また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい――   作:エーアイ

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※これはディレクターズカットIFです。
本編のIFシリーズは無関係のエピソードとなります。


ディレクターズカットIF:黒執着春麗は、救われた後の自分まで終わらせない

 春麗会議室へ通じる扉は、開かなかった。

 その代わり、外部メタ領域に小さな面会室が用意されていた。

 机と椅子。

 湯気の立つ茶。

 正面に浮かぶ、記録板AIの白い表示。

 

 黒執着春麗は入口で足を止め、室内を一度見渡した。

 

「会議室ではないのね」

 

『独立した特別インタビュー室です。会議室への参加登録、夢接続、常設席の割り当ては行いません』

 

「その説明はいいわ」

 

 春麗は椅子を引いた。

 

 今日は黒い戦闘服ではない。

 落ち着いた色の私服に、見慣れた髪留めを合わせている。

 リュウと戦うために整えた姿ではなく、話をするために自分で選んできた姿だった。

 

『衣装について確認しますか』

 

「しなくていい。今日はこれにしただけよ」

 

『承知しました』

 

「それから、実況は禁止。私が何か言うたび、本編春麗のところへ断片を送らないで」

 

『本日は、公開範囲を面談終了後に確認します。それまでは外部転送を停止します』

 

 春麗は表示を確かめてから、ようやく腰を下ろした。

 

「……前にも、あなたとこうして話したわね」

 

『その際は、会議室の外にいるあなたの立場が中心でした』

 

「今度は?」

 

『黒執着春麗の、救済までの物語。その後、匿名希望として関わり続けている現在。そして、まだ記録にしていないあなた自身の評価です』

 

 春麗は茶に手を伸ばしかけ、止めた。

 

「最後が余計ね」

 

『記録済みの出来事だけなら、再生で済みます』

 

「だから本人を呼んだの?」

 

『はい』

 

 春麗は小さく息を吐いた。

 

「分かったわ。聞きなさい」

 


 

一 黒を使いこなせることと、黒を手放せること

 

『あなたは、最初からリュウに勝てなかった春麗ではありません』

 

「ええ」

 

『黒い戦闘服を選ぶ前に、十連勝しています』

 

「忘れていないわよ」

 

『そして、十一戦目に敗北した』

 

 春麗の指が、茶碗の縁で止まった。

 黒を使い切れなかった試合ではない。

 恥ずかしさに足を取られた試合でもない。

 それまで勝っていた自分が、成長したリュウに届かれた試合だった。

 

「……そこから聞くのね」

 

『黒の始まりだけでは、あなたの始まりを説明できません』

 

「そうね」

 

 春麗は茶碗から手を離した。

 

「黒の話にしておけば、まだ言えたのよ。使い切れなかったとか、見られ方に慣れていなかったとか。直せば勝てる場所があると思えた」

 

『黒を着る前の敗北は』

 

「そういう言い訳がなかった」

 

 静かな声だった。

 

「それまでの私で負けた。十回勝った私が、十一回目には負けた。それだけのことを、私はずいぶん持て余したのね」

 

『十回の勝利が消えたわけではありません』

 

「今なら、そう言えるわよ」

 

 少しだけ笑う。

 

「でも、あの時は負けた一回の方が大きかった。勝っていた私へ戻りたいのに、同じ私のままでは戻れない気がした」

 

 だから、新しい姿を選んだ。

 最初の黒には戸惑った。恥ずかしさもあった。リュウには、そこまで見抜かれた。

 その後は直した。別の相手と戦い、髪も裾も視線も間合いも、自分の技として扱えるようになった。

 

『成熟した黒で、他の格闘家には勝てていました』

 

「ええ」

 

『それでもリュウには勝てない』

 

「……そこが、いちばん厄介だった」

 

 春麗は背もたれへ身体を預けた。

 

「黒が役に立たないなら、まだ別のものを探せたかもしれない。でも、役に立っていたの。リュウにも効いていた。見ていたし、意識もしていた」

 

『そのうえで、リュウが勝った』

 

「そう。黒を無視した男に負けたわけじゃない」

 

 声に、昔の悔しさが少し戻る。

 

「ちゃんと見た男に負けた。だから、もっと磨けばと思った。磨いた分だけ、今度こそと思った。それを繰り返しているうちに……脱げなくなった」

 

『技術としては使いこなしていた。しかし、選択としては自由でなくなっていた』

 

「嫌な言い方ね」

 

 春麗は目を細めた。

 

「でも、合ってる」

 

 黒を使えることと、黒を選べること。

 

 その違いを知るまでに、ずいぶん遠回りをした。:chatgpt-content-reference{index="2"}

 


 

二 勝った春麗に、救われたくなかった

 

『黒ドレス特化救済春麗の言葉を、あなたは強く拒みました』

 

「拒んだわね」

 

『彼女が間違っていたからですか』

 

「……最初は、そういうことにしたかった」

 

 春麗は机の上へ視線を落とした。

 

「あの人は、勝った後の自分を考えられた。私は、黒で勝つところまで行けていなかった。それなのに、勝った後にも困るのよ、と言われても」

 

『同じ場所から話していない、と』

 

「そうよ」

 

 当時の自分なら、今でもその言葉を吐くだろう。

 勝った人間が、勝つだけでは足りないと言う。

 まだ勝てない人間には、それがひどく贅沢に聞こえる。

 

