また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
夜の道場には、春麗の足音だけが響いていた。
誰もいない。
観客の歓声もない。
相手の呼吸もない。
石畳のステージとは違い、ここにあるのは磨き込まれた床と、壁にかかった古い武具と、静かに揺れる灯りだけだった。
春麗は中央に立ち、ゆっくりと息を吐く。
目の前には誰もいない。
だが、春麗の中には、はっきりと一人の男が立っていた。
白い道着。
赤い鉢巻。
迷いのない目。
重く、まっすぐな拳。
リュウ。
春麗は構えた。
実際にはいない相手。
けれど、今の春麗にとって、その存在は誰よりも鮮明だった。
リュウなら、ここで踏み込む。
春麗は半歩下がる。
リュウなら、追わない。
追う代わりに、こちらの移動先へ拳を置く。
春麗はそこを読んで、横へ流れる。
だが、リュウなら、それも読んでいる。
一拍遅れて、低い正拳が来る。
春麗は身体を沈め、拳の下をくぐる。
足払い。
リュウなら跳ばない。
軸をずらして、上から掌底を置いてくる。
春麗はその掌底を想定し、肘で弾いた。
空気だけを打つ音が、道場に鋭く響く。
実戦ではない。
けれど、遊びでもない。
春麗は本気で、そこにいないリュウと戦っていた。
彼は強くなっている。
最初に戦った時のリュウとは、もう違う。
女性だからと無意識に拳を鈍らせた男ではない。
敗北の記憶に引きずられるだけの男でもない。
勝ちを焦って、こちらの誘いに飛び込むだけの男でもない。
今のリュウは、待つ。
そして、前に出る。
矛盾しているようで、それが厄介だった。
無暗に追わない。
だが、必要な一歩は必ず踏み込む。
こちらの速さに振り回されず、こちらの呼吸を読もうとしてくる。
だから、春麗も変わらなければならない。
同じ蹴りでは届かない。
同じ誘いでは見抜かれる。
同じ空中投げでは、受け身を取られる。
春麗は床を蹴った。
跳ぶ。
空中で身体をひねる。
リュウなら、ここで昇龍拳を撃つか。
いや。
今のリュウは、簡単には撃たない。
春麗は空中で軌道を変える。
着地の瞬間、低く沈む。
リュウの視線は上から下へ動く。
その瞬間、膝を入れる。
そこまで想定して、春麗は着地した。
足音が一つ、鋭く鳴る。
「……遅いわね」
誰もいない道場で、春麗は小さく呟いた。
もちろん、実際のリュウが遅いわけではない。
むしろ速い。
危険なほどに速い。
だからこそ、想定の中でぐらい、先に言っておきたかった。
春麗はもう一度構え直す。
今の形なら、リュウを崩せるかもしれない。
空中から誘う。
昇龍拳を警戒させる。
着地で低く沈む。
膝で腹を止める。
続けて掌底。
リュウが耐えれば、軸足を払う。
それでも倒れなければ、首元へ足をかけて崩す。
うまく決まれば、勝てる。
そこまで考えたところで、春麗の思考はふと別の方向へ滑った。
この形で倒したら、何て言ってやろうかしら。
春麗の動きが、わずかに止まった。
沈黙。
道場の灯りが、壁に小さな影を揺らしている。
春麗はまばたきをした。
……何を考えているの、私は。
今はトレーニング中だ。
リュウを倒すための動きを組み立てている。
彼の踏み込みを読み、拳を外し、最後にどう崩すかを考えている。
それなのに。
勝った後の台詞を考えていた。
春麗は小さく息を吐き、気を取り直して構えた。
けれど、一度浮かんだ考えは簡単には消えなかった。
もし今の流れでリュウを倒したら。
膝をつかせて、こちらが立っている。
リュウは悔しそうに顔を上げる。
でも目は死んでいない。
次の一手を、もう考えている。
その顔に向かって、何と言うか。
春麗は軽く顎を上げた。
「また同じところで崩れるなんて、学習してるのかしら?」
言ってみて、すぐに眉を寄せる。
違う。
これは少し強すぎる。
リュウは学習していないわけではない。
むしろ、誰よりも学習してくる。
敗北をそのままにしない。
屈辱を拳に変える。
こちらが一度使った崩しを、次には必ず警戒してくる。
そこを否定するような言葉は、ただの侮辱になる。
春麗は首を振った。
違うわね。
それは、私が言いたいことじゃない。
春麗はもう一度動き出す。
低い踏み込み。
リュウの拳を想定し、半歩外す。
蹴りを放つ。
受けられる。
ならば二撃目は角度を変える。
それも読まれる。
そこで止めるのではなく、三撃目を遅らせる。
リュウは速い攻撃には慣れている。
だから、速さだけでは足りない。
間をずらす。
呼吸をずらす。
春麗は足を振り抜き、床すれすれで止めた。
もし、ここでリュウが崩れたら。
今度は何と言うか。
「惜しかったわね。でも、惜しいだけじゃ私は倒せないわ」
春麗は少し考えた。
悪くない。
悪くないけれど、少し前にも似たようなことを言った気がする。
リュウは悔しそうにするだろうか。
する。
きっとする。
眉をわずかに寄せ、拳を握る。
