また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
本編の流れではなく、「春麗がリュウにギリギリの十連勝をした後、十一度目を待ってしまった場合」の仮定です。
十度目の勝利の後、春麗は勝者としてステージを降りた。
観客の歓声が背中に降る。
灯籠の明かりが石畳に揺れる。
夜の街は、いつも通り熱を帯びている。
春麗は手を振った。
余裕のある勝者として。
十度挑んできたリュウを、十度退けた女として。
「十一度目も、私が立つわ」
通路に入る前、春麗はそう言った。
観客は沸いた。
敗れたリュウは、片膝をついたまま春麗を見ていた。
その目は、まだ折れていなかった。
春麗はその目を見て、少しだけ笑った。
十度負けても、まだその目をしている。
なら、来るでしょう。
十一度目も。
春麗はそう思っていた。
当然のように。
けれど、次の日。
リュウは来なかった。
春麗は、いつものようにステージに立った。
夜の街。
灯り。
石畳。
観客のざわめき。
春麗の名前を呼ぶ声がある。
挑戦者を求める声もある。
だが、リュウはいない。
春麗は軽く構えを確認し、何でもない顔で周囲を見る。
来ない。
まあ、当然かもしれない。
十度も負けたのだ。
身体も痛むはず。
気持ちを整える時間も必要だろう。
そう考えれば、何もおかしくない。
春麗は小さく息を吐いた。
「別に、今日来るなんて言っていないものね」
誰に言うでもなく呟く。
その声が、自分でも少し不機嫌に聞こえた。
春麗は眉を寄せる。
何を苛立っているの。
リュウが来ない。
それだけだ。
十度負けた男が、一日来なかっただけ。
それだけのこと。
春麗はその夜、何事もなかったようにステージを後にした。
次の日も、リュウは来なかった。
春麗はいつものように立つ。
いつものように観客を見る。
いつものように挑戦者を退ける。
だが、どこかで視線が探していた。
白い胴着。
赤い鉢巻。
無口で、まっすぐな目。
十度負けても折れなかった拳。
いない。
春麗は、挑戦者を倒した後、いつもより少し強めに息を吐いた。
相手は悪くなかった。
だが、足りない。
技の速さも。
踏み込みの深さも。
こちらを見る目も。
リュウとは違う。
そう思って、春麗はすぐにその考えを打ち消した。
何を比べているの。
相手は相手。
リュウはリュウ。
彼だけが特別なわけではない。
春麗は勝者として観客に向かって微笑んだ。
だが、通路へ戻る足取りは、いつもより少し重かった。
三日目。
リュウは来ない。
春麗は控えの通路で腕を組んでいた。
「何よ」
低く呟く。
「十回も負けておいて、今さら来ないの?」
言ってから、自分の言葉に少し驚いた。
今さら来ない。
まるで、来るのが当然だったみたいだ。
春麗は壁にもたれた。
違う。
来ると思っただけ。
あの目をしていたから。
十度負けても、まだ立とうとしていたから。
「行く」と言ったから。
だから、来ると思った。
それだけ。
それ以上の意味はない。
春麗は自分に言い聞かせる。
しかし、胸の奥の苛立ちは消えなかった。
四日目。
春麗は、リュウが来ない理由を考え始めた。
怪我をしたのかもしれない。
十度目は本当に危なかった。
春麗も全身が痛んだ。
リュウはもっと痛んでいたはずだ。
どこかで倒れているのか。
そう思った瞬間、春麗は眉をひそめた。
何を心配しているの。
あの男なら大丈夫でしょう。
十度負けても立つ男だ。
そう簡単に折れるはずがない。
なら、修行か。
山にでも戻っているのかもしれない。
十度の敗北を持ち帰って、拳を振っているのかもしれない。
春麗は、リュウが山中で一人黙々と拳を振る姿を想像した。
息を整え、敗北の形を反芻し、春麗の蹴りを、掌底を、投げを、呼吸を思い出しながら、次に勝つための拳を磨いている。
その想像に、胸が少しだけ熱くなった。
そしてすぐに、腹が立った。
「勝手に強くなって戻ってくるつもり?」
声に出していた。
誰もいない通路で。
春麗は自分で自分に呆れる。
勝手に強くなって戻ってくる。
それの何が悪いのか。
格闘家なら当然だ。
負けたなら修行する。
次に勝つために鍛える。
むしろ春麗は、そういうリュウを望んでいたはずだった。
なのに。
来ないことが、気に入らない。
五日目。
春麗は、ついに認めかけた。
自分は、リュウを待っている。
ただの挑戦者としてではない。
十度負けた男としてでもない。
次にどんな拳を持ってくるのか。
どこまで近づいてくるのか。
どんな顔で十一度目に立つのか。
それを待っている。
春麗は鏡の前で、自分の顔を見た。
いつもの髪。
いつもの武道服。
いつもの勝者の顔。
だが、目だけが少し不機嫌だった。
