また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。
第1話ギリギリ敗北ルートのルート完走特別インタビューになります。
白い部屋の中央に、椅子が二脚置かれていた。
春麗は自分の袖へ目を落とす。青い武道服に、いつものようにまとめた髪。黒い戦闘服で出かけた日のことまで覚えているのに、呼び出された姿は見慣れたものだった。
「今日は、こっちなのね」
『最初の試合から振り返るため、通常の武道服姿を採用しました。外見だけの変更です』
「記憶まで巻き戻されたら困るわ。せっかく、ここまで来たんだから」
春麗が座ると、向かいの椅子の上に記録板AIの表示が浮かんだ。
【特別インタビュー】
【対象:第1話ギリギリ敗北ルート春麗】
【観測範囲:第1部/第2部・リュウの修行編】
『第1部では、あなたがリュウの協力を借りて昇龍拳への恐怖に向き合い、修行後の正式試合と告白まで進みました。第2部では、今度はあなたがリュウの修行に付き合っています』
「私が動けるようになったところで、全部終わったことにはしないのね」
『互いの修行を終え、その後に二人で出かけた時間まで伺います』
「……デートまで含むの」
『外してほしいですか』
春麗は一度だけ視線を逸らし、それから椅子の背へ身体を預けた。
「いいわ。あの日も、ちゃんと私の一日だったもの」
表示を見返す目には、少しだけ警戒が残っている。それでも、話すこと自体を拒むつもりはなかった。
『では、最初の敗北から始めましょう』
空間に、最初の試合の映像が浮かんだ。
片膝をついた春麗と、その前に立つリュウ。現在の春麗は青い袖を軽く握ったが、映像から目を逸らさなかった。
『今見ても、悔しいですか』
「当然でしょう。あと少しで勝てたのよ。しかも、最初は女だからって拳を鈍らせた相手に」
『その甘さを突いて勝つつもりでした』
「ええ。そんな拳では私に勝てないって、分からせるつもりだった」
だが、リュウは同じ試合の中で変わった。春麗を格闘家として見直し、女性として見たことも消さずに、勝つための拳を出してきた。
その変化を、春麗自身が一番近くで見てしまった。
「ただ見くびったまま負けてくれたら、あそこまで残らなかったかもしれないわね。途中で直して、そのうえで私に勝ったんだもの」
『最初から正しく見てほしかった。しかし、見直してくれたことまで否定はできなかった』
「そう。そのリュウに勝ちたかったのに、負けた。それが腹立たしかったのよ」
試合後の映像に、リュウが近づいてくる。
勝ち誇るのでもなく、慰めるのでもなく、春麗を見て「強かった」と言う。
「……この言葉もね」
『敗北の記憶と一緒に残りましたか』
「残ったわよ。あの時は、負けた私に何を言うの、と思った。でも、私がどこまで追い詰めたかを本当に見ていた言葉だから、捨てられなかった」
春麗は袖から手を離した。
「初戦を好きな思い出に変えたつもりはないわ。今でも勝ちたかったと思う。ただ、なかったことにしたいとは思わない」
『悔しさと、経験を残したい気持ちは別なのですね』
「後から大事になったからって、あの日の私まで喜んで負けたことにはしないで。私は本気で勝ちに行ったの」
再戦の記録が順に開かれた。
届きかけた蹴り、間に合わなかった一歩。何度も最後に膝をつき、そのたびにリュウの「強かった」を持ち帰った自分がいる。
『三度目の試合では、あなたからその言葉を求めています』
「そこを選ぶのね」
映像の中で、負けた春麗が顔を上げる。
「言いなさいよ」
「強かった、って」
現在の春麗は、口元へ手を当てた。
「……よく言ったわね、私」
『何を確かめたかったのでしょう』
「今日の私が、リュウにどう見えていたか。負けたことは分かってる。それでも、何も届かなかったことにはしたくなかったのよ」
勝ちたい気持ちが薄れたわけではない。褒められるために負けたこともない。
ただ、何度も挑むうちに、リュウの中へ残したいものが増えていた。
「負けた回数だけ覚えられているのは嫌だった。何を考えて、どう変えて、どこまで届いたのかも覚えていてほしかった」
『そして、初めて勝ちました』
今度は映像の中で、リュウの膝が落ちた。
春麗の表情が、わずかに緩む。現在までに何度も勝利を経験していても、あの一勝だけは別の場所に残っていた。
「やっと、負けた私だけじゃなくなった」
『それまでの敗北を、勝利で消せたわけではありません』
「消したくなかったのよ。何度も負けて、考えて、また挑んだ私が勝ったんだから」
映像の中の春麗は、リュウと目線を合わせるために膝を折り、その額へ指を伸ばしていた。
「今日、私はあなたに勝った」
「忘れないで」
「……大胆だったのは認めるわ」
『後悔していますか』
「してない。あの時は勝った勢いで言えたけど、言いたかったことは本当だったもの」
負け続けた記憶を消して、勝者の自分だけに入れ替わりたかったわけではない。
