また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚――   作:エーアイ

7 / 69
幕間:春麗は、リュウを煽りたい

 夜の道場には、春麗の足音だけが響いていた。

 

 誰もいない。

 

 観客の歓声もない。

 相手の呼吸もない。

 石畳のステージとは違い、ここにあるのは磨き込まれた床と、壁にかかった古い武具と、静かに揺れる灯りだけだった。

 

 春麗は中央に立ち、ゆっくりと息を吐く。

 

 目の前には誰もいない。

 

 だが、春麗の中には、はっきりと一人の男が立っていた。

 

 白い道着。

 赤い鉢巻。

 迷いのない目。

 重く、まっすぐな拳。

 

 リュウ。

 

 春麗は構えた。

 

 実際にはいない相手。

 けれど、今の春麗にとって、その存在は誰よりも鮮明だった。

 

 リュウなら、ここで踏み込む。

 

 春麗は半歩下がる。

 

 リュウなら、追わない。

 追う代わりに、こちらの移動先へ拳を置く。

 

 春麗はそこを読んで、横へ流れる。

 

 だが、リュウなら、それも読んでいる。

 

 一拍遅れて、低い正拳が来る。

 

 春麗は身体を沈め、拳の下をくぐる。

 

 足払い。

 

 リュウなら跳ばない。

 

 軸をずらして、上から掌底を置いてくる。

 

 春麗はその掌底を想定し、肘で弾いた。

 

 空気だけを打つ音が、道場に鋭く響く。

 

 実戦ではない。

 

 けれど、遊びでもない。

 

 春麗は本気で、そこにいないリュウと戦っていた。

 

 彼は強くなっている。

 

 最初に戦った時のリュウとは、もう違う。

 

 女性だからと無意識に拳を鈍らせた男ではない。

 敗北の記憶に引きずられるだけの男でもない。

 勝ちを焦って、こちらの誘いに飛び込むだけの男でもない。

 

 今のリュウは、待つ。

 

 そして、前に出る。

 

 矛盾しているようで、それが厄介だった。

 

 無暗に追わない。

 だが、必要な一歩は必ず踏み込む。

 こちらの速さに振り回されず、こちらの呼吸を読もうとしてくる。

 

 だから、春麗も変わらなければならない。

 

 同じ蹴りでは届かない。

 同じ誘いでは見抜かれる。

 同じ空中投げでは、受け身を取られる。

 

 春麗は床を蹴った。

 

 跳ぶ。

 

 空中で身体をひねる。

 

 リュウなら、ここで昇龍拳を撃つか。

 

 いや。

 

 今のリュウは、簡単には撃たない。

 

 春麗は空中で軌道を変える。

 着地の瞬間、低く沈む。

 リュウの視線は上から下へ動く。

 その瞬間、膝を入れる。

 

 そこまで想定して、春麗は着地した。

 

 足音が一つ、鋭く鳴る。

 

 「……遅いわね」

 

 誰もいない道場で、春麗は小さく呟いた。

 

 もちろん、実際のリュウが遅いわけではない。

 

 むしろ速い。

 危険なほどに速い。

 

 だからこそ、想定の中でぐらい、先に言っておきたかった。

 

 春麗はもう一度構え直す。

 

 今の形なら、リュウを崩せるかもしれない。

 

 空中から誘う。

 昇龍拳を警戒させる。

 着地で低く沈む。

 膝で腹を止める。

 続けて掌底。

 リュウが耐えれば、軸足を払う。

 それでも倒れなければ、首元へ足をかけて崩す。

 

 うまく決まれば、勝てる。

 

 そこまで考えたところで、春麗の思考はふと別の方向へ滑った。

 

 この形で倒したら、何て言ってやろうかしら。

 

 春麗の動きが、わずかに止まった。

 

 沈黙。

 

 道場の灯りが、壁に小さな影を揺らしている。

 

 春麗はまばたきをした。

 

 ……何を考えているの、私は。

 

 今はトレーニング中だ。

 

 リュウを倒すための動きを組み立てている。

 彼の踏み込みを読み、拳を外し、最後にどう崩すかを考えている。

 

 それなのに。

 

 勝った後の台詞を考えていた。

 

 春麗は小さく息を吐き、気を取り直して構えた。

 

 けれど、一度浮かんだ考えは簡単には消えなかった。

 

 もし今の流れでリュウを倒したら。

 