何も言い返さず、ただこちらを見る。
その目に、次は必ず届かせるという火が灯る。
春麗は、その顔を想像してしまった。
無言で立ち上がるリュウ。
痛みを隠さないまま、それでも背筋を伸ばすリュウ。
こちらの言葉を侮辱としてではなく、次の課題として受け取るリュウ。
春麗は気づけば、唇の端を少しだけ上げていた。
そして、すぐに我に返る。
「……私、何を考えているの?」
声に出してしまった。
道場には、もちろん返事はない。
春麗は額に手を当てた。
勝つためのトレーニングをしていたはずだ。
リュウの拳をどう外すか。
どう踏み込ませるか。
どこで崩すか。
どうすれば最後に立っていられるか。
それを考えていたはずなのに、いつの間にか勝った後のリュウの反応を想像している。
悔しそうな顔。
それでも折れない目。
次は勝つと言う声。
何も言わずに拳を握る仕草。
そして、それを見て自分が何と言うか。
完全に順序がおかしい。
まず勝たなければ、勝ち台詞も何もない。
春麗は頬に少し熱が集まるのを感じた。
違う。
これは別に、リュウの反応を楽しみにしているわけではない。
戦術だ。
相手の精神を揺さぶる言葉を考えているだけ。
勝利後の一言は、次の戦いにも影響する。
リュウの闘志を煽る。
悔しさを残す。
こちらを意識させる。
そのすべてが、次の勝負の布石になる。
そう。
これは戦術。
春麗は自分にそう言い聞かせた。
「……戦術よ」
もう一度、口にする。
少しだけ言い訳じみて聞こえた。
春麗はそのことに気づかないふりをして、再び構えた。
リュウなら、ここでどう来る。
彼はもう、こちらの煽りにただ怒るだけの男ではない。
言葉を受けて、沈める。
沈めて、次の拳に変える。
ならば、言葉も選ばなければならない。
ただ貶すのでは足りない。
リュウを傷つけるだけでは意味がない。
折るための言葉ではなく、燃やすための言葉でなければならない。
勝者として見下ろしながら。
でも、次も来いと告げる言葉。
春麗は蹴りを放った。
鋭く。
速く。
床を裂くように。
リュウなら、これを受ける。
受けた上で前に出る。
春麗はその前進を想定し、身体を横へ流した。
「その拳、前より近かったわ」
呟く。
悪くない。
春麗は続ける。
「でも、まだ届いてない」
足を止めた。
……これはいい。
言った瞬間、リュウの顔が浮かんだ。
悔しそうに奥歯を噛む。
けれど目を逸らさない。
拳を握り直し、静かに立ち上がる。
次は届かせる。
きっと、そう言う。
あるいは何も言わずに、次の戦いで示そうとする。
春麗の胸の奥が、ふっと熱くなった。
これだ。
この言葉なら、リュウは燃える。
侮辱ではない。
認めたうえで、まだ足りないと言う。
近かった。
だが、届いていない。
リュウにとって、これほど悔しい言葉はないはずだ。
春麗は満足しかけて、そこでまた我に返った。
何を満足しているの。
まだ勝ってもいないのに。
春麗は軽く頭を振る。
駄目だ。
今日は少し集中が乱れている。
リュウのせいだ。
いや、リュウはいない。
いない相手のせいにするのは、さすがに無理がある。
春麗は深く息を吸った。
もう一度、最初から組み立てる。
想定リュウを置く。
正面。
距離は中間。
リュウは構えている。
呼吸は静か。
踏み込みの気配はない。
だが、踏み込まないからこそ怖い。
彼は、こちらが動いた瞬間に拳を置く。
ならば、先に動くと見せて、動かない。
春麗は一歩踏み込むふりをした。
すぐに止める。
リュウの拳が来るはずの位置を外す。
そこへ蹴りを置く。
さらに、リュウが耐えた場合。
彼は下がらない。
痛みを受けながら前へ出る。
春麗はその前進を想定し、あえて近距離へ入った。
近い。
この距離のリュウは危険だ。
拳が重い。
一撃で流れを変えられる。
だから、リュウの拳が完成する前に、胸元へ掌底を入れる。
春麗は掌を突き出した。
空気が鳴る。
そこでリュウが耐えたら。
耐える。
きっと耐える。
彼は耐える男だ。
ならば、二撃目で崩すのではなく、三撃目を隠す。
春麗は回転し、蹴りを放つ。
足先が床の上で止まった。
完璧ではない。
だが、形にはなっている。
勝てるかもしれない。
そう思った瞬間、また言葉が浮かんだ。
「耐えれば勝てると思った? 残念ね。私はそこまで甘くないわ」
春麗は少し考える。
これは少し違う。
リュウは耐えれば勝てるとは思っていない。
耐えた先に道を作る男だ。
そこを軽く言うのは、やはり違う。
「あなたが前に出るなら、私はその先で待っているわ」
うん。
悪くない。
でも少し格好つけすぎかしら。
春麗は腕を組んだ。
勝ち台詞とは難しい。
短くなければならない。
勝者として響かなければならない。
リュウの胸に残らなければならない。
それでいて、ただの罵倒になってはいけない。
何より、リュウが次に来たくなる言葉でなければならない。
そこまで考えて、春麗は固まった。
次に来たくなる言葉?
