勝つ。
そのリュウが本気で悔しがっている。
それでも折れず、もう次を見ている。
そんな敗者を、自分の膝へ乗せて眺める。
「どう?」
「落ち着くな」
「……そう」
勝ったのは自分なのに、また胸の奥へ入ってくる。
「なら、ご褒美としては成功ね」
「春麗は?」
「私?」
「春麗は、それでいいのか」
春麗は膝の上の顔を見下ろした。
リュウは悔しそうだ。
それでも逃げない。
何より、今は自分の膝の上にいる。
以前なら、先に理由を並べていただろう。
敗者への休憩だから。
よく戦ったご褒美だから。
勝者要求権だから。
どれも嘘ではない。
ただ、今の春麗はもう、それだけではないことも知っていた。
「かなり得してるわ」
「そうか」
「ええ」
春麗は隠さず笑った。
「あなたの悔しそうな顔を、こんなに近くで見られるんだもの」
リュウの眉がわずかに寄る。
その小さな変化まで分かる。
「その顔、好きよ」
言った瞬間だけ、春麗自身の意識が止まった。
それでも、もう引っ込めない。
「……敗者らしくて」
「そうか」
「そこは少しくらい引っかかりなさいよ」
「どう答えればいい?」
「もういいわ」
春麗は呆れながら笑った。
少し前までなら、自分の口から出た「好き」に慌てて理由を重ねていただろう。
今は、その必要もなくなってきている。
春麗は自分の指先へ目を落とした。
試合前に整えた手元は、汗と土でとても綺麗とは言えない。
それでいい。
戦ったあとの手なのだから。
「リュウ」
「何だ?」
「まだ終わってないわよ」
「印か」
春麗の口元が緩む。
「分かってきたじゃない」
膝の上にある額へ指を伸ばす。
以前は倒れたリュウの横へしゃがみ、そこから印を残していた。
今はもっと近い。
自分の膝へ預けられた頭へ、そのまま触れられる。
「今日の敗者は──」
汗と土を指先でなぞり、額へ薄い線を残す。
「あなたよ」
傷ではない。
消そうと思えば、すぐに消せる。
それでも、試合が終わった今だけは残しておきたい。
「消してもいいわよ」
「分かった」
「でも、今日負けたことは忘れないで」
「次に戦う時まで覚えている」
その返答がまた胸へ入る。
リュウはこういう男だ。
春麗が勝ったことも、自分が負けたことも、簡単には流さない。
だから、この印には意味がある。
「本当に、受け取るのが上手いのよね」
「そうか?」
「自覚ないのね」
そこで春麗は、まだ足りないと思った。
「右手、出して」
リュウが膝の上から春麗を見る。
「拳にもつけるのか?」
「今日はね」
「額だけじゃ足りないのか?」
「足りないわ」
当然のように答えると、リュウは右手を上げた。
春麗はその拳を取る。
硬い。
まだ戦いの熱が残っている。
今日も何度、この拳に追い込まれたことだろう。
波動拳を放った。
昇龍拳を打った。
あと少し違えば、今日の勝者はリュウだった。
以前なら、その強さを素直に受け止められない時もあった。
今は違う。
強いからいい。
これだけ強い拳へ勝ったからこそ、今日の勝利が嬉しい。
「額の印とは、少し意味が違うわ」
春麗は拳の甲へ指を置いた。
「額は、今日あなたが負けた印」
「分かっている」
「こっちは──」
硬い拳を見つめる。
「今日も私をここまで追い詰めた証よ」
汗と土を薄くなぞる。
「それから、その強い拳に今日の私は勝ったっていう印」
リュウの拳へ、もう一本の薄い線が残った。
敗北だけではない。
リュウの強さへの承認と、その強さを上回った自分の勝利。
その二つを同時に残す。
春麗の胸が、思った以上に強く鳴った。
「……駄目ね」
「何がだ?」
「私よ」
拳を持ったまま、小さく笑う。
「本当に、かなり面倒なことになってるわ」
リュウは少し考えた。
「今さらじゃないのか?」
春麗の手が止まる。
「……今、何て言ったの?」
「前からだと思う」
「敗者のくせに言うわね」
「事実だ」
「そういうところよ!」
睨もうとして、最後まで続かなかった。
額には春麗が残した敗者の印。
拳にも、春麗が残したもう一つの印。
その男は今、自分の膝の上で真顔のままそんなことを言っている。
腹が立つ。
可笑しい。
少し嬉しい。
全部混ざって、結局笑ってしまった。
「なら、責任を取りなさい」
「何をすればいい?」
「そこをすぐ具体的に考えないで。少しくらい困りなさい」
「困ってはいる」
「全然そうは見えないわ」
「どうすればいいか考えている」
このやり取りも何度目になるだろう。
それでも飽きない。
二人とも、戦うたびに少しずつ変わっているからだ。
勝った春麗。
負けた春麗。
引き分けに納得できず、もう一度戦おうと言った春麗。
勝者要求権で欲しいものを要求した春麗。
敗者請願権で「少しだけ甘えさせて」とお願いした春麗。