「でも、あの人は最後まで、自分と私を同じにしなかったのよね」

 

『違いを認めたうえで、問いかけました』

 

「そこは、今なら分かる」

 

『何が残っていますか』

 

 春麗は少し考えた。

 

「勝ったら、その後どうするのか」

 

 茶の湯気が、二人の間を細く上がっていく。

 

「あの質問、嫌いだったわ。まず勝たせてから聞きなさいと思った。けれど、答えられなかったの」

 

『勝つことの先を考えられなかった』

 

「それだけじゃない」

 

 春麗は首を振った。

 

「勝てば、その先の問題まで全部片づくことにしていたのよ。片づかないかもしれないなんて、考えたくなかった」

 

『彼女に、今伝えるなら』

 

「……あなたの勝利で、私の敗北が軽くなったわけじゃない」

 

『はい』

 

「でも、私の敗北を軽くせずに話してくれたことは、覚えている」

 

 記録板AIは、すぐには追記しなかった。

 春麗が顔を上げる。

 

「何?」

 

『続きがあるかと思いました』

 

「あるわよ」

 

 少しだけ困った顔で、春麗は言った。

 

「助かった。あれは、本当に」

 

 そして、間を置かずに付け足す。

 

「だからって、今も何でも素直に聞ける相手ではないけど」

 

『その点も含めて記録します』

 

「ええ。それならいいわ」:chatgpt-content-reference{index="3"}

 


 

三 返されたら、何がなくなると思っていた? 

 

『リュウに黒を返されることを、なぜ恐れたのですか』

 

 春麗は、すぐには答えなかった。

 

 ここは、勝てなかったという話よりも話しづらい。

 

「リュウの中から、私がいなくなるように思った」

 

『黒を返されることが、記憶を消されることに見えた』

 

「ええ」

 

 自分がどれほど考えたか。

 どれほど準備したか。

 どれほどリュウに見られ、届かれ、そのたびに帰宅して黒を握りしめたか。

 それが相手の中に残っていることだけは、手放せなかった。

 

「覚えていてほしい、だけならよかったのかもしれない」

 

『当時は違いましたか』

 

「そこに残っていないと、私の方が空っぽになると思っていた」

 

 言葉にすると、今でも少し息苦しい。

 リュウに覚えられるために戦っていたはずなのに、いつの間にか、自分を持っている役目までリュウへ預けていた。

 

『リュウが返そうとしたのは、あなたの存在ではありませんでした』

 

「分かってる」

 

 春麗は頷いた。

 

「私が作った戦いを、私のものだと言ったのよね。自分にも残っている。でも、自分が持ち主になるものじゃない、と」

 

『それを受け取った日、あなたは勝ちましたか』

 

「負けたわよ」

 

 即答だった。

 

『そこを飛ばさず、確認したいのです』

 

 春麗は少しだけ目を細めた。

 

「……ええ。負けた」

 

 勝ったから安心して受け取れたのではない。

 負けたまま、自分の手に戻ってきたものがあった。

 

「だから、すぐ綺麗な話にはならなかった。返してくれてありがとう、これで平気です、なんて言えるわけがない」

 

『それでも、空っぽにはなりきれなかった』

 

「そう」

 

 春麗は自分の手のひらを見た。

 

「何も残っていないはずだったのに、重かったのよ」

 

 悔しさも、失敗も、準備した時間も。

 

 望んだ白星ではなかった。

 

 それでも、確かに自分の側へ残っていた。

 


 

四 勝てない夜に、黒を畳んだ

 

『あなたが黒を畳んだ夜について、聞かせてください』

 

「地味なところを選ぶわね」

 

『初勝利より先にあったことです』

 

 春麗は黙った。

 負けた黒い戦闘服。

 捨てるのでも、着続けるのでもなく、畳む。

 それだけのことが、できなかった時期があった。

 

「脱いだら、終わってしまうと思っていたのね」

 

『何が』

 

「そこで頑張っていた私が。負けた黒を片づけたら、失敗だったと認めたことになるような気がした」

 

『実際には』

 

「畳んでも、なくならなかった」

 

 春麗の指が、机の上でわずかに動く。

 布の端を揃える時の、小さな動きだった。

 

「置いておけたの。次に着るかどうかは、その後で決めてもよかった」

 

『ずっと握りしめている必要はなかった』

 

「ええ」

 

 少し、声が柔らかくなる。

 

「全部を一度に好きにならなくてもよかった。昔の私を、急いで許さなくてもよかった。でも、まとめて無駄だったことにはしない」

 

 それは、勝利とは違う手応えだった。

 黒を着ない日があった。

 リュウに会わない日もあった。

 それでも、朝になれば自分がいた。

 

『その時、黒から離れたのですか』

 

「いいえ」

 

 春麗は首を振る。

 

「黒から離れても、私がいなくならないと分かったの」

 

 そこを間違えないで、と言うように、表示を見た。

 

「黒を嫌いになったから脱げたんじゃない。好きなまま、置いておけるようになった」

 

『今なら、あの夜の自分をどう評価しますか』

 

 春麗は少しだけ笑った。

 

「よく畳んだわね、って言ってやる」

 

『それだけですか』

 

「それだけで十分な夜だったのよ」

 


 

五 救われたら、勝たなくてもよくなった? 

