また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
『春麗は、行き遅れる前に責任を取らせる』の続きとして、リュウがあまりにも明後日の方向へ答え続けた結果、春麗が我慢できなくなった場合の甘めのIFです。
春麗は、黒いドレスのままリュウを見ていた。
修行場には、夜の静けさが降りている。
戦うつもりで来た。
責任を取らせるつもりで来た。
少なくとも、リュウがどう答えるのかを確かめるつもりではあった。
だが、先ほどからリュウの答えは、どれも少しずつ違っていた。
「逃げない」
「次も行く」
「もっと見極める」
「お前に届く」
春麗は、笑顔のまま沈黙していた。
悪い答えではない。
リュウらしい。
誠実で、まっすぐで、逃げていない。
そこは認める。
認めるけれど。
違う。
今日は、そういう話ではない。
春麗は静かに息を吐いた。
「リュウ」
「何だ」
「今の答え、全部明後日よ」
リュウは黙った。
本気で意味がわからない顔をしている。
春麗は、こめかみを押さえたくなった。
この男は、黒いドレスの自分を見て揺れる。
青い武道服の意味を読もうとする。
責任圧を受けて、待たれていない場所から届こうとする。
戦いの中では、あれほど鋭い。
それなのに。
こういう時だけ、どうしてここまで遠くへ行くのか。
春麗は一歩近づいた。
リュウは構えかける。
その瞬間、春麗は低い声で言った。
「構えない」
リュウの拳が止まった。
春麗はさらに近づく。
黒いドレスの裾が、夜気に静かに揺れた。
「今日は拳じゃないわ」
「拳じゃない?」
「そう」
春麗はリュウの前で足を止めた。
戦闘の間合いより近い。
だが、打撃の間合いではない。
会話の距離。
リュウは少しだけ困った顔をした。
春麗はその顔を見て、少しだけ胸がすいた。
ようやく困った。
「あなた、何でも拳に逃がすのね」
リュウの眉がわずかに動く。
「逃げているつもりはない」
「ええ。あなたはそう思うでしょうね」
春麗は腕を組んだ。
「でも、今日は逃げているわ」
「俺が?」
「そう。あなたが」
リュウは黙った。
春麗は続ける。
「私が聞いているのは、次にどう踏み込むかじゃないの。どう私に届くかでもない。どう責任を拳で取るかでもない」
言葉にしながら、春麗は自分の心臓が少し速くなるのを感じた。
これは、自分でもかなり踏み込んでいる。
だが、もう引けない。
ここまで来て、また「次も行く」で終わらせるわけにはいかない。
「私は」
少しだけ声が小さくなる。
春麗はそれを嫌って、もう一度リュウを見た。
「私に対して、あなたがどう責任を取るつもりなのかを聞いているの」
リュウは、しばらく黙った。
その沈黙は長かった。
いつものように、逃げる沈黙ではない。
考えている沈黙だった。
春麗は待った。
待っている自分に、少し腹が立つ。
また待っている。
本当に、自分はこの男の答えを待ってしまう。
やがて、リュウが口を開いた。
「俺は、お前を避けるつもりはない」
春麗は目を細めた。
「半分明後日ね」
リュウが少し困る。
春麗はたたみかけた。
「避けないのは知っているわ。あなたは黒でも青でも来る。責任と言われても逃げない。それはわかっているの」
「なら」
「でも、それだけじゃないでしょう?」
春麗は、リュウの言葉を遮った。
「私が聞いているのは、戦いの話だけじゃないの」
言ってしまった。
言ってから、春麗は自分の頬が熱くなるのを感じた。
黒いドレスで来てよかったと思った。
青い武道服なら、この熱がもっと見えてしまったかもしれない。
リュウはまっすぐ春麗を見る。
その目が、いつもの戦いの目とは少し違っていた。
春麗は逃がさない。
「今日は、三つの答え以外は受け取らないわ」
リュウは黙って聞いている。
春麗は指を一本立てた。
「一つ。私はただの好敵手だと言う」
