また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
前話で、救済前の拗れ黒ドレス春麗がリュウに圧勝し、「黒でリュウを黙らせた」ことで黒執着を正当化してしまった直後の続きです。
リュウは、修行場に残っていた。
春麗はもういない。
黒いドレスの裾が夜の中に消えてから、どれほど経ったのかはわからなかった。
胸が重い。
春麗の掌底が、まだそこに残っている。
一度ではない。
二度。
三度。
黒の重さを乗せた掌底は、リュウの呼吸を奪い、膝を落とした。
最後に立っていたのは春麗だった。
しかも、辛勝ではなかった。
圧勝。
その言葉を、リュウは静かに受け入れた。
負けた。
完全に負けた。
以前、届いたと思った場所があった。
春麗の肩。
黒の輪郭に拳が届いた場所。
春麗の手首。
黒の動きが始まる場所。
リュウは、そこを覚えていた。
次はそこへ行けばいいと思ったわけではない。
ただ、そこを手がかりに、黒の奥へ入ろうとした。
だが、春麗はそこにいなかった。
手首は、もう黒の起点ではなかった。
肩は、もう黒の輪郭ではなかった。
リュウが覚えていた場所は、春麗にとって罠になっていた。
前に届いた感覚ごと、黒の中へ沈められた。
リュウは右手を開いた。
手のひらには、何も残っていない。
届いた感触すら、今回は薄い。
触れたと思った瞬間には、春麗はそこからいなくなっていた。
黒は強かった。
それは疑いようがない。
春麗は、あの黒を使えていた。
少なくとも、リュウにはそう見えた。
以前とは違う。
初めて黒を着た時のような迷いはなかった。
恥じらいは残っていたのかもしれない。
だが、それはもう動きを鈍らせるものではなく、黒の奥へ閉じ込められていた。
春麗は黒を使っていた。
深く。
正確に。
そして、リュウの記憶まで読んでいた。
「強かった」
リュウは短く言った。
誰に聞かせるためでもない。
ただ、事実として口にした。
あの黒は強かった。
春麗は強かった。
自分は負けた。
それを認める。
そこから始めなければならない。
だが。
リュウは、春麗が去っていった方を見る。
勝った春麗の背中を思い出す。
黒いドレスの裾。
揺れない肩。
乱れていない呼吸。
勝者の足取り。
それでも。
終わった顔ではなかった。
リュウは、そこだけが残っていた。
春麗は勝った。
黒でリュウを沈めた。
「今の黒も、まだ使えていないように見える?」
そう言った。
「私の黒を見抜いたつもりでいたあなたが、どれだけ浅かったか」
そう言った。
言葉は勝者のものだった。
煽りも、圧も、確かに春麗のものだった。
だが、最後に。
リュウが「まだだ」と言った時。
春麗は笑った。
待っていたように。
それが、リュウには残っていた。
黒で勝ったのに。
黒で証明したはずなのに。
春麗は、それで終わっていなかった。
むしろ、次を待っていた。
なら。
リュウは拳を握った。
黒に勝つだけでは足りない。
黒を否定しても違う。
春麗は、黒で勝った。
その黒は確かに強かった。
それを否定したら、春麗には届かない。
だが、黒だけを認めても足りない。
春麗は、黒で勝った後も、こちらを見ていた。
まだ終わっていない顔で。
なら、見るべきものはそこだ。
黒で勝った春麗。
黒でリュウを黙らせようとした春麗。
勝ったのに、それでも次を待っていた春麗。
リュウはゆっくりと息を吐いた。
「黒は強い」
もう一度言う。
「だが、黒だけじゃない」
その言葉が正しいかどうかは、まだわからない。
けれど、そこへ行くしかない。
春麗が黒の中にいるなら、黒の奥を見る。
春麗が黒で勝っても終わらないなら、その終わらなさを見る。
負けたままでは届かない。
だが、負けたことをなかったことにはしない。
リュウは立ち上がった。
胸の痛みが遅れて響く。
膝も重い。
それでも、立った。
