また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
自分がまだ「めんどくさい女」だと自覚する前の春麗とリュウの甘さ控えめの話です。
雨が降ってきた。
最初は、ほんの小さな音だった。
石畳に落ちる細い雨粒。
夜の修行場の端で、灯りが滲む。
春麗は青い武道服の袖についた水滴を見て、少しだけ眉を寄せた。
「続ける?」
そう聞いたのは春麗だった。
リュウは空を見上げる。
「足元が滑る」
「そうね」
「無理に続ける必要はない」
春麗は軽く笑った。
「あなたがそれを言うのね」
リュウは少しだけ首を傾げた。
本気で意味がわかっていない顔だった。
春麗は、そこで少し呆れる。
この男は、本当にこういうところがある。
勝負となればどこまでも真っ直ぐ来る。
こちらが誘えば、警戒しながらも踏み込んでくる。
負けても折れず、次には少し違う拳で戻ってくる。
なのに、こういう時だけ妙に素直だ。
雨脚が強くなった。
春麗は仕方なく、修行場の端にある屋根の下へ移動した。
リュウも少し遅れて隣へ来る。
並んで立つ。
距離は、近すぎない。
けれど、遠くもない。
雨音が、その間を埋めた。
春麗は腕を組んだ。
「……あなた、こういう時まで黙っているのね」
リュウは答える。
「何を話せばいい」
春麗は目を細めた。
「そこから聞くの?」
「必要なら聞く」
「本当に、あなたらしいわ」
春麗はため息をつく。
そのため息は、呆れ半分だった。
もう半分は、自分でも少しわからない。
雨が屋根を叩く音が強くなる。
春麗は青い武道服の袖を軽く払った。
濡れている。
それほどではないが、風もある。
このまま雨が続くなら、少し冷えるかもしれない。
そう思った時、リュウがほんの半歩だけ動いた。
春麗は気づいた。
リュウは何も言わない。
ただ、風上側へ立ち位置を変えただけだった。
春麗の方へ雨が吹き込まない位置に、自分の身体を置いた。
「……リュウ」
「何だ」
「今、何をしたの?」
「風が入る」
「だから?」
「そちらは少し濡れる」
春麗は黙った。
リュウはそれ以上、何も言わない。
当然のような顔をしている。
まるで、特別なことではないと言いたげだった。
春麗は少しだけ視線を逸らした。
こういうところだ。
この男は、言葉では明後日の方向へ行くくせに、身体の置き方だけは妙に正しい。
戦いの時もそうだ。
こちらが逃げる場所へ拳を置く。
こちらが誘った場所の半歩外へ入る。
届かないはずの一拍で、届いてくる。
そして今は、雨が当たらない場所に立っている。
何も言わずに。
春麗は少しだけ胸の奥が落ち着かなくなった。
戦術ではない。
これは戦術ではない。
リュウの反応を見るためでもない。
拳の遅れを取るためでもない。
次の勝負の材料でもない。
ただ、雨宿りをしているだけ。
それなのに、春麗は妙に意識してしまう。
「……気を使ったつもり?」
「濡れるよりはいい」
「答えになっているようで、なっていないわね」
「そうか」
リュウは真面目に考える。
その真面目さが、春麗には少しだけおかしかった。
そして少しだけ、困った。
春麗はリュウの横顔を見た。
雨の音を聞いているのか。
何かを考えているのか。
それとも何も考えていないのか。
たぶん、全部少しずつ違う。
リュウはただ、そこにいる。
それが妙に、春麗の調子を狂わせる。
「あなた、戦っていない時の方が読みにくいわ」
リュウは春麗を見る。
「そうか」
「そうよ」
春麗は少し笑う。
「拳の方が、まだわかりやすい」
リュウはその言葉を考えるように黙った。
そして、短く言った。
「お前もだ」
春麗の指先が止まる。
「私?」
「ああ」
「私のどこが読みにくいの?」
リュウは少しだけ視線を落とす。
考えている。
また真面目に。
春麗は、なぜか次の言葉を待ってしまった。
