また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
「行き遅れに恐怖する春麗」が、どこかの平行世界で展開された 裏ルート拗れ救済最難関――黒に囚われ、黒で勝ち、黒で終われず、リュウに「黒でも青でも見る」と救われた春麗のグランドフィナーレを受信してしまった話です。
春麗は、目を覚ました。
朝だった。
部屋の中は静かで、窓の外からはいつも通りの光が差している。
けれど、胸の奥だけが妙に騒がしかった。
夢ではない。
記憶でもない。
それなのに、春麗は見てしまった。
どこかの世界の自分。
十度勝った春麗。
十一度目で負けた春麗。
黒いドレスに出会い、使いこなせず、リュウに迷いを見抜かれた春麗。
そこから黒に囚われた春麗。
黒で他者に勝っても満たされず、リュウにしか黒の奥が開かないことを知った春麗。
リュウに黒で圧勝し、黒を証明したはずなのに、まだ終われなかった春麗。
そして最後に、リュウに見つけられた春麗。
黒でも青でも見る。
俺が見るのは、お前だ。
春麗は、布団の上で固まっていた。
「……何よ、それ」
声が少し掠れていた。
その世界の春麗は、拗れていた。
かなり拗れていた。
黒に囚われ、リュウに責任を問う。
私を拗れさせた責任を取りなさい。
私を見つけた責任を取りなさい。
私を救った責任を取りなさい。
普通なら、重い。
かなり重い。
けれど。
春麗は、胸の奥を押さえる。
その春麗は、最後に救われていた。
リュウに見つけられた。
黒でも青でも見ると言われた。
黒でも青でもない朝まで辿り着いた。
そして、その後の春麗は甘かった。
黒いドレスで戦わない。
甘いものを半分渡す。
青で戦えば、黒を残した青になる。
黒で戦えば、リュウを沈めない約束の黒になる。
春麗は、頭を抱えた。
「……ずるい」
思わず出た言葉だった。
拗れたくせに。
あそこまで危うくなったくせに。
黒でリュウを沈めて、黒で終われなくて、救われて。
それで、あんなに甘い場所まで行っている。
春麗は、唇を噛んだ。
自分は、行き遅れに怯える春麗だった。
戦いでは強い。
勝ち越している。
リュウにも勝った。
それでも、恋愛方面ではどうしても落ち着かない。
このままでいいのか。
戦って、勝って、からかって、また戦って。
それを続けている間に、何か決定的なものを逃しているのではないか。
リュウは不屈だ。
何度でも来る。
負けても来る。
届かなくても来る。
だから、こちらも安心してしまう。
次がある。
次も来る。
次の勝負でいい。
次に言えばいい。
次に少しだけ近づけばいい。
そう思っているうちに。
春麗は、ふと怖くなる。
次が永遠にあると思っていたら、本当に何も決めないまま時間だけが過ぎるのではないか。
行き遅れ。
その言葉が、やけに現実味を持って胸に刺さる。
「……あの私は」
春麗は、さっき見た断章を思い出す。
「あれだけ拗れても、最後には見つけられたのね」
羨ましい。
とても羨ましい。
黒に囚われたことではない。
リュウに救われたことが、羨ましい。
自分はそこまで拗れていない。
たぶん。
いや、十分に面倒ではある。
それでも、あの裏ルート春麗ほどの黒執着はない。
だから、あの春麗ほど明確な救済イベントも起きない。
黒に囚われた春麗は、黒でも青でも見ると言われて救われた。
では、自分は?
行き遅れに怯える春麗は、何と言われれば救われるのか。
春麗は、鏡の前に立った。
鏡の中の自分は、少し疲れた顔をしていた。
戦い疲れではない。
考え疲れだ。
「……私の場合」
春麗は鏡の中の自分を見る。
「黒でも青でも見る、では足りないのかしら」
それは効く。
確実に効く。
でも、今の自分の不安は少し違う。
リュウが見てくれるかどうか。
それも大事だ。
だが、今はそれ以上に怖い。
見てくれるだけで、終わらないのではないか。
見て、戦って、また来て、また戦って。
それで気づいたら何も決まっていないのではないか。
春麗は、思わず顔を覆った。
「……重いわね、私」
自覚はある。
行き遅れに怯える春麗は、かなり現実的に重い。
黒に囚われた春麗とは、違う方向に重い。
裏ルート春麗は、
私を拗れさせた責任を取りなさい。
だった。
今の自分は、たぶんこうだ。
私を待たせすぎた責任、どうするつもり?