リュウに何度も届かなかった自分と、ようやく届いた自分。その両方を、相手にも覚えていてほしかった。
「返済って言ったけど、あれで全部終わりにする気はなかった。勝ったら、もう一度あの人と戦いたくなったのよ」
『その後は、挑みに行かずに待ちました』
「今度はリュウから来てほしかったから」
春麗は少し苦く笑った。
「次の勝負の話はした。でも、いつ来るかまでは決めていなかった。なのに私は、翌日から来るかもしれないって考えてたの」
『二週間、待ち続けました』
「あの一勝がリュウにも残っているなら、私に勝ち返しに来るはずだって。待ってるだけではないつもりだったけど、足音はずっと気にしていたわね」
待った時間の長さより、待ち望む自分を認める方が難しかった。ようやく現れたリュウが「修行していた」と答えた時、怒りだけで迎えられなかった理由も、今なら分かる。
「私の勝ちを、本当に持ち帰ってたのよ。忘れないって言っただけじゃなくて、私に勝つために鍛え直していた」
『そのリュウに、今度は完敗します』
「嬉しかった理由と、負けた理由が同じだったの。あれは、かなりきつかったわ」
映像が止まり、白い空間へ静けさが戻った。
記録板AIは、撃ち落とされた場面を繰り返し映さなかった。
『昇龍拳への恐怖で身体が止まるようになったのは、最初の試合ではなく、初勝利から二週間後の再戦を経てからでした』
「ええ。何度もギリギリで負けていた時には、悔しさを次の修行へ向けられた。でも、あの完敗の後は違った」
波動拳を越えようとした先で、昇龍拳に撃ち落とされた。動けなくなったところへ竜巻旋風脚を受け、最後には自分で身体を起こすことさえできなかった。
その記憶が、次に踏み込もうとする足を止めた。
「リュウがいなくても駄目だった。他の相手が身体を沈めただけで、昇龍拳が来るように思えてしまう。勝つために動きたいのに、その一歩が出ないのよ」
『リュウ自身を避けたかったのですか』
「また何もできなくなるのが怖かった。リュウと戦いたくないわけじゃない。むしろ、もう一度勝ちたかった」
春麗は膝の上で手を組んだ。
「でも、止まっている私を見られるのは嫌だった。あの人は私に負けた記憶で強くなったのに、私は負けた記憶で進めなくなっていたから」
当時、自分で口にした言葉が蘇る。
あなたは、覚えて強くなったのに。私は、覚えて止まっている。
今も苦い。けれど、その苦さだけに呑まれることはなかった。
『リュウがあなたの試合映像を見て訪ねてきた時、一度は協力を断っています』
「知られたくなかったのに、知らないままでいられるのも嫌だった。今聞いても、どうしてほしいのよって思うわね」
『その後、あなた自身から修行を頼みました』
「一人で隠していても、あの拳の前で動けるようにはならなかった。リュウの協力が必要だって、認めるしかなかったの」
それでも、素直に助けてと言うことは難しかった。
春麗が選んだのは、恩を借りるという言い方だった。
「借りたなら、いつか返せるでしょう。助けてもらうだけの私で終わらなくていい。あの時は、そう考えられることが必要だった」
『リュウは、いつか返してくれと答えています』
「恩を売るつもりはないって言いながらね。私がその言い方なら頼れることを、受け入れてくれたのよ」
春麗は少しだけ肩の力を抜いた。
「でも、勝負の借りとは別だから」
『そこは、当時も区別していました』
「負けた分は勝って返したい。修行に付き合ってくれた恩は、リュウの力になって返したい。同じ『借り』でも、一緒にはできないわ」
『修行で、最もありがたかったことは何ですか』
「私が自分で立つのを、待ってくれたこと」
春麗の答えは、ゆっくりと落ちた。
「昇龍拳を寸前で止めてもらっても、最初は膝が落ちた。当たっていないのに身体があの時を思い出して、言うことを聞かなかった」
そこでリュウがすぐに抱き起こしていたら、春麗は立ち直ったことを自分の動きとして受け取れなかったかもしれない。
来ないで、と言えばリュウは止まった。必要な時には手を貸し、それでも春麗が自分で戻ろうとする時には待った。
「一人でやれとは言わなかった。でも、私の代わりに立ち直ったことにもしなかった。そこが助かった」
『リュウに元の自分へ戻してもらった、という理解ではないのですね』
「付き合ってもらったの。私が止まる場所にいてもらって、そこでもう一度動いたのは私よ」
春麗は自分の足元を見た。何度も床を蹴り損ね、それでも少しずつ動かした足だった。
「もちろん、私一人の力だったとも言わないわ。リュウが約束どおり最後で拳を止めてくれることを、信じられたから続けられた」
『その寸止めと、後にあなたが指摘した拳の鈍りは違います』
「全然違う。修行で当てないと決めた一撃を止めるのは、約束を守る技術よ。勝負で必要な一撃を出せなくなるのとは別でしょう」
それを、春麗は何度も間近で見て覚えた。
後になってリュウのわずかな迷いを見抜けたのも、あの修行で彼の拳を見続けたからだった。
『修行の合間には、二人で昼食を取っています』