青で戦った春麗。
黒で戦った春麗。
そして未来の今。
勝ったリュウを膝へ乗せ、額と拳へ印を残す時間そのものを、かなり気に入っている春麗。
「……もう認めるしかないわね」
「何を?」
春麗は拳に残した印を指先で確かめる。
「私、あなたに勝った後のこの時間が好きだわ」
リュウが膝の上から春麗を見上げた。
「膝枕が?」
「それだけじゃないわ」
「印か?」
「それも含むけど、それだけでもないわ」
春麗は少し考えた。
けれど、今さら隠す意味もなかった。
「全部よ」
「全部?」
「あなたに勝つこと」
まず、そこだけは絶対に外せない。
「強いあなたが、本気で私に勝ちに来ること。それを最後に私が倒すこと」
リュウは黙って聞いている。
「あなたが本気で悔しがること。その顔を、私がこんな近くで見られること」
春麗は額の印へ指先を触れた。
「ここには、今日あなたが負けたことを残す」
次に、リュウの拳を取る。
「こっちには、今日もあなたが強かったこと。それでも最後には私が勝ったことを残す」
少しだけ笑う。
「それで、一番困るのが」
「何だ?」
「あなたが、嫌がらずに全部受け取ることよ」
言ってしまった。
かなり正直に。
「だから、この膝枕はあなたへのご褒美」
「そうだな」
「でも、私へのご褒美でもあるの」
以前なら、もっと理屈で覆った。
勝者要求権。
敗者への褒美。
試合の記録。
今でも、それは全部本当だ。
けれど、それだけではない。
何度も戦った。
勝った。
負けた。
引き分けた。
勝った時には要求し、負けた時にはお願いした。
そうして積み重ねた結果、自分の欲しいものを以前ほど隠す必要がなくなった。
春麗は静かに笑った。
「あなたに勝った後、こうして一緒にいる時間が好きなの」
春麗は静かに言った。
リュウは笑わなかった。
茶化しもしない。
「おまえが勝ったんだ」
「ええ」
「なら、そうしたいならそれでいい」
春麗は一度目を閉じた。
「……本当に、受け入れ方が強すぎるのよ」
「そうか」
「そうよ」
勝者なのに。
また少しだけ、リュウに揺らされている。
もう笑うしかなかった。
「ねえ」
「何だ?」
「本当に嫌じゃないの?」
「何がだ?」
「膝枕も。額の印も。拳の印も」
リュウは少し考えた。
「悔しくはある」
「それはそうでしょうね」
「でも、嫌じゃない」
春麗の胸が甘く鳴った。
だから、やめられない。
リュウは負けたことを悔しがっている。
敗者の印を喜んでいるわけではない。
それでも、春麗がそこへ込めた意味ごと拒んではいない。
額には今日の敗北。
拳には、春麗を最後まで追い詰めた強さ。
全部を理解しているかは分からない。
それでも受け取ってくれる。
「次も戦いましょう」
「そのつもりだ」
「今日よりもっと強くなって来なさい」
「春麗もだろう」
「当然よ」
春麗は少し笑った。
「私を今日より追い詰めて。それでも最後は私が勝つわ」
「次は分からない」
「そうね」
それがいい。
「分からないから、次も戦うんでしょう?」
「そうだな」
「ええ。それでいいわ」
春麗はリュウの額に残る印を見る。
「それで、私が次も勝ったら──」
「また膝枕か?」
「たぶんね」
「額と拳にも?」
「それは、その時の試合次第」
少し考えてから、春麗は続けた。
「もし次は脚で散々追い詰められたら、そっちにも残すかもしれないわね」
「増えていくのか」
珍しく、リュウが少し困った顔をした。
春麗は楽しそうに笑う。
「私が勝てばね」
「なら、今度は勝つしかないな」
春麗の目が細くなった。
「言ったわね」
「ああ」
「その意気、好きよ」
自然に出た。
春麗自身が一瞬だけ止まる。
戦意が好き。
その姿勢が好き。
格闘家としてのリュウが好き。
それは全部、本当だ。
でも今の春麗は知っている。
それだけではない。
だからといって、わざわざ言い直す必要もなかった。
「もちろん、勝つのは私だけど」
「それも次に決める」
「だから次も来るのよ」
「ああ。また俺と戦ってくれ」
しばらく、二人はそのままでいた。
春麗はリュウの頭を膝へ乗せたまま、時々額の印を見る。
拳に残した印も見る。
リュウの呼吸は少しずつ落ち着いてきた。
ただ、悔しさまでは消えていない。
それがいい。
負けたことを悔しがったまま、春麗の膝の上で休んでいる。
敗者を甘やかしているようで、一番満たされているのはたぶん勝者の方だ。
春麗はもう、そのことまで分かっていた。
「リュウ」
「何だ?」
「今日のこと、忘れないで。私が勝ったことも。額の印も、拳の印も」
「ああ、覚えている」
「それから、あなたがものすごく悔しそうだったことも」
リュウの眉が少し寄った。
「そこまで覚えておく必要があるのか?」
「あるわよ」
「なぜだ?」
