また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
本編の春麗が「自分はめんどくさい女だ」と自覚した後、その黒いドレス姿でリュウにギリギリの敗北を十度重ねた場合の仮定です。
一度目の敗北は、まだ言葉にできた。
黒いドレスの裾が土に触れている。
肩に、リュウの拳の痛みが残っている。
掌には、リュウに届いた感触がある。
届いていた。
春麗の掌底は確かに入っていた。
リュウの呼吸も乱れていた。
最後の一瞬、リュウの膝も沈みかけていた。
けれど、立っていたのはリュウだった。
春麗は片膝をつき、息を乱しながら顔を上げた。
リュウも無傷ではない。
拳を握る腕は震えている。
肩で息をしている。
それなのに、立っている。
春麗は笑った。
「……やるじゃない」
強がりだった。
でも、半分は本音だった。
リュウは来た。
黒を見た。
揺れた。
それでも待たずに踏み込んだ。
春麗の責任圧を受け、その奥まで来た。
そして、最後に立った。
春麗は悔しかった。
悔しい。
けれど、その悔しさの奥で、胸が熱かった。
リュウが、責任を取りに来た。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
春麗は唇を噛んだ。
嬉しいと思った自分が、許せなかった。
「今のは、あなたが少し深かっただけよ」
リュウは何も言わない。
ただ、春麗を見ていた。
その視線が、余計に腹立たしかった。
二度目。
春麗は前より丁寧に黒を整えた。
髪を下ろす。
目元を整える。
裾の位置を見る。
素足の踏み込みを確認する。
今日は勝つ。
前回は、リュウが少し深かっただけ。
自分の黒は届いていた。
責任圧も効いていた。
最後の半拍を、少し取られただけ。
取り返せる。
春麗は鏡の中の自分を見た。
言い訳なしの黒。
面倒な私ごと受けに来なさい、という黒。
でも今日は、最後に立つのも私。
そう決めて出た。
そして、また負けた。
本当にぎりぎりだった。
春麗の蹴りがリュウの軸を崩した。
リュウの拳も春麗の肩を捉えた。
二人とも一瞬、土へ落ちかけた。
だが、リュウが残った。
春麗だけが膝をついた。
「……次は私が立つわ」
春麗は息を整えながら言った。
リュウは短く答えた。
「俺も、次も立つ」
その言葉が、春麗の胸に刺さった。
そう。
あなたは、そう言う。
逃げない。
勝っても、逃げない。
だから、また私は黒を着るしかなくなる。
三度目。
春麗は、少し苛立っていた。
負けたことにではない。
いや、負けたことにも苛立っている。
だが、それ以上に、自分の内側にある奇妙な満足が腹立たしかった。
リュウは来ている。
本当に来ている。
責任を取りに来ている。
春麗が求めた通りに。
違う。
求めた通りではない。
春麗が待つ場所ではなく、待っていない場所から来る。
責任圧を正面から受けるのではなく、受けたうえで外してくる。
春麗の黒を見て、春麗そのものへ届こうとしてくる。
だから負ける。
それが悔しい。
そして、その来方が嬉しい。
春麗は、三度目の敗北後、しばらく言葉が出なかった。
黒いドレスの裾に土がついている。
リュウは立っている。
ただし、立っているだけで精一杯だった。
春麗もわかっている。
あと少しだった。
あと少しで、自分が立っていた。
なのに、またリュウが立った。
春麗は、ようやく声を出す。
「責任を取るには、まだ雑ね」
リュウは息を切らしながら答えた。
「それでも、立った」
春麗は睨んだ。
「……そういうところよ」
その通りだった。
リュウは立った。
雑でも。
不完全でも。
春麗の黒を受けて、最後に立った。
春麗はそれを否定できなかった。
四度目。
黒いドレスは、少し重くなった気がした。
実際の重さではない。
記憶の重さだった。
リュウの拳。
肩の痛み。
膝をついた土の冷たさ。
立っているリュウの目。
黒を着るたびに、それが戻ってくる。
それでも、春麗は黒を選んだ。
捨てるわけにはいかなかった。
この黒は、リュウに向けた自分だ。
勝った時も。
相打ちした時も。
負けた時も。
それでも、リュウに向けた黒だ。
春麗は鏡に向かって呟いた。
「負けたから脱ぐなんて、そんな都合のいい黒じゃないわ」
四度目の戦いは、最も美しかった。
春麗は完璧に近かった。
視線。
距離。
踏み込み。
黒い裾の動き。
リュウの待っていない場所へ、自分から先に入る判断。
リュウは何度も崩れかけた。
それでも、最後の最後で残った。
春麗の掌底が入る。
リュウの拳も入る。
春麗の膝が落ちる。
リュウは、足を震わせながら立つ。
春麗は土の上で、息を飲んだ。
完璧に近かった。