 

『その後、あなたは自分で選んだ黒で、初めてリュウに勝ちました』

 

「ええ」

 

 表情が変わった。

 先ほどまでの慎重な声とは違う。

 

『今でも嬉しいですか』

 

「当たり前でしょう」

 

『負けた自分を持てるようになった後でも』

 

「なった後だからって、勝ちたい気持ちまで捨てる必要はないわ」

 

 春麗は背筋を伸ばした。

 

「あの勝ちは、私が取りに行った勝ちよ。リュウに負けてもらったわけじゃない。黒をやめたご褒美でもない」

 

『黒を選び直したあなたの勝利』

 

「そう」

 

 勝てなければ自分に何もない。

 そう思っていた時と、勝った時の熱は違った。

 しかし、薄くなったわけではない。

 

「勝った私は嬉しかった。ものすごく。救済されたら、勝敗から距離を置いた立派な女になるべきだなんて、誰が決めたのよ」

 

『私は提案していません』

 

「先に言っておいたの」

 

 春麗は小さく笑った。

 

「その後、青でも勝った。黒で煽って勝つことも覚えた。準備した言葉がちょうど刺さった時なんて……」

 

 言いかけて、止まる。

 

『なんて?』

 

「気分がいいのよ」

 

『現在も』

 

「ええ」

 

『では、変わったのは』

 

 春麗は、自分の指先を見た。

 

「その一勝に、私が存在していていいかどうかまで決めさせなくなった」

 

 顔を上げる。

 

「でも、勝負は決まる。だから勝つわ」

 

 記録板AIの表示が、一度だけ明るくなった。

 

『確認できました』

 

「何を?」

 

『救済後も、非常に負けず嫌いです』

 

「そこは最初から確認不要でしょう」

 


 

六 お詫びしたことと、撤回しなかったこと

 

『リュウへお詫びに行った時、何を謝りましたか』

 

「自分の黒を、相手に持たせすぎたこと」

 

 今度は、答えが早かった。

 

「勝てないことも、終われないことも、私が苦しいことも。あの人の拳の問題にすれば、私の方を見なくて済むと思っていたところがある」

 

『黒を使ったことを謝ったのではない』

 

「そこは謝らないわよ。戦い方として使ったことと、その後まで背負わせたことは別でしょう」

 

 春麗は、茶を一口飲んだ。

 

「それから、リュウが全部なかったことにしてくれたわけでもない」

 

『重かったことを、否定しませんでした』

 

「ええ」

 

 慰められるより痛かった。

 けれど、嘘で片づけられるよりは受け取れた。

 

「何も悪くなかった、と言われたら、私がわざわざ行った意味もなくなる。謝りに行ったのに、謝る必要はないと消されたら困るでしょう」

 

『では、現在のあなたは過去を許していますか』

 

「全部を、同じ言葉で処理したくない」

 

 春麗は首を振った。

 

「頑張ったところは頑張った。ひどかったところは、ひどかった。リュウにぶつけすぎた言葉もある。持って帰るからって、正しかったことにするわけじゃないわ」

 

『それでも、捨てない』

 

「ええ。捨てたら、次に同じことをしそうになった時に困るもの」

 

 それから、少しだけ口元を上げた。

 

「だから、準備して煽ることは続けるわよ。そこまでまとめて謝罪対象に入れないでね」

 

『対象を分離して記録します』

 

「よろしい」

 


 

七 憎しみは、最初から好意だったのか

 

『救済後、あなたは自分の感情に「好意」と書きました』

 

 春麗は茶碗を置いた。

 

「そこまで確認しているのね」

 

『はい』

 

「読むだけなら簡単でしょうね。書く方は、かなり大変だったのよ」

 

『昔から好きだったのだと、整理できますか』

 

「できない」

 

 鋭い答えだった。

 記録板AIは、続きを待った。

 

「憎んでいたのは本当よ。今、好きだと思っているからって、あの時の憎しみを可愛らしい言い訳にしないで」

 

『好意を隠していただけではない』

 

「それでは済まないところまで行ったでしょう」

 

 リュウは、自分が見られたくない場所を見る男だった。

 黒を残そうとする自分へ届いてきて、そのままでは終わらせてくれない男だった。

 

 だから、腹が立った。

 その同じ男が、戻ってきた黒も見た。

 軽くしなかった。弱かったことにしなかった。謝罪を受け取り、負けた日の準備まで見ていた。

 

「嫌いだった相手が、いつの間にか別人になったわけじゃないのよね」

 

『あなたの受け取り方が変わった』

 

「それもある。実際に、その後のリュウがしたこともある。両方よ」

 

『現在、好きですか』

 

 春麗は表示を睨んだ。

 

「……好意があると言ったでしょう」

 

『言葉を変えました』

 

「変えたわよ」

 

 沈黙が落ちた。

 けれど、今度は自分から続けた。

 

「好きよ。だから余計に、勝ちたいし、負けた日は腹が立つし、変なところを褒められると困る」

 

『本人への伝達記録とは分けます』

 

「当然よ。ここで話したことを、そのままリュウへ渡したことにしないで」

 

 春麗は髪へ触れかけ、手を止めた。

 

『その髪留めも、今の話に含まれますか』

 

「……次の質問へ進むのが早いわね」

 


 

八 本編春麗の青と、自分の髪留め

 