 膝をつかせて、こちらが立っている。

 

 リュウは悔しそうに顔を上げる。

 でも目は死んでいない。

 次の一手を、もう考えている。

 

 その顔に向かって、何と言うか。

 

 春麗は軽く顎を上げた。

 

 「また同じところで崩れるなんて、学習してるのかしら?」

 

 言ってみて、すぐに眉を寄せる。

 

 違う。

 

 これは少し強すぎる。

 

 リュウは学習していないわけではない。

 むしろ、誰よりも学習してくる。

 

 敗北をそのままにしない。

 屈辱を拳に変える。

 こちらが一度使った崩しを、次には必ず警戒してくる。

 

 そこを否定するような言葉は、ただの侮辱になる。

 

 春麗は首を振った。

 

 違うわね。

 

 それは、私が言いたいことじゃない。

 

 春麗はもう一度動き出す。

 

 低い踏み込み。

 

 リュウの拳を想定し、半歩外す。

 蹴りを放つ。

 受けられる。

 ならば二撃目は角度を変える。

 それも読まれる。

 そこで止めるのではなく、三撃目を遅らせる。

 

 リュウは速い攻撃には慣れている。

 だから、速さだけでは足りない。

 

 間をずらす。

 

 呼吸をずらす。

 

 春麗は足を振り抜き、床すれすれで止めた。

 

 もし、ここでリュウが崩れたら。

 

 今度は何と言うか。

 

 「惜しかったわね。でも、惜しいだけじゃ私は倒せないわ」

 

 春麗は少し考えた。

 

 悪くない。

 

 悪くないけれど、少し前にも似たようなことを言った気がする。

 

 リュウは悔しそうにするだろうか。

 

 する。

 

 きっとする。

 

 眉をわずかに寄せ、拳を握る。

 何も言い返さず、ただこちらを見る。

 その目に、次は必ず届かせるという火が灯る。

 

 春麗は、その顔を想像してしまった。

 

 無言で立ち上がるリュウ。

 痛みを隠さないまま、それでも背筋を伸ばすリュウ。

 こちらの言葉を侮辱としてではなく、次の課題として受け取るリュウ。

 

 春麗は気づけば、唇の端を少しだけ上げていた。

 

 そして、すぐに我に返る。

 

 「……私、何を考えているの?」

 

 声に出してしまった。

 

 道場には、もちろん返事はない。

 

 春麗は額に手を当てた。

 

 勝つためのトレーニングをしていたはずだ。

 

 リュウの拳をどう外すか。

 どう踏み込ませるか。

 どこで崩すか。

 どうすれば最後に立っていられるか。

 

 それを考えていたはずなのに、いつの間にか勝った後のリュウの反応を想像している。

 

 悔しそうな顔。

 それでも折れない目。

 次は勝つと言う声。

 何も言わずに拳を握る仕草。

 

 そして、それを見て自分が何と言うか。

 

 完全に順序がおかしい。

 

 まず勝たなければ、勝ち台詞も何もない。

 

 春麗は頬に少し熱が集まるのを感じた。

 

 違う。

 

 これは別に、リュウの反応を楽しみにしているわけではない。

 

 戦術だ。

 

 相手の精神を揺さぶる言葉を考えているだけ。

 

 勝利後の一言は、次の戦いにも影響する。

 リュウの闘志を煽る。

 悔しさを残す。

 こちらを意識させる。

 そのすべてが、次の勝負の布石になる。

 

 そう。

 

 これは戦術。

 

 春麗は自分にそう言い聞かせた。

 

 「……戦術よ」

 

 もう一度、口にする。

 

 少しだけ言い訳じみて聞こえた。

 

 春麗はそのことに気づかないふりをして、再び構えた。

 

 リュウなら、ここでどう来る。

 

 彼はもう、こちらの煽りにただ怒るだけの男ではない。

 

 言葉を受けて、沈める。

 沈めて、次の拳に変える。

 

 ならば、言葉も選ばなければならない。

 

 ただ貶すのでは足りない。

 

 リュウを傷つけるだけでは意味がない。

 折るための言葉ではなく、燃やすための言葉でなければならない。

 

 勝者として見下ろしながら。

 でも、次も来いと告げる言葉。

 

 春麗は蹴りを放った。

 

 鋭く。

 速く。

 床を裂くように。

 

 リュウなら、これを受ける。

 