それでも負けた。
「……どうして」
思わず漏れた。
リュウは、静かに答えた。
「見えた」
春麗は顔を上げる。
「何が」
「お前が、俺に来てほしい場所」
春麗の胸が、強く鳴った。
それは、勝利よりも深く刺さった。
五度目。
春麗は、初めて黒を着る手が少し止まった。
怖いわけではない。
いや、少し怖いのかもしれない。
黒を着れば、リュウは来る。
きっと来る。
そしてまた、最後の一瞬で立つかもしれない。
春麗は鏡の中の自分を見る。
「私は、責任を取らせたかったのよ」
声が少し低かった。
「でも、取られたいわけじゃなかった」
その言葉を口にして、春麗は黙った。
本音だった。
リュウに来てほしかった。
届いてほしかった。
責任を取りに来てほしかった。
でも、責任を取りきられることまでは望んでいなかった。
少なくとも、自分はそう思っていた。
けれどリュウは来た。
そして、取りきり始めている。
五度目の敗北は、春麗にとって一番苦かった。
勝てると思った。
今度こそ、自分が立つと思った。
リュウの拳を読んだ。
責任圧を外してくる場所も読んだ。
待っていない場所から来ることも読んだ。
そのさらに先で、リュウが立った。
春麗は膝をついたまま、拳を握った。
「……あなた、本当に責任を取る気なのね」
リュウは答えない。
ただ、立っている。
それが答えだった。
六度目。
春麗は、勝敗よりもリュウの目を見るようになっていた。
危険だとわかっていた。
負けているのに。
黒で負け続けているのに。
リュウがどこまで来るかを見ている。
リュウが本当に責任を取りきるのかを見ている。
そして、自分がそれを待っていることにも気づいている。
「最悪ね」
春麗は鏡の前で笑った。
弱い笑いではない。
かなり怒っている笑いだった。
「負けているのに、まだあなたを待っているなんて」
六度目の戦いで、春麗は初めて勝ちを急いだ。
リュウの責任を取りきる拳を、見たくなかった。
その前に終わらせる。
自分が立つ。
黒いドレスの春麗は鋭かった。
だが、急いだ。
リュウはそこを見た。
春麗が勝ちたいのではなく、リュウに取りきられる前に終わらせたいと思った瞬間。
リュウの拳が入る。
春麗の一撃も入る。
だが、またリュウが立った。
六度目。
春麗は悔しさで言葉を失った。
リュウは静かに言う。
「急いだな」
春麗は顔を上げた。
「……言わなくていいわよ」
リュウは黙った。
その沈黙すら、腹立たしかった。
七度目。
春麗は、もう負け惜しみをあまり言わなくなっていた。
言えば言うほど、自分が負けを認めている気がした。
黒は効いている。
責任圧も届いている。
リュウは毎回、ぎりぎりだ。
それなのに負けている。
十度のうち、七度目。
黒いドレスの裾に、また土がついた。
春麗は膝をつき、息を乱しながらリュウを見上げた。
リュウは立っている。
ただし、今にも倒れそうだった。
春麗は思った。
倒れなさいよ。
そこまで来たなら、倒れなさいよ。
でもリュウは倒れない。
春麗は唇を噛む。
そして、思ってしまう。
その倒れなさが、見たかった。
「本当に……」
声が震えた。
「本当に、あなたが悪いのよ」
リュウは何も言わなかった。
それでいい。
何か言われたら、もっと腹が立っていた。
八度目。
春麗は、黒を着る時にほとんど笑わなかった。
静かだった。
黒いドレスを整える。
髪を下ろす。
目元を整える。
裾の位置を見る。
全部、いつも通り。
しかし、心の中は違った。
この黒は、もう勝つためだけの黒ではない。
リュウに責任を取られた黒。
リュウが毎回、最後に立った記憶が刻まれた黒。
春麗は鏡の中の自分を見て、静かに言った。
「取り返すわ」
八度目の戦いは、春麗が一番深く踏み込んだ。
逃げなかった。
リュウが来るなら、こちらからも行く。
責任を取られるなら、その責任ごと奪い返す。
近距離。
呼吸が触れる。
汗の気配が混ざる。
拳と掌底が、互いの身体に入る。
春麗は、本当に勝ちかけた。
リュウの膝が落ちる。
今度こそ。
そう思った瞬間、リュウの拳が春麗の軸を打った。
春麗が崩れる。
リュウは片膝をつきかけながら、立った。
八度目。
春麗は土に手をついた。
「……っ」
悔しさで声にならない。
リュウは、苦しそうに息をしている。
春麗はそれを見て、目を細めた。
悔しい。
でも、そこまで苦しんで立ったリュウが、たまらなく憎らしくて、たまらなく嬉しかった。
九度目。
春麗は、自分が壊れかけていることを認めた。
負けている。
十度近く。
それなのに、リュウの次を待っている。
リュウがどう来るか。
どこから来るか。
どう責任を取りきるか。
どう自分を負かすか。