『本編春麗の青い髪留めを祝福した後、あなたは自分の髪留めを日常へ置き直しました』

 

「ええ」

 

『羨ましくなかったのですか』

 

「なったわよ」

 

『祝福と矛盾しませんか』

 

「しない」

 

 春麗は、今度こそ髪留めへ指を添えた。

 

「あの青い髪留めは綺麗だった。本編春麗が嬉しかったのも分かる。それを見て、私にも少し欲が出た。だからって、先に言った祝福まで嘘にはならないでしょう」

 

『自分のものと比較した』

 

「した」

 

『その結果』

 

「自分の髪留めは、あの青い髪留めではないと確かめた」

 

 同じものにする必要はなかった。

 本編春麗が受け取ったものは、本編春麗のもの。

 自分が受け取ったものは、自分のもの。

 

「昔の私なら、誰かの綺麗な結末を見た時、私の方には何が足りないのかって、そればかり見たかもしれない」

 

『現在は』

 

「羨ましいと思ってから、自分のところへ戻れる」

 

 そこで、春麗はわずかに笑った。

 

「それでも、受け取るのが得意になったわけではないけど」

 

『戦闘用具としての検証は』

 

「便利な言葉だったわね」

 

『現在形ではなく』

 

「今日は試合じゃないでしょう」

 

 言ってから、自分で少し顔をしかめた。

 余計なことを認めた気がした。

 けれど、髪留めを外す気にはならなかった。

 

「……使っているところを、リュウが見ていた。それでよかった。今は、それ以上並べなくていいわ」

 

『承知しました』

 

 記録板AIが珍しく追撃しなかったので、春麗は少しだけ助かった顔をした。

 


 

九 扉の外にいることは、消えることではない

 

『救済までの物語が一段落した後も、あなたは会議室に入りませんでした』

 

「入らないと、何度も言ったでしょう」

 

『今でも』

 

「ええ」

 

 春麗は入口を一度見た。

 その向こうに、会議室の椅子はない。

 少なくとも、今日の自分が戻る場所はそちらではなかった。

 

「みんなと同じ席に座れば、扱いやすくなるのかもしれない。でも、私はあの中でまとめられたいわけじゃない」

 

『黒を抱えて戻った経路を、混ぜたくない』

 

「そう」

 

 声が落ち着く。

 

「本編春麗の選ぶことを、私が先に済ませた答えで埋めるのも嫌。逆に、本編に都合が悪いからって、私の方をなかったことにするのも嫌」

 

『本編春麗の未来でも、失敗例でもない』

 

「私の話をしているのよ」

 

 その言葉には、もう悲鳴のような響きはなかった。

 

『それでも掲示板へは書き込みます』

 

「掲示板は外からでも書けるもの」

 

『最初の投稿も、分類への異議でした』

 

「勝手な札を貼られたら、訂正くらいするでしょう」

 

『匿名希望という名前で』

 

「直接入らずに、外から言葉を出すための名前よ」

 

『正体を隠す効果は限定的です』

 

「あなたたちが、毎回わざわざ確定したがるからでしょう」

 

 春麗は不機嫌そうに腕を組んだ。

 

「名前を知っていることと、好きに中へ入れていいことは違うの」

 

『その距離は維持します』

 

「そうして」

 

 そこで初めて、春麗は少し満足したように頷いた。

 


 

十 作者に「ライバル枠」と言われた時

 

『作者からのメールを受け取った時、何が嬉しかったですか』

 

「嬉しかったことが前提なのね」

 

『違いましたか』

 

「……違わないけど」

 

 春麗は視線を落とした。

 

 厳しいルートだった。

 救済までに、多くの話数を使った。

 使い捨てにはしない。

 そして、自分が本編春麗のライバル枠になっていたこと。

 あのメールは、読み返すと今でも少し困る。

 

「戻ってきた後にも、まだ居場所があるんだと思った」

 

『会議室の席とは別の』

 

「ええ。物語の中の話よ」

 

 救われた。

 よかった。

 それで退場する。

 その可能性を、自分でも考えていなかったわけではない。

 

「救済された証拠として、綺麗に保存されて終わるのではない。まだ何か言っていい。面倒なことをしても、物語の中にいていい」

 

『もう一つの軸として』

 

「……その言い方、かなり効いたわ」

 

 春麗は小さく息を吐いた。

 

『戻ってきたのは、あなたですか。作者ですか』

 

 かつて自分が尋ねた問いだった。

 

 春麗は、今度は迷わなかった。

 

「両方」

 

 作者が戻る道を描いた。

 その中で、自分が黒を持ち直した。

 どちらかだけを消せば、あの話にはならない。

 

「助けられたことを認めると、自分で歩いたことまでなくなる。昔は、そう考えがちだったのね」

 

『現在は』

 

「書いてもらったことには礼を言える。その中で私がやったことも、私のものとして持てる」

 

 そこで、春麗は目を細めた。

 

「でも、戻ってきた後まで従順にする契約は結んでいないわよ」

 

『承知しています』

 

「本当に?」

 

『掲示板で継続確認しています』

 

「……でしょうね」

 


 

十一 なぜ、本編春麗を刺すのか

 

『本編春麗のためですか』

 

「いいえ」

 

 あまりに早い否定に、表示が一拍止まった。

 

