また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
観客のいないステージは、いつもより広く見えた。
春麗のステージ。
何度も立った場所だ。
灯籠の明かりも、石畳の冷たさも、夜気の匂いも知っている。
ここで初めて春麗に敗れた。
ここで何度も倒された。
ここで一度だけ、春麗に勝った。
そしてその後、また彼女に敗れた。
勝っても負けても、この場所には春麗の気配が残っている。
リュウにとって、ここはただの試合場ではなかった。
自分の未熟さを暴かれた場所であり、拳を磨き直す理由を与えられた場所だった。
だが今夜は、いつもと違っていた。
観客がいない。
歓声もない。
ざわめきもない。
誰かが勝者の名を叫ぶ声もない。
あるのは、夜の静けさだけだった。
リュウは石畳の中央に立ち、呼吸を整える。
春麗はまだ来ていない。
だが、もうすぐ来る。
それだけはわかっていた。
彼女は約束を破らない。
再戦を求めれば、必ず応じる。
そして応じる以上、必ず本気で来る。
リュウは拳を握った。
今日も、油断はできない。
春麗は速い。
読みも深い。
こちらの呼吸、視線、足の置き方、そのすべてから隙を探してくる。
一瞬でも迷えば、そこを突かれる。
一瞬でも勝ちを意識すれば、崩される。
一瞬でも彼女を追えば、逆に誘われる。
それをリュウは、痛いほど知っている。
だから今夜も、迷いは捨ててきた。
春麗は女性だから手を抜く相手ではない。
かつての自分は、それを知らなかった。
いや、頭では知っていたつもりだった。
だが、拳は知らなかった。
その未熟さを、春麗は叩き潰した。
今は違う。
春麗は、最強の一角にいる格闘家だ。
油断すれば負ける。
油断しなくても、負けることがある。
だからこそ、全力で向き合う。
そう決めていた。
足音が聞こえた。
リュウは顔を上げる。
通路の影から、春麗が現れた。
その瞬間、リュウの呼吸が、ほんのわずかに止まった。
いつもの姿ではなかった。
黒いドレス。
闇に溶けるようでいて、灯籠の光を受けるたび、輪郭だけが静かに浮かび上がる。
普段の青い武道服とは違う。
軽やかさではなく、静かな鋭さがある。
それだけではない。
髪も、いつものように結い上げてはいなかった。
肩へ落ちる黒髪が、灯籠の光を受けて静かに揺れている。
青い武道服の春麗なら、動きのためにまとめていたはずの髪。
それが今夜は、彼女の輪郭をいつもより柔らかく、そして危険に見せていた。
春麗の動きそのものは変わらない。
背筋は伸びている。
歩幅は正確だ。
重心も乱れていない。
こちらを見る目も、いつもと同じように澄んでいて、危険だった。
だが、違う。
同じ春麗なのに、違って見えた。
リュウはすぐに視線を引き戻した。
見るな。
いや、見るなではない。
相手を見るのは当然だ。
だが、余計なものを見るな。
構えを見ろ。
肩を見ろ。
足を見ろ。
呼吸を見ろ。
そう自分に言い聞かせる。
春麗は、リュウの前で足を止めた。
「待たせたかしら」
声はいつもと同じだった。
少し挑むようで、少し楽しんでいるような声。
リュウは首を振る。
「いや」
それだけ答えるのが、精一杯だった。
春麗は片眉をわずかに上げた。
「静かなのね」
「いつも通りだ」
「そう?」
春麗は小さく笑う。
「なら、いいけれど」
その言葉の意味を、リュウは考えなかった。
考えれば遅れる。
春麗はすでに何かを見ている。
こちらのわずかな変化を。
呼吸の乱れを。
視線の揺れを。
リュウは深く息を吐いた。
落ち着け。