春麗は少し考える。
「あなたが悔しそうだと、私の勝利がもっと嬉しくなるから」
「そういうものか」
「ただし、何でもいいわけじゃないの」
春麗は首を振った。
「弱いあなたを簡単に倒して、それで悔しがられても、こんなに嬉しくない」
リュウが春麗を見る。
「強いあなたが、本気で勝ちに来て」
拳に残した印を撫でる。
「本当に私を倒しかけて」
今度は額の印へ触れる。
「それでも最後に負けて、悔しがってるからいいの」
リュウは少しだけ考えた。
「なら、次も本気で勝ちに行く」
春麗は言葉を失った。
あまりにも、自分が欲しかった答えだった。
「……ええ」
ようやく笑う。
「そうしなさい」
格闘家として。
女として。
そして、自分で認めてしまっためんどくさい女として。
それ以上に欲しい返事はなかった。
「私も次は、もっと強くなったあなたに勝つつもりで待ってるわ」
未来の春麗は、もう知っていた。
勝てば嬉しい。
負ければ悔しい。
引き分ければ、決着がつくまでまた戦いたくなる。
けれど、どの結果でもリュウとの次が消えるわけではない。
だから今の春麗は、関係を失わないために勝とうとしているわけではなかった。
ただ勝ちたい。
強いリュウに勝ちたい。
そのリュウを本気で悔しがらせたい。
そして勝ったあと、敗者の頭を自分の膝へ乗せる。
額には今日の敗北を。
拳には今日も強かったことを。
その両方へ、自分の勝利を残す。
春麗は膝の上のリュウを見下ろし、小さく笑った。
「……本当に、この時間が好きになったわね」
「そうか」
「そうよ」
額の印を見る。
拳の印も見る。
「あなたのせいよ」
「俺の?」
「ええ。あなたが強いまま負けるから。本気で悔しがるから。私の印も受け取るから」
そして。
「それでも次も来るって言うから」
リュウは少し考えた。
「次は勝つつもりだ」
「そうしなさい」
春麗は笑う。
「でも、私が勝ったら」
膝の上のリュウへ少しだけ顔を寄せた。
「また、こうするわ」
「分かった」
「そこまで素直に受け入れなくていいのよ」
「春麗が勝ったら、だろう?」
「……本当に」
呆れたように言いながらも、笑みは消えなかった。
初戦では、本当に何も始まらなかった。
そこから自分で再戦を選んだ。
春麗が勝って因縁を作った。
欲張って黒を選んだ。
安全な自分へ戻れると言われても戻らなかった。
自分をめんどくさい女だと認めた。
負けた時には、お願いすることまで覚えた。
その先で何度も勝ち、負け、引き分けて。
今では、リュウに勝ったあとの時間そのものまで好きになっている。
あの時、普通に終わった春麗も間違ってはいない。
けれどここまで来た今の自分も、もう間違っているとは思わなかった。
「ねえ、リュウ」
「何だ?」
「まだ悔しい?」
「かなりな」
春麗は満足そうに笑った。
「ええ。そのまま次まで覚えておきなさい」
未来の二人にも。
まだ、次がある。
記録板AIは観測を終えたログを保存した。
『未来時空/春麗ギリギリ勝利』
『新規』
『敗者リュウへの膝枕:継続』
『敗者の印:額に加え、拳へ拡張』
『拳の印』
『リュウの強さへの承認』
『その強いリュウへ勝利した記録』
『春麗』
『勝利後の時間そのものを好むと自覚』
『以上、保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、第1話では普通に敗北して何も始まらなかった春麗の、さらに未来の姿です。
この時点では、もう春麗もリュウも何度も勝ち、負け、引き分けています。
勝った時だけ関係が続くわけでも、負けたら何かを失うわけでもありません。
そのうえで春麗が一番好きなのは、やはり「強いリュウに勝った時」でした。
今回の膝枕も、単なる敗者へのご褒美ではありません。
本気で自分を倒しに来たリュウに勝ち、その悔しそうな顔を一番近くで見られる。
春麗自身にとっても、かなり甘い勝利後の時間になっています。
額の印と拳の印も、少し意味を分けました。
額には「今日の敗者はリュウ」という勝敗。
拳には「今日もリュウは強かった。それでも春麗が勝った」という、相手の強さへの承認と自分の勝利を残しています。
春麗が望んでいるのは、弱いリュウではありません。
もっと強くなってほしい。
自分を本気で追い詰めてほしい。
そのうえで最後には自分が勝ちたい。
そして、勝った後のこの時間まで好きになってしまった。
初戦では何も始まらなかった春麗が、自分から再戦を選び続けた先で、ずいぶん遠くまで来ました。
もう「勝者要求権だから」「ご褒美だから」と全部を説明しなくてもいい。
「あなたに勝った後、こうして一緒にいる時間が好き」
そこまで自分の欲しいものを認められるようになった、未来の春麗を描いた回です。