また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
もしも本編の「めんどくさい女と自覚した春麗」が、どこかの平行世界で展開された拗れ春麗救済裏ルート最難関の詳細を、残響として受信してしまったらという話です。
春麗は、動けなかった。
それは夢ではなかった。
記憶でもない。
報告でもない。
誰かから聞いた話でもない。
けれど、春麗は見てしまった。
どこか別の世界で、自分が辿ったかもしれない道。
十度勝った春麗。
十一度目でリュウに敗れた春麗。
黒いドレスに出会い、その黒を使いこなせず、リュウに見抜かれた春麗。
そこまでは、まだよかった。
いや、よくはない。
かなり危うい。
けれど、想像はできた。
問題は、その先だった。
その春麗は、黒に囚われた。
他の相手にも黒を使った。
勝った。
何度も勝った。
けれど満たされなかった。
黒の奥は、結局リュウにしか開かなかった。
春麗は、そこで少しだけ目を伏せる。
「……でしょうね」
認めたくはない。
けれど、わかってしまう。
あの黒は、誰にでも見せるものではない。
黒の表面は誰にでも通じる。
裾の遅れ。
視線誘導。
間合いの沈み。
青とは違う重さ。
でも、黒の奥は違う。
そこまで来るのは、リュウだけだ。
来てしまうのも、リュウだけだ。
春麗は唇を噛んだ。
見えた残響は、そこで終わらなかった。
拗れた春麗は、リュウに黒で圧勝した。
完全に。
膝をつかせた。
沈めた。
黙らせた。
あの春麗は、リュウに言った。
今の黒も、まだ使えていないように見える?
私の黒を見抜いたつもりでいたあなたが、どれだけ浅かったか。
春麗は、胸の奥に鈍い熱を覚えた。
それは嫉妬に似ていた。
同時に、警戒でもあった。
「……あなた、そこまでやったのね」
この時空の春麗は、黒を自分で引き受けた。
自分が面倒な女だと自覚している。
黒をリュウに向けることも、自分の中の重さも、自分で認めた。
けれど、あちらの春麗は違った。
黒で傷つき、黒に囚われ、黒でリュウを沈めた。
その勝利は、美しかった。
危ういほどに。
春麗は、それが少し悔しかった。
自分はそこまで拗れていない。
そう思いたい。
だが、残響の中の春麗が黒でリュウを圧倒した時、春麗はそれを完全には否定できなかった。
リュウに黒で勝つ。
リュウに、今の黒を見せつける。
リュウに、自分の黒を浅く見たことを思い知らせる。
その快感が、わかってしまう。
わかってしまう自分が、腹立たしい。
「……私も、相当ね」
春麗は自嘲した。
だが、残響はまだ続いた。
リュウは、負けても折れなかった。
圧勝されても、また来た。
春麗の黒を否定しなかった。
黒は強い。
俺は負けた。
お前は黒を使えている。
そう認めた。
そのうえで、リュウは見た。
黒で勝った後も、終わった顔をしていなかった春麗を。
春麗は、そこで息を止めた。
あちらの春麗は、黒で勝っても終われなかった。
黒で勝った。
証明した。
リュウを沈めた。
それでも、終われなかった。
それをリュウに見られた。
春麗は、胸の奥が少し冷えるのを感じた。
「……嫌なところを見るわね、本当に」
それはあちらのリュウへの言葉だった。
同時に、この時空のリュウへの言葉でもあった。
リュウはそういう男だ。
負けても来る。
届かなくても見る。
見抜けなくても、次にもっと深く来る。
黒に沈めても終わらない。
だから厄介なのだ。
倒せる。
でも終わらせられない。
春麗は、自分が以前そう思ったことを思い出した。
そして、残響の中で、リュウはさらに踏み込んだ。