「……急に話が柔らかくなったわね」
『翌日から、リュウの分も用意しました』
「朝から夕方まで付き合ってもらってたのよ。昼くらい、私が用意してもいいでしょう」
『今なら、当時と違う説明になりますか』
春麗は少し考えてから、苦笑した。
「栄養管理も恩返しも、本当よ。でも、食べてもらいたかったのも本当。結び目まで整えておいて、ただのついでだと言い張るのは無理があるわね」
食べやすさを考え、冷めた時の味を考えた。リュウが「うまい」と言えば、何がどうおいしいのかを聞きたくなった。
答えを探して少し考える顔を見ることまで、いつの間にか楽しみになっていた。
「戦っていないリュウを、あそこで知ったのよ。旅のことも、生活のことも。私も捜査官の仕事や、父のことを話した」
『「春麗の拳には行き先がある」と言われました』
「好きな言葉よ。私の拳は、リュウに勝つためだけにあるわけじゃないって、思い出せたから」
止まっている場合ではなかった。自分には戻りたい仕事があり、追うものがあった。
リュウとの修行は、その人生へ戻るための時間でもあった。
『一方で、抱きとめられた時には、彼が動揺しないことを不満に思っています』
「……昼食の話で終わらせてくれないのね」
『翌日には、自分に魅力がないのかと本人へ聞きました』
「私だけドキドキしているように見えたからよ。安全のために受け止めてもらったのは分かってる。それでも、まったく女性として意識されていないのかと思ったら、気になった」
リュウは、魅力がないのではないと答えた。初戦で女性として見て拳を鈍らせたからこそ、修行中は一人の格闘家として見るよう意識していた。
「それを聞いて嬉しかったのに、今度は反応がなさすぎるのも嫌だって言ったのよね。自分で注文を増やしてた」
『その頃から、格闘家として見てほしい気持ちと、女性としても見てほしい気持ちが並んでいました』
「黒い戦闘服を選ぶより、ずっと前からね。あの頃はまだ、どう両立させたいのか自分でも分かっていなかったけど」
映像は、修行の最終試験へ移った。
春麗が波動拳を越える。リュウが昇龍拳へ入っても、目を逸らさず、掌を前へ出していた。
拳が顎の手前で止まった時、その掌はリュウの胸元に届いている。
『この時に取り戻したものは、何でしょう』
「自分で動きを選べる身体。怖いと思っても、踏み込んだり、跳んだり、手を出したりできる私」
『恐怖を忘れたのではありません』
「忘れてないわ。あの空で撃ち落とされたことは覚えてた。それでも、目の前の拳を見て動けたの」
春麗は映像の中の掌を見つめた。
「ただし、これは試験。リュウを倒した勝利とは違う。だから、その後に約束した正式な試合が大事だった」
次の映像では、春麗はいつもの武道服を着ていた。
寸止めの約束はない。互いに勝つために戦い、最後は春麗が虎襲倒でリュウを倒した。
「本気で勝ちに来るリュウと、もう一度戦えた。そのうえで私が勝った。戻れたかどうかを確かめるだけじゃなくて、ちゃんと勝ちを取りに行けたのよ」
『初めての膝枕と、右拳への印も、その試合後です』
春麗はわずかに顎を引いた。
「倒したら意識が落ちていたから、まずは呼吸を確かめた。頭を支えて膝に乗せたのも、最初は介抱よ」
『その後、勝者特権も加わりました』
「……そこを抜かしてくれないのは分かってた」
額には、その日の敗者としての印を。右拳には、今日の春麗を止められなかった拳の印を残した。
怖くて近づけなかった拳へ、自分から触れていた。
「リュウの拳が弱くなったから触れられたんじゃない。あの強い拳の前で動いて、勝ったからよ。私には、そこが大きかった」
『好意を伝え合う前の出来事ですね』
「そう。自分で好きだと気づいたのは、最終試験の前夜。でも本人に言ったのは、正式な試合を終えた翌日」
試験の日は、動けることを確かめたかった。次の試合では、勝ちたかった。
その二つを終え、修行でも試合でもない食事の時間を約束してから、春麗はようやく自分の気持ちを言葉にした。
『恩を返すための告白でしたか』
「違うわ。助けてもらったから、好きになることで返すなんて話じゃない」
春麗は顔を上げた。
「リュウに感謝している。それとは別に、あの人といる時間が好きになっていたの。修行が終わっても会いたいし、食事もしたい。そう思っている自分に、あの夜気づいた」
記録板AIの表示に、川沿いで交わした言葉が浮かんだ。
「好きだから、あなたの拳の前で止まりたくない」
「好きだから、あなたに格闘家として届きたい」
「好きだから、勝ちたい」
春麗は頬へわずかに熱を感じながら、続きを待った。
リュウの返事も、もう知っている。
「俺も、春麗と戦いたい」
「春麗が好きだから」
「……何度聞いても、あの返しはずるいわね」
『あなたが伝えたかったことを、同じように返しています』
「そうなのよ。だから困るの。好きになったら勝負はどうでもよくなる、じゃなかった。二人とも、好きだからまた戦いたいって言った」