私は、リュウにまた来てほしいの?
道場の静けさが急に濃くなった。
春麗は目を伏せる。
答えは、考えるまでもなかった。
来てほしい。
勝っても、負けても。
何度でも来てほしい。
自分を倒すために。
自分を越えるために。
自分とまた戦うために。
そう思っている。
それは格闘家として当然の感情だ。
強敵と戦いたい。
自分を追い詰める相手を求める。
勝つたびに強くなって戻ってくる男を、また迎え撃ちたい。
それだけ。
それだけのはずだ。
春麗は胸の奥に生まれた熱を、呼吸で押さえ込んだ。
「これは戦術」
三度目の言い訳は、さすがに自分でも少し苦しかった。
春麗は苦笑する。
まあ、いい。
戦術でも何でもいい。
リュウを煽りたい。
それは事実だ。
倒した後、余裕の顔で見下ろしてやりたい。
悔しそうな目を見たい。
けれど、折れた顔は見たくない。
次に向かう目でいてほしい。
そのための言葉を選びたい。
春麗は、自分の中でようやく認めた。
煽りは、ただの勝利宣言ではない。
リュウへの招待状だ。
次も来なさい。
もっと強くなって来なさい。
今度こそ私を倒してみなさい。
そう言うための、春麗なりの言葉だった。
素直に言えばいいのかもしれない。
「また戦いましょう」
「次も待っているわ」
「あなたとの戦いは楽しい」
けれど、そんなことは言えない。
少なくとも、勝った直後のリュウには言えない。
だから煽る。
勝者の顔で。
余裕の仮面をかぶって。
本当はギリギリだったとしても、それを隠して。
リュウなら、その奥をわかる。
きっと、わかってしまう。
春麗は目を閉じた。
リュウが片膝をついている。
こちらを見上げている。
悔しそうに。
それでも、次を見ている目で。
春麗はその想像のリュウへ向かって、静かに言った。
「その拳、前より近かったわ」
一拍置く。
「でも、まだ届いてない」
沈黙。
想像の中のリュウは、何も言わなかった。
ただ、拳を握った。
春麗は満足した。
これがいい。
たぶん、これが今の自分が一番言いたい言葉だ。
認める。
でも勝者として譲らない。
そして、次に来る理由を残す。
春麗は再び構えた。
今度は、言葉ではなく動きに戻る。
リュウなら、今の言葉を受けてどう変わる。
もっと深く踏み込んでくる。
拳を届かせるために、半歩を削ってくる。
こちらの蹴りを恐れず、懐へ入ってくる。
ならば、こちらはその半歩の奥を用意する。
春麗は床を蹴った。
鋭い跳躍。
空中で回転し、着地と同時に低く沈む。
そこから掌底。
相手が耐えた想定で、さらに肘。
最後に足を絡め、軸を崩す。
動きは流れた。
悪くない。
だが、まだ足りない。
リュウはこれでも倒れないかもしれない。
春麗はさらに速度を上げた。
蹴り。
踏み込み。
反転。
掌底。
足払い。
跳躍。
着地。
追撃。
道場の床に、連続した足音が刻まれる。
汗が流れた。
呼吸が乱れる。
それでも春麗は止まらない。
勝ち台詞を考えるなら、まず勝たなければならない。
煽りたいなら、倒さなければならない。
そして、倒す相手はリュウだ。
簡単なはずがない。
春麗は最後の蹴りを放ち、ぴたりと止めた。
道場に静寂が戻る。
肩で息をしながら、春麗は小さく笑った。
「次に勝った時、何て言ってやろうかしら」
言ってから、少しだけ頬が熱くなる。
また考えている。
でも、もう否定はしなかった。
春麗はゆっくりと構え直す。
表情から笑みが消える。
目だけが鋭くなる。
「……まずは、勝たなきゃね」
その言葉と同時に、春麗は再び床を蹴った。
想定の中のリュウが、拳を構えて待っている。
彼はきっと、また強くなって来る。
こちらの言葉を燃料にして。
こちらの蹴りを課題にして。
こちらの勝利を越えるべき壁にして。
ならば、自分も強くなる。
煽るために。
勝つために。
そして、またリュウに悔しそうな顔をさせるために。
春麗の蹴りが、夜の道場を鋭く裂いた。