次に行くためではない。
今、もう一度見るために。
春麗が去った夜の向こうを、リュウは見た。
「次は、黒に勝つためじゃない」
短く呟く。
「お前を見る」
春麗は、自室に戻ってからも黒いドレスを脱がなかった。
鏡の前に立つ。
黒いドレスの春麗が、そこにいる。
乱れていない。
肩も落ちていない。
呼吸も整っている。
勝者だった。
完全な勝者だった。
春麗は、鏡の中の自分を見て、静かに笑った。
「……勝ったわ」
言葉にすると、胸の奥が熱くなる。
今度は間違いなく勝った。
黒で。
リュウに。
以前、リュウに見抜かれた。
黒を着ている。
でも、まだ迷っている。
その黒を全部使えていない。
忘れられなかった。
何度、他の相手に勝っても消えなかった。
黒で勝つたびに、あの言葉が濃くなった。
リュウに言われたから。
リュウに見抜かれたから。
リュウに負けたから。
だから、黒を磨いた。
他の相手に使った。
何度も勝った。
それでも足りなかった。
そして今日。
ようやく、リュウを沈めた。
春麗は黒いドレスの裾に触れる。
「使えたでしょう?」
鏡の中の自分に言う。
いや。
そこにいないリュウへ言っている。
「今の黒は、使えていたでしょう?」
答えはない。
でも、答えはもういらない。
リュウは負けた。
膝をついた。
立てなかった。
それが答えだった。
春麗は肩に触れる。
今回は、ほとんど届かせなかった。
手首を見る。
そこにも、リュウの感触は薄い。
前とは違う。
今回は、リュウが来る場所を全部見ていた。
手首に来ることも。
肩に来ることも。
黒の奥へ入ろうとすることも。
全部。
全部、見えていた。
「浅かったのよ」
春麗は小さく言った。
「私の黒を見抜いたつもりで」
でも、その声は少しだけ震えていた。
怒りではない。
喜びでもない。
もっと面倒なものだった。
リュウは、負けても折れなかった。
両膝をついても、目は死んでいなかった。
「まだだ」
そう言った。
春麗は、あの瞬間を思い出す。
胸の奥が跳ねる。
勝ったのに。
完全に勝ったのに。
リュウが「まだだ」と言った瞬間、自分は笑った。
待っていた。
そう言われることを。
黒でリュウを沈めたのに。
リュウがまだ来ると言うことを、待っていた。
「……本当に」
春麗は鏡の中の自分を睨む。
「面倒な女ね」
認めている。
もう、そこは否定しない。
ただ、今回の面倒さは少し質が悪い。
勝った。
圧勝した。
黒を証明した。
なのに、終わらない。
いや。
終わらせたくない。
春麗は黒いドレスの胸元に手を置いた。
この黒は、リュウに負けた黒だった。
リュウに見抜かれた黒だった。
そして今日、リュウに勝った黒になった。
だったら終わっていいはずだった。
満たされていいはずだった。
なのに、春麗の中で、黒はさらに深くなろうとしている。
次も来る。
リュウは来る。
「まだだ」と言った。
なら、次はどう来る。
手首ではない。
肩でもない。
黒の起点を変えたことを、リュウは覚える。
前回の攻略を罠にしたことも、覚える。
では次は。
春麗は、鏡の前で少しだけ目を細めた。
次のリュウは、黒に勝つためだけには来ないかもしれない。
そんな予感があった。
嫌な予感だった。
いや。
少しだけ、期待だった。
「……何を考えているのかしらね」
春麗は自分に言う。
「私は勝ったのよ」
勝った。
黒で勝った。
リュウを沈めた。
だから、もう十分なはずだ。
それなのに、リュウが次に何を見るのかを考えている。
リュウが次にどこへ来るのかを想像している。
リュウがまた、自分の知らないところへ届くかもしれないことを、想像してしまっている。
腹立たしい。
嬉しい。
そして、恐ろしい。
春麗は黒いドレスの裾を握った。
「次も、黒よ」
声が低くなる。
「次も、この黒であなたを沈める」
それは宣言だった。
同時に、縛りだった。
