また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
本編の「殴り愛」とは別に、春麗が自分の年齢や立場、そしてリュウとの長すぎる関係に少し焦りを覚え、かなり面倒な方向で「責任」を取りに来させる仮定です。
春麗は、鏡の前で黙っていた。
青い武道服でもない。
黒いドレスでもない。
今日は、どちらも手に取っていなかった。
椅子には黒いドレスがかかっている。
畳んだ青い武道服も、いつもの場所にある。
どちらも、リュウと戦うための自分だった。
青い自分。
黒い自分。
原点の自分。
面倒な自分。
けれど今日は、そのどちらでもない自分が鏡の前にいる。
春麗は、鏡の中の自分を見た。
年齢を重ねたとは思う。
それでも身体は動く。
蹴りは鈍っていない。
踏み込みも戻りも、まだ誰にも簡単には譲らない。
けれど、ふとした瞬間に思うことが増えた。
自分は、何をしているのか。
黒いドレスでリュウを揺らし。
青い武道服でリュウを置いていき。
勝って、相打ちして、負けて、また勝って。
リュウが何を見たかに一喜一憂し、リュウが何を持ち帰ったかを待ち、リュウが次にどう来るかを考える。
それで満たされている。
満たされているのが、問題だった。
春麗は小さく息を吐いた。
「……本当に、私をどうするつもりなの」
誰に言ったのかは、わかっている。
リュウだ。
あの男は、来る。
負けても来る。
勝っても来る。
届いても来る。
届かなくても来る。
そしてそのたびに、春麗を少しずつ面倒にしていった。
見られたい。
でも見て止まるだけでは嫌。
届いてほしい。
でも倒されたくはない。
責任を取りに来てほしい。
でも簡単には取りきらせない。
そんな自分になった。
そして、気づけば。
「私、かなり待っているじゃない」
鏡の中の春麗が、少し不機嫌そうにこちらを見返していた。
リュウの次の拳を。
リュウの次の一歩を。
リュウの次の答えを。
待っている。
春麗は腕を組んだ。
「これで行き遅れたら、完全にあなたのせいじゃない」
言ってから、自分で少し呆れた。
理屈としては、だいぶ乱暴だ。
けれど、春麗の中では妙に筋が通っていた。
リュウが来るから。
リュウが折れないから。
リュウが自分をここまで面倒にしたから。
リュウが次も来るとわかっているから。
自分は、こうなった。
なら。
責任を取らせてもいいのではないか。
もちろん、いきなり何かを迫るつもりはない。
春麗はそこまで単純ではない。
ただ、確認したかった。
リュウが、自分をどこまで見ているのか。
自分をどう変えたかを、わかっているのか。
そして、自分がどれだけ待っているかに、気づいているのか。
春麗は鏡の前で、青い武道服を手に取った。
少し考えて、置く。
次に黒いドレスへ手を伸ばした。
それも、すぐには取らない。
今日はどちらでもいい。
いや、どちらでもない方がいい。
青でも黒でもなく。
春麗自身として、リュウに問いに行く日だ。
それでも、結局、春麗は黒いドレスを手に取った。
「……やっぱり、これね」
言い訳なしの黒。
面倒な自分を隠さない黒。
そして今日は、いつもより少しだけ意味が違う黒。
勝つためだけではない。
揺らすためだけでもない。
責任を問いに行くための黒。
春麗は、髪を下ろした。
目元を整えた。
裾の位置を見た。
素足の踏み込みを確認した。
そして、最後に鏡の中の自分へ向かって言った。
「今日は、戦いだけで済ませるつもりはないわ」
修行場に着くと、リュウはいつものように待っていた。
本当にいつものように。
そこが腹立たしい。
春麗は黒いドレスで歩み出る。
リュウが見る。
黒を見る。
春麗を見る。
待たない。
だが、見ている。
春麗はその視線を受け止めた。
「リュウ」
「何だ」
「今日は、少し違う話をするわ」
リュウは構えかけていた拳を、わずかに下げた。
「話?」
「ええ」
春麗は一歩近づいた。
黒いドレスの裾が揺れる。
「あなた、私をここまで面倒にした自覚はある?」
リュウは黙った。
その沈黙に、春麗は少しだけ満足した。
逃げない。
でも、すぐには答えられない。
リュウらしい。
春麗は続けた。
「黒い私を見たわね」
「ああ」
「青い私にも追いつこうとした」
「ああ」
「私が黒を選んだ意味も、青を選んだ意味も、読もうとしている」
リュウは静かに頷いた。
「そうだ」
春麗は、少し声を低くした。
「そのせいで、私はあなたが次にどう来るかを待つようになった」
リュウの目がわずかに変わる。
春麗は逃さない。
「勝っても、次を待つ。負けても、次を待つ。相打ちでも、次を待つ。あなたがどう変わってくるか、どう届こうとするか、どう責任を取りに来るか、考えてしまう」
言いながら、春麗は自分でも少し胸が熱くなるのを感じた。
口にすると、思った以上に重い。
だが、もう止めない。
「ねえ、リュウ」
春麗は笑った。
勝者の笑みではない。
少し困った女の笑みだった。
「このまま私が行き遅れたら、どうしてくれるの?」
リュウは完全に黙った。
春麗はその顔を見て、少しだけ溜飲が下がった。
やっと困った。
そういう顔もするのね。
リュウはしばらくして、低く言った。