春麗の姿が違うだけだ。
目の前にいるのは、何度も拳を交えた春麗。
こちらを何度も倒し、こちらも一度は倒した相手。
誰より危険で、誰より戦う価値のある相手。
ならば、やることは同じだ。
拳で向き合う。
リュウは構えた。
春麗も構える。
黒いドレスの裾が、夜気にわずかに揺れた。
その揺れに、視線が一瞬だけ引かれそうになる。
リュウは歯を食いしばった。
違う。
そこを見るな。
足を見る。
重心を見る。
春麗の足が、石畳を踏む。
来る。
そう思った瞬間、彼女は消えた。
いや、消えたのではない。
速い。
リュウは腕を上げる。
春麗の蹴りが来る。
一撃目を受ける。
鋭い。
二撃目が角度を変えてくる。
リュウは半歩下がらず、内側へ入った。
拳を打つ。
春麗は身を引く。
黒い布がふわりと揺れ、拳は空を切った。
その揺れが、視界の端に残る。
リュウはすぐに追わない。
春麗は追えば罠を張る。
誘いに乗れば、そこを狩られる。
春麗が横へ流れる。
リュウは移動先に拳を置いた。
今度は届く。
だが春麗は、拳が届く寸前で身体を沈めた。
低い。
足払いか。
リュウは跳ばずに軸をずらす。
だが、春麗の狙いは足だけではなかった。
下から掌底が来る。
リュウは肘で受けた。
衝撃が走る。
近い。
春麗の顔が、すぐそこにある。
黒いドレス姿の春麗が、間合いの内側でこちらを見上げている。
その目は、いつもと同じだった。
強く、鋭く、隙を探す目。
なのに、一瞬だけ、リュウは別のことを思った。
綺麗だ。
本当に、ほんの一瞬だった。
言葉になる前の感覚。
思考というより、視線の揺らぎ。
だが、その一瞬で十分だった。
春麗の目が細くなる。
見られた。
リュウはそう感じた。
彼女は、今の揺らぎを見逃さなかった。
次の瞬間、春麗の膝が腹に入った。
「ぐっ……!」
息が詰まる。
続けて蹴り。
リュウは腕で受ける。
だが反応が半拍遅れた。
肩を打たれる。
胸を押される。
重心が浮く。
まずい。
リュウは踏みとどまる。
春麗が踏み込んでくる。
逃げない。
いや、逃がさない。
リュウは拳を返す。
春麗の脇腹を狙う。
だが、春麗はそれを待っていた。
身体を横へ流し、リュウの拳を外す。
同時に、手首を取られる。
完全には掴まれない。
リュウは力で弾こうとする。
しかし、春麗は力で止めに来ていなかった。
ただ、拳の向きをずらすだけ。
それだけで、リュウの攻撃は半歩外れる。
その半歩に、春麗が入る。
肘。
掌底。
蹴り。
連撃が走る。
リュウは受ける。
耐える。
だが、身体が後ろへ流れる。
観客はいない。
だから歓声もない。
自分の息だけが聞こえる。
春麗の足音だけが聞こえる。
そして、ドレスの布が空気を切る小さな音が、妙にはっきり耳に入る。
集中しろ。
リュウは自分に命じた。
目の前にいるのは春麗だ。
格闘家だ。
ライバルだ。
姿に惑わされるな。
だが、そう思った時点で、すでに意識している。
リュウはそれを悟った。
春麗は変わった姿をしている。
それだけのことだ。
しかし、その「それだけ」が、わずかに拳を鈍らせている。
女性だから手加減しているのではない。
侮っているのでもない。
むしろ、警戒している。
春麗が危険な相手だと知っている。
それなのに、春麗という存在そのものが、今夜は別の形でこちらの呼吸を乱してくる。
それが、厄介だった。
春麗はそれを知っている。
いや、今知ったのかもしれない。
だが、知った瞬間、彼女はもう武器にしている。
リュウは足を踏みしめた。
このままでは押し切られる。
春麗の蹴りが来る。
リュウはあえて受けず、前へ出た。