春麗自身を黒へ縛る言葉。
でも、今の春麗にはそれが心地よかった。
黒で勝った。
だから黒で待つ。
それの何が悪いのか。
そう思おうとして。
春麗は、ふと鏡の中の自分の顔を見た。
勝者の顔。
強い顔。
黒に馴染んだ顔。
けれど。
終わった顔ではない。
春麗は、唇を噛んだ。
リュウが見たら、何と言うだろう。
黒は強い。
そう言うかもしれない。
負けた。
そう認めるかもしれない。
だが、その後に。
春麗は首を振った。
「言わせないわ」
先回りするように呟く。
「あなたに、また何かを見抜かせたりしない」
黒いドレスの裾が、静かに揺れた。
春麗は、鏡の中の自分へ近づく。
「次も来なさい、リュウ」
声は甘くない。
けれど、リュウにだけ向けられていた。
「今度は、何を見ようとしているのか」
春麗は笑う。
「黒の中で、確かめてあげる」
翌日、リュウは修行場に来た。
まだ胸は痛む。
だが、動けないほどではない。
春麗はいなかった。
リュウはひとりで構える。
昨日の春麗を思い出す。
黒の重さ。
手首の空白。
肩の奥へ沈む輪郭。
三度目の掌底。
そして、勝った後の春麗の顔。
リュウは拳を出した。
空を打つ。
もう一度。
黒の裾を追わない。
手首を狙わない。
肩を狙わない。
リュウは拳を止める。
違う。
そこではない。
黒の起点を探しても、春麗は変える。
黒の奥を見ようとしても、春麗は奥をずらす。
なら、春麗が黒を変える理由を見る。
なぜ変えたのか。
なぜそこまで黒を深くしたのか。
なぜ、勝った後も終わった顔ではなかったのか。
リュウは、ゆっくり息を吸う。
春麗は黒で勝った。
強かった。
その事実は消えない。
だが、春麗が黒で勝った後も、次を見ていたことも消えない。
リュウは目を閉じた。
昨日の春麗の声を思い出す。
「私をここまで黒にこだわらせたのは、あなたよ」
「そして今日、その黒であなたは負けた」
その通りだ。
自分が春麗の黒を見抜いた。
自分が春麗の黒を拗らせたのかもしれない。
そして、自分はその黒に負けた。
なら、次に必要なのは、勝つことだけではない。
春麗が黒で勝ったことを認める。
そのうえで、黒の中に閉じた春麗を見る。
リュウは拳を下ろした。
「黒は強い」
声に出す。
「あの黒に、俺は負けた」
それを認める。
認めたうえで、続ける。
「だが」
リュウは目を開けた。
「お前は、まだ終わっていなかった」
その言葉は、まだ春麗には届いていない。
だが、次に会った時には届かせる。
春麗が怒ることはわかっていた。
否定することもわかっていた。
黒で勝った春麗に、そんなことを言えば、さらに黒が重くなるかもしれない。
それでも、言わなければならない。
黒は強い。
だが、黒だけではない。
リュウはもう一度構える。
今度は拳を出さなかった。
見る。
拳より先に。
黒より先に。
勝敗より先に。
春麗を。
春麗は、その気配を遠くから見ていた。
リュウが修行場にいる。
昨日、圧勝されたばかりなのに。
もう来ている。
春麗は黒いドレスではなかった。
まだ着ていない。
けれど、指先は黒の感触を覚えている。
リュウは構えていた。
しかし、拳を出していない。
春麗は眉をひそめる。
何をしているの。
黒の攻略ではない。
青の追跡でもない。
ただ、立っている。
見ている。
春麗は胸の奥がざわつくのを感じた。
リュウが、こちらに気づいた。
春麗は隠れなかった。
ゆっくり歩み出る。
「もう来たの?」
声は冷たい。
だが、内側には熱がある。
リュウは春麗を見る。
「来た」
「昨日、あれだけ負けたのに?」
「ああ」
「懲りないのね」
「そうだな」
春麗は笑った。
「なら、次も黒で沈めてあげる」
リュウは静かに頷く。
「黒は強かった」
春麗の足が止まった。
リュウは続ける。
「俺は負けた」
春麗は目を細める。
それは、聞きたかった言葉のはずだった。
黒を認める言葉。