黒で俺に勝ったお前も見る。
黒で俺を黙らせようとしたお前も見る。
それでも、黒だけがお前だとは思わない。
春麗は、目を閉じた。
それは、あちらの春麗に向けられた言葉だ。
それなのに、自分にも刺さる。
黒だけではない。
そんなことはわかっている。
自分は青も持っている。
黒も持っている。
自覚もある。
面倒さも引き受けている。
わかっている。
それでも、リュウにそう言われたらどうなるか。
春麗は、想像してしまった。
黒を否定されるのではない。
黒から引き剥がされるのでもない。
黒を使う自分を認められたうえで、黒だけではないと言われる。
それは、強い。
あまりにも強い。
「……ずるいわね」
春麗は低く呟いた。
「あなた、そこまで言わせたのね」
残響の中の拗れ春麗に対する言葉だった。
羨望だった。
悔しさだった。
そして、少しだけ祝福でもあった。
あちらの春麗は、さらに青を選んだ。
黒で勝った後に。
黒でリュウを沈めた後に。
黒から逃げたわけではない。
黒を捨てたわけでもない。
黒で勝ったうえで、青を選んだ。
春麗は、そこに一番揺れた。
青は原点だ。
軽く、速く、先へ行く自分。
けれど、黒に囚われた春麗にとって、青は黒よりも怖かった。
黒なら言い訳ができる。
リュウに見抜かれたから。
リュウに勝ちたいから。
リュウに黒を認めさせたいから。
でも青は違う。
青は、黒に隠れていない自分だ。
春麗はその感覚を理解できてしまった。
この時空の春麗は、青を捨ててはいない。
だが、黒を知った後の青は、もう昔の青ではない。
黒を通った青。
見られることを知った青。
リュウに届かれた記憶を持つ青。
それは、ただ軽いだけではない。
「……黒を知った青、か」
春麗は小さく言った。
その言葉が、自分の中でも形になる。
そして残響の中で、リュウは言った。
黒でも青でも見る。
俺が見るのは、お前だ。
春麗は、完全に黙った。
その言葉は、反則だった。
リュウらしい。
あまりにもリュウらしい。
恋愛のつもりではないのだろう。
たぶん、そうではない。
リュウにとっては、戦いの中で見つけた答えなのだ。
黒を否定しない。
青を軽く見ない。
迷った春麗も、拗れた春麗も、黒で勝った春麗も、青に戻るのが怖い春麗も見る。
その全部をひっくるめて、春麗を見る。
春麗は、手で口元を覆った。
「……そんなことを言われたら」
言葉が続かない。
そんなことを言われたら、どうなるか。
あちらの春麗は、救われた。
黒から出た。
黒を捨てるのではなく、黒でも青でも選べるようになった。
そして、最後に。
黒でも青でもない朝を歩いた。
春麗は、そのエピローグまで知ってしまった。
黒ドレスでもない。
青い武道服でもない。
戦うためでもない。
ただの朝。
ただ、普段着でリュウの前に来る春麗。
リュウは言った。
今日は、戦わないんだな。
来たんだな。
春麗は、そこでもう一度胸を押さえた。
その言葉は、甘すぎた。
黒でも青でもない春麗に向けられた、静かな確認。
戦わない春麗。
意味を決めすぎない春麗。
黒にも青にも隠れていない春麗。
それをリュウが見る。
その後で、甘いものを一つずつ分けた。
初めての甘い日常。
黒の重さも、青の速さもない。
ただ、二人で並んで歩く速度だけがある。
春麗は、しばらく何も言えなかった。
この時空の春麗は、自分で立っている。
自分が面倒な女であることを、自分で引き受けている。
その自負がある。
けれど、あちらの春麗は、拗れて、沈んで、黒で勝って、それでも終われず、リュウに見つけられた。
その先で得た静かな朝は、とても甘かった。
そして、とても強かった。