二本目。
「二つ。私はそれ以上だと認める」
三本目。
「三つ。まだわからないなら、わからないと言う」
そして、春麗は一拍置いた。
「ただし、“次も行く”は禁止」
リュウは本当に困っていた。
その顔を見て、春麗は少し満足した。
けれど、同時に怖くもあった。
ここまで言ってしまえば、もう曖昧には戻れない。
自分が何を聞きたいのか。
リュウに何を言わせたいのか。
春麗自身も、もう逃げられない。
リュウは静かに言った。
「好敵手だ」
春麗の胸が、ほんの少し沈む。
やはり。
そう言うのか。
しかし、リュウは続けた。
「ただの、ではない」
春麗は息を止めた。
リュウは不器用に言葉を選んでいる。
拳ではなく、言葉で。
そのことが、春麗の胸を妙に締めつけた。
「春麗」
名前を呼ばれた。
それだけで、春麗は少し動けなくなる。
リュウは続ける。
「お前と戦うたびに、俺は変わった」
春麗は黙っている。
「黒を見た。青を追った。お前が何を選んだのか、考えるようになった。届いたと思っても、まだ先があった。負けても、次を考えた」
「……それで?」
春麗は促す。
声が少し硬い。
リュウは正面から春麗を見た。
「戦いだけではない、と思う」
春麗の心臓が、強く鳴った。
リュウはまだ言葉を探している。
「うまく言えない」
「でしょうね」
春麗はつい言ってしまった。
リュウは少しだけ目を伏せる。
「だが、戦いだけにするつもりはない」
春麗は、何も言えなかった。
今度は春麗の方が黙った。
夜の修行場が、急に静かになった気がした。
灯籠の明かり。
石畳の冷たさ。
黒いドレスの裾。
リュウの声。
戦いだけにするつもりはない。
その言葉が、春麗の中で何度も響く。
ずるい。
本当にずるい。
もっと気の利いた言葉ではない。
甘い言葉でもない。
綺麗な約束でもない。
けれど、リュウがようやくここまで届いた。
拳ではなく、言葉で。
春麗は唇を引き結んだ。
嬉しい。
悔しい。
満たされる。
腹が立つ。
全部が一度に来る。
「……遅いわよ」
ようやく出た声は、小さかった。
リュウは黙っている。
春麗はリュウを睨むように見た。
「本当に遅い。黒でも青でも、拳ではあんなに来るくせに。こういう答えだけ、どうしてそんなに遠回りなの」
「すまない」
「謝ればいいと思っているの?」
「思っていない」
「なら、どうするの?」
リュウは少しだけ考えた。
春麗は内心で警戒する。
ここでまた「次も行く」と言われたら、さすがに蹴る。
本当に蹴る。
リュウは言った。
「聞く」
春麗は瞬きをした。
「聞く?」
「ああ」
「何を?」
リュウは真剣だった。
「お前が、俺に何を望んでいるのか」
春麗は完全に黙った。
それは、予想よりもずっと近い答えだった。
リュウは続ける。
「拳で答えられることもある。だが、今はそれだけでは足りないんだろう」
春麗は目を逸らしたくなった。
逸らさない。
自分から言わせたのだ。
自分でここまで追い詰めた。
逃げるわけにはいかない。
「……そうね」
春麗は静かに言った。
「足りないわ」
リュウは頷く。
「なら、聞く」
春麗は苦笑した。
「本当に、あなたらしい答え」
「明後日か?」
「……今日は、少しだけ違う」
言ってから、春麗は自分で恥ずかしくなった。
少しだけ違う、ではない。
かなり近い。
だが、認めるのは悔しい。
春麗は一歩、リュウに近づいた。
「私はね、リュウ」
声を落とす。
「あなたに来てほしいの。黒でも、青でも。戦いでも、それ以外でも」
リュウは逃げない。
春麗は続ける。
「でも、私が待っている場所にただ来るだけじゃ嫌」
「わかっている」
「わかっていないわ」
即座に言う。
リュウが黙る。
春麗は少し笑った。
「でも、わかろうとしているのは認める」
それが、今の春麗に出せる最大限の譲歩だった。
リュウは静かに言った。
「春麗」
