また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
「春麗がリュウにギリギリの十連勝をした後、十一度目を待ってしまい、そしてようやくリュウが戻ってきた場合」の仮定です。
リュウが、戻ってきた。
春麗は、その姿を見た瞬間、自分の胸の奥が強く跳ねるのを感じた。
白い胴着。
赤い鉢巻。
まっすぐな目。
少し日に焼けた顔。
以前より静かな呼吸。
十度、私に負けた男。
そして、春麗が十一度目を待ってしまった男。
春麗は、それを表情に出さなかった。
出すものか、と思った。
リュウは、いつものようにステージの中央へ歩いてくる。
夜の街。
灯籠の光。
石畳。
観客のざわめき。
何も変わっていないはずなのに、リュウが戻ってきただけで、空気が少し違って感じる。
春麗は、そのことが気に入らなかった。
ずっと待っていたみたいではないか。
実際、待っていた。
だが、それをリュウに知られるのはもっと気に入らない。
春麗は、顎をわずかに上げた。
「遅かったわね」
第一声は、勝手に出ていた。
リュウは立ち止まる。
驚きもしない。
不満そうにもならない。
ただ、真面目に答えた。
「修行していた」
春麗は、内心で少しだけ息を呑んだ。
やっぱり。
山へ戻っていたのか。
十度の敗北を持ち帰っていたのか。
春麗の蹴りも、掌底も、空中投げも、最後に膝をついた石畳の冷たさも、全部持って帰って。
そのうえで、戻ってきた。
春麗は胸の奥が熱くなるのを感じた。
来た。
本当に来た。
しかも、ちゃんと強くなって来た。
リュウの立ち方が違う。
以前より、足の置き方が静かだ。
肩に余計な力がない。
春麗を見る目にも、十連敗の湿り気がない。
負けを引きずっているのではない。
負けを削って、鍛えて、拳に変えてきた目だ。
春麗は、それを嬉しいと思った。
だから、さらに腹が立った。
「十回負けて、ようやく時間の使い方を覚えたの?」
観客が少しどよめく。
煽りだ。
勝者としての言葉。
十度勝った女王としての言葉。
けれど、その奥にあるのは別のものだった。
遅かったじゃない。
待たせたじゃない。
その拳を、私は見たかったのよ。
そんなことは、絶対に言わない。
リュウは静かに春麗を見る。
「必要だった」
「何が?」
「十回の負けを、確かめる時間が」
春麗の胸がまた鳴った。
リュウは続ける。
「お前に勝つために」
春麗は口元だけで笑った。
「言うようになったわね」
声は軽い。
けれど、内心は軽くなかった。
リュウが自分の十度の敗北を、ただの屈辱として捨てていないことがわかる。
春麗に負けた事実を、全部持って戻ってきたのだとわかる。
それが、春麗を満たす。
そして苛立たせる。
どうして、そんなふうに戻ってくるのか。
どうして、こちらが待っていたことを正当化するような顔で立つのか。
春麗は構えた。
「なら、見せてみなさい」
リュウも構える。
「その修行が、十回分の負けに見合うものだったのか」
リュウの目が細くなる。
「見せる」
その短い返事に、春麗はまた腹が立つ。
短すぎる。
でも、十分すぎる。
本当に、腹が立つ。
合図はなかった。
先に動いたのは春麗だった。
待っていた時間の分だけ、最初から強く行く。
自分でもわかっていた。
いつもより少し速い。
いつもより少し深い。
いつもより少し、リュウに向けすぎている。
蹴りが走る。
リュウは下がらなかった。
腕で受けるのでもない。
半歩だけ内へ入る。
蹴りの威力が乗り切る前に、拳を差し込んでくる。
春麗の腕に衝撃が走る。
重い。
春麗の目が鋭くなる。
やはり、変わっている。
リュウは、以前より近い。
