また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚―― 作:エーアイ
春麗は勝つつもりで来た。
油断ではない。
慢心でもない。
リュウが弱いなどと思っていない。
むしろ、誰よりも警戒している。
リュウは強い。
戦うたびに強くなる。
こちらが一度見せた崩しを、次には必ず警戒してくる。
こちらが使った煽りさえ、次の拳の重さに変えてくる。
だから、勝つつもりで来た。
勝てるだろう、ではない。
勝たなければならない、でもない。
勝つための準備をしてきた。
夜のステージに立つ春麗の中には、昨夜の道場で繰り返した動きがまだ残っていた。
リュウなら、ここで拳を置く。
なら、自分はこう外す。
リュウなら、ここで踏み込む。
なら、その先で崩す。
リュウなら、こちらの後退を誘いと読む。
なら、誘いだと読ませたうえで、さらにその外側を取る。
何度も組み立てた。
何度も崩した。
何度も、想像の中のリュウを倒した。
そして、そのたびに春麗は一つの台詞を思い浮かべていた。
その拳、前より近かったわ。
でも、まだ届いてない。
悪くない台詞だと思った。
侮辱ではない。
けれど、優しくもない。
リュウの成長は認める。
そのうえで、まだ自分には届かないと突きつける。
きっとリュウは悔しそうに拳を握る。
けれど折れない。
目を逸らさず、次は届かせると言う。
春麗はその顔を想像し、胸の奥に熱を感じた。
だからこそ、今日は勝つ。
あの台詞を言うためにも。
リュウは、ステージの中央に立っていた。
白い道着。
赤い鉢巻。
静かな目。
以前よりも、さらに静かだった。
春麗はその静けさを見て、内心で警戒を強めた。
怒っているリュウは怖くない。
焦っているリュウも崩せる。
勝ちを急ぐリュウなら、こちらの誘いに乗せられる。
だが、静かなリュウは危険だ。
敗北も、悔しさも、屈辱も、すべて身体の奥へ沈めている。
そして必要な時だけ、それを拳として出してくる。
「来たな」
リュウが言った。
「ええ」
春麗は軽く構える。
「今日は、倒される準備はできているの?」
リュウは表情を変えない。
「倒されるつもりはない」
「でしょうね」
春麗は笑った。
「だから、倒しがいがあるのよ」
リュウの目がわずかに細くなる。
それだけで十分だった。
始まる。
合図はなかった。
先に動いたのは、春麗だった。
低く、速く踏み込む。
リュウならここで拳を置く。
その通り、拳が来た。
春麗は身体を沈め、拳の下をくぐる。
読めている。
リュウなら、外された拳をすぐ戻す。
その通り、戻しが来る。
春麗は半歩横へ流れた。
ここで膝。
リュウの腹へ向けて、鋭く膝を入れる。
リュウは腕で受ける。
しかし受けきれていない。
呼吸がわずかに乱れた。
春麗は逃がさない。
掌底。
リュウの胸元を押し込む。
リュウは下がらない。
想定通り。
下がらず前へ来る。
なら、その前進の軸を崩す。
春麗はリュウの足元へ低く入った。
足払い。
リュウは跳ばない。
軸をずらす。
それも想定通り。
春麗は足払いを途中で捨て、肘を上げた。
リュウの脇腹へ入る。
「ぐっ……!」
リュウの息が詰まった。
入った。
春麗は内心で確信する。
組み立ては通じている。
リュウは読める。
少なくとも、序盤は。
彼の拳は重い。
まともに受ければ流れを変えられる。
だが、拳の前にある呼吸は読める。
春麗はリュウの正面から外れ続けた。
一撃目を誘う。
二撃目を空振らせる。
戻り際に膝。
耐えたところへ掌底。
踏み込んでくるなら、その軸を払う。
リュウは押されていた。
観客がいるなら、歓声が上がっていたかもしれない。