春麗は、その言葉を思いついて固まった。
「……嫌な女ね」
でも、否定できない。
リュウは悪くない。
リュウはリュウだ。
ひたすら来る。
ひたすら見る。
ひたすら戦う。
恋愛の形で何かを急ぐ男ではない。
だから、自分が待っているだけではいけない。
自分が言わなければ、リュウは永遠に戦い続けるかもしれない。
それが、怖い。
そして、少しだけ嬉しい。
永遠に来てくれる男。
けれど、永遠に来るだけの男。
「……本当に、あなたって」
春麗は鏡の中の自分に向かって呟く。
「攻略難度が高すぎるのよ」
その日の夕方、春麗は修行場へ向かった。
黒いドレスではない。
青い武道服でもない。
普段着に近い、けれど動ける服。
戦える。
でも、戦うためだけではない服。
春麗は少し迷った。
黒にするべきか。
青にするべきか。
それとも、裏ルート春麗のように黒でも青でもない朝をなぞるべきか。
けれど、今日は朝ではない。
そして自分は、救済後の裏ルート春麗ではない。
行き遅れに怯える春麗だ。
なら、着るべきなのは、黒でも青でもない。
逃げ道の少ない服だった。
修行場には、リュウがいた。
いつものように。
白い胴着。
赤い鉢巻。
静かな目。
春麗を見る。
黒でも青でもない春麗を見る。
リュウは言った。
「今日は、戦わないのか」
春麗は少しだけ眉を上げた。
「戦わないように見える?」
「少し」
「鋭いわね」
「そうか」
春麗は一歩近づく。
「でも、少しだけやるわ」
リュウは構えた。
春麗も構える。
ただし、いつものようには踏み込まない。
春麗はリュウを見る。
見てしまう。
この男が、ずっと来る男だということを。
どこかの世界の春麗を、黒の奥まで見に行った男だということを。
負けても来る。
圧勝されても来る。
春麗が拗れても来る。
春麗が青に戻るのを怖がっても見る。
そういう男だ。
だからこそ。
春麗は怖い。
この男は、いつまででも来てしまう。
終わりを作らなくても、来てしまう。
こちらが決めない限り、ずっと。
春麗は踏み込んだ。
掌底。
リュウは受ける。
軽い。
黒ほど重くない。
青ほど速くない。
けれど、今日の春麗には妙な切実さがあった。
リュウの目が少し動く。
「今日は、急いでいるのか」
春麗は止まった。
本当に。
本当に、この男は。
「……どういう意味?」
「いつもと違う」
リュウは春麗を見る。
「先に行くというより、何かに追われている」
春麗は、息を止めた。
当たりだった。
行き遅れという言葉にはしない。
けれど、何かに追われている。
時間に。
未来に。
決まらない関係に。
終わらない殴り愛に。
春麗は笑った。
少しだけ自嘲するように。
「そう見える?」
「ああ」
「なら、正解かもしれないわね」
リュウは構えを解かない。
だが、拳を出さない。
待っている。
春麗はそれがまた腹立たしい。
「来ないの?」
「今は、聞いた方がいいと思った」
春麗は目を細める。
「あなたが?」
「ああ」
「珍しいわね」
「そうか」
春麗は構えを解いた。
リュウも構えを下げる。
戦闘は、始まりきらないまま止まった。
春麗は苦笑した。
「どこかの私は、あなたに救われたわ」
リュウは少しだけ首を傾げる。
「どこかの?」
「知らなくていいわ」
「そうか」
「黒に囚われて、黒であなたに勝って、黒で終われなくて、最後にはあなたに見つけられた」
リュウは黙って聞いている。
春麗は続ける。
「黒でも青でも見る。俺が見るのは、お前だ」
自分で言って、少し胸が痛くなる。
「そう言われて、救われた」
リュウは春麗を見る。
「そうか」
「ええ」
春麗は少し笑う。
「綺麗な結末だったわ。腹が立つくらい」
リュウは黙っている。
春麗は自分の胸に手を置いた。
「でも、私は違うの」
「ああ」
「私は黒に囚われていない」
「ああ」
「青に戻れないわけでもない」
「ああ」
「私はただ」
春麗は言葉を止める。
言いたくない。
言いたくないが、言わなければ今日の話は終わらない。
「ただ、怖いのよ」
リュウは何も言わない。
春麗は視線を逸らさずに続けた。
「あなたが来るから」
リュウの目が少しだけ動く。
「あなたは何度でも来る。負けても来る。届かなくても来る。私が黒でも青でも、どちらでもなくても来る」
春麗の声が少しだけ震える。
「だから、私は安心してしまう」
リュウは静かに聞いている。
「次があるって。次の勝負でいいって。次に言えばいいって。次に少しだけ近づけばいいって」
春麗は、笑った。
「そうしているうちに、私は何も決めないまま年を取るんじゃないかって」
言ってしまった。
行き遅れ。
その言葉は出さなかった。
けれど、意味はほとんど同じだった。
春麗は顔が熱くなるのを感じた。
戦闘なら、こんな隙は見せない。
でも今日は戦闘ではない。
いや、これはある意味で一番危険な戦闘だった。
リュウは、しばらく黙っていた。
春麗はその沈黙が怖かった。
リュウが何もわからないと言ったら。
リュウが戦えばいいと言ったら。