蹴りが脇腹をかすめる。
痛みが走る。
それでも踏み込む。
拳を打つ。
今度は当たった。
春麗の肩にリュウの拳が入る。
浅いが、春麗の身体が揺れた。
リュウは続ける。
もう一撃。
春麗はかわす。
ならば踏み込んで正拳。
春麗は腕で受ける。
黒いドレスの袖が揺れる。
リュウは見ないようにする。
だが、見ないようにすることが、すでに見ている証だった。
春麗の口元が、わずかに笑った気がした。
「……!」
リュウは一瞬、悟る。
彼女は楽しんでいる。
こちらの視線が乱れていることを。
こちらがそれを抑えようとしていることを。
そして、抑えようとするほど、余計に意識していることを。
春麗が跳んだ。
リュウは見上げる。
空中からの攻撃。
これまで何度も見た形。
空中投げ。
軌道変化。
着地ずらし。
警戒すべきものは多い。
リュウは昇龍拳を構えかけた。
だが、撃たない。
春麗はそれを誘っている可能性がある。
彼女は空中で軌道を変える。
やはり。
リュウは一歩前へ出る。
背後取りを外す。
春麗の腕が空を切る。
だが、春麗はそこで終わらない。
着地した瞬間、低く沈む。
リュウは足払いを警戒する。
しかし、春麗はそのまま跳ねた。
近距離からの蹴り。
リュウは腕で受ける。
重い。
続けて二撃目。
三撃目。
リュウは踏みとどまる。
ここで下がれば終わる。
春麗の連撃の中に、隙があるはずだ。
見ろ。
今度こそ、正しく見ろ。
ドレスではない。
脚の軌道を見る。
布の揺れではない。
膝の向きを見る。
顔ではない。
呼吸を見る。
リュウは春麗の攻撃を受けながら、ほんのわずかな変化を探した。
春麗の肩が沈む。
次は右から来る。
リュウは左へ入った。
春麗の蹴りが空を切る。
リュウの拳が届く。
腹。
直撃。
春麗の息が詰まった。
リュウはさらに踏み込む。
勝てる。
そう思いかけて、すぐに消す。
勝ちを意識するな。
ただ打て。
春麗が後ろへ下がる。
リュウは追わない。
一呼吸置く。
春麗の目が細くなる。
彼女もまた、リュウが落ち着きを取り戻したことを感じ取ったのだろう。
空気が変わった。
リュウは深く息を吐く。
ここからだ。
春麗は姿で揺さぶってくる。
だが、その奥にいるのはいつもの春麗だ。
ならば、その奥を見ればいい。
春麗が低く踏み込む。
リュウは迎え撃つ。
拳と蹴りが交差する。
春麗の蹴りが肩を打つ。
リュウの拳が腕を弾く。
春麗の掌底が胸をかすめる。
リュウの膝が春麗の踏み込みを止める。
互いに決めきれない。
春麗は速い。
リュウは重い。
どちらも読んでいる。
どちらも外している。
静かなステージに、打撃音だけが響く。
リュウはようやく、いつもの戦いに戻ってきた感覚を得た。
春麗の姿はまだ違う。
だが、拳の中に余計な揺れは少なくなっている。
いける。
今度こそ、そう思った瞬間だった。
春麗が笑った。
それは大きな笑みではない。
けれど、明らかにリュウへ向けられた笑みだった。
挑発ではない。
いや、挑発でもある。
春麗は一歩下がった。
黒いドレスの裾が、灯籠の光を受けて揺れる。
ただそれだけ。
ただそれだけの動きだった。
だが、それは攻撃の前動作ではなかった。
防御でも、誘いの構えでもない。
春麗が、春麗としてそこに立っただけだった。
リュウの視線が、ほんのわずかに引かれた。
本当に、一瞬。
戦いの中ではあってはならないほど小さく、だが春麗にとっては十分すぎる隙。
春麗が消えた。
リュウは反応する。
遅い。
半拍。
いや、半拍にも満たない。
それでも遅い。
春麗の膝が腹へ入る。