また名前。
春麗は、今度はすぐに返せなかった。
リュウは言う。
「俺は、お前に向き合う」
春麗は目を伏せそうになる。
「戦いだけではなく?」
リュウは頷いた。
「戦いだけではなく」
春麗の胸が、また強く鳴った。
駄目だ。
この男は、本当に言葉が少ない。
少ないのに、時々まっすぐ深く刺してくる。
春麗は小さく息を吐いた。
「……それを最初から言いなさいよ」
「考えていた」
「考えすぎなのよ」
「すまない」
「だから、謝ればいいわけじゃない」
春麗はそう言いながら、もうあまり怒っていないことに気づいていた。
むしろ、かなり甘くなっている。
腹立たしいほどに。
リュウは、春麗を見ている。
黒いドレスも。
下ろした髪も。
戦う春麗も。
面倒な春麗も。
見ている。
そして、逃げていない。
春麗は少しだけ視線を落とし、黒いドレスの裾を指でつまんだ。
「今日は、これで来てよかったわ」
リュウが少しだけ首を傾げる。
「黒か」
「ええ」
春麗は顔を上げる。
「青だったら、たぶん蹴っていたもの」
リュウは少し困った顔をした。
春麗は笑った。
今度は、勝者の笑みではなかった。
「冗談よ」
少し間を置いて、付け加える。
「半分だけ」
リュウは黙ったまま、どこか納得したように頷いた。
その反応がまた春麗を少し笑わせた。
春麗は、もう一歩だけ近づいた。
拳の距離ではない。
もっと近い。
リュウは動かない。
春麗は見上げる形になった。
少し悔しい。
だが、今日は許してやってもいい。
「リュウ」
「何だ」
「責任を取るって、勝つことだけじゃないわ」
「ああ」
「負けても来ることだけでもない」
「ああ」
「私を見て、私の質問に届くことよ」
リュウは静かに言った。
「届く」
春麗は眉を寄せた。
「だから、それが少し拳っぽいのよ」
リュウはまた困った。
春麗は、こらえきれずに笑った。
「でも、今日はいいわ」
「いいのか」
「ええ」
春麗は、そっと手を伸ばした。
リュウの胴着の胸元を、指先で軽くつまむ。
戦闘なら、そこから投げる。
崩す。
距離を作る。
でも今日は、違う。
春麗はその布を軽く引いた。
リュウがほんの少しだけ前へ来る。
春麗は言った。
「今日は、ここまで届いたことにしてあげる」
リュウは目を見開いた。
ほんのわずかに。
その反応を見て、春麗は満足した。
黒いドレスの裾が、夜の風に揺れる。
春麗はすぐに手を離した。
これ以上は、今日の自分が持たない。
甘いものは好きだが、甘すぎると自分が先に崩れる。
「次は」
春麗は少しだけ声を整えた。
「もっと早く答えなさい」
リュウは頷いた。
「努力する」
「そこは“答える”でいいの」
「答える」
春麗は満足そうに笑った。
「よろしい」
それから、背を向ける。
歩き出す前に、少しだけ振り返った。
「リュウ」
「何だ」
春麗は、黒いドレスの裾を揺らしながら言った。
「私、結構待たされたのよ」
リュウは真剣に答える。
「すまない」
春麗はため息をつく。
「だから、謝罪じゃなくて」
少しだけ目を細める。
「次は、待たせた分も考えて来なさい」
リュウは、今度は迷わなかった。
「ああ」
短い返事。
でも、春麗にはそれで十分だった。
春麗は歩き出す。
胸の奥は、まだ騒がしい。
リュウは戦いだけにするつもりはないと言った。
春麗に向き合うと言った。
何を望んでいるか聞くと言った。
明後日ばかりだった答えが、ようやく少しだけこちらへ届いた。
春麗は小さく笑う。
「本当に、手間のかかる人」
でも、嫌ではなかった。
むしろ。
かなり、嬉しかった。
そのことは、まだリュウには教えない。
教えたら、また明後日の方向へ修行しそうだから。
黒いドレスの春麗は、夜の修行場を後にした。
今日は勝負ではなかった。
けれど、春麗は確かに一つ、勝った気がしていた。
拳ではなく。
言葉で。
そして少しだけ、甘い形で。