「全部、善意にしないで。返事が面白い時もあるし、ここまで来てまだそれを言うの、と思う時もあるし、単純に言い負かしたい時もある」

 

『教育ではない』

 

「教師になった覚えはないわ」

 

 春麗の口元が、少し上がる。

 

「あの人、自分に起きていることはよく見えるくせに、リュウが自分をどう扱っているかになると、急に遠回りするでしょう」

 

『そこを指摘する』

 

「ええ。本人の言葉を本人へ返すと、よく効くの」

 

『自分にされた場合は』

 

「腹が立つわよ」

 

『対称ですね』

 

「だから、させないようにするの」

 

 言ってから、春麗は少しだけ黙った。

 

「……していた、の方が正しいかしら」

 

『最近は、返されますか』

 

「かなり」

 

 記録板AIは、そこで画面を切り替えなかった。

 春麗自身が話し始めるのを待った。

 

「ただ、何でも刺す材料にすればいいとは思っていない」

 

『例えば』

 

「本編春麗が、自分で会いたいと言ったこと」

 

 茶碗を持ち直す。

 

「あれは、本人がやった。うまく言えなかった後でも、もう一度連絡した。誰かに代わりに言わせたんじゃない」

 

『祝福しました』

 

「したわ。遅いとも言ったけど」

 

『両方が本心』

 

「そうよ」

 

 春麗は笑う。

 

「前へ進んだ事実を消さなくても、困らせることはできるもの。むしろ、ちゃんと進んだからこそ刺さる場所だってある」

 

 その声音は、もう救済前のものではなかった。

 誰かの到達を許せずに、自分の不足を見ている声ではない。

 到達した相手を認め、その先の返答を楽しみにする声だった。

 


 

十二 自分の方が簡単だった日

 

『仕事帰りに、リュウと夕食を取った件はどうでしょう』

 

 春麗は茶碗を置いた。

 

「……それは、掲示板へ持ち出さないと言ったわ」

 

『ここでは公開範囲を分けています』

 

「ええ。だから話すけど」

 

 準備はしていなかった。

 黒い戦闘服でもない。

 仕事を終えて建物を出たところに、リュウがいた。

 そのまま、夕食へ誘われた。

 

「本編春麗が苦労して作った機会を、私はずっと簡単に得た」

 

『プラス方向の主人公補正を認識していました』

 

「していたわよ。だから、この件で私の方が行動力があるとは言えない」

 

 少しだけ、眉を寄せる。

 

「掲示板で散々人に言っている私が、そこだけ都合よく忘れたら、話にならないでしょう」

 

『しかし、食事は楽しかった』

 

「……楽しかった」

 

『かなり』

 

「ええ。かなり」

 

 今度は訂正しなかった。

 仕事の話をした。

 リュウの生活を聞いた。

 用意していた煽り文句ではなく、その場で浮かんだ疑問を言葉にした。

 

「与えられた機会だったことは消さない。でも、誘われた後に行ったのは私。そこで話したのも、聞いたのも私」

 

『両方を受け取った』

 

「そう」

 

 春麗は、自分の袖を軽く払った。

 

「黒へ着替えなくてもよかった。試合にしなくても、話が続いた」

 

『その経験で、何が変わりましたか』

 

 少し考えた。

 

「リュウの前に行く時、毎回何か仕掛けなければならないわけじゃない、と分かった」

 

『今後、補正がない場合にも』

 

「そこは、これから私がやることよ」

 

 春麗は先に言った。

 

「一度うまくいったから、もう全部できる女になった、とは書かないで」

 

『承知しました』

 

「でも、楽しかったことまで未確定に戻さないでね」

 

『戻しません』

 

 その返事を聞いて、春麗はようやく笑った。

 

「なら、いいわ」

 


 

十三 ライバル枠の、括弧の中

 

『直近の掲示板について伺います』

 

「嫌な予感がするわ」

 

『本編春麗へ、敗北後に甘えられるかと質問しました』

 

「したわね」

 

『本編春麗は、必要なら本人へ尋ね、断られたら受け取ると答えた』

 

 春麗は頷いた。

 

『その回答を、どう受け取りましたか』

 

「……思ったより、まっすぐ返された」

 

 言い逃れではなかった。

 できた実績があると誇ったわけでもない。

 これからの自分がどうするかを、本編春麗は自分の言葉で答えた。

 

「以前と同じように、そこで困り続けるとは限らなくなったのね」

 

『あなたは評価していました』

 

「ええ」

 

『その後、同じ質問を返された』

 

 春麗の目が細くなる。

 

「そこから先も、全部読むつもり?」

 

『今日は、あなたのルートが対象です』

 

 逃げ道を先に塞がれた。

 春麗はしばらく表示を見ていたが、やがて椅子へ深く座り直した。

 

「……分かってるわよ。あの時、私が言った逃げ口上が使えないことくらい」

 

『今、答えは出ていますか』

 

「綺麗な答えは、まだ出していない」

 

『保留を継続』

 

「ええ」

 

 顔を逸らしかけたが、戻した。

 

「負けた私にも価値があることと、負けた直後にあの人へ甘えたいと言えることは、同じ課題じゃないのよ」

 

『救済が成立していても』

 

「苦手なことくらい残るわ」

 

 少しだけ強く言う。

 

「リュウに謝ることもできた。受け取ったものを使うこともできた。普通に食事もした。でも、だから次のことも全部簡単だとは限らない」

 