「行き遅れ、というのは」
「そこを真面目に聞き返さないで」
春麗は即座に遮った。
リュウはまた黙る。
春麗はため息をついた。
「あなたのそういうところよ」
「そういうところ?」
「真面目で、逃げなくて、でも肝心なところで鈍いところ」
春麗は一歩近づく。
リュウは下がらない。
それもまた腹立たしい。
「私はあなたに勝ちたいの。焦らせたいの。悔しがらせたいの。でも、来てほしいの。ちゃんと見てほしいの。届いてほしいの」
春麗はリュウを見据えた。
「そのくせ、倒されたくはない」
リュウは静かに聞いている。
春麗は苦笑した。
「かなり面倒でしょう?」
リュウは、少しだけ間を置いて答えた。
「難しい」
春麗は目を細めた。
その答えは、また刺さった。
「……またそれ」
「違うのか」
「違わないのが問題なのよ」
春麗は、少しだけ俯いた。
嬉しいのだ。
面倒と言わない。
厄介とも言わない。
難しい相手だと言う。
その言い方が、どうしようもなくリュウらしくて、春麗をまた面倒にする。
春麗は顔を上げた。
「だから、責任を取りなさい」
リュウはまっすぐ春麗を見る。
「どう取ればいい」
その言葉に、春麗は一瞬、本当に詰まった。
まさか、そこを正面から聞くとは思わなかった。
いつも通りなら、拳で来る。
「行く」と言う。
それで済ませる。
けれど今日は、リュウが問い返した。
春麗は、自分の頬がわずかに熱くなるのを感じた。
「……自分で考えなさいよ」
「考えている」
「なら、答えは?」
リュウは少しだけ黙った。
そして言った。
「逃げない」
春麗は息を止めた。
リュウは続ける。
「お前が黒で来るなら見る。青で来るなら追う。責任を問うなら、受ける」
「それだけ?」
春麗の声は、思ったより小さかった。
リュウは春麗を見た。
「それだけでは足りないのも、わかっている」
春麗は黙った。
リュウは続ける。
「お前が待つ場所へ行くだけでは遅い。お前が読んだ形で応えるだけでは、また負ける」
春麗の胸が、強く鳴った。
リュウは、見ている。
わかっている。
春麗が何を求めているのか。
そのまま応じるだけでは足りないことも。
「だから、考える」
リュウは静かに言った。
「お前にどう届くか。お前が待っていない場所から、どう行くか」
春麗は、唇を噛みそうになった。
それは、ほとんど答えだった。
春麗が欲しかった答えに、かなり近かった。
けれど、春麗はそこで素直に頷く女ではない。
「それで責任を取ったつもり?」
リュウは首を横に振った。
「まだだ」
春麗は息を吐いた。
本当に、そういうところ。
まだだ、と言う。
終わらせない。
春麗を待たせる。
次も来ると言う。
そして、いつか届くつもりでいる。
春麗は笑った。
「そう。なら、今日は確認ね」
「確認?」
「あなたが本当に責任を取りに来る気があるのか」
春麗は構えた。
黒いドレスの裾が揺れる。
「拳で聞いてあげる」
リュウも構える。
だが、その表情はいつもより少し違った。
困惑は消えている。
逃げる気もない。
ただ、春麗を見ている。
春麗は思う。
ああ、駄目ね。
これでは、また待ってしまう。
リュウが次にどう来るかを。
リュウがどこまで責任を取りに来るかを。
本当に、自分の待っていない場所から届くのかを。
戦いは短かった。
春麗は黒で迫った。
責任を問いながら。
見られることも、待たせることも、全部使って。
リュウは来た。
だが、春麗が待っていた場所には来なかった。
半歩、外から。
春麗が「ここへ来る」と読んだ位置を、わずかにずらして。
拳が近い。
春麗の呼吸が乱れる。
本当に、少しだけ危なかった。
だが、今日は春麗が止めた。
掌底が入る。
リュウの拳が肩をかすめる。
リュウが片膝をつく。
春麗は立っていた。
勝った。
けれど、勝った後の胸の熱は、いつもよりずっと複雑だった。
リュウは片膝のまま、春麗を見上げる。
春麗は息を整えながら言った。
「少しは責任を取る気があるみたいね」
リュウは答える。
「まだ、足りない」
春麗は目を伏せた。
その言葉で、また次を待ってしまう。
「そう」
春麗は静かに笑った。
「なら、ちゃんと最後まで取りに来なさい」
リュウは頷く。
「行く」
春麗は背を向けた。
もう少しだけからかってやりたかった。
もう少しだけ困らせたかった。
だが、今日はここまででいい。
十分すぎるほど、答えをもらってしまった。
修行場を去りながら、春麗は思う。
行き遅れそうな春麗が、リュウに責任を取らせる。
そんな馬鹿なことを言い出したのは自分だ。
でも。
リュウは逃げなかった。
どう取ればいい、と聞いた。
まだ足りない、と言った。
次も行く、と言った。
春麗は、小さく笑った。
「本当に、責任を取るのが下手ね」
けれど、その下手さが。
その真面目さが。
その逃げなさが。
春麗をまた少し、待つ女にしてしまう。
黒いドレスの裾が、朝の風に揺れた。
春麗は振り返らない。
振り返らなくても、リュウがまだこちらを見ている気がした。
「……行き遅れたら、本当にあなたのせいよ」
その声は、リュウには届かない。
届かなくていい。
次の戦いで、届かせる。
拳で。
視線で。
黒で。
青で。
そして、たぶん。
また、とても面倒な形で。