リュウは言った。
「戦っている時は、速い。強い。何を狙っているかも見える時がある」
「そう」
「でも、今は違う」
春麗は少しだけ眉を動かす。
「違う?」
「何を考えているのか、わからない」
春麗は、すぐに返そうとした。
当然でしょう。
戦っていないのだから。
何でも拳でわかると思わないことね。
そう言えばよかった。
けれど、言葉が少し遅れた。
リュウは続けた。
「だから、見ている」
春麗は、今度こそ黙った。
雨音が大きくなる。
屋根の下は狭い。
リュウは、ただ真っ直ぐに春麗を見ている。
それは戦闘中の視線ではない。
黒いドレスを見た時のような揺れもない。
青の速度を追う目でもない。
ただ、春麗が何を考えているのかを見ようとしている目だった。
春麗は、少しだけ心臓が強く鳴るのを感じた。
「……そういうことを、平気で言うのね」
「おかしかったか」
「おかしいわよ」
「そうか」
リュウはまた真面目に受け取る。
春麗は額に手を当てそうになり、やめた。
本当に、この男は。
春麗はまだ、自分が何に反応しているのかを知らない。
知らないことにしている。
リュウの視線が残ることも。
リュウが自分を見ようとすることに、少しだけ満たされることも。
それを戦術では処理しきれないことも。
まだ知らない。
だから、春麗は笑う。
少しだけ挑むように。
「見ても、簡単にはわからないわよ」
リュウは頷く。
「わかっている」
「なら、どうするの?」
「見る」
短い答えだった。
春麗は、また少しだけ止まった。
この男は、いつもそうだ。
勝てなくても来る。
届かなくても拳を出す。
わからなくても見る。
だから、困る。
雨が少し弱くなってきた。
春麗は外を見る。
「もう少しで止みそうね」
「ああ」
「今日はここまでにしておく?」
リュウは春麗を見る。
「お前がそうするなら」
「私に任せるの?」
「足元はまだ悪い」
「真面目ね」
「怪我をしては次に響く」
春麗は、その言葉に少しだけ笑った。
「次?」
リュウは頷く。
「また戦う」
当然のように言う。
春麗は視線を雨へ戻した。
また戦う。
その言葉は、ただの再戦の約束だった。
格闘家同士なら、自然な言葉。
そう処理すればいい。
でも、今の春麗には、少しだけ別の響きが混ざって聞こえた。
次がある。
リュウはそう思っている。
春麗も。
……春麗も、そう思っている。
「そうね」
春麗は言った。
「次は、雨を言い訳にしない場所で戦いましょう」
「雨は言い訳にはしない」
「そういう意味じゃないわ」
春麗は呆れたように言う。
けれど、声は少し柔らかかった。
雨が止み始める。
屋根から落ちる雫が、石畳で小さく跳ねる。
春麗は一歩、外へ出た。
湿った空気が頬に触れる。
リュウも続く。
春麗は振り返った。
「リュウ」
「何だ」
「今日は、勝負は預けておくわ」
リュウは頷く。
「わかった」
「次に会ったら、ちゃんと取りに来なさい」
「行く」
春麗は笑った。
「ええ。来なさい」
それは挑発の形をしていた。
でも、少しだけ違った。
春麗はまだ、その違いに名前をつけない。
つけないまま、青い武道服の袖を整える。
雨に濡れた夜気の中で、リュウは春麗を見ていた。
春麗はそれに気づいている。
気づいていて、わざと何も言わなかった。
これも戦術。
そう思いかけて、春麗は少しだけ笑った。
違う。
たぶん、これは戦術ではない。
でも、今はまだ。
それでいい。
春麗は背を向ける。
「次は、見ているだけじゃ追いつけないわよ」
リュウの声が返る。
「追う」
春麗は振り返らずに言った。
「なら、置いていくわ」
足元には、雨上がりの石畳。
青い武道服の袖に残った水滴が、夜の灯りを受けて小さく光った。
春麗は歩き出す。
胸の奥に残ったものを、まだ言葉にしないまま。
ただ少しだけ、次の勝負を待ちながら。
Q:今回の断章IFについて解説して?