「……グランドフィナーレじゃない」
春麗は、ようやく呟いた。
裏ルートの終点。
黒で圧勝した春麗が、黒から出て、青も越えて、どちらでもない朝に立つ。
それは、確かに一つの終着だった。
春麗は、自分の黒いドレスを見た。
受容の黒。
責任圧の黒。
リュウに向ける黒。
次に、青い武道服を見た。
面倒な青。
黒を知った青。
リュウに届かれ、さらに先へ行く青。
そして、普段着を見る。
何でもない服。
意味を持たせていない服。
春麗は、そこで少し笑った。
「……本当に、余計なものを見せてくれるわね」
どこかの世界で展開された残響に向けた言葉だった。
あちらの春麗に向けた言葉でもあった。
あちらのリュウに向けた言葉でもあった。
そして、たぶん。
自分のリュウに向けた言葉でもあった。
その日の夕方、春麗は修行場へ向かった。
黒いドレスではなかった。
青い武道服でもなかった。
普段着でもなかった。
動きやすい服ではある。
戦えないわけではない。
けれど、戦うためだけに選んだ服でもない。
中途半端。
そう言える。
でも、春麗はそれでよかった。
今日は、残響の真似をするつもりはない。
あちらの春麗と同じ道を辿るつもりもない。
自分は救われた春麗ではない。
自分で立つ春麗だ。
けれど。
少しくらい、試してもいい。
黒でも青でもない自分を、リュウがどう見るか。
それくらいは。
修行場にリュウはいた。
いつものように。
白い胴着。
赤い鉢巻。
静かな構え。
春麗が近づくと、リュウは見る。
春麗は、その視線を正面から受けた。
「今日は黒じゃないんだな」
リュウが言った。
春麗は目を細めた。
「見ればわかるわ」
「青でもない」
「そうね」
「戦うのか」
春麗は、少しだけ笑った。
「どうかしら」
リュウは考える。
「珍しいな」
春麗は胸の奥が跳ねるのを感じた。
珍しい。
ただ、それだけの言葉。
それなのに、今日の春麗には刺さる。
黒でも青でもない自分を、リュウが見ている。
春麗は腕を組む。
「何か言うことは?」
リュウは春麗を見た。
考えている。
危険だ。
この男の自由回答は、本当に危険だ。
リュウは言った。
「今日は、軽い」
春麗は少しだけ眉を上げる。
「弱そう?」
「違う」
「なら?」
リュウは、春麗をまっすぐ見た。
「決めすぎていない」
春麗は、動けなくなった。
その言葉は、かなり深く入った。
黒でもない。
青でもない。
戦うとも、戦わないとも決めていない。
決めすぎていない春麗。
リュウはそれを見た。
春麗は、内心で舌打ちしたくなる。
まただ。
また、この男は正解に近いところへ来る。
「……そう」
声を整える。
「なら、今日はそういう日なのかもしれないわね」
リュウは頷く。
「そうか」
「それだけ?」
「いいと思う」
春麗は、目を伏せそうになった。
危ない。
今のは危ない。
いいと思う。
ただそれだけ。
なのに、残響で見た裏ルートの朝が、胸の奥で重なる。
黒でも青でもない春麗。
それをリュウが見る。
本編の自分も、今まさにそれをされている。
春麗は顔を上げた。
「勘違いしないで」
「何をだ」
「私は、どこかの誰かみたいに救われたわけじゃないわ」
リュウは少しだけ首を傾げる。
「誰か?」
「知らなくていいわ」
「そうか」
春麗は一歩近づく。
「私は、自分で立っているの」
「ああ」
「黒も、青も、自分で選ぶ」
「ああ」
「だから、今日こうしているのも、私が選んだことよ」
リュウは春麗を見る。
「わかる」
春麗は、また少しだけ止まる。
「……わかるの?」
「ああ」
「何が?」
「今日は、試している」
春麗の胸が跳ねる。
「何を」