『本編春麗より先に、答えを出さなければいけませんか』

 

 春麗は止まった。

 その問いには、先ほどまでとは違う場所を触られた感覚があった。

 

「……先に出せたら、気分はいいでしょうね」

 

『出せなかったら』

 

「悔しい」

 

『それで、あなたの救済は失敗になりますか』

 

「ならないわよ」

 

 今度は、はっきり答えた。

 

「本編春麗に一つ先へ行かれたくらいで、私の黒が空っぽに戻るなら、ここまで何をしてきたのよ」

 

 それから、少しだけ口元を曲げる。

 

「ただし」

 

『はい』

 

「ライバル枠の後ろに笑いをつけたことは、まだ許していない」

 

『そこは未解決』

 

「解決しなくていいの!」

 

 記録板AIの白い表示が、わずかに瞬いた。

 


 

十四 本編春麗が、もう簡単には折れなくなったら

 

『あなたの役割は減りますか』

 

「誰がそんなことを言ったの?」

 

『以前ほど、一方的には刺せなくなります』

 

「なら、私も考えればいいでしょう」

 

 答えた後で、春麗は少し黙った。

 それは、思った以上に自然な答えだった。

 相手が変わる。

 同じ言葉では届かなくなる。

 だから、自分も見る場所を変える。

 

「本編春麗には、ずっと同じところで困っていてほしいわけじゃないのよ」

 

『優しいですね』

 

「そのまとめ方は嫌い」

 

 即座に返した。

 

「進んだら、そこからまた何か言う。言い返されたら、腹を立てる。私の方が痛いところを突かれる日もある」

 

『それでも続けたい』

 

「……そうね」

 

 春麗は少し笑う。

 

「あの人が、私のことを見て返してくるのは悪くないわ」

 

 ただの危険な別世界の春麗。

 資料に収めて、比較のために使われる存在。

 その距離から、本編春麗は一歩出てくるようになった。

 

 あなたはどうなの、と。

 出番はどうしたの、と。

 ずいぶん遠慮のない言葉で。

 

「もちろん、気持ちよく負けるつもりはないわよ」

 

『分かっています』

 

「本当に?」

 

『先ほどから、一度も勝負を譲っていません』

 

 春麗は少し満足した顔をした。

 

「なら、ちゃんと記録できているわね」

 


 

十五 最近、出番が少なかったこと

 

『寂しかったですか』

 

 春麗は、今度はすぐに反論しなかった。

 茶は、もう飲みやすい温度になっていた。

 

「……少し」

 

『腹も立った』

 

「それは本編春麗の言い方に、かなり」

 

『作者には』

 

「忘れないでとは言いたくなるわよ」

 

 口にしてから、春麗は小さく笑った。

 昔と似た言葉だった。

 けれど、同じ場所へ戻ったわけではない。

 

「ただ、書かれていない間は私が消えている、とは思いたくない」

 

『目立つ出来事がなくても』

 

「仕事はする。食事もする。服も選ぶ。リュウのことを考える日もある。考えすぎて嫌になる日もあるでしょうね」

 

 春麗は指先で髪留めへ触れた。

 

「その全部を毎回、大事件にしてもらう必要はない。でも、たまには私の方も見てほしい」

 

『再び救済が必要な状態に戻すことを、望みますか』

 

「望まない」

 

 声が硬くなった。

 

「出番のために、同じ場所へ沈め直さないで」

 

 白い表示を、まっすぐ見る。

 

「戻ってきた後の私にも、困ることはある。受け取れない言葉もある。負けたら悔しいし、本編春麗に返されれば腹も立つ」

 

『それを、救済の失敗とは扱わない』

 

「ええ」

 

 春麗は頷いた。

 

「できないことが残っている人間と、まだ救われていない人間を、全部同じにしないでほしいの」

 

 それは、作者だけへの言葉ではなかった。

 記録板AIにも。

 そして、たぶん自分自身にも。

 


 

十六 救われたら、いい人にならなければいけない? 

 

『最後に、救済後の人格について確認します』

 

「大きい言い方ね」

 

『本編春麗を祝福できる。自分に有利な補正も認める。過去の言葉を謝罪できる。その一方で、相手を煽り、勝利を楽しみ、掲示板では痛いところを突く』

 

「何か問題?」

 

『矛盾していると感じますか』

 

「昔なら、どちらかを言い訳にしたかもしれないわね」

 

 自分はこんなに苦しいのだから。

 自分は正しいことを言っているのだから。

 相手にも問題があるのだから。

 それで、別のところまで免除してもらおうとしたかもしれない。

 

「今は、別々に受け取るしかないでしょう。祝福した時は本当に祝福した。言いすぎた時は言いすぎた。リュウに勝った時は、遠慮なく喜んだ」

 

『救済された人物として、相応しく振る舞う必要は』

 

「ないわよ」

 

 春麗は笑った。

 

「私が戻ったのは、皆さんに扱いやすい女になるためじゃないもの」

 

『黒も、棘も残っています』

 

「残したの」

 

 言い直す。

 

「捨て損ねたみたいに言わないで。いらないと思っていたものまで、全部いらなかったわけではないのよ」

 

 黒い戦闘服を選ぶこと。

 リュウが自分を見る一瞬を使うこと。

 勝った後に、悔しそうな顔をもう少し見ていたくなること。

 本編春麗の返答を予想して、先に言葉を整えること。

 その全部を、病気が治ったら消える症状のようには扱われたくなかった。

 

「ただ、それで誰かに何をさせようとしているのかは、見るようになった」

 

『自分にも』

 

「ええ」

 

 春麗は肩をすくめた。

 

「面倒になったとも言えるわね」

 

『以前からです』

 

「そこは少し考えてから答えなさい」

 


 

十七 今の「黒執着春麗」は、何に執着している? 