でも、焦っていない。
春麗の初撃を受けてから動くのではない。
春麗が初撃を出す前に、その後の位置へ身体を置いている。
「……へえ」
思わず声が漏れる。
嬉しくなっている自分に気づき、春麗は少しだけ奥歯を噛んだ。
嬉しくなんてない。
そう言い聞かせる。
これは戦闘の高揚。
強敵が戻ってきたことへの格闘家としての反応。
それだけ。
それだけのはずだ。
リュウの拳が来る。
春麗は横へ流す。
リュウは追いすぎない。
以前なら、ここで半歩深く来た。
春麗が誘った場所へ、勝ちを取りに踏み込んできた。
だが今は違う。
春麗が待つ場所の手前で止まり、そこから拳を置く。
春麗の肩をかすめた。
浅い。
だが、届いた。
春麗は一瞬、胸の奥が熱くなる。
来た。
前よりも、来ている。
その事実が、どうしようもなく嬉しい。
だから、春麗は笑った。
「修行して、ようやく私の肩に触れるところまで来たの?」
リュウは答えない。
その沈黙が、また春麗を苛立たせる。
何か言い返しなさいよ。
でも、言い返さないリュウも悪くないと思ってしまう。
本当に面倒だ。
まだ、自分ではそう言葉にしない。
けれど、春麗の中で何かが少しずつ面倒な形を取り始めていた。
リュウが踏み込む。
春麗は足を沈める。
足払い。
リュウは跳ばない。
予想通り。
なら、掌底。
リュウは肘で受ける。
読んでいる。
春麗は距離を変える。
リュウは追わない。
追わないくせに、離れもしない。
間合いの外縁に立ち、春麗の次の一手を見ている。
春麗は内心で舌打ちした。
厄介になったわね。
十日、何をしていたのか。
春麗は知りたいと思った。
どんな修行をしたのか。
どれだけ拳を振ったのか。
春麗の何を思い出していたのか。
そこまで考えて、春麗は自分を叱る。
戦いなさい。
余計なことを考えるな。
そう思った瞬間、リュウの拳が迫った。
春麗はぎりぎりでかわす。
頬に風圧が走る。
危ない。
今のは、本当に危なかった。
春麗は一気に間合いを変えた。
観客が沸く。
リュウは追わない。
ただ構え直す。
春麗は言った。
「少しは見られるようになったじゃない」
リュウは短く返す。
「まだだ」
春麗の胸が鳴る。
まだ。
その言葉。
自分でも、まだだと思っているのか。
十度負けて。
十日近く姿を消して。
修行して戻ってきて。
ここまで変わって。
それでも、まだだと言う。
春麗は笑った。
今度の笑みには、少しだけ本音が混じった。
「そうね」
春麗は構え直す。
「まだよ」
リュウの目がわずかに変わる。
春麗は言った。
「十回負けた分を取り返すには、まだ足りないわ」
リュウは答える。
「なら、十一回目で近づく」
「勝つとは言わないの?」
「勝つために来た」
「それで?」
「まず、近づく」
春麗は、少しだけ黙った。
リュウは明らかに変わっていた。
勝ちを急がない。
春麗に勝つという結果だけを掴みに来ない。
一手ずつ、春麗へ近づいてくる。
それが怖い。
それが嬉しい。
それが、とても気に入らない。
春麗は地を蹴った。
ここからは、本気で行く。
リュウが戻ってきたことを喜んでいる自分を叩き潰すように。
待っていたことを認めないために。
そして、戻ってきたリュウがどこまで来るかを確かめるために。
矛盾している。
けれど春麗は、まだその矛盾に名前をつけない。
蹴りがリュウの腕を打つ。
リュウの拳が春麗の肩をかすめる。
春麗の掌底がリュウの胸へ入る。
リュウは下がらない。
近い。
かなり近い。
春麗は次の一手で崩しにかかる。
リュウはそれを読んでいる。
読んでいるが、完全には間に合わない。
春麗の足がリュウの軸を払う。
リュウの体勢が崩れる。