 受けた上で前に出る。

 

 春麗はその前進を想定し、身体を横へ流した。

 

 「その拳、前より近かったわ」

 

 呟く。

 

 悪くない。

 

 春麗は続ける。

 

 「でも、まだ届いてない」

 

 足を止めた。

 

 ……これはいい。

 

 言った瞬間、リュウの顔が浮かんだ。

 

 悔しそうに奥歯を噛む。

 けれど目を逸らさない。

 拳を握り直し、静かに立ち上がる。

 

 次は届かせる。

 

 きっと、そう言う。

 

 あるいは何も言わずに、次の戦いで示そうとする。

 

 春麗の胸の奥が、ふっと熱くなった。

 

 これだ。

 

 この言葉なら、リュウは燃える。

 

 侮辱ではない。

 認めたうえで、まだ足りないと言う。

 

 近かった。

 だが、届いていない。

 

 リュウにとって、これほど悔しい言葉はないはずだ。

 

 春麗は満足しかけて、そこでまた我に返った。

 

 何を満足しているの。

 

 まだ勝ってもいないのに。

 

 春麗は軽く頭を振る。

 

 駄目だ。

 

 今日は少し集中が乱れている。

 

 リュウのせいだ。

 

 いや、リュウはいない。

 

 いない相手のせいにするのは、さすがに無理がある。

 

 春麗は深く息を吸った。

 

 もう一度、最初から組み立てる。

 

 想定リュウを置く。

 

 正面。

 

 距離は中間。

 リュウは構えている。

 呼吸は静か。

 踏み込みの気配はない。

 

 だが、踏み込まないからこそ怖い。

 

 彼は、こちらが動いた瞬間に拳を置く。

 

 ならば、先に動くと見せて、動かない。

 

 春麗は一歩踏み込むふりをした。

 

 すぐに止める。

 

 リュウの拳が来るはずの位置を外す。

 

 そこへ蹴りを置く。

 

 さらに、リュウが耐えた場合。

 

 彼は下がらない。

 

 痛みを受けながら前へ出る。

 

 春麗はその前進を想定し、あえて近距離へ入った。

 

 近い。

 

 この距離のリュウは危険だ。

 

 拳が重い。

 一撃で流れを変えられる。

 

 だから、リュウの拳が完成する前に、胸元へ掌底を入れる。

 

 春麗は掌を突き出した。

 

 空気が鳴る。

 

 そこでリュウが耐えたら。

 

 耐える。

 

 きっと耐える。

 

 彼は耐える男だ。

 

 ならば、二撃目で崩すのではなく、三撃目を隠す。

 

 春麗は回転し、蹴りを放つ。

 

 足先が床の上で止まった。

 

 完璧ではない。

 

 だが、形にはなっている。

 

 勝てるかもしれない。

 

 そう思った瞬間、また言葉が浮かんだ。

 

 「耐えれば勝てると思った? 残念ね。私はそこまで甘くないわ」

 

 春麗は少し考える。

 

 これは少し違う。

 

 リュウは耐えれば勝てるとは思っていない。

 耐えた先に道を作る男だ。

 

 そこを軽く言うのは、やはり違う。

 

 「あなたが前に出るなら、私はその先で待っているわ」

 

 うん。

 

 悪くない。

 

 でも少し格好つけすぎかしら。

 

 春麗は腕を組んだ。

 

 勝ち台詞とは難しい。

 

 短くなければならない。

 勝者として響かなければならない。

 リュウの胸に残らなければならない。

 それでいて、ただの罵倒になってはいけない。

 

 何より、リュウが次に来たくなる言葉でなければならない。

 

 そこまで考えて、春麗は固まった。

 

 次に来たくなる言葉?

 

 私は、リュウにまた来てほしいの?