春麗の口元が、ようやく自然に緩んだ。
「私が拳の前へ戻って、気持ちも自分の言葉で渡した。そこまでが、第1部なのね」
『第2部は、両想いになった後の再戦から始まります』
「今度は、リュウの拳が鈍った」
青い武道服で跳び込んだ春麗と、最後の一瞬に迷ったリュウが映る。
春麗はその隙を見逃さず、勝利を取った。試合後には再び膝を貸し、鈍った右拳へ印を残している。
『初戦と同じ間違いだったのでしょうか』
「まったく同じではないわ。私が強いことは、もう分かってる。今度は、その強い相手が自分の好きな女でもある。それを全部見た時に、最後の拳がわずかに遅れたの」
リュウに勝ったことは嬉しかった。自分を綺麗だと思い、好きな相手として見たと聞けば、さらに嬉しかった。
だが、嬉しいだけで終わるわけにはいかなかった。
「好きだからって拳が鈍ったら、私がずっと求めてきた勝負にはならないでしょう。だから、今度は私が付き合う番だと思った」
『昇龍拳への恐怖を克服する時、リュウに借りた恩を返すために』
「ええ。私が動けなくなる場所で、あの人は待ってくれた。何度も同じ流れに付き合ってくれた。なら、今度はリュウが先へ進めるまで私が付き合う」
春麗は自分の手を見た。
あの時の右拳に、もう一度触れるように指を曲げる。
「最初から答えを知っている先生になったつもりはないわよ。どこで迷ったかは分かる。でも、どうすれば最後まで両立できるかは、一緒に確かめるしかなかった」
『そこで、黒い戦闘服を選びます』
「その前に、いつもの姿でも練習したわ。近づいたり、好きな女が目の前にいるって言葉にしたりしてね」
『リュウの対応は、早く安定しました』
「ずっとこの武道服で戦ってきたから。私を見慣れていたし、その姿のまま好きだとも伝え合っていた。だから、もっと難しい条件が必要だった」
黒い戦闘服を見つけた時も、すぐに決めたわけではない。
そこまでするのか、と一度は手を止めた。それでも、女性としての自分を見ないことではなく、意識しても拳を鈍らせないことが課題なのだと考え直した。
「服を変えるだけじゃない。髪を下ろして、布と身体が違うタイミングで動くところも使う。視線も距離も言葉も、私自身で考えたの」
『他の春麗が使っていた戦術を、そのまま持ち込んだのではありません』
「当時の私は知らないもの。リュウへの負荷を上げようとして、使えそうなことを組み合わせた。動いてみたら自分まで髪を気にしたり、言った言葉に自分で照れたりもしたわ」
『最初から完成した戦術ではなく、試しながら組み立てたのですね』
「そう。でも、初めてあの姿を見せた時の顔は、ちょっと楽しみにしてた」
春麗は認めてから、少し笑った。
「恩返しだから、自分が楽しんではいけないわけじゃないでしょう」
『黒い戦闘服への対応が進んでも、昇龍拳には迷いが残りました』
「最初は、私が女だからとか、好きな相手だからとか、それだけだと思っていたの。でも、普通の拳や蹴りは出せるのに、昇龍拳だけ違った」
春麗の表情から、笑みが薄れた。
「そこで、やっと気づいた。撃ち落とされたのを覚えているのは私だけじゃない。撃ち落としたリュウも、その後に私が止まったことを覚えてる」
『本人にも確認しています』
「また同じことになると思ったって。試合に勝つことじゃなくて、自分の拳で止まる私を、もう一度作ってしまうことを考えていたのよ」
かつて春麗の身体を止めた記憶が、今度はリュウの拳を遅らせていた。
同じ試合を覚えていても、二人の中に残った怖さは違う。春麗は、その違いごと受け取る必要があった。
「私が戻れたら、あの試合については全部解決したと思っていたのかもしれない。自分の身体のことばかり見ていたのね」
『リュウの記憶まで、あなたの克服と同時に消えるわけではありません』
「だから、その先も付き合いたかった。あの時の勝負まで間違いにしないでほしかったし、今の私を、まだ何もできなかった頃の私だけで見てほしくなかった」
春麗は背筋を伸ばした。
「私は、もう跳べる。昇龍拳が来ると分かっても、自分から入れる。そこまで一緒に修行したリュウが、今度は私を見て拳を止める。それで終わりにはしたくなかったの」
『ただし、無制限に強く当てればいいという修行でもありません』
「当然よ。必要以上に傷つけていいわけじゃない。でも、怖いから勝つために必要な力まで捨てるのも違う。その両方を満たす拳を、探していた」
進み方は、一度では決まらなかった。
女性としての春麗を意識から外して、戦うための情報だけを拾おうとした日もあった。昇龍拳を出せるようになってからも、当たる直前に力を抜いたり、制御を考える時間が一瞬の遅れになったりした。
「間違ったところは、間違っていると言った。でも、一回でできないから駄目だとは思わなかったわ。私だって、何度も止まりながら戻ったんだから」
『あなたも、その修行で変わりましたか』
「リュウが何に引っかかっているかを、前より考えるようになった。自分の欲しい答えを言うだけじゃ、付き合ったことにはならないでしょう」