春麗はその瞬間を逃さなかった。
一気に入る。
蹴り。
掌底。
膝。
リュウは耐える。
十度負けた男の耐え方ではない。
十度負けて、その全部を身体に刻んだ男の耐え方だった。
春麗は、胸の奥でまた熱が上がるのを感じた。
本当に戻ってきた。
春麗が待っていた十一度目のリュウが、ここにいる。
だからこそ、負けるわけにはいかない。
春麗はさらに踏み込む。
リュウの逃げ道を塞ぐ。
膝を止める。
肩を押す。
呼吸を削る。
リュウの身体が流れた。
ここ。
春麗は跳んだ。
十度、リュウを倒してきた形。
空中からの角度。
投げへ移る前の一拍。
リュウが何度も敗北を刻まれた軌道。
今度も、決める。
そう思った。
だが、リュウは見上げていなかった。
リュウは、春麗が跳ぶ前の呼吸を見ていた。
春麗が空へ出た瞬間、リュウは一歩前へ出た。
投げの間合いを外すためではない。
春麗が着地する先を奪うために。
「……!」
春麗の目が見開かれる。
軌道を変える。
間に合う。
まだ、間に合う。
春麗は空中で身体を捻る。
リュウの拳が来る。
昇龍拳ではない。
対空の一撃ではない。
春麗が落ちてくる場所に、ただ拳を置いている。
速くもない。
派手でもない。
けれど、逃げ場がない。
春麗の脚がリュウの肩をかすめる。
リュウの拳が、春麗の腹に入った。
深い。
呼吸が止まる。
春麗はそれでも腕を伸ばす。
リュウの首を取る。
投げる。
ここから崩せる。
だが、リュウは逃げなかった。
自分から一歩、春麗の中へ入った。
投げられる距離ではなく、投げを潰す距離へ。
春麗の腕が絡む前に、リュウの肘が春麗の軸を止めた。
石畳が近づく。
春麗は受け身を取る。
衝撃。
すぐに立つ。
立たなければ負ける。
春麗は蹴りを出した。
リュウは受けた。
二撃目。
受ける。
三撃目。
今度は、前へ出た。
春麗の蹴りがリュウの肩を打つ。
同時に、リュウの拳が春麗の胸元へ入る。
春麗の身体が止まった。
ほんの一瞬。
それで十分だった。
リュウの次の拳が、春麗の腹に入る。
春麗の膝が落ちる。
落ちる。
だが、春麗は踏みとどまった。
まだ。
まだ負けていない。
十度勝った。
十度、最後に立った。
十一度目も、私が立つ。
春麗は最後の力で踏み込む。
掌底をリュウの胸へ。
入った。
リュウの息が止まる。
リュウの身体が揺れる。
春麗は続けようとした。
だが、足が動かなかった。
リュウは、揺れながらも立っていた。
本当にぎりぎりだった。
今にも膝が落ちそうだった。
それでも、立っていた。
春麗の膝が石畳についた。
片膝。
観客の声が消えたように感じた。
リュウは立っている。
春麗は片膝をついている。
ほんの一呼吸。
それだけの差だった。
審判の声が響く。
リュウの勝利。
観客が爆発するように沸いた。
春麗は、片膝をついたまま、リュウを見上げていた。
リュウは肩で息をしている。
腕も下がっている。
立っているのがやっとだ。
勝者らしい余裕などない。
けれど、今立っているのはリュウだった。
十一度目。
ようやく、リュウが春麗の前に立った。
春麗の胸に、熱いものが広がる。
悔しい。
腹が立つ。
本当に、腹が立つ。
待たせたくせに。
戻ってきたと思ったら、こんな形で勝つなんて。
でも。
来た。
本当に来た。
しかも、ちゃんと強くなって来た。
春麗は、負けたことよりも、その事実に大きく揺れていた。
リュウが、静かに春麗を見る。
「……勝った」
春麗は目を細める。
「見ればわかるわ」
声は少し荒れていた。
リュウは黙る。
春麗は、片膝のまま息を整えた。
本当は、すぐに立ちたかった。
勝者の前で膝をついている自分が悔しい。