けれど今の春麗に、そんなものは必要なかった。
リュウの呼吸だけでわかる。
効いている。
春麗は踏み込む。
リュウが拳を置く。
春麗は外す。
リュウが踏み込む。
春麗はその先で崩す。
繰り返した形が、実戦の中で噛み合っていく。
いける。
そう思った。
だが、その直後だった。
春麗は、わずかな違和感に気づいた。
リュウは確かに想定通りに動いている。
拳を置く。
踏み込む。
耐える。
反撃する。
けれど、少し違う。
拳の戻しが、想定より速い。
踏み込みが、想定より浅い。
攻撃の後に残る隙が、ほんの少し短い。
それだけではない。
リュウは春麗に読ませている。
そう感じた。
春麗が読んで外すことを、リュウも読んでいる。
こちらが組み立てた道筋を、彼は完全には拒まない。
あえて半分乗ってくる。
そのうえで、最後の半歩だけずらしている。
春麗の背筋に、冷たいものが走った。
読んでいたのは、私だけじゃない。
リュウが踏み込む。
春麗は横へ外す。
いつもの流れなら、そこでリュウの拳が空を切る。
だが今回は違った。
リュウの拳は伸び切らなかった。
浅い。
春麗を追いきる前に、彼は拳を戻している。
春麗の反撃の膝が、わずかに遅れる。
そこへリュウの肘が入った。
春麗の肩を打つ。
「っ……!」
重い。
浅いはずなのに、芯に響く。
春麗はすぐに距離を取った。
リュウは追ってこない。
追わない。
ただ、そこに立っている。
こちらの次を待っている。
春麗は呼吸を整えた。
やっぱり、厄介ね。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥が熱くなる。
想定通りに倒れるリュウなど、見たくはない。
想定を越えてくるリュウだからこそ、倒したい。
春麗は再び踏み込んだ。
今度は速さを変える。
最初の蹴りは鋭く。
二撃目は遅らせる。
三撃目は、さらに半拍ずらす。
リュウは受ける。
一撃目。
二撃目。
三撃目。
三撃目で、彼の防御がわずかに遅れた。
入る。
春麗の蹴りがリュウの脇腹を打った。
リュウの身体が揺れる。
春麗は追う。
リュウは下がらない。
それも読んでいる。
下がらないなら、胸元へ掌底を入れて止める。
春麗の掌が、リュウの胸へ向かう。
だが、リュウはそこで前に出なかった。
ほんの半歩、沈んだ。
春麗の掌底が、リュウの肩をかすめる。
外れた。
そこへリュウの拳が来る。
春麗は腕で受ける。
重い。
腕が痺れる。
けれど、これも完全には入っていない。
互いに読み合っている。
互いに決め切れない。
春麗は歯を食いしばった。
それでいい。
ギリギリでいい。
この男に勝つ時は、いつだって楽ではない。
楽ではないから、勝った後の言葉が効く。
その拳、前より近かったわ。
でも、まだ届いてない。
その台詞が、ふと頭をよぎった。
今なら言える。
このまま押し切れば。
リュウを崩して、片膝をつかせて。
自分が立ったまま、あの言葉を言う。
春麗は一瞬、想像してしまった。
悔しそうに顔を上げるリュウ。
黙って拳を握るリュウ。
次は届かせる、と静かに言うリュウ。
その顔を見たい。
その反応を見たい。
勝った後に、言ってやりたい。
その拳、前より近かったわ。
でも、まだ届いてない。
その瞬間だった。
リュウの目が変わった。
春麗は気づいた。
しまった。
勝ちを、見た。
まだ勝っていないのに。
ほんの半拍、心が先に勝利の場面へ行った。
リュウは、その半拍を見逃さなかった。
春麗が踏み込む。
掌底を入れに行く。
本来なら、ここでリュウは耐える。
春麗の想定ではそうだった。
彼は受ける。
耐える。
そのうえで反撃してくる。
だから春麗は、その反撃の先まで用意していた。