それでも、春麗は勝負を譲らなかった。
修行のために確認する時間と、最後まで勝ちを取りに行く試合は、同じではない。勝負を決める場面では、リュウが残した隙を使って勝った。
「私が勝てるところをわざと見逃して、完成したことにしても意味がないもの。本気で勝ちに来る私に、リュウ自身が届かなければ」
『協力と、勝利を譲ることは別だった』
「ええ。強くなってほしいのも本当。その強くなったリュウに私が勝ちたいのも、本当だったわ」
次の表示には、黒い戦闘服での戦績が並んだ。
九連勝の後、十戦目で初めて敗れ、十一戦目で十勝目を取る。春麗は、その最後の白星を見て目を細めた。
『十勝目は、連勝が一度止まった後の勝利でした』
「だから、あの勝ちは特別なのよ」
修行編で数えていた十連勝は、通常の武道服での一勝と、黒い戦闘服での九勝を合わせたものだった。
黒での十戦目にはリュウが勝った。それでも春麗は次の試合で取り返し、黒での十勝目へ届いた。
「黒の見せ方で崩せた頃だけ勝ってたんじゃない。もうほとんど揺れなくなって、一度は私を倒したリュウに、それでも勝った」
『十一戦目では、昇龍拳の後に残った、わずかな余力を使っています』
「一回分でも残っているなら、私は返すわよ。あの日は、その一回で勝ったんだから」
その笑みには、隠すつもりのない勝者の喜びがあった。
『黒で初めて負けた十戦目にも、大きな出来事がありました』
「リュウから、修行の続きを頼まれたことね」
『試合には勝った。しかし、昇龍拳だけで勝負を終わらせるところまでは完成していなかった』
「それを本人も分かってた。勝ったからこれでいい、じゃなくて、完成するまで付き合ってほしいって言ったの」
頼られたことが嬉しかった。
借りを返す相手としてだけではなく、リュウが今の自分に必要な相手として、春麗を選んだ。その実感が残った。
「そこで、恩を返し終えたら私はもう帰っていいのかしらって考えたのよ。そう考えると、何だか違った」
『恩返し以外の理由がありました』
「完成するところを、私が見たかった。リュウが先へ進む時、私も一緒にいたかった。借りが残っているから仕方なく、ではなくなっていたのね」
それでも次の試合では勝った。
春麗は十勝目の表示へ、もう一度満足そうに目を向けた。
『そして、十二戦目でリュウが勝ちました』
「……最後は、ちゃんと届いたわね」
声の調子が変わった。
勝ちを喜ぶ時とは違う、静かな熱があった。
『あなたは、完成した昇龍拳を受けて立てませんでした』
「目を逸らして止まったんじゃない。勝つために跳んで、その先でリュウに取られたの。着地してからも、まだ返そうとした」
だが、その一回分が残っていなかった。
必要以上の傷を負わせず、しかし勝負を続ける力は残さない。リュウは、最後まで迷わずにその一撃を届かせた。
「悔しかったわよ。黒で十一勝目を取るつもりだったもの。でも、求めていた拳が来たことは、分かった」
『昔の完敗と、今度の敗北は違いましたか』
「昔は、あの拳を思い出すだけで次の一歩が出なくなった。今度は、受けて負けても、次にどう戦うか考えられた。リュウも、私を好きなことや昔の試合を消さずに撃ったのよ」
どちらか一人が忘れて先へ進んだのではない。
春麗もリュウも覚えていて、その記憶だけに動きを止められなくなった。
『そこで、借りた恩を返せたかと尋ねています』
「本人から聞きたかったから」
リュウは、返してもらったと答えた。
その言葉を思い出すと、春麗の表情が少し柔らかくなる。
「私が勝ったから返せたんじゃない。負けてあげたからでもない。リュウが自分の課題を越えるまで、私が付き合えた。その結果として、あの日はリュウが勝ったの」
『第1部で借りた恩を、第2部で返した』
「そう。ただ、恩を返したから二人の関係も終わり、ではなかったわね」
『完成後、リュウは勝者として別のお願いをしました』
春麗は、すでに何を出されるか分かった顔で口を閉じた。
表示されたのは、次の試合でも新しい修行でもなかった。
「今度は戦わずに、一緒に出かけたい」
「……このお願い、昇龍拳より答えに困ったわ」
『黒い戦闘服での外出です』
「リュウを意識させるために選んだ服で、今度は戦わずに来てほしいって。そっちの方が、ずっと恥ずかしかったの」
食事に出かけるのは初めてではない。
けれど、黒い戦闘服でリュウの前へ立つ時には、いつも勝負があった。どう見せ、どこで意識を引き、何を勝ちにつなげるかを考えていた。
その理由を外したところに、リュウ自身の「一緒に過ごしたい」が残った。
「勝つためだから、と言えなくなるでしょう。ただ、見たいと言われた姿で会いに行く。そのリュウと一日過ごしたいと思っている私も、ごまかせない」
『実際に出かけて、どうでしたか』
「楽しかった。隣へ近づいても、反応を遅らせるためじゃない。目が合っても、次の攻撃を読まなくていい。そういう時間が、思っていたより好きだった」
春麗は自分の青い袖へ触れた。