リュウは言った。
「黒でも青でもないお前を、俺が見るか」
春麗は、完全に止まった。
言われた。
言われてしまった。
残響ではなく。
目の前のリュウに。
自分のリュウに。
春麗は、ゆっくり息を吐く。
「……本当に」
声が低くなる。
「あなたは、そういうところよ」
「何がだ」
「知らなくていいわ」
「そうか」
リュウは逃げない。
いつものように。
春麗は、黒でも青でもない服の裾を少しだけ整えた。
「なら、聞くわ」
リュウを見る。
「黒でも見る?」
「ああ」
「青でも見る?」
「ああ」
「今日みたいに、どちらでもなくても?」
リュウは頷く。
「見る」
春麗の胸の奥が、静かに熱くなる。
あちらの春麗が聞いた問い。
自分も、聞いてしまった。
悔しい。
でも、聞かずにはいられなかった。
春麗は目を細める。
「簡単に言うのね」
「簡単ではないのか」
「簡単じゃないわ」
「そうか」
「そうよ」
春麗は少しだけ笑った。
「その言葉、重いのよ」
リュウは春麗を見る。
「なら、覚えておく」
春麗は言葉を失いそうになる。
本当に、この男は。
覚えておく。
それだけで、また重くなる。
「……そう」
春麗は、ゆっくり構えた。
「今日は少しだけやるわ」
リュウも構える。
「わかった」
「ただし、本気ではないわ」
「ああ」
「黒でも青でもない私の動きを試すだけ」
「ああ」
「それでも、油断したら沈めるわよ」
「わかった」
春麗は踏み込んだ。
黒ほど重くない。
青ほど速くない。
けれど、どちらも少しだけ知っている。
黒の間。
青の抜け。
そのどちらにも寄りすぎない動き。
リュウは受ける。
追いすぎない。
沈みすぎない。
春麗を見る。
その視線に、春麗は腹を立てた。
同時に、少しだけ安心した。
見ている。
本当に。
この男は見ている。
黒でも青でもなくても。
春麗は掌底を寸前で止める。
リュウの拳も、春麗の肩の前で止まる。
軽い打ち合い。
勝敗を決めるものではない。
春麗は一歩引く。
「今日はここまで」
リュウは頷く。
「そうか」
「物足りない?」
「いや」
「本当に?」
「ああ」
「……そう」
また少し不満になる。
けれど、それも悪くない。
春麗はリュウを見た。
「今日の私を、忘れないことね」
リュウは答える。
「忘れない」
「黒の時も」
「忘れない」
「青の時も」
「忘れない」
春麗は少しだけ口元を緩めた。
「……責任重大ね」
リュウは静かに言った。
「そうだな」
その素直さが、また胸に刺さる。
春麗は背を向けた。
帰ろうとして、少しだけ立ち止まる。
「リュウ」
「何だ」
「もし、私が面倒でも」
言ってから、春麗は自分で少し驚いた。
そこまで聞くつもりはなかった。
けれど、出てしまった。
リュウは答える。
「知っている」
春麗は、目を閉じた。
それは、反則だった。
「……そう」
声が少しだけ柔らかくなる。
「なら、いいわ」
春麗は歩き出した。
裏ルートの春麗は、リュウに救われた。
黒でも青でもない朝を歩いた。
自分は、その春麗ではない。
でも、知ってしまった。
黒でも青でもない自分も、リュウに見られる可能性を。
春麗は、夜の道を歩きながら小さく呟いた。
「……半分だけなら、認めてあげる」
何を認めるのか。
リュウに見られることか。
裏ルートの春麗の結末か。
自分も少し羨ましかったことか。
たぶん、その全部だ。
春麗は少しだけ笑った。
黒でもない。
青でもない。
それでも、リュウは見る。
なら次は。
黒でも、青でも。
もっと面倒なものを見せてやればいい。
春麗は、少しだけ甘く、けれど本編の春麗らしく強く、夜の中を歩いていった。