それを考えている。
春麗は鏡に向かって低く言った。
「私を満たして、負かして、そのままで済むと思わないで」
黒いドレスの自分が、静かにこちらを見返している。
九度目、春麗は負けた。
だが、その敗北は今までで一番静かだった。
春麗は膝をつく。
リュウは立つ。
もう、驚きはなかった。
悔しい。
悔しいに決まっている。
だが、リュウが立つことを、自分のどこかが予感していた。
春麗はゆっくり顔を上げる。
「……責任を取られている気分って、最悪ね」
リュウが少しだけ眉を動かす。
春麗は笑った。
「褒めていないわ」
嘘だった。
少しだけ、褒めていた。
十度目。
春麗は、黒いドレスの前に長く立っていた。
十度目。
負ければ十度。
言い訳なしの黒で。
面倒な自分ごとまとった黒で。
リュウに責任を取りに来させた黒で。
十度、最後に立てない。
春麗はドレスに手を伸ばす。
指先が布に触れる。
冷たい。
けれど、逃げる気はなかった。
春麗は黒を着た。
髪を下ろす。
目元を整える。
裾を確認する。
素足の踏み込みを見る。
そして、鏡の中の自分に言った。
「十度目よ」
声は静かだった。
「今日も負けたら、この黒はリュウに取られた黒になる」
鏡の中の春麗は、目を逸らさない。
「でも、脱がない」
修行場で、リュウは待っていた。
春麗は黒いドレスで現れる。
リュウが見る。
見ている。
逃げない。
春麗は、静かに言った。
「今日で十度目ね」
リュウは答える。
「ああ」
「責任を取りきるつもり?」
リュウは少しだけ間を置いた。
「取れるなら」
春麗は笑った。
「言うようになったじゃない」
戦いは、長くなかった。
けれど、すべてが濃かった。
春麗は黒を使い切った。
裾の揺れ。
素足の踏み込み。
視線。
距離。
責任圧。
自分がリュウを待っていることまで、全部。
リュウは、その全部を受けた。
そして、待たれていない場所から来た。
春麗が読んだ先。
そのさらに外。
だが、逃げではない。
春麗へ届く場所。
拳が入る。
春麗の掌底も入る。
リュウが崩れる。
春麗も崩れる。
一瞬、同時に倒れる未来が見えた。
けれど、立ったのはリュウだった。
春麗は土に膝をついた。
十度目。
黒いドレスの裾が土に落ちる。
春麗は、しばらく顔を上げられなかった。
息が乱れている。
肩が痛い。
胸が熱い。
悔しさで、喉が詰まる。
十度。
十度、最後に立てなかった。
春麗はゆっくり顔を上げた。
リュウは立っている。
苦しそうに。
今にも膝が落ちそうに。
それでも、立っている。
その姿を見た瞬間、春麗の中で何かが静かに落ちた。
責任を取られた。
そう思った。
自分が求めた。
見てほしいと。
届いてほしいと。
焦らせてほしいと。
責任を取りに来てほしいと。
リュウは来た。
十度、来た。
そして十度、最後に立った。
春麗は小さく笑った。
泣きそうな笑いではない。
悔しくて、腹立たしくて、それでも満たされてしまっている自分への笑いだった。
「……最低ね」
リュウは黙っている。
春麗は続けた。
「私をここまで面倒にして、満たして、負かして」
声が少し震える。
「そのままで済むと思わないで」
リュウは静かに春麗を見る。
「次も、来る」
春麗は目を閉じた。
その答えが、また刺さった。
そう。
あなたは来る。
勝っても。
十度勝っても。
まだ来ると言う。
春麗はゆっくり立ち上がろうとした。
膝が少し震える。
それでも、立った。
リュウを見た。
「この黒は、あなたに取られたわ」
リュウは何も言わない。
春麗は黒いドレスの裾についた土を払う。
「だから、取り返す」
声は静かだった。
だが、はっきりしていた。
「リュウ」
リュウが見る。
春麗は、黒いドレスのまま笑った。
「次は、責任を取られた黒ごと、私が取り返す」
リュウは短く答えた。
「行く」
春麗は、少しだけ目を細めた。
その答えが欲しかった。
だから、許せない。
だから、また黒を着る。
十度負けた。
言い訳なしの黒で、十度。
けれど、春麗は黒を脱がない。
捨てない。
封印もしない。
この黒は、リュウに責任を取られた黒。
なら次は、それを自分の手で取り返す黒になる。
春麗は背を向けた。
黒いドレスの裾が、土を少しだけ引いた。
リュウの視線が背中に残る。
春麗は振り返らずに呟いた。
「覚悟しておきなさい」
声は小さい。
けれど、確かに届くように。
「私は、責任を取られっぱなしで終わる女じゃないわ」
十度負けてなお、春麗は黒を脱がなかった。
むしろ、その黒はさらに重く、さらに深く、さらに面倒になった。
次にその黒を着る時。
春麗は、リュウに取られたものを取り返しに行く。
そして、たぶん。
また、リュウを待つ。