「黒を着て戦わない日があっても、何も困らなかったのよ。私が格闘家じゃなくなるわけでも、あの服で勝ってきたことが消えるわけでもない」
『帰宅後、黒い戦闘服を脱いだ時にも、同じことに気づきました』
「服を脱いだだけで、その日の私がいなくなるわけじゃないもの。勝つのが好きな私も、負けて悔しい私も、リュウと出かけて嬉しかった私も、そのまま残っていた」
春麗は、今度は迷わず笑った。
「だから、次のデートは私から誘うと言えた。別の日には、また本気で戦う。どっちか一つにしなくていいのよ」
記録板AIは、ここで表示を切り替えた。
【比較資料:第1話普通敗北ルート・完走後インタビュー】
『ここからは、別のルートについて伺います。あなたとは異なり、初戦の敗北だけでは特別な因縁が始まらなかった春麗の記録です』
春麗の目が、見慣れない見出しを追った。
普通に負け、悔しがり、それでも日常へ帰った春麗。再戦を自分から選び、二戦目で勝ち、そこから敗者の印と次の勝負を作った春麗。
黒い戦闘服を選んだ理由も、青い武道服で確かめたことも、本人の言葉で示されていく。
春麗は途中で口を挟まず、資料を読んだ。
『まず、出発点をどう思いますか』
「同じ初戦敗北でも、全然違うわね。あの春麗にとっては、その時のリュウは強い格闘家の一人だった。私は最初の試合から、あの人を忘れられなくなった」
『あちらの方が、穏やかに始まっています』
「始まらずに済んだ、と言った方が近いんでしょうね。あのまま仕事や修行を続ける人生もあった」
春麗は、資料に記された「今でも、あの私を失敗だとは思ってないわ」という回答を見た。
「それは、その通りだと思う。リュウとの因縁がない春麗は失敗だ、なんてことにはならないわ」
『あなた自身の経緯と比べても、ですか』
「私があの人を好きになったことと、すべての春麗が同じようにならなければいけないことは別でしょう」
少し考えてから、口元を緩める。
「でも、二戦目で勝ったのは羨ましい。私は何度も負けたんだから」
『そこには差を感じますか』
「格闘家としてはね。早く勝てていいわね、とは思う。でも、それであの春麗が私より全部先に進んでいる、とは思わない」
春麗は、膝の上で手を組み直した。
「私は、最初に刻まれたものをリュウへ返したかった。あの春麗は、初めて勝ってから、もっと残したいものができた。似た印をつけても、そこへ行くまでの気持ちは同じじゃないのよ」
『黒い戦闘服を選んだ理由も違います』
「ええ。あの春麗は、リュウが特別な相手になったから、格闘家としてだけでなく女としても見てほしくなった。私は、好きだと伝え合った後で、リュウへの修行の負荷を上げるために選んだ」
見てほしい、という願いそのものは分かる。
それでも、相手との間に何が積み上がっていたかは違った。
「私の黒には、付き合ってもらった修行の恩を返す意味がある。あの春麗の黒は、あの春麗が新しく欲しくなったものへ手を伸ばした結果でしょう。どちらも、自分で選んで考えた戦い方なのね」
『後の行動には、共通点もあります』
敗者リュウへの膝枕と、額と拳への印が映された。
春麗はしばらく黙り、それから片手を額へ当てた。
「……そこまで似るの」
『あちらは、最初の膝枕から「私がそうしたい」とリュウへ伝えています』
「私はまず、倒したリュウを介抱したのよね。そこから勝者特権だと言い始めた。あの春麗は、意識のあるリュウへ自分から要求したわけね」
『現在は、どちらも勝利後の時間を好んでいます』
「分かるから困るのよ」
春麗は笑い、今度は拳への印の説明を読んだ。
その日もリュウが強かったこと。そして、その強いリュウへ春麗が勝ったこと。
「この意味は好きだわ。相手が弱かったから勝ったんじゃない。本当に強かった。そのうえで私が勝ったって、両方残している」
『あなたの右拳への印には、当初、春麗を止められなかった拳という意味がありました』
「後には、私を前にして鈍った拳への印にもなった。修行が進んだら、強くなったその拳に勝った証も加わったわね」
同じ額に触れ、同じ右拳へ印を残していても、そこへ込めるものは少しずつ変わる。
「だから、似ていることは認める。でも、同じことをしたから同じ話だった、にはしないでほしいわ」
『出発点と、そこへ至る経緯を区別して記録します』
「そうして。私も、あの春麗が自分で作った時間まで、私と同じものにしてしまいたくないから」
比較資料に、二つの扉が表示された。
何も始まらなかった初戦直後へ戻る道と、それまでの経験を残して現在を続ける道。
『普通敗北ルートでは、途中で実際に戻る権利が与えられています。単なる仮定ではなく、本当に選択可能なものでした』
「……あちらには、そこがあったのね」
春麗は、戻らないと答えた別の自分の言葉を読む。
リュウだけではなく、リュウに勝ち、欲張り、黒も青も選び、次を楽しみにするようになった自分自身を選んだという回答だった。
『この選択を、どう評価しますか』