だが、身体が動かない。
それほど、最後の拳は深かった。
春麗は唇を噛んだ。
そして、無理に笑った。
「遅かったわね」
リュウが見る。
春麗は続けた。
「戻ってくるのも」
一拍。
「私に勝つのも」
リュウは息を乱したまま答えた。
「十回、負けたからな」
その言葉に、春麗は少しだけ笑った。
「そうね」
声が、思ったより柔らかくなりそうになる。
慌てて戻す。
「十回も負けたのよ。十一回目でようやく勝って、そんな顔?」
「どんな顔だ」
「勝ったのに、まだ足りないって顔」
リュウは静かに答えた。
「足りない」
春麗の胸が、また鳴った。
リュウは続ける。
「今日は勝った。でも、まだ届ききっていない」
春麗は、しばらく黙った。
この男は。
勝っても、まだそう言うのか。
春麗を倒して、春麗の前に立って、それでもまだ足りないと言うのか。
春麗は悔しさと同時に、どうしようもない熱を覚えた。
「……本当に、腹が立つ男ね」
リュウは何も言わない。
春麗は、ようやく立ち上がろうとした。
膝が揺れる。
リュウが一瞬、手を出しかける。
春麗は睨んだ。
「触らないで」
リュウの手が止まる。
春麗は自分の足で立った。
ふらつきながらも。
リュウを見上げる形になりかけたのが気に入らず、しっかり背筋を伸ばす。
「勘違いしないで」
春麗は言った。
「今日はあなたの勝ち」
リュウは頷く。
春麗は続ける。
「でも、次も勝てると思わないことね」
リュウの目が変わる。
春麗は、少しだけ笑った。
「待たせた分、今度は私が取り返すわ」
言ってから、また気づく。
待たせた分。
また言った。
今日の自分は、少し余計なことを言いすぎている。
でも、もう取り消さない。
リュウは短く言った。
「また戦ってくれ」
その言葉に、春麗は息を止めた。
それは本来なら、勝者になったリュウが言うには不思議な言葉だった。
勝ったのに。
十度負けて、十一度目でようやく勝ったのに。
まだ求めるのか。
春麗は、少しだけ目を細める。
嬉しい。
そう思いかけた。
腹が立つ。
そう言い換えた。
「当然よ」
春麗は答えた。
「今度は、私が挑ませてもらうわ」
観客が沸く。
リュウは静かに頷いた。
春麗は背を向ける。
勝者ではない。
今日は敗者だ。
だが、負けたまま帰る女ではない。
通路へ入った瞬間、春麗は壁に手をついた。
「……っ」
腹が痛い。
肩が重い。
脚が震えている。
負けた。
十一度目で、ついに負けた。
十日も待たせて。
戻ってきて。
強くなって。
そして、春麗に勝った。
春麗は壁に額を寄せそうになり、寸前で止めた。
「本当に、腹が立つ」
でも、胸の奥は熱かった。
リュウは戻ってきた。
本当に戻ってきた。
そして、春麗を越えた。
ほんの一呼吸。
ほんの半歩。
それだけの差で。
春麗は拳を握る。
悔しい。
けれど、嫌ではない。
むしろ、待っていたものが来てしまった感覚がある。
だからこそ、悔しい。
「次は、私が行く番ね」
春麗は小さく呟いた。
十度勝った女王は、十一度目で初めて膝をついた。
だが、その膝は敗北で終わらない。
次に立つための膝だ。
春麗は背筋を伸ばした。
勝者の顔ではない。
挑戦者の顔でもない。
その両方を知った、春麗の顔だった。
「覚悟しておきなさい、リュウ」
低く、静かに言う。
「待たせた分も、勝った分も、まとめて返してもらうわ」
春麗は歩き出した。
悔しさを抱えて。
熱を抱えて。
そして、自分が少し面倒な方向へ進み始めていることを、まだ完全には認めないまま。
十一度目の夜、春麗はリュウに負けた。
けれど、その敗北は終わりではなかった。
春麗がリュウを待つ女から、リュウを追う女へ変わる始まりだった。