 

 道場の静けさが急に濃くなった。

 

 春麗は目を伏せる。

 

 答えは、考えるまでもなかった。

 

 来てほしい。

 

 勝っても、負けても。

 何度でも来てほしい。

 

 自分を倒すために。

 自分を越えるために。

 自分とまた戦うために。

 

 そう思っている。

 

 それは格闘家として当然の感情だ。

 

 強敵と戦いたい。

 自分を追い詰める相手を求める。

 勝つたびに強くなって戻ってくる男を、また迎え撃ちたい。

 

 それだけ。

 

 それだけのはずだ。

 

 春麗は胸の奥に生まれた熱を、呼吸で押さえ込んだ。

 

 「これは戦術」

 

 三度目の言い訳は、さすがに自分でも少し苦しかった。

 

 春麗は苦笑する。

 

 まあ、いい。

 

 戦術でも何でもいい。

 

 リュウを煽りたい。

 

 それは事実だ。

 

 倒した後、余裕の顔で見下ろしてやりたい。

 悔しそうな目を見たい。

 けれど、折れた顔は見たくない。

 次に向かう目でいてほしい。

 

 そのための言葉を選びたい。

 

 春麗は、自分の中でようやく認めた。

 

 煽りは、ただの勝利宣言ではない。

 

 リュウへの招待状だ。

 

 次も来なさい。

 もっと強くなって来なさい。

 今度こそ私を倒してみなさい。

 

 そう言うための、春麗なりの言葉だった。

 

 素直に言えばいいのかもしれない。

 

 「また戦いましょう」

 

 「次も待っているわ」

 

 「あなたとの戦いは楽しい」

 

 けれど、そんなことは言えない。

 

 少なくとも、勝った直後のリュウには言えない。

 

 だから煽る。

 

 勝者の顔で。

 余裕の仮面をかぶって。

 本当はギリギリだったとしても、それを隠して。

 

 リュウなら、その奥をわかる。

 

 きっと、わかってしまう。

 

 春麗は目を閉じた。

 

 リュウが片膝をついている。

 

 こちらを見上げている。

 

 悔しそうに。

 それでも、次を見ている目で。

 

 春麗はその想像のリュウへ向かって、静かに言った。

 

 「その拳、前より近かったわ」

 

 一拍置く。

 

 「でも、まだ届いてない」

 

 沈黙。

 

 想像の中のリュウは、何も言わなかった。

 

 ただ、拳を握った。

 

 春麗は満足した。

 

 これがいい。

 

 たぶん、これが今の自分が一番言いたい言葉だ。

 

 認める。

 でも勝者として譲らない。

 そして、次に来る理由を残す。

 

 春麗は再び構えた。

 

 今度は、言葉ではなく動きに戻る。

 

 リュウなら、今の言葉を受けてどう変わる。

 

 もっと深く踏み込んでくる。

 拳を届かせるために、半歩を削ってくる。

 こちらの蹴りを恐れず、懐へ入ってくる。

 

 ならば、こちらはその半歩の奥を用意する。

 

 春麗は床を蹴った。

 

 鋭い跳躍。

 

 空中で回転し、着地と同時に低く沈む。

 そこから掌底。

 相手が耐えた想定で、さらに肘。

 最後に足を絡め、軸を崩す。

 

 動きは流れた。

 

 悪くない。

 

 だが、まだ足りない。

 

 リュウはこれでも倒れないかもしれない。

 

 春麗はさらに速度を上げた。

 

 蹴り。

 踏み込み。

 反転。

 掌底。

 足払い。

 跳躍。

 着地。

 追撃。

 

 道場の床に、連続した足音が刻まれる。

 

 汗が流れた。

 

 呼吸が乱れる。

 

 それでも春麗は止まらない。

 

 勝ち台詞を考えるなら、まず勝たなければならない。

 

 煽りたいなら、倒さなければならない。

 

 そして、倒す相手はリュウだ。

 

 簡単なはずがない。

 

 春麗は最後の蹴りを放ち、ぴたりと止めた。

 

 道場に静寂が戻る。

 

 肩で息をしながら、春麗は小さく笑った。

 

 「次に勝った時、何て言ってやろうかしら」

 

 言ってから、少しだけ頬が熱くなる。

 

 また考えている。

 

 でも、もう否定はしなかった。

 

 春麗はゆっくりと構え直す。

 

 表情から笑みが消える。

 

 目だけが鋭くなる。

 

 「……まずは、勝たなきゃね」

 

 その言葉と同時に、春麗は再び床を蹴った。

 

 想定の中のリュウが、拳を構えて待っている。

 

 彼はきっと、また強くなって来る。

 

 こちらの言葉を燃料にして。

 こちらの蹴りを課題にして。

 こちらの勝利を越えるべき壁にして。

 

 ならば、自分も強くなる。

 

 煽るために。

 

 勝つために。

 

 そして、またリュウに悔しそうな顔をさせるために。

 

 春麗の蹴りが、夜の道場を鋭く裂いた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。