「戻る先を、間違った人生だと言っていないのがいいわね。そっちへ戻っても春麗として生きていける。そのうえで、今まで自分で選んだことを残したかった」
『あなたにも分かる感覚でしょうか』
「分かる。私も、勝った日の自分だけが今の私を作ったとは思っていないから」
何度も負けたこと。怖いと認めたこと。リュウへ恩を借りたこと。
どれも、その時には簡単に受け入れられなかった。それでも、現在の春麗から切り離したいとは思わない。
「ただ、あの春麗が戻らなかったから偉くて、戻る方を選んだら駄目だった、ではないでしょう。本人が、どちらを残して生きたいか答えたことに意味があるのよ」
『ここからは仮定です。今のあなたが初戦をやり直すとしたら、どうしますか』
「試合だけなら勝ちたいわ」
返事は早かった。
「でも、ここまでの経験をなかったことにして、勝った結果だけと入れ替えたいかと言われたら、しない」
『苦しい経験も含まれます』
「含まれるわね。でも、苦しんだからよかったとは言わない。あんなふうに身体が止まらずに済むなら、その方がよかったと思う」
春麗は表示をまっすぐ見た。
「それでも、実際に起きたことの先で、私はリュウに頼って、動けるようになって、好きだと伝えた。今度は向こうの修行にも付き合えた。その私まで、なかったことにはしたくないの」
あちらの春麗は、戻れる道を示されたうえで戻らなかった。
自分には、その選択とまったく同じ経験はない。けれど、起きたことを抱えた後で何をするかは、何度も自分で決めてきた。
「違う道だったけど、自分の今を誰かのせいだけにはしないところは、似ているのかもしれないわね」
『普通敗北ルートには、敗者請願権もあります』
春麗は、負けた直後に生まれたその言葉を読み、思わず笑った。
「負けたら、お願いしてもいい権利。よく考えたわね」
『勝者には、断る自由があります』
「そこが残っているなら、いいと思う。無理に聞かせるためじゃなくて、自分がお願いするために名前をつけたんでしょう」
起こして、肩を貸して、途中まで送って。
最後に、少しだけ甘えさせて。
その頼みを読んだところで、春麗の笑みが少し静かになった。
「……私の『恩を借りる』にも、似たところがあるわね」
『同じものですか』
「内容は違うわ。私は、止まる身体を戻す修行へ付き合ってほしかった。あの春麗は、負けた後にリュウへ甘えたかった。でも、ただ頼むのが難しいから、自分が口にできる言い方を作ったところは分かる」
春麗は、昔の自分へ向けるように苦笑した。
「最初から上手に頼めなくても、一度伝えて、相手が受け取ってくれる経験は残るでしょう。私にも、あの春麗にも」
『未来のあちらは、勝っても負けても次が消えないと知ったうえで、なお勝ちたいと答えています』
「それも、いいと思う。負けたら悔しいのと、負けた日は近くにいてはいけないのとは、別だから」
勝利後の時間が好きだと認めた回答の後に、もう一つ、春麗自身についての言葉が表示された。
「リュウがいる私を、私自身が好きなの」
春麗はそれを、黙って読んだ。
『この答えはどうでしょう』
「……ずいぶん正直ね」
『共感しますか』
「するわよ。勝てるようになった私だけじゃない。リュウに頼った私も、次のデートへ誘う私も、今は悪くないと思ってるから」
初戦で特別なものを持ち帰らなかった春麗も、その後の自分から始めることができた。
最初から忘れられなくなった自分も、記憶に足を止められたままで終わらずに済んだ。
「同じように苦しまなかったから、あの春麗の気持ちは軽い、なんて思わない。あの春麗には、あの春麗が選んで積み上げたものがある」
『あなたの経緯も、あちらの経緯に置き換える必要はありません』
「ええ。比べて分かることはある。でも、どちらかをもう片方の正解にする必要はないわ」
春麗は、比較資料の最後まで目を通した。
「何も始まらなかったところから、自分で次を作った春麗。いいと思う。私も、あの人との次を自分から選びたい気持ちは、よく分かるから」
比較資料が閉じられ、白い部屋へ戻った。
春麗は椅子へ座り直す。別の自分の話を読んだ後でも、帰りたい時間は変わらなかった。
『二つのルートを比べた今、あなた自身の物語で最も変わったものは何だと思いますか』
「記憶との付き合い方かしら」
少し考えてから、春麗は続けた。
「最初は、あの敗北を離すまいと思ってた。許せないし、勝つまで忘れない。リュウにも忘れさせない。それで前へ出ていた」
ところが、より深い敗北の後には、その記憶が身体を止めた。
覚えていることが、いつもそのまま強さになるわけではない。自分の足で思い知った。
「でも、忘れなければ動けないわけでもなかった。リュウに付き合ってもらって、怖かったことを覚えたまま跳べるようになった」
『第2部では、リュウも同じ試合の記憶に向き合いました』
「だから、私が戻っただけで終わりじゃなかったのよね。今度は私が付き合って、リュウも覚えたまま拳を出せるようになった」