だが、リュウは耐えなかった。
下がりもしなかった。
春麗の攻撃を受ける前に、入ってきた。
攻撃の前。
春麗の掌底が完成する、その前。
リュウの拳が、春麗の肩口に入った。
強烈な一撃ではない。
だが、最悪の位置だった。
踏み込みの軸が止まる。
次の蹴りが出ない。
肩から腕にかけて衝撃が走り、春麗の身体が一瞬硬直した。
「!」
春麗の目が見開かれる。
リュウはそこにいた。
いつもより近い。
春麗の想定より、半歩先に。
リュウの拳がもう一度来る。
春麗はかわそうとする。
だが、肩が遅れる。
脚が反応しない。
さっきの一撃で、動きの始まりを止められている。
リュウの拳が、今度は胸元へ入った。
深くはない。
でも、呼吸が止まる。
春麗は下がろうとした。
リュウは追わない。
追わずに、そこへ拳を置いた。
春麗が逃げようとする先に。
ああ。
春麗は理解した。
自分がリュウにやっていたことを、今度はリュウがやっている。
追わない。
置く。
動く先を先に塞ぐ。
春麗は身体をひねった。
かろうじて直撃を外す。
だが、完全には避けられない。
拳が脇腹をかすめる。
痛みが走る。
春麗は奥歯を噛み、無理やり跳んだ。
空中へ。
ここで流れを変える。
空中から軌道を変え、リュウの背後へ。
あるいは着地と同時に低く沈み、膝を入れる。
まだ勝てる。
まだ終わっていない。
リュウが見上げる。
昇龍拳。
来るか。
春麗は軌道を変えた。
しかし、リュウは撃たない。
撃つと見せて、一歩前へ出た。
春麗の着地地点が狭まる。
読まれている。
春麗は着地と同時に低く沈んだ。
掌底。
今度こそ入れる。
あと一撃。
これが入れば、崩せる。
春麗はリュウの胸元へ踏み込んだ。
だが、リュウはまた下がらなかった。
受ける前に入る。
拳ではない。
肩。
リュウの肩が春麗の踏み込みにぶつかった。
打撃ですらない。
ただ、間合いを潰された。
春麗の掌底は威力を失う。
胸に届く前に、肘が詰まる。
そこへリュウの拳が下から入った。
腹ではない。
腰の少し上。
踏み込みの力が集まる場所。
春麗の身体から、次の動きが消えた。
足が止まる。
蹴れない。
跳べない。
腕も戻らない。
その一瞬、春麗は完全に止められた。
そして最後に、リュウの拳が届いた。
春麗の胸元を押し込むような一撃。
重く、静かな拳。
春麗の身体が後ろへ流れる。
倒れまいと踏ん張る。
だが、膝が落ちた。
片膝が石畳につく。
冷たい感触が、そこから身体中へ広がる。
負けた。
春麗は、すぐに理解した。
本当に、あと少しだったのに。
あと一撃。
あと半歩。
あと一呼吸。
さっき勝利の台詞を想像していなければ。
あの半拍、勝ちを見ていなければ。
リュウの肩口への一撃を許していなければ。
立っていたのは自分だったかもしれない。
でも、今立っているのはリュウだった。
春麗は顔を上げた。
リュウが見下ろしている。
勝者として。
けれど、いつもの春麗のように笑ってはいない。
息は乱れている。
肩も上下している。
腕も重そうに下がっている。
彼もまた、ギリギリだった。
それがわかるから、余計に悔しかった。
圧倒されたのなら、まだ受け入れられる。
完敗なら、次の課題も明確だ。
でも、そうではない。
紙一重だった。
だから悔しい。
春麗は唇を噛みかけ、すぐにやめた。
勝者の前で、そんな顔は見せたくない。
だが、片膝をついたまま見上げている時点で、十分に悔しい姿だった。
何か言うの?
春麗は内心で思った。
言うなら言いなさいよ。
私がいつも言っているみたいに。
「惜しかったな」とでも言う?
「まだ届いていない」とでも言う?
「修業が足りない」とでも言う?