敗北を認める言葉。
それなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
「……そう」
春麗は笑う。
「ようやくわかったのね」
「ああ」
リュウは春麗を見る。
逃げない。
見てくる。
昨日、黒に沈められたのに。
まだ見てくる。
「だが」
リュウは言った。
春麗の指先が動いた。
その一言が、黒の裾を引いたように感じた。
「何?」
声が少し低くなる。
リュウは言う。
「あの黒で勝った後のお前は、終わった顔をしていなかった」
春麗は、完全に止まった。
空気が変わる。
昨日の黒よりも、静かな圧が春麗の中に生まれた。
「……何を」
春麗は笑おうとした。
「何を言っているの?」
笑えた。
声だけは。
「私は勝ったわ」
「ああ」
「圧勝だった」
「ああ」
「あなたは膝をついた」
「ああ」
「それで、何が終わっていないっていうの?」
リュウは黙らない。
逃げない。
「勝った後も、俺を見ていた」
春麗の胸が跳ねた。
「当然でしょう。勝者が敗者を見るくらい」
「違う」
リュウは短く言った。
春麗の表情が消える。
「違う?」
「ああ」
「あなた、昨日あれだけ負けて、まだ私の黒を見抜いたつもり?」
声が冷たくなる。
「浅いって言ったでしょう?」
リュウは頷く。
「浅かった」
春麗は一瞬、言葉を失う。
「俺は浅かった」
リュウははっきり言った。
「あの黒を見切れていなかった」
春麗の中で、何かが揺れる。
否定しない。
リュウは黒を否定しない。
負けを誤魔化さない。
春麗の黒を弱いとも言わない。
「なら」
春麗は言う。
「何を見たと言うの?」
リュウは春麗を見る。
「黒で勝った後も、まだ俺に来てほしそうなお前を見た」
春麗は、息を止めた。
それは、黒の奥ではない。
黒のさらに奥だった。
春麗は、唇をわずかに開く。
何も言えなかった。
言えば、何かを認めてしまいそうだった。
リュウは続けない。
ただ、見る。
春麗は、その沈黙が腹立たしかった。
もっと言えばいい。
言わないでほしい。
否定したい。
でも、否定すると余計に見られる気がした。
「……あなた」
春麗は、ようやく声を出した。
「本当に、嫌なところを見るわね」
リュウは答える。
「見えた」
「見えた、じゃないわ」
春麗は一歩近づく。
まだ黒は着ていない。
それなのに、空気が重くなる。
「次は黒で来るわ」
「わかった」
「昨日より、もっと深く」
「ああ」
「あなたが何を見ようとしているのか、その目ごと沈めてあげる」
リュウは静かに頷く。
「それでも見る」
春麗は笑った。
かなり危うい笑みだった。
「そう」
一拍。
「なら、来なさい」
春麗は背を向ける。
心臓が、うるさい。
昨日、黒で圧勝した。
それなのに、リュウはもう次の場所を見ている。
黒は強いと認めた。
負けたと認めた。
そのうえで、黒で勝った後の春麗を見たと言った。
春麗は黒いドレスをまだ着ていないのに、もう黒が重くなっていくのを感じた。
でも、同時に。
その重さの中に、ほんのわずかなひびが入った気がした。
春麗は振り返らずに言う。
「次は、後悔させるわよ」
リュウは答えた。
「それでも行く」
春麗は笑った。
悔しい。
腹立たしい。
嬉しい。
そして、怖い。
この男は、本当に黒に勝とうとしているのではない。
黒の中の自分を見ようとしている。
春麗は歩きながら、低く呟いた。
「……なら、見てみなさい」
声は、リュウには届かなかった。
けれど、次の黒には届く。
その奥で、春麗は待つ。
沈めるために。
そして、たぶん。
見つけられないために。
この『妄想章IF:春麗は、黒に負けてなお黒を求める』から続くシリーズは特定ルートを得ることで解放される本編から派生する裏モードの最難関の黒証明ルートになります。
最難関なのはリュウが黒ドレス春麗との再選で圧勝されているからです。