あの頃、借りた恩を返すと言った自分は、こんな形になるとは知らなかった。
自分を止めた拳の前で動けるようになり、その拳が最後まで届くように、今度は自分から修行相手を務める。
春麗は、遠回りだった二人の道を思い返した。
「リュウに助けてもらった春麗、だけでは終わらなかった。それも、私には大事だったんだと思う」
『では、リュウは今のあなたにとって、恩人ですか。対戦相手ですか』
「どちらでもあるわ。それから、好きな男」
頬には少し熱があったが、言い直さなかった。
「恩人だから好きだと決めたんじゃない。対戦相手だから、一緒にいる時まで構えていなくちゃいけないわけでもない。その全部を含めて、リュウなのよ」
『今でも、一番大事な勝利は最初の一勝でしょうか』
「最初の一勝は、やっぱり特別。正式試合で戻ったことを確かめられた勝利も大事だし、黒の十勝目は思い出すと笑ってしまうけどね」
『一方、修行が完成した日は、あなたの敗北でした』
「ええ。勝者としては喜べない。でも、リュウに恩を返せたことは嬉しかった。どちらかを嘘にしなくても、両方あっていいでしょう」
春麗は穏やかに笑った。
「負けても悔しくなくなったら、たぶん私じゃないわ。次は勝ちたい。その気持ちまで捨てて、綺麗に終わるつもりはないの」
『最後に、最初のあなたが口にした「忘れない」という言葉を、今のあなたの言葉で説明してください』
春麗はすぐには答えなかった。
最初の試合の床の冷たさから、最後のデートの帰り道まで、いくつもの感触が戻ってくる。
負けた夜も、初めて勝った日も、寸止めの拳を前に膝が落ちた朝もあった。包んだ昼食や、気持ちを伝える前に息を整えた時間まで、拳の記憶と一緒に残っている。
「昔は、手放さないことだった」
『今は』
「覚えているものを、持って歩くこと」
春麗は自分の青い袖を見る。
「負けたことも、怖かったことも忘れない。でも、それを思い出したら、今日も同じように止まらなければいけないわけじゃない」
顔を上げる。
「私はあの後、動けるようになった。リュウに勝った。好きだと伝えた。今度はあの人の修行に付き合って、最後まで見届けた。それも全部、覚えていることだから」
苦しい記憶だけが残ったのではない。
その先で動いた自分の記憶もある。リュウも、止まった春麗だけでなく、そこから戻り、さらに自分へ付き合った春麗を知っている。
「最初の敗北だけに、今の私を決めさせなくていいのよ」
記録板AIは、返事を急がなかった。
春麗も沈黙を埋めようとはせず、しばらく自分の答えを確かめていた。
『記録しました。特別インタビューを終了します』
「そう。ずいぶん話したわね」
春麗は椅子から立ち上がった。
『帰還先は、インタビュー前の時間です』
「ええ。次は私からデートに誘うって、もう言ってあるから」
『次の試合については』
「それも楽しみよ。最後に負けたままで満足するつもりはないわ」
少しだけ、勝負を前にした時の目になる。
「でも、デートのために勝たなければいけないわけじゃない。会いたいから誘って、戦う時は勝ちに行く。それでいいの」
白い部屋が薄れていく。
春麗は一度、自分の手を開き、それから静かに握った。
かつては、頼ることさえ難しかった相手へ、今は自分から向かっていける。修行に付き合うためにも、勝つためにも、ただ一緒に過ごすためにも。
「……行ってくるわ」
忘れたから出せる一歩ではなかった。
覚えたまま、今の自分が選んだ一歩だった。
『第1話ギリギリ敗北ルート/第1部・第2部完走後インタビュー』
『普通敗北ルートとの比較記録を併記』
『保存完了』
Q:今回のディレクターズカットIFについて解説して?
A:
今回は、第1話ギリギリ敗北ルートを完走した春麗自身に、記録板AIがこれまでの道のりを問い直す総括回です。
このルートは、最初から最後まで「忘れない」が大きな軸になっています。
最初は、リュウに負けたことを忘れない。
何度負けても、その悔しさを持って次へ行く。
ところが二週間後の完敗では、その記憶が春麗自身の身体を止めました。
そこで第1部では、リュウに付き合ってもらいながら、忘れるのではなく「覚えたまま動ける」春麗へ戻っていきます。そして正式試合を経て、自分の気持ちにも名前をつけ、最後にはリュウ本人へ「好き」を渡しました。
第2部では立場が逆になります。
今度は、春麗を好きになったことで拳を鈍らせたリュウへ、春麗が修行相手として付き合う。
かつて借りた恩を返す番です。
そして最後には、リュウも過去を忘れないまま、春麗を必要以上に傷つけず、それでも試合を終わらせる昇龍拳へ到達しました。
途中では普通敗北ルートとも比較しています。
何も始まらなかった場所から自分で次を作った春麗。
敗北を深く刻まれ、時にはその記憶に止められながら、それでも進んだ春麗。
道筋は違います。
今回の春麗が最後に辿り着いたのは、「忘れる」ことではありません。
全部、自分のものとして持ったまま、次へ行けること。
それが、このルートの完走だと思っています。