リュウが「まだ先でいい」と言ったら。
春麗はたぶん、怒る。
本気で怒る。
リュウは、ゆっくり言った。
「俺は来る」
春麗は目を細めた。
「ええ。知っているわ」
「だが」
春麗は少しだけ身構える。
リュウの「だが」は危険だ。
「待たせるために来ているわけじゃない」
春麗は止まった。
リュウは春麗を見る。
「お前が次を選ぶなら、俺は来る」
以前にも似た言葉を聞いた気がする。
だが今日は、さらに続いた。
「だが、お前が次を待つのが苦しいなら」
リュウは少しだけ言葉を探した。
「俺も考える」
春麗は、完全に動けなくなった。
リュウが。
考える。
この男が、ただ来るだけではなく。
自分が待つ苦しさを、考えると言った。
春麗は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……あなたが?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「戦うこと以外を?」
「必要なら」
春麗は、顔を伏せそうになった。
危ない。
これはかなり危ない。
黒でも青でも見る、とは別の強さだった。
今の自分には、こちらの方が刺さる。
待たせるために来ているわけじゃない。
待つのが苦しいなら、俺も考える。
春麗は、笑った。
少しだけ泣きそうな笑みだった。
「……本当に、あなたって」
「何だ」
「遅いのよ」
リュウは少し考えた。
「すまない」
「謝らないで」
「そうか」
「謝られると、私が余計に面倒になるわ」
リュウは黙る。
春麗は一歩近づいた。
「でも」
声が少し柔らかくなる。
「今のは、悪くなかった」
リュウは頷いた。
「そうか」
「ええ」
春麗は目を伏せる。
「私は、どこかの私みたいに救われたいわけじゃない」
「ああ」
「でも、待つだけの女にもなりたくない」
「ああ」
「だから」
春麗は顔を上げた。
「あなたも考えなさい」
リュウは春麗を見る。
春麗は言った。
「私だけが次を選ぶんじゃない」
一拍。
「あなたも選びなさい」
リュウは黙る。
春麗は続ける。
「来るだけじゃなくて」
さらに一拍。
「私を待たせるだけじゃなくて」
声が少しだけ震える。
「あなたが、どうしたいのかも」
リュウは、春麗を見ていた。
長い沈黙。
春麗は逃げなかった。
そしてリュウは言った。
「わかった」
短い。
けれど、逃げない言葉だった。
春麗は息を吐く。
「わかっただけ?」
リュウは少し考えた。
「今は、まだ全部は言えない」
春麗は目を細める。
「でしょうね」
「だが、考える」
春麗は、小さく頷いた。
「なら、今日はそれで許してあげる」
リュウは言った。
「許されるのか」
「半分だけよ」
「半分か」
「ええ」
春麗は笑った。
「全部はまだ早いわ」
その言葉に、自分で少し驚いた。
まだ早い。
つまり、いつかは全部を許す可能性を残している。
春麗は、また自分の面倒さに呆れる。
けれど、今日はそれでよかった。
春麗は軽く構え直した。
「少しだけやるわ」
リュウも構える。
「わかった」
「ただし、今日は勝敗なし」
「ああ」
「今日は、あなたが考えると約束した日」
リュウは頷く。
「忘れない」
春麗の胸が跳ねる。
「……そういうところよ」
「何がだ」
「忘れないって、簡単に言わないで」
「簡単ではない」
春麗は少しだけ笑う。
「なら、いいわ」
短い打ち合いだった。
黒の重さはない。
青の速さもない。
ただ、春麗の掌がリュウの腕に触れ、リュウの拳が春麗の肩の前で止まる。
互いに届きかけて、止める。
春麗は思った。
これは、終わらない殴り愛とは違う。
これは、少しだけ先を考えるための打ち合いだ。
今すぐ決めなくていい。
でも、何も決めないままではいない。
春麗は一歩引いた。
「今日はここまで」
リュウも構えを解く。
「もういいのか」
「ええ」
「決着は?」
「保留」
春麗は言った。
「でも、逃げではないわ」
リュウは頷く。
「わかった」
春麗は背を向ける。
少し歩いて、振り返らずに言った。
「リュウ」
「何だ」
「私は、あなたを待ち続けるだけの女にはならないわ」
「ああ」
「でも」
一拍。
「あなたが考えるなら、少しだけ待ってあげる」
リュウは答えた。
「考える」
春麗は、目を伏せる。
「……なら、いいわ」
春麗は歩き出した。
裏ルートの春麗は、救われてグランドフィナーレへ辿り着いた。
自分は、そこには行かない。
自分は、行き遅れを怖がる春麗。
待つことに怯え、けれど待つだけでは終わらないと決めた春麗。
このルートに必要なのは、救済ではない。
約束でもない。
たぶん、次の段階だ。
リュウにも選ばせること。
春麗は夜道を歩きながら、小さく呟いた。
「……ようやく、少し動いたわね」
何が動いたのか。
自分か。
リュウか。
関係か。
まだわからない。
けれど、止まったままではなかった。
春麗は少しだけ笑う。
「待たせすぎた責任、少しは考えなさいよ」
その声は、重かった。
けれど、どこか甘かった。