呼吸が止まる。
次の蹴りが肩を打つ。
リュウの身体が浮く。
空中。
まずい。
春麗の腕が首元に回る。
投げ。
リュウは身体を捻る。
完全には落ちない。
だが、崩された。
石畳が近づく。
受け身を取る。
衝撃。
背中に痛みが走る。
リュウはすぐ立とうとする。
春麗はもうそこにいた。
黒いドレスの影が、リュウの視界を覆う。
蹴り。
腕で受ける。
二撃目。
受けきれない。
胸に入る。
三撃目。
膝が折れる。
リュウは片膝をついた。
まだだ。
立てる。
そう思って拳を握った瞬間、春麗の足先が喉元の寸前で止まった。
勝負は決まっていた。
静寂。
観客はいない。
審判の声もない。
ただ、リュウの荒い呼吸と、春麗の細い息遣いだけがある。
リュウは顔を上げた。
春麗が見下ろしていた。
黒いドレス姿の春麗。
勝者として。
そして、こちらの隙を完璧に見抜いた格闘家として。
「姿が変わっただけで隙を見せるなんて」
春麗は言った。
声はいつものように涼しい。
だが、その奥に、わずかな楽しげな響きがあった。
「修業が足りないわね、リュウ」
リュウは何も返せなかった。
悔しい。
負けたことが悔しい。
春麗にまた倒されたことが悔しい。
だが、それ以上に、自分の隙の正体を見抜かれたことが悔しかった。
春麗を侮ったわけではない。
手加減したわけでもない。
本気で警戒していた。
それでも、一瞬だけ心を持っていかれた。
その一瞬を、春麗は見逃さなかった。
初めて戦った時とは違う。
あの時の隙は、未熟な認識から生まれたものだった。
春麗を一人の格闘家として見切れていなかった。
だが今夜の隙は違う。
春麗を誰より危険なライバルだと知っている。
そのうえで、彼女の違う一面に揺らいだ。
だから余計に、悔しかった。
リュウはゆっくりと息を吐く。
春麗は足を引いた。
「もう一度やる?」
その声には、まだ勝者の余裕がある。
いや、余裕に見せているだけかもしれない。
リュウは立ち上がろうとした。
身体が重い。
腹が痛い。
肩も痺れている。
背中も打った。
それでも立った。
春麗は黙って見ている。
リュウは拳を握り直した。
「……次は、見る」
春麗が小さく首を傾げる。
「何を?」
リュウは春麗をまっすぐ見た。
黒いドレスも。
揺れる布も。
灯籠の光に浮かぶ輪郭も。
今度は逸らさず、すべて見た。
そのうえで、春麗の目を見る。
「全部だ」
春麗の表情が、ほんのわずかに変わった。
リュウは続ける。
「姿も、動きも、呼吸も、拳も。全部見たうえで、次は負けない」
春麗は一瞬だけ黙った。
それから、唇の端を上げる。
「言うようになったわね」
「お前が見逃さないなら、俺も見逃さない」
春麗の目に、火が灯った。
観客はいない。
だが、その沈黙の中で、次の戦いの約束だけが確かに生まれた。
リュウは痛む身体で構え直す。
今夜は負けた。
それは変わらない。
黒いドレス姿の春麗に、一瞬心を奪われた。
その隙を見抜かれ、崩され、倒された。
だが、それで終わりではない。
春麗はまた、自分の未熟を見せてくれた。
ならば、越える。
次は、視線の揺らぎさえ拳に変える。
春麗を格闘家として見る。
女性としても、美しい存在としても見る。
そのどちらからも逃げずに見る。
そして、それでも拳を鈍らせない。
リュウは深く息を吸った。
春麗が構える。
黒いドレスが夜に揺れる。
今度は、目を逸らさなかった。
負けた痛みが、身体の奥で熱に変わっていく。
春麗は、隙を見逃さない。
だからこそ、リュウもまた、もう一度彼女に挑む。
そのすべてを見たうえで、届く拳を打つために。