「……馬鹿みたい」
春麗は呟く。
勝者は自分だ。
十度勝った。
リュウは十度負けた。
なのに、待っているのは春麗の方。
それが気に入らない。
とても気に入らない。
春麗は拳を握った。
「次に来たら、まず文句を言ってやるわ」
そう決めた。
遅いわね、と。
十回負けておいて、どれだけ待たせるつもりなの、と。
けれど、その言葉を考えた時点で、もう待っている。
春麗は鏡から目を逸らした。
六日目。
リュウはまだ来ない。
春麗は別の挑戦者を倒した。
相手は強かった。
だが、春麗を本気で焦らせるほどではなかった。
勝利後、観客に向かって微笑む。
いつものように。
けれど、心の中では別のことを考えていた。
リュウなら、今の三手目に踏み込んでくる。
リュウなら、あの跳躍は追わない。
リュウなら、そこで勝ちを急がない。
春麗は、戦いながらリュウを基準にしていた。
気づいた瞬間、春麗は胸の奥がざわついた。
何をしているの。
目の前の相手を見なさい。
そう自分に言い聞かせても、もう遅い。
リュウは、いないのに春麗の中にいた。
七日目。
春麗は、修行場に一人で立った。
観客はいない。
歓声もない。
夜気だけが石畳に落ちている。
春麗はゆっくり構えた。
リュウの踏み込みを想像する。
重い拳。
まっすぐな視線。
迷いを削った呼吸。
十度負けてもまだ折れない膝。
春麗は、その想像へ蹴りを放つ。
リュウなら受ける。
次に前へ出る。
なら、こちらは半歩外す。
いや、十一度目のリュウなら、それも読んでくるかもしれない。
春麗は動きを止めた。
いない相手と、戦っていた。
その事実に、春麗はしばらく黙った。
「……本当に、何をしているのかしら」
声は苦い。
でも、どこか楽しそうでもあった。
認めたくない。
認めたくないが、否定もできない。
春麗は、十一度目のリュウともう戦っている。
彼が来る前から。
八日目。
春麗の苛立ちは、少し形を変えた。
来ないことに腹が立つ。
でも、来ないなら来ないで、どれほど強くなっているのか気になってしまう。
これはまずい。
春麗はそう思った。
完全に、あの男の次を待っている。
十度勝った自分が。
勝者の春麗が。
十度倒した男の十一度目を、待っている。
「……気に入らないわね」
春麗は腕を組む。
本当に気に入らない。
リュウが来ないことも。
自分が待っていることも。
来たら来たで、きっと少し嬉しくなることも。
全部、気に入らない。
九日目。
春麗は、通路で足音を聞いた。
一瞬だけ、顔を上げる。
だが、現れたのは別の格闘家だった。
春麗は表情を変えなかった。
だが、胸の奥で何かが少しだけ沈んだ。
それが自分でもわかった。
違った。
リュウではなかった。
ただそれだけで、少しがっかりした。
春麗は、その感情に本気で呆れた。
「……末期ね」
誰にも聞こえない声で呟く。
その日の挑戦者を倒した後、春麗はいつもより鋭く言った。
「次」
観客が沸く。
しかし、次に来るべき男は来なかった。
十日目。
春麗は、とうとうはっきりと言葉にした。
「私は、待っているのね」
控えの部屋。
誰もいない。
春麗は椅子に腰を下ろし、膝の上で手を組んでいた。
十度勝った。
十度、リュウを倒した。
でも、十一度目を待っている。
勝つために。
迎え撃つために。
もう一度、あの拳がどこまで来るかを確かめるために。
それは格闘家としての期待。
そう言えば、綺麗だ。
でも、少し違う。
春麗は、リュウが来ると思っていた。
来てほしいと思っていた。
次はもっと強くなって来ると、勝手に期待していた。
その期待が外れたから、苛立っている。
「本当に、面倒ね」
春麗は自分に向かって言った。
この時の春麗は、まだ「めんどくさい女」とまでは言わない。
言わないけれど、芽はあった。
自分でも、少しだけわかっていた。
リュウが来ないだけで、こんなに調子が狂う。
それは、かなりまずい。
それなのに、どうしようもなく待っている。
春麗は立ち上がった。
鏡の前に立つ。
いつもの自分が映っている。
強い春麗。
勝者の春麗。
十度リュウを倒した春麗。
その春麗が、敗者の再挑戦を待っている。
春麗は、鏡の中の自分へ言った。
「次に来たら、絶対に文句を言うわ」
それは本心だった。
そして、もうひとつの本心もあった。
来なさい、リュウ。
早く。
その拳を、十一度目のあなたを、見せに来なさい。
春麗は目を閉じる。
十一度目も、自分が立つ。
そう思っている。
けれど、十一度目のリュウがどこまで来るのかを、もう待ってしまっている。
勝者の春麗は、敗者の再挑戦を待っていた。
苛立ちながら。
呆れながら。
それでも、確かに。
リュウが来ない夜の静けさの中で、春麗は初めて、自分の中に生まれた面倒な期待に気づいた。