A:
執筆者として見ると、今回の断章IFはかなり良い「甘さの避難所」になっています。
直前まで本編では、黒の奥、責任圧、リュウ関連イベントへの感情反応倍率上昇など、かなり重い春麗が続いていました。そこに対して今回の断章IFは、自覚前春麗の軽さ・未自覚さ・まだ戦術に逃げられる距離感を使って、甘さをかなり柔らかく出せています。
この断章IFの春麗は、まだ“重くない”
今回の春麗は、自分がめんどくさい女だと自覚する前です。
だから、リュウの言葉や行動に反応しても、現在春麗ほど深く処理しません。
リュウが風上に立つ。
リュウが「だから、見ている」と言う。
リュウが「また戦う」と言う。
これらは今の自覚後春麗なら、かなり強く刺さります。
でもこの春麗はまだ、
何を考えているの、私は。
これは戦術ではない。
でも、今はまだ名前をつけない。
くらいで止まれる。
ここが非常に良いです。
つまりこの断章IFは、現在春麗のような「重さ」ではなく、まだ軽くて透明な甘さになっています。
雨宿りがかなり効いている
今回の舞台を雨宿りにしたのは、甘い話として相性が良いです。
戦闘ではない。
でも戦闘の直後、または途中で中断された状況。
二人きりではあるが、露骨な恋愛空間ではない。
ただ雨が降っていて、屋根の下に並ぶしかない。
この「戦っていないのに近い」状態が、リュウと春麗にはかなり効きます。
普段の二人は、拳で距離を測ります。
でも今回は、雨音、沈黙、立ち位置、視線で距離が変わる。
特にリュウが風上に立つ場面は良いです。
リュウは口説いていない。
優しい言葉も言っていない。
ただ、春麗に雨が当たらない位置へ移動しただけ。
でも春麗はそれに気づく。
この「何も言わない気遣い」が、リュウらしくてかなり甘いです。
リュウの甘さが無自覚なのが良い
今回のリュウは、甘いことをしている自覚がほぼありません。
「風が入る」
「そちらは少し濡れる」
「だから、見ている」
「また戦う」
全部、リュウとしては自然な言葉です。
でも春麗には刺さる。
この構図がとても本作らしいです。
リュウは恋愛的に攻めているわけではない。
でも、春麗にとって必要な場所に、必要な言葉や行動を置いてしまう。
これがリュウの無自覚な強さです。
そして自覚前春麗は、それをまだ「何か」に分類できない。
だから甘い。
「戦術ではない」と思うのが重要
この断章IFで一番大事なのは、春麗が途中でこう感じるところです。
戦術ではない。
これは戦術ではない。
これはかなり重要です。
自覚前春麗は、黒ドレスの時でも「これは戦術」と言い聞かせていました。
リュウの視線を意識しても、拳の遅れを見るためだと処理していた。
でも今回の雨宿りは、戦術にできません。
雨が降った。
リュウが隣に立った。
リュウが風上に移動した。
リュウが春麗を「見ている」と言った。
これは勝つための材料ではない。
だから春麗は少し困る。
この「戦術では説明できない感情」が、のちの自覚後春麗へつながる芽になります。
現在春麗との対比がかなり強い
現在の春麗なら、同じ場面はもっと重くなります。
リュウが風上に立っただけで、
そういうところよ。
だから私は、あなたを待ってしまう。
くらいまで行きます。
リュウが「だから、見ている」と言ったら、かなり反応倍率が上がります。
でも自覚前春麗は、まだそこまで行きません。
少し止まる。
少し困る。
少し笑う。
少しだけ次を待つ。
この差が良いです。
自覚前春麗は、まだ軽い。
でも、確実にリュウに動かされ始めている。
甘いけれど、二人の関係を壊していない
この断章IFの甘さは、かなり安全です。
告白しない。
触れすぎない。
恋愛を明言しない。
でも距離は近い。
本編の殴り愛の関係を壊さずに、柔らかい甘さだけを見せています。
春麗は最後に、
次は、見ているだけじゃ追いつけないわよ。
と言う。
リュウは、
追う。
と返す。
春麗は、
なら、置いていくわ。
と返す。
これがかなり良いです。
甘い場面だったのに、最後はちゃんと二人の関係が「次の勝負」に戻る。
でも、その「次」が少しだけ甘くなっている。
これが本編時間の甘さとしてちょうど良いです。
この断章IFで見えたのは、
春麗は、自覚前からリュウの何気ない行動に少しずつ反応していた
でもその頃は、まだ重くならず、名前もつけずに流せていた
リュウは昔から、無自覚に春麗の中へ入る言葉や行動を置いていた
ということです。
つまり現在の重い春麗は、急にそうなったわけではない。
昔から芽はあった。
結論
今回の断章IFは、かなり良い甘さでした。
特に良いのは、自覚前春麗だからこその軽さです。
リュウの気遣いに気づく。
リュウの「見ている」に少し止まる。
でもまだ自分の感情に名前をつけない。
最後は「次の勝負」として処理する。
これは、今の黒の奥や責任圧の春麗とは違う、まだ雨上がりみたいに淡い春麗です。
一言でまとめるなら、
これは、春麗がまだ自分の面倒さを知らない頃に、リュウの無自覚な優しさで少しだけ調子を狂わされる断章IF
です。