言われたら、腹が立つ。
きっと腹が立つ。
でも、言われないのも腹が立つ。
春麗はリュウを睨むように見上げた。
リュウは静かに息を吐いた。
そして言った。
「また戦ってくれ」
春麗の胸が、一瞬止まった。
煽りではない。
少なくとも、リュウ本人は煽っていない。
勝ち誇るでもない。
見下すでもない。
ただ、まっすぐにそう言った。
また戦ってくれ。
春麗はその言葉の意味を理解した。
今度は、俺が待つ。
そう言われているのと同じだった。
今までは、自分が勝者としてリュウを待った。
何度でも迎え撃つと言った。
悔しいなら来なさいと煽った。
今度は逆だ。
リュウが立っている。
春麗が膝をついている。
リュウが待つ側になる。
春麗が挑む側になる。
優しい言葉のようで、これほど効く言葉はなかった。
春麗は奥歯を噛んだ。
ずるい。
煽らないくせに。
煽らないからこそ、余計に刺さる。
リュウは続けた。
「今度は、俺が待つ」
春麗は目を伏せそうになり、こらえた。
やっぱり言った。
言葉は静かだ。
だが、その意味は明確だった。
次は、お前が来い。
春麗は悔しかった。
自分が言いたかった台詞を言えなかった。
リュウを悔しがらせるつもりだった。
その拳はまだ届いていないと、笑って言うつもりだった。
なのに、届かせたのはリュウの方だった。
そして今、自分は見上げている。
勝者のリュウを。
春麗はゆっくりと立ち上がった。
膝が少し震える。
それを気づかれたくなくて、背筋を伸ばした。
「……言うようになったわね」
それだけ返すのが精一杯だった。
リュウは静かに春麗を見る。
「次も、本気で来てくれ」
春麗は笑った。
笑うしかなかった。
「当然でしょう」
声は少しだけ硬かった。
「次は、そんな台詞を言わせないわ」
リュウはうなずいた。
春麗は背を向けた。
これ以上、今の顔を見せたくなかった。
控えの通路に入った瞬間、春麗は壁に手をついた。
「……っ」
身体の力が抜ける。
腹が重い。
肩が痺れている。
胸元に入った最後の拳の感触が、まだ残っている。
強烈な一撃ではなかった。
けれど、完全に止められた。
力で吹き飛ばされたわけではない。
こちらの動きの始まりを読まれ、踏み込みの軸を潰され、次の蹴りを出す前に止められた。
負けた。
本当に負けた。
春麗は壁に額を近づけ、深く息を吐いた。
悔しい。
痛いからではない。
負けたからだ。
それも、勝つつもりで来て、勝ち台詞まで考えていた自分が負けたからだ。
何が、
その拳、前より近かったわ。
でも、まだ届いてない
よ。
春麗は自嘲するように、口元を歪めた。
届かせたのは、あっちじゃない。
自分が言うはずだった言葉が、喉の奥で苦く沈んでいる。
言えなかった。
言う前に、リュウの拳が届いた。
春麗は肩を押さえた。
リュウの一撃が入った場所が、じんじんと痛む。
そこを止められた瞬間、全部が狂った。
あの半拍。
勝った後のリュウの顔を想像した、あの半拍。
自分は、勝利を見た。
まだ勝っていないのに。
以前、リュウがそうだった。
勝てると思った瞬間、春麗が崩した。
今度は、自分が崩された。
きれいな反転だった。
腹が立つくらいに。
春麗は拳を握った。
リュウの言葉が耳に残っている。
また戦ってくれ。
今度は、俺が待つ。
煽っていない。
リュウは煽らない。
でも、あれは春麗にとって、どんな挑発よりも効いた。
今度は自分が挑む側。
リュウが待つ側。
その事実が、胸の奥に火をつける。
悔しい。
本当に悔しい。
だが、その悔しさの中に、次の戦いへの熱がある。
春麗はゆっくりと壁から手を離した。
身体はまだ重い。
膝も少し震えている。
でも、目はもう前を向いていた。
次は、私が言う。
あなたの拳は、まだ届いてないって。
春麗は小さく息を吐いた。
違う。
今度こそ、言ってやる。
その拳、まだ私には届いてないって。
そして、今度こそ言うためには、勝たなければならない。
リュウは待つと言った。
なら、待っていればいい。
勝者の顔で。
静かな目で。
あの腹の立つくらいまっすぐな拳を握って。
春麗は通路の奥へ歩き出した。
悔しさは消えない。
消すつもりもない。
この悔しさを、次の蹴りに変える。
この敗北を、次の踏み込みに沈める。
そして次にリュウの前に立った時、今度こそ自分が勝者として見下ろす。
春麗は唇の端を上げた。
「だから、それまで待っていなさい、リュウ」
声は小さかった。
誰にも聞こえない。
けれど、その中には確かな熱があった。
「次は、負けないわ」