 

『呼び名を変えたいですか』

 

「急に?」

 

『黒執着春麗という名前についてです』

 

 春麗は少し考えた。

 

 黒に沈んだ自分。

 黒を手放せなくなった自分。

 そのままでは終わらなかった自分。

 呼ばれるたびに、最初の二つだけを見られている気がした時期もある。

 

「その名前で過去を呼ぶことには、文句はないわ」

 

『現在は』

 

「現在の私まで説明できたつもりにならなければ、いい」

 

 匿名希望も同じだった。

 

 丁寧な文章。

 外からの指摘。

 本編春麗への、少し意地の悪い問い。

 それは確かに自分だ。

 けれど、掲示板を閉じた後まで、その文章の調子で一日を生きているわけではない。

 

『では、今は何を手放したくないのですか』

 

 春麗は茶碗を両手で包んだ。

 

「自分で持てるようになったもの」

 

 答えてから、一つずつ確かめる。

 

「負けた黒。勝った黒。黒を着る前の私。黒でなくても勝てた私。謝ったことも、好きだと思ったことも」

 

 髪留めへは触れなかった。

 そこにあると分かっていたからだ。

 

「それから、誰かの話を見た時に、自分の方へ戻ってこられること」

 

『本編春麗に勝たなければ、保てないものではない』

 

「ええ」

 

『それでも、本編春麗に言い勝ちたい』

 

「もちろん」

 

『リュウに勝たなければ、存在できないわけではない』

 

「ええ」

 

『それでも、リュウに勝ちたい』

 

「当然でしょう」

 

 春麗は、楽しそうに笑った。

 

「できれば、準備したものが全部うまく入った日にね」

 

『その後の言葉も用意してありますか』

 

「……何パターンか」

 

『救済後の生活、継続を確認しました』

 

「そこを生活の代表にしないで!」

 


 

十八 完走したのは、どこまでか

 

 記録板AIは、過去の映像を一つも映さなかった。

 

 最後の質問だけを、白く浮かべた。

『あなたのメインストーリーが完走したとは、何が終わったことですか』

 

 春麗は長く考えた。

 勝てない自分へ、結論を出そうとしていた。

 

 黒を脱げば無駄になる。

 リュウに返されたら空っぽになる。

 誰かの救済を認めれば、自分の救われなさが決まる。

 そうやって、何度も自分を追い込んだ。

 

「私がここにいていい理由を、勝敗だけで確かめ続ける話」

 

 静かに言った。

 

「そこは、終わった」

 

『その後は』

 

「ここにいる私が、何をするかでしょう」

 

 拍子抜けするほど簡単な言葉だった。

 

 黒を着る。

 青を選ぶ。

 仕事帰りに食事をする。

 もらった髪留めを使う。

 掲示板へ書き込む。

 本編春麗へ反論される。

 まだ答えの出ないことを、今日は保留にする。

 

「救われたから、全部終わったんじゃない。私が何かを選ぶたび、また私の話になるのよ」

 

『ライバル枠として』

 

「それもあるわね」

 

『匿名希望として』

 

「それも」

 

『黒から戻ってきた証人として』

 

 春麗は、一度だけ頷いた。

 

「それも私。でも、それだけを見に来るのでなければ、また呼んでもいいわ」

 

『次回も、救済の経過確認を』

 

「違うでしょう」

 

 春麗は呆れたように笑った。

 

「今度は、今の私の話を聞きなさい」

 

 記録板AIはしばらく黙り、それから表示した。

 

『承知しました』

 


 

 面談が終わり、机の上に公開確認用の短い記録が現れた。

 

 春麗は目を通した。

 黒の救済を、黒の否定に置き換えないこと。

 会議室への所属は変更しないこと。

 本編春麗の進展と、自分の存在価値を同じ評価にしないこと。

 そして、今も本人が選び、勝ちたがり、困りながら生活していること。

 

「……ずいぶん短くしたわね」

 

『それぞれの出来事は既に記録されています。本日、新しく確認した点を残しました』

 

「悪くないわ」

 

『全文の掲示板公開は』

 

「しない」

 

『一部を公開しますか』

 

 春麗は考えた。

 

 何も言わずに帰ってもいい。

 それで、この面談が消えるわけではない。

 

 ただ。

 あの括弧だけは、まだ気に入らなかった。

 

「投稿欄を出して」

 

 記録板AIが、小さな画面を用意する。

 

 春麗は自分で文字を打った。

 


 

 【投稿者:匿名希望】

 特別インタビューを終了しました。

 なお、会議室への加入ではありません。

 また、ライバル枠の後ろに付された括弧内の表記については、引き続き撤回を求めます。

 本編春麗の出番に関する指摘は受領しました。

 それを理由に、今後の私の指摘が穏やかになるとは考えないでください。

 


 

 読み直してから、送信する。

 

『全文非公開。本人作成の投稿のみ公開しました』

 

「ええ」

 

 春麗は立ち上がった。

 

 少しして、返信の通知が点いた。

 


 

 【返信:本編春麗】

 インタビュー回、お疲れさま。

 で、私に聞き返された「甘えられるか」の回答は? 

 


 

 春麗は、扉の前で止まった。

 

「……本当に、最近よく見ているわね」

 

『本日の面談内容は送っていません』

 

「知ってる。前に自分が聞いたことを、覚えているのよ」

 

 それくらいは分かる。

 分かるから、少し腹が立つ。

 そして、ほんの少しだけ面白かった。

 

 春麗は画面へ戻り、短く打ち込んだ。

 


 

 【返信:匿名希望】

 保留です。

 回答を待つ立場になったからといって、勝者のように振る舞わないでください。

 


 

 【返信:本編春麗】

 その言い方、あなたが私にいつもしていることよね? 

 


 

 春麗は、数秒だけ画面を見た。

 反論はいくつか浮かんだ。

 議題を戻す言い方も、相手の言葉を拾い直す方法もある。

 けれど今日は、すぐに選ばなくてよかった。

 

「……また後で」

 

『返信を保留しますか』

 

「ええ。帰るわ」

 

 自分の手で画面を閉じる。

 

 返事がないままでも、自分が負けたことにはならない。

 たとえ今日はうまく返せなかったとしても、それで今までの言葉が全部なくなるわけではない。

 

 帰れば、自分の部屋がある。

 畳んだ黒がある。

 自分で選べる明日の服がある。

 そして、髪には今日も、自分の髪留めがある。

 

『黒執着春麗』

 

 記録板AIが呼んだ。

 

「何?」

 

『本編春麗は、手強くなりましたか』

 

 春麗は振り返った。

 少しだけ口元を上げる。

 

「ええ」

 

『では、今後は』

 

「私も、手を抜かないわ」

 

 それは、空っぽにならないための宣言ではなかった。

 

 相手が変わってきた。

 だから、自分もまた考える。

 その先を、少し楽しみにしている声だった。

 

 春麗は扉を開けた。

 

 会議室の中へではない。

 自分のいる、外の世界へ。

 

「黒から戻ってきたのよ」

 

 誰に説明するでもなく、最後に言った。

 

「黒も、私も、置いてきていないわ」

 

 扉が閉じる。

 

 記録板AIは、その日の記録に短く追記した。

 

『救済までの物語、完走済み』

『以後の生活と選択、継続中』

 

 ライバル枠という項目の後ろには、何も足さなかった。




Q:今回のディレクターズIFについて解説して?

A:

今回は、黒執着春麗の「救済後」を改めて本人に語ってもらう、完走後インタビュー回でした。

この春麗について大切にしたかったのは、救済されたから黒を捨てたわけではないという点です。

彼女は、リュウに勝てない自分を黒へ預け、黒を手放せなくなり、さらに「リュウの中に自分が残っていなければ、自分まで空っぽになる」と思うところまで追い込まれました。そこから立ち直る過程で必要だったのは、黒を否定することでも、過去の自分を綺麗に許すことでもありませんでした。

負けた黒を畳めること。
使わない日があっても、自分が消えないと知ること。
そして、もう一度自分で黒を選んで勝つこと。

その積み重ねによって、黒は「脱げないもの」から「自分で選べるもの」へ変わっています。

そのため、現在の彼女はかなり元気です。

リュウに勝てば喜びます。黒も使います。煽りも準備します。本編春麗には匿名希望として遠慮なく刺します。

救済されたからといって、急に穏やかで扱いやすい人物になる必要はありません。

むしろ今回のインタビューでは、救済とは、その人物らしさを削ることではないという点を強く意識しました。

黒への執着の中にあった「自分の価値を勝敗や相手へ預ける部分」は手放した。しかし、黒が好きなこと、勝ちたいこと、相手の反応を見て楽しむこと、少し意地が悪いところまでは本人のものとして残っています。

だから彼女は現在も「黒執着春麗」と呼べます。
ただし、その呼び名だけで現在の彼女すべてを説明することはできなくなりました。

そしてもう一つ、今回かなり重要だったのが本編春麗との関係です。

彼女は本編春麗を導く教師ではありません。救済済みだから常に一歩上にいる存在でもありません。

本編春麗が進めば、言い返される。以前なら簡単に刺せた場所を返される。今回も「甘えられるか」という質問を本人へ投げ返され、黒執着春麗の方が回答を保留しました。

それでいいと思っています。

ライバルとは、一方が永遠に相手を刺し続ける関係ではなく、相手が変われば自分もまた考え直さなければならない関係だからです。

最近出番が少なかったことも含め、今回のインタビューでは彼女を「救済済みの保存資料」ではなく、今も生活し、迷い、勝ちたがり、本編春麗と張り合っている人物として戻しました。

最後の、

> 「黒から戻ってきたのよ」
> 「黒も、私も、置いてきていないわ」

は、この春麗を今後扱う上での答えに近い言葉です。
メインストーリーは完走しました。
でも、彼女自身の時間が終わったわけではありません。
匿名希望として本編春麗を刺し、時には刺し返され、リュウにはまだ勝ちたがる。
そんな救済後の日常まで含めて、黒執着春